Order4. Apporch evil
今回は少なめです。
<便利屋事務所>
「アールグレイさんっ!? 」
目の前で倒れたグレイにソフィアは駆け寄り、容態を確認する。彼の表情は青ざめており、呼吸も辛うじて聞こえるもののこのままでは確実に停止するだろう。彼女はまず事務所の扉を開け、グレイの上体を起こしつつ彼の体を置くまで運ぶ。小柄なソフィアにとってかなりの重労働ではあったが、急がなければグレイが死んでしまう。なんとか寝室のベッドまでグレイを運んだ彼女は、次に傷の確認を始めた。
「ど、どうしてこんな……! 」
かつての職場で幾度となくこのような裂傷を見てきたが、グレイのように耐えれる人物はそうそういない。彼女は既に看護師免許を取得しており、半ば強制的に退職された病院の元看護婦であった。ソフィアは慣れた手つきで背負っていたカバンから応急処置キットを取り出し、ガーゼとミネラルウォーターを握る。ガーゼを水で濡らし、血塗れたグレイの脇腹を優しく拭った。グレイから弱弱しい苦悶の声が聞こえるが、構わずソフィアは傷の洗浄を行う。直後、ソフィアは持ってきたタオルを傷口に当て止血を図った。その時、事務所のドアが数回ノックされる。
「だ、誰ですか……? 」
「えっと……貴女こそ、どなたかしら? 」
ドアの向こうには白衣を纏い、美しい金の長髪を携えた眼鏡の女性がソフィアと鉢合わせた。容姿を察するに、この女性はおそらく医者である。自己紹介はともかく、ソフィアは女性の手をとってグレイを寝かせてある寝室まで招いた。
「貴女……いや、聞いてる暇はないわね。グレイ、今来たわ。止血と縫合をするから安心して頂戴」
グレイからの返答はない。ソフィアは不安そうに治療の様子を傍で見守る。あのような傷はナイフでの刺突でしかできないものだ、おそらくグレイは誰かに襲撃を受けたのだろう。
「思ってたより失血が少ない……不幸中の幸いね。それにグレイが気絶しているから麻酔の必要も無かったし。貴女の止血がなかったら輸血が必要だったかも……助かったわ、お嬢ちゃん」
「あっ、どうも……ってお嬢ちゃんって歳でもないですけど。ソフィア・エヴァンスです。前に西シカゴ病院で看護師をしてました」
「ご丁寧にありがとう。私はアンジュ・ジェルメール。まあ私も元医者ってところかしら。所謂闇医者というやつね」
ソフィアは差し出された長細い手を握り、アンジュに笑顔を向けた。映画や日本のコミックでよく見る裏業界の医者に若干の畏怖を覚えつつも、ソフィアは彼女の隣に腰を落ち着ける。お疲れ様、とアンジュがソフィアの肩に手を置き、安堵感からか深いため息がソフィアから漏れた。
「そ、それで、アールグレイさんは……? 」
「安心して、死にはしないわ。呼吸も……うん、安定してきた。やっぱ彼って驚異の回復力してるわね、一体何食べたらこうなるのかしら」
「前にもこんなことが? 」
「これよりもっと酷かった。体に何個も穴作ってきたときとか、血が足りなくて輸血パックをわざわざ診療所から取りに行ったこともあるわ」
アンジュは淡々と述べているが、表向きの社会で普通の看護師をやってきたソフィアにとってそれらは震え上がるのに十分な事実だった。もしこの便利屋に就職するのならば、やはり自分も何か護身術や銃の扱い方を学んでおいた方が良いだろう。
「それで、どうしてあなたはここにいるのかしら? グレイは外部との関係をほぼ絶っていたはずだけれど」
「私、グレイさんに命を救ってもらったんです。ギャンググループに騙されて、誘拐されて私を売られそうになっていたところを。だから、そのお礼だけでもしたくて来てみたらまさかこんなことになってるなんて……」
ソフィアにとって知り合いや恩人、身内の死はトラウマとなっていた。彼女が高校生の頃、警官の父親が銃撃事件に巻き込まれて殉職。やけに父の帰りが遅いと感じた時には、頼もしかった父親はこの世を去っていた。母親も後を追うように精神と身体を病み、急逝してしまう。に訪れた孤独と恐怖。グレイはその恐怖を、取り払ってくれた恩人という存在になっていた。
「そう……それは怖かったわね。同じ女として貴女が無事で良かった」
「ありがとうございます……。あれ……なんだろう、すごく……眠い……」
「安心して急に疲れが来たのね。それに貴女、最近忙しかったでしょう? 目見せてみて」
言われるがままソフィアはアンジュに向けて顔を差し出す。アンジュの手がソフィアの小さな顔を包み込み、親指が目元を開かせた。
「やっぱり。疲れが溜まってるのね。ソフィアもここで休んだらどう? グレイが起きたら私から言っておくから」
「え、でも……」
「人間、休めるときに休んだ方がいいものよ。疲れ切ってちゃ本来の力も発揮できないし、それに……貴女、なんだか焦ってるように見えたから」
焦り。アンジュの言葉が的確に彼女の胸を捉える。想像以上にソフィアの体は焦りと疲れで困憊していたのかもしれない。このシカゴに来て初めて、安心して身を落ち着ける場所にたどり着いた。ソフィアにはそんな気がしてならなかった。
「何なら、私が子守歌でも歌ってあげようか? 膝枕でもいいわよ」
「こっ、子供扱いしないで下さいっ! でも……お言葉に甘えて少し休みます。それでは」
妖艶な笑みを浮かべるアンジュに別れを告げ、ソフィアはオフィスのソファに寝転がる。やけに寝心地の良いソファだ、と思う頃には既にソフィアは寝息を立てていた。
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銃声と悲鳴。とめどなく流れる血と、跳ね返った深紅の液体。男は幾多もの死体を作り上げてきた、自分がこの町で生き延びる為に。その男はかつて陸軍に所属し、優秀な成績を残すほどの将来有望な軍人だった。だが、忌まわしい事に運命は男の人生を狂わせる。2002年、フィリピン不朽の自由作戦。ブービートラップに掛かって手足が欠損した恋人。男と他の隊員を逃がすため、一人ゲリラ軍へと突撃していった副官。自分を庇い、穴だらけの死体となった同期。火だるまになった戦友――そして。男の腕の中で脳漿を垂れ流して死んでいった隊長。
どうして、どうして。皆今まで、作戦が終わった時のことを話していたのに。家族との再会を、生き延びた喜びをもう一度味わいたかったのに。全員死んだ。その男――アールグレイ・ハウンド、否。グレイ・バレットを残して。みんながみんな、グレイの元を離れていく。自分の元に残ったのは、絶望の表情を浮かべた死体だけ。死体になる前の連中は彼の事をこう呼んだ、"死の芳香"と。もう男に、グレイに残された手段はただ一つ。他人を殺して、生き延びる事。
血塗られた道の先にあるのは死体と己の体。そして――――"裏切り者"がグレイに向けた銃口。
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<便利屋事務所・寝室>
「ッ!! 」
突如として目が覚め、グレイはベッドから飛び上がる。それと同時に右脇腹に鈍痛が走り、彼は思わずうめき声を上げた。確か自分はあの後、事務所の前で意識を失ったはず。なのに寝室にいるという事は、誰かの手によってここに運び込まれたのだろう。
「あら、起きたのね」
「よう、アンジュ。手間掛けさせて悪かったな。俺とした事がチンピラ如きに後れを取るなんて」
「私はただ治療しただけ。礼ならあの子に言うといいわ」
あの子、という言葉にグレイは不信感を抱く。アンジュが指し示す方向に進むと、そこにはオフィスのソファで静かに寝息を立てるソフィアの姿があった。意識を失う前は確かにソフィアと対面したが、まさか彼女が自分を運んでくれたのだろうか。
「彼女がいなければ、アナタ今頃血が足りなくて死んでたわよ。その子、元看護師なんですって。だから応急処置も、けが人に対する対応も間に合った」
「……こいつが、俺を……」
グレイはソフィアが寝ている横に座り、彼女の髪を撫でる。愛らしい童顔が、今は幸せそうな寝顔を浮かべていた。次に彼はソフィアの頬に手を当てると、彼女は寝返りをうちながらグレイの膝に頭を乗せる。
「むにゃぁ……いい枕だぁ……」
「なんか調子狂うな、おい。このちんちくりんが、俺を救った……ねぇ」
「あら? その割には、ずいぶんと嬉しそうに見えるけど? 」
「……からかうのは止せよ、アンジュ」
帰り支度を進めるアンジュを一瞥し、グレイは照れ隠しのようにソファから立ち上がろうとする。が、それも寝ているソフィアによって阻まれ、結果的にグレイはソフィアが起きるまで膝を貸し出さねばならなかった。普段とのギャップがおかしかったのか、アンジュの表情は悪戯に笑みを浮かべている。
「あらあら、うふふ。懐かれちゃったわね、グレイ。お姉さんそういうの好きだから見てたいけど、もう行かなくちゃ」
「おう。治療代はあとで振り込んどく。ありがとうよ」
「……手は出しちゃだめよ? 」
「出すかアホ」
アンジュが去ったかと思うとグレイは深いため息を吐いた。膝の上の彼女はまだ寝息を立てている。けが人にこんなことをさせるな、とグレイは内心毒づくも当の本人は我関せずといった様子だ。
「煙草も酒も取りに行けねぇ。ったく、手間掛けさせやがってよ」
「う~ん……。待って……大きくて固いものが……」
「……こいつなんつー夢見てんだ」
自分の膝の上で気持ちよく寝ている彼女を起こすほど、グレイは無神経ではない。ふと机に眼をやると、ソフィアの鞄が開かれたままになっていることに気づいた。その中に血で赤く滲んだハンカチとガーゼが無造作に突っ込んであり、彼は本当にソフィアのお陰で命が救われたことを実感する。自分の脇腹に視線を移すと、白い包帯に巻かれた丁寧な処置の跡が見えた。
「仕方ねぇな、今回ばかりは貸してやるよ。夕方だけど、もう一眠りすっかね」
やわらかい革製のソファに腰かけていたグレイはそのまま背もたれに寄りかかり、目を閉じる。不思議と、ソフィアが寝ている隣でグレイは悪夢を見る事はなかった。
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<シカゴ市内・ミレニアムパークアパート>
同刻。部下から緊急の呼び出しが掛かったアルフは自身の住むアパートの部屋に彼らを招き、部下たちの到着を待つまで一人ワインを嗜む。沈みかけた夕日がミレニアムパークの緑の風景に合わさって妖艶な美貌を放っていた。アルフはそれを酒の肴として楽しみつつ、ワイングラスを傾ける。グラスが空になり、二杯目の酒を楽しもうとしたその瞬間、部屋の扉がノックされた。アルフが扉を開けると彼の側近であるリチャード・ダミア――通称リックが険しい表情を浮かべながら立っている。
「ようリック。突然呼び出されたからどうしたかと思ったよ」
「すいません、ボス。もうお酒を楽しまれていたようですね」
「気にするな、俺とお前の仲だ。それで、お前が緊急なんて言うとは珍しい。何かあったんだろう? 」
窓の外の風景を見ながら、アルフはワインを再び口に含んだ。
「……えぇ。ミカエラの手先を尾行していた4人が、死体で見つかりました。全員即死です」
「やはり、あの男か」
アルフの言葉に、リックはコクリと頷く。風貌からしてただならぬ殺気を纏っていたのはアルフも薄々感じ取ってはいたが、精鋭の部下全員を殺されたとなると気が重い。アルフは深いため息を吐きながら、深緑色のソファに腰かけた。あの女狐め、と彼は毒づく。
「ミカエラの事を察するに、あれは従業員じゃない。殺し屋だ。あそこの連中は護衛と配達の従業員を分けて雇用してる。殺しのプロを違うルートで雇ったんだろう」
「と、なるとあのギルバートというのは偽名ですか」
「あぁ、足をつかせない為のな。ったく、面倒な事しやがる」
苛立ちを隠すように、アルフはワイングラスの中身を飲み干す。ブドウの芳醇な味わいと強いアルコールの風味が彼の口内を支配し、彼は落ち着きを取り戻した。
「それで、あのアパートの死体はどうなった? 何かめぼしいものは見つかったか? 」
「はい。その報告も兼ねて今日来させて頂きました。一人の男のポケットから、女物の財布が見つかりました」
アルフはクリーム色の愛らしい長財布をリックから受け取った。中身を開けてみるとクレジットカードや紙幣の数々が中に仕舞われており、ずいぶんと乱雑な様子である。しばらくその財布を漁っていると、写真付きの看護師免許がカード入れの中から見つかった。
「……これは……」
「えぇ、"ソフィア・エヴァンス"という女のものでした。おそらくあのアパートにいたのでしょう」
「カタギに手を出したってのか? リスクの高いことしやがって」
呆れた様子で肩を竦めるも、アルフは不敵な笑みを浮かべる。あの部屋での唯一の生存者の手がかりを、彼は掴んだのだ。既に連中には手が下されている。ギャンググループのボスという立場もある以上、この一件は片づけなければならない。
「リック。この女の居所、全力で突き止めろ。話を聞く必要がある」
「無論です。聞き込みを今から開始させます」
「おう。シカゴ中をくまなく探すんだ」
はい、という声と共にリックは部屋から退出する。もしこのソフィア・エヴァンスという女が殺し屋の手がかりを握っているとしたなら、問題解決は目と鼻の先だ。
「さて……あとは時間の問題だな。殺し屋くん」