廃愛
深夜二時過ぎ。
珍しく寝つきが悪く、何気なくリビングへと足を進めた。自室のドアを開け、目を擦りながら廊下を歩く。少し冷えた廊下に身を震わせているとリビングの明かりが漏れていた。
最近帰りが遅いことは知っていたがこの時間に帰って来ていたことは初めて知った。
ドアノブを捻ると共に中にいる彼女に声をかける。
「こんな時間に帰って来ていたのか」
俺の声に三月がこちらを向き、「あら、まだ起きてたの」と言うも冷や汗が垂れているのは隠せていなかった。
「寝れなくて」
俺は軽く返事をし、頭を無造作に描きながら台所へと向かって水道から水を出して飲んだ。
ゆっくりと水を喉に押し込めるように飲みながら三月を見た。
俺ではなく、さっきからスマホばかり見つめている。こんな時間に誰かと連絡をとっているとしたら、今まで一緒にいた相手だろう。
彼女の横を通り過ぎた時に仄かに鼻腔をくすぐった酒の臭い。彼女は俺と違って酔っていても全く顔に出ない。赤くもならなければ呂律も回らない。しかし、唯一分かるのは酒の臭いだった。
そしてもう一つ気付いたことがあった。
いつもと違う香水の匂いに気付いた。俺が嫌だと言っている甘い匂いに変わっていた。
中身がなくなったコップをシンクに置く。
「その香水、やめろって言ったろ」
「どうしようとあたしの勝手でしょ。よーちゃんには関係ないじゃん」
「まぁ……」
どうしても強く出られると引き下がってしまうのは昔から俺の悪い癖だ。
「じゃあ、私寝るから」
ふいっと、三月はリビングを出て行った。
ここ数カ月の三月はおかしい。
夜帰ってくるのが明らかに遅い。前まで俺よりも先に帰ってきていたことがしょっちゅうだったが、ここ最近ずっとこんな感じで話しても一言二言のみ。
ドアノブを回し、自室に戻ろうとした時に見つけてしまった玄関にあった五センチの赤のハイヒール。
何事もなかったかのように俺はベッドに体を預ける。
隣には三月が寝息をたてていた。歳に似合わない童顔。
昔一度だけ三月にヒール履いても童顔は変わらないと言ったことがあった。初めはデリカシーがない、と怒られたが彼女は慣れないヒールをやめた。
それなのにいまはどうだ。
赤いヒールの音を鳴らしながら歩いている彼女はきっと、俺が知っている三月ではない。
マンネリ、という言葉が頭を巡った。
いや、そんなわけはない。と何度も何度も自己暗示するも不安は拭えない。もし、もしも三月が浮気をしているのだったら、俺はどこで間違えたのだろう。
いつから、彼女のことを信じられなくなってしまったのか。
もしかしたらいつまでも自分が好きで、自分の理想通りの三月しか俺は愛していないのかも。いつまで経っても答えが出ない問題に俺はずっと頭を悩ませていた。けど、睡魔には勝てず意識が暗闇の底へと落ちていく。
いつも思う。
暗闇から手を引き上げられる時、そこに三月はいるのかって。
三月の朝は遅い。
会社に行くとき、俺はいつも彼女を起こさず簡単にトーストを焼いて胃の中に押し入れる。そのまま牛乳を一気飲み。風呂は昨日済ませてあるから後は軽く身支度を整え、スーツの裾に腕を通し、玄関へ向かうと靴を履いた。
「ん、おはよう」
慌てて振り向くとボサボサになったまま髪をまとめている三月の姿があった。
「……珍しいな。起きてくるなんて」
「まぁね」
「昨日の今日じゃ全然寝てないんじゃないか?」
「予定があるから」
「あぁ、そう」
「うん」
俺は靴紐を何度も結んでは解いた。そうやって繰り返していれば三月とこの玄関の会話を終わらない。多分。
我ながら女々しいなと自覚はしている。が、こうでもしない俺は三月とまともに会話を続けることも出来ないのだ。
そうだ。
こうやって気付かないフリをずっと続けていれば別れることはない。
「いつまでそれやってるの。遅刻するよ」
その一言に俺は我にかえった。腕時計に目をやると出勤時刻が過ぎそうになっていた。
「あぁ、ありがと」
軽くお礼を済ませ靴紐をきちんと結び直した。いくらやったところで俺の超著結びは縦になったままだ。三月がやってくれた時は綺麗なはずだったのに。だが、それもいつの話かはっきり言って覚えていない。
最寄り駅の改札を抜け、流れるように満員電車に乗り込む。こうして俺もしかめっ面の一人だ。
何とか手すりを掴みながら力なく笑った自分の顔が映る窓を見つめた。
社内の同僚に本心を相談してもいつだって「次、頑張りましょう」と無情な励ましだけ。本当に俺の気持ちを汲み取った上でそう言っているのか、と掴みかかりたい気分だ。決して良い気持ちはしない。
だが、正論は勿論あちらだ。
前の女に引きずっているくらいなら新しい女と付き合え。
いつだって自分に合わない、とものさしで測って育まれてきた愛は知らぬ内に廃れて心から消える。多分それが吹っ切れたというやつなのだと思う。
だが、俺は今の三月との関係のように名前が付かない関係は否定されるものなのかと疑問に感じる。どちらも利害が一致している。
三月は俺を愛しているからこそ、別れをつきつけないだけだ。
「俺のこと愛しているよな?」
家に着いてただいまよりも先に俺は口走っていた。だが、三月はいつものように帰ってきているわけがない。
また帰りが遅いはず――
「当たり前じゃない」
唐突に返って来た答えに俺は驚いた。
リビングから出て来た三月は何食わぬ顔でそう答えた。
「男子高校生みたいな質問しないでよ。よーちゃんもうそんな歳じゃないでしょ」
あっけらかんと笑う三月はいつも通りだ。安堵しながら靴を脱いだ俺の視界に入った三月の綺麗な指。そのまま後ろに振り向いた俺は三月の汚れた靴を見つけた。その靴の中にある指輪を。