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『人類の夢と希望の詰まった箱を開くのは』1

 規則的に建ち並ぶ超高層ビル群と、その合間を縫うように走る多重構造の車道。

 眼下に広がるのはキラキラ輝く水面と、その中でゆっくりと回転を続ける巨大な歯車。

 遠くを見渡せば、何枚もの漆黒の金属板が空高くそびえ立ち、都市全体を広く取り囲んでいる。


 壮大で、圧倒的な光景を見せつける、樹と月の域、第一都市《帝都》。

 その土台には何十年前の荒れ果てた景色が埋れていることなんて、もう誰も覚えていない。


 だって、帝都自体、今はもう存在しないのだから。


 帝都消滅への序奏は、今から5年前の7月9日。帝都中枢区で、樹と月の域、創立記念式典が開催された日にさかのぼる。


 その日、あたしの隣の部屋から連れ出されたキミは、生まれて初めて、さんさんと降り注ぐ夏の日差しを浴びた。


 ☆★☆


『おはよう、新しいお部屋の居心地はいかがかしら?』

 5年前の7月9日。色とりどりの花束で溢れかえった部屋の片隅。膝を抱えて壁面とにらめっこをするキミに声をかけたのは、長めの黒髪を後ろで結った、白衣姿の女性だった。


 女性の名前は、真馬シンメ美夏ミカ


 医療研究施設《薬箱》に所属する研究員。

 知性と美貌を兼ね備え、全身から醸し出すその柔らかな雰囲気から、老若男女を問わず『美夏先生』の呼称で親しまれる、樹と月の域の広告塔を担う人物。


 そしてこの日、キミの《お母さん》になる存在。


 この時のキミの気持ちくらい、あたしにだって手に取るように分かるけれど、心身医学を専門とする美夏先生にとって、キミの心情を察することは容易かった。


 ダンゴムシみたいに丸まってだんまりを続けるキミに歩み寄ると、美夏先生はキミの背中にそっと手を置いて言った。


『大丈夫。今日は何も話さなくてもいいから。だから怖がらないで。どんなことがあっても、今日からは私が、あなたの《味方》でいてあげられるから』


 キミが美夏先生のことを知ったのはこの時が初めてだったけれど、人見知りで警戒心の強いキミですら、この時すでに美夏先生のことをお母さんとして受け入れはじめていた。


 あたしと初めて会った時は、福笑いの失敗作みたいな顔をしたくせに……。


『でも、その代わり一つだけ交換条件』

 美夏先生は右手人差し指をピンと立てながら言うと、

『ふふ、世の中、無条件に要求を満たせると思ったら、大間違いなのよ』

 イタズラっぽく笑いながら、そう続けた。


『……何』

 キミはぶっきらぼうに声を発すると、すぐさま聞き直した。今度は少し弱気な声で。

『……何をすれば、《味方》になってくれるの?』


 ☆★☆


 目を覚ますと、まるで別世界だった。


 身体中に繋がれていた何本もの点滴の管は外されていて、自由に歩き回ることができた。

 色とりどりの点滴液は、色とりどりの花束に変わっていて、部屋中に仄かな香りを漂わせていた。

 着替えの病衣はどこにも用意されてなくて、真新しいタキシードに身を包んでいた。


 これまで同じように繰り返してきた朝が、まるで別のモノになっていて、何が起きたのかキミは理解できなかった。


 だからキミは、タキシードの蝶ネクタイとシャツの一番上のボタンを外して、シャツの中に鼻と口を突っ込んでいた。

 他のモノを遮断して、部屋の隅っこでじっと壁面を見つめていた。


 真っ白な壁面だけが、キミの知っている景色と同じだったから。


 心細くて、キミはずっと待っていたんだ。

 毎日部屋にやってきて、イタズラばかりする女の子のことを。聞き耳を立てて、部屋の扉を気にしながら。


 でも。


 この日、キミの居る部屋にやってきたのは、いつもの女の子じゃなかった。


 ☆★☆


『ふふ。重要任務よ。あなたに出来るかしら?』

『出来るよ、どんなことだって……』

『あら、すごい自信ね。おませさん』

 そして美夏先生はキミに『重要任務』を告げた。


『今日は、この子と、手を繋いであげていてくれるかしら?』

 キミが振り返ると、優しげな微笑みを浮かべる美夏先生の背後から、小さな女の子がひょこっと顔を出した。


 女の子は美夏先生の白衣を掴んで、不安そうな顔でキミを見つめている。


 甘い香りのしそうなココア色の長い髪に、甘い味のしそうなりんご飴の瞳。


 あたしそっくりな見た目の女の子は、この日、キミの《妹》になる女の子。

 この日から2年間、キミが一緒に過ごした女の子。


『ユ、ユウお兄ちゃん……今日は、よ、よろしくね……』

 女の子はか細い声で恐る恐る言った。


 そういえばどうでもいいけど、この日からキミの名前は真馬シンメユウになったんだよ。


 ☆★☆


 部屋を出ると、先の通路には真っ赤な絨毯が真っ直ぐ伸びていた。


 キミが黒のタキシードを着ていたのに対して、隣の女の子は白のパーティドレスを着ていたから、誰だってそんな状況を前にしたら《バージンロード》を思うけれど、キミは全然気にしていなかった。


「なんで?」って聞いたら、きっとキミは「そんなの知らなかったし」って言うだろうけれど、そんな言い訳、女の子には通じない。バカ。


『さ、ここからは二人で手を繋いでいくのよ』

 美夏先生にそう促されて、


 キミは、女の子と手を繋いだ。

 女の子は、キミと手を繋いだ。


 どっちからだったのか、あたしは知らない。

 あたしに知らされた事実は《キミと女の子が手を繋いだ》ということだけ。


「どうやって手を繋いだの?」ってさりげなくキミに聞いても、きっとキミは「そんな些細なこともう忘れたよ」って言うのに違いない。


 あたしにとってはとても重要なことなのに。

 あたしだってまだ、キミと手を繋いだことなんてなかったのに。

 別に嫉妬じゃないし。バカ。


 美夏先生に背中を見送られながら、キミは女の子と揃って絨毯の上を歩いた。


 女の子は俯きながら恥ずかしそうに。

 キミは足もとよりも、トンネルのような通路の先を見て、目を輝かせていた。


 きっとこの先には《外の世界》が広がっている。


 生まれて初めての外の世界、ずっと夢見た外の世界、どんな景色が広がっているのか具体的には分からないけれど、すっごくキラキラしてて、とても優しいところ。


 いつかあたしもそんなふうに思ってたっけ。

 ……バカ。


 通路の先の光の扉が大きくなる。


 キミの鼓動は高まった。

 キミは早足になっていた。


 キミは笑顔になった。

 キミは駆け出していた。


 そしてキミは女の子の手を引っ張りながら、外の世界へと飛び出したんだ。


 夏の日差しが一斉に降り注いで、地鳴りのような歓声が全身を震わせる。


 樹と月の域、創立記念式典の会場。

 キミが姿を見せたのは、そのお椀型の底部分。

 ぐるりと周囲を見上げれば、何十万という群衆が斜面を埋め尽くし、波のように揺らめいていた。


 そしてその全員が、キミの登場を今か今かと待ち焦がれていた。


 キミの左前方、ステージの縁に沿っては、数十人の白衣を着た大人達が並び立つ。

 一方、キミを挟んで右斜め前には、同じように白衣を着た一人の大人の背中。


 太陽の光を正面に浴びて、背中に伴うのは黒い影。その正体は樹と月の域の総指揮、真馬シンメ大樹タイキ。この日キミの《お父さん》になる存在。


 キミのお父さんは、鳴り止まない歓声に向けて右手を掲げると、高らかに宣言した。


『さぁ、王子様に連れられてお姫様も登場だ。皆、長らく待たせた! ここに第21回、樹と月の域創立記念式典の開催を宣言する! この日を盛大に祝おう!』


 こうして、世界の運命を変えることになる式典は、キミを中心にして幕を開けたんだ。

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