『人類の夢と希望の詰まった箱を開くのは』4
その箱の《赤》は、キミの一番嫌いな点滴液の色、苦痛を伴う血の色だったから。
その箱の水玉模様の《紫》は、キミと同じ眼の色、E研究の被験体の目玉の色だったから。
キミとは違って、他のみんなは、もう死んだけど。
箱の中身は夢と希望なんかじゃない。死と絶望だ。なのにどうしてみんな、そんなに嬉しそうにしているの。
一人心の中で訴え続けるキミは、一つの言葉を思い出した。
《どんな時だって、キミの味方だから》。
そうだ、美夏先生に知らせよう。
美夏先生ならきっと分かってくれる。
箱を開けるのをやめてくれる。
だって味方だって約束したんだから。
キミの思考はそんなふう導かれていったけれど、キミにとってその行動は簡単じゃなかった。
立っているのがやっとなくらい、キミの足は震えていた。顔はひどく青ざめていて、手は冷たくなって汗ばんでいた。声を出そうと思っても、ひゅうとむなしく息が漏れるだけ。
極度の恐怖心からくる発作。
キミの異変を観衆に気づかせないために、眩しすぎるスポットライトがキミを射していた。まるでステージ上で、キミを磔の刑にするように。
キミは諦めた。
外の世界に抜け出せたと思ってた。でもそんなことはなかった。点滴の管は見えないけれど、見えない鎖に繋がれたままだった。
僕の居場所はここじゃない、この箱の中なんだ。夢の時間はもうすぐ終わるから、今度はもとの部屋で目を覚まそう。何も無い、あの真っ白な部屋で。
そう思った時だった。
すぐ隣で声がした。
☆★☆
『怖いの? だったら目、閉じてたら怖くないよ』
視線を向けると、ずっと俯いていた女の子が、顔を上げてキミを見つめていた。
その表情に今までの気弱さは見て取れず、優しさと勇敢さが備わっていた。
『実はね、あたしも怖いときは、そうしてるんだ』
女の子は無邪気に笑った。光の柱の中でキミだけに見せる微笑み。キミしか知らない女の子の素顔。
『だから、目、つぶっていていいよ。今度はあたしが手を引いてあげるから』
女の子はキミの手と手を重ねると、その上から両手で優しく包み込んだ。女の子の手のぬくもりが冷え切ったキミの両手を暖める。
『だから大丈夫。怖がらないで。覚えておいて、今度こうやってぎゅってしたら、目を開ける合図』
女の子はキミの両手に力を込めた。美夏先生と似た言葉《魔法の呪文》がキミの呪縛を解く。
『じゃあ目を閉じて。一緒に行こう』
キミは言われた通り、目を閉じた。
まぶたの裏側の世界には心優しい賛美歌が流れていて、大勢の人が暖かい拍手を送ってくれていた。
見渡す限りの草原。
その中をキミは自由に駆けている。
キミが手を繋ぐ女の子は白いドレスを着ていて、長い髪を黄金色になびかせている。
その姿はまるで《天使》のようだった。
恐怖心は完全に取り除かれて、キミは笑顔を取り戻していた。
もう大丈夫。目を開けたらそこには美夏先生が居る。あの箱を捨ててもらえる。どこか遠く、誰の手も届かないような場所に。
僕はこれから生きていけるんだ。
とても綺麗な外の世界で。
そしてキミは女の子からの《合図》で目を開けた。
でも。
キミの目の前に立っていたのは、美夏先生じゃなくて、真馬大樹、キミのお父さんだった。
☆★☆
……どうして?
キミは戸惑っていたけれど、キミのお父さんはそんなキミには目もくれず、観衆の声援に手を掲げている。
……違う、ここじゃない。
……僕が来たかったのは、ここじゃない。
キミはそう思って隣の女の子を見たけれど、女の子はキミと視線を合わせようとはせず、また俯いてしまっている。
女の子の手をぎゅっと握って合図を送っても、女の子からは何の反応もない。
女の子の前、キミの斜め前には美夏先生がいた。
別に何でもいい、美夏先生さえ分かってくれれば、それでいいんだから。
今度はそう思って美夏先生を呼びかけようとした、その時だった。
『夏芽、いくわよ』
美夏先生はスイッチの切られたピンマイクに言うと、キミに背を向けて歩きはじめた。
美夏先生の進む先には、箱の上部から一本のロープが垂れ下がっていた。美夏先生が何をしようとしているのか、キミにはすぐに分かった。
『待って、行かないで……。開けないで、この箱は……』
キミの声は、美夏先生には届かない。
美夏先生の背中が遠ざかる。
……味方だって約束したのに。
……ちゃんと手だって繋いでいたのに。
……どうして?
決別の時は間近に迫っていた。
『さあ、こちらも行くとしよう。ついて来なさい』
キミのお父さんが美夏先生とは反対側、もう一本のロープへと歩いていく。
それを見て、キミはようやく気がついた。
なんだ……。
どうせ、ずっと手を繋いでなんていられなかったんだ。美夏先生は、最初から僕の味方になるつもりなんてなかったんだ。
騙されたんだ……。
この世界にも、僕の味方なんて居ない。
どこの世界もおんなじだ。
……だったら、もう……。
キミは、女の子と繋いだ手を離した。
女の子に、冷たい視線を向けながら。
すると女の子はキミに振り向いて、少し寂しそうに笑った。この時の女の子の痛ましい微笑みを、キミは永遠に忘れない。
女の子を痛めつけたのは、他の誰でも無い、僕なのだから。
女の子の口許が小さく動いた。この二年後、女の子の死の間際にもう一度聞くことになるその言葉を、キミは永遠に忘れない。
『ありがとう』
もしもこの時、ほんの少しの違和感を覚えた僕が、ほんの少しの勇気を出して女の子の手をもう一度掴み取っていたのなら。そんな後悔が、キミの心には永遠に遺る。
もう二度と、キミがこの女の子と手を繋ぐことはないけれど。
この日、女の子がどんな気持ちでキミと手を繋いでいたのか、キミには理解できる?
女の子はただ、キミと手を繋いでいたかっただけなんだよ、一秒でも長く。
そしてこの日、世界を崩壊へと導く、禁断の箱はついに開かれたんだ。




