『人類の夢と希望の詰まった箱を開くのは』3
二つ目の発表は、閉幕式の直前に行われた。
帝都を取り囲む防壁が沈みかけの太陽を遮り、辺りは薄暗くなり始めていた。
それとともに帝都の浮かぶ水面は青さを増し、あかね色に染まった空とのコントラストが、幻想的な光景をつくりだしていた。
水面を撫でた少し冷たい風が帝都に吹き、水中で廻り続ける歯車の音が遠くまで響き渡る。コトン、コトン、と透き通った音色が一定のリズムを打つ。
ある人にとってそれは、帝都に生命を注ぐ鼓動のように聞こえるかもしれないし、またある人にとっては、帝都を眠りへと誘う子守唄のように聞こえるかもしれない。
でもそれが、帝都消滅への秒刻みだったなんて、誰も思わなかった。
キミのお父さんとお母さんを除いては。
初めて外の世界に触れて、キミは少し疲れていたけれど、それでも手と手はしっかりと繋いだまま、二度と忘れることの出来ないその時間を迎えた。
☆★☆
『皆様、大変お待たせいたしました! ただ今より、樹と月の域創立記念式典を締めくくる目玉イベント《美夏先生の誕生日パーティー》を執り行います! どうぞ盛大な拍手をお送りください!』
午後7時9分を待って、進行役の女が声を張り上げた。それとともにステージ上を何本ものスポットライトが射し、あまりの眩さにキミは思わず目を細めた。
割れんばかりの拍手喝采。
それを引き裂くような甲高いラッパの音。
その合図に、ステージ上の大人達が一斉に白衣を脱ぎ捨てた。
統一されたダークグレーのスーツと、大人達が白衣の下に隠し持っていたのは、大小様々な楽器。
バイオリン、フルート、ティンパニー。
大きなパイプオルガンは、数人で分け持っていたものを手際よく組み立てていく。
その間に一人一人の音色を確かめるように前奏が始まり、大人達は定位置へとばらけていく。
そしてオルガンが組み立てられると、オルガンを取り囲むようにして始まるのは、この日のためのオーケストラ。
奏でられるのは、誰もが口ずさんだことのある、リズミカルでコミカルな行進曲。
指揮者はもちろん、キミのお父さん。
普段は見せることのない朗らかな表情と滑稽な動作に、会場からは笑い声と手拍子が湧き起こる。
そう、この日は樹と月の域の創立日であり、美夏先生の誕生日でもある。
この日、キミのお父さんが何よりも大切にしてきたこと、それが最愛の妻の生誕を祝うーー素振りを見せること。
指揮者とは本来、身振り手振りで集団をまとめていくものだから、素振りで人々を誘導していくというのも、指揮者の役割といえるのかもしれない。
人々はこの日限りの演奏に聞き惚れ、夢中になっていた。
でも、その中で一人、キミだけは得体の知れないモノの接近を察知し、警戒心を張り巡らせていたんだ。
☆★☆
ギーッ、ギーッ。
晴れやかで心地良い演奏に、小さな不協和音が混ざる。
それは微かな振動を伴いながら、ステージへと近づいてくる。
ギーッ、ギーッ。
とても不吉な音だけれど、演奏者はもちろん、観衆の誰もが無関心なようすで手を叩き、楽しげな表情を浮かべている。隣の女の子は、相変わらず俯いたままだ。
ギーッ、ギーッ。
何か良くないモノが近づいてくる。それは、キミが通ってきた通路の中から聞こえてくる。キミははっと気がついた。
ーー僕を、追ってきたんだ。
何のために?
僕を、あの部屋に連れ戻すために、だ。
何のために?
僕に、苦痛と恐怖を植え付るために、だ。
逃げなくちゃ、キミはそう思って辺りを見回したけれど、キミに逃げ道はなかった。
間もなくそれはステージ上に姿を現した。
それはキミの身体の何倍もある、大きな大きな《箱》だった。お神輿みたいに台車に載せられて、何人もの大人達によって運ばれてくる。
ギーッ、ギーッ。
車輪が擦り切れそうな悲鳴をあげている。
大人達は白いフードコートを深々と被って、顔全体を覆い隠している。表情はおろか、人間かどうかも分からない。
それらを先導しているのは、美夏先生だった。
箱を引き連れて、美夏先生はキミのもとへと歩み寄ってくる。
スポットライトに照らされて、美夏先生の白衣が羽根を舞い散らすように輝いている。結びを解いた黒髪を左右に揺らして、優しげな表情は妖艶に見えた。
ドーン、ドーン、ドーン。
お腹に響く音が三回。三原色の花火が打ち上げられて、上空から色とりどりの紙ふぶきが降り注ぐ。
オーケストラの演奏は最高潮を迎え、その中を、優雅に、煌びやかに、美夏先生はキミのもとへ近づいてくる。
その姿はキミにとって、救い主のように思えたんだ。
美夏先生と視線が合うと、美夏先生は右手人差し指をそっと口許に立てて、秘密の呪文を唱えた。
『大丈夫、味方だから』
そしてその言葉の直後、
ーーバァァァン。場違いなシンバルの音が打ち鳴らされて、夢のような時間は唐突に終演を迎えた。
☆★☆
『改めまして、本日は、樹と月の域、創立記念式典にお越しいただき本当にありがとうございます!』
美夏先生はキミの数メートル手前で立ち止まるとくるりと向きを変え、襟元のピンマイクのスイッチを入れて言った。
続けて深々とお辞儀。
するとまばらに残っていた雑音はピタリと止み、観衆の眼とスポットライトの光は全て美夏先生に注がれた。
『今年もこの日を迎えられたことを、この時間をみなさんと共有できたことを、心から嬉しく思っております。本日ようやくではありますが、私達の家族をみなさんにお披露目することができ、一つの役目を終えたような気持ちでいっぱいです。近い将来、私達に代わって、きっと彼らが樹と月の域を率いてくれることでしょう。ですが私達はこれからも彼らと、彼らのつくる世界を見守り続け、そして忘れることはありません。私達は決して特別ではなく、みなさんと同じように、ヒト一人一人に支えられて、今、ここに存在しているのだということを……』
心の奥底から静かに語られる言葉。何十万という人々の静寂。観衆は美夏先生の言葉をじっと見守った。
それに対して、美夏先生は何も言わず、もう一度深々とお辞儀をして応えた。まるで世界に別れを告げるように。
『今日はもう一つ、大切なお知らせがあります』
美夏先生はごく落ち着いた口調で言うと、箱の正面に移動した。キミの位置から美夏先生の姿は見えなくなって、代わりに何の隔たりなく箱が見えるようになった。
美夏先生の心の紡ぐ言葉。
『これは、笑顔溢れる世界を夢見た私達と、不幸や困難に立ち向かう、世界中の人々が待ち望んだ、《E研究》の集大成。これは、私達に命を与えてくださった数十年分の感謝と、最大限の愛を込めて、私達から世界中の人々への贈り物。《E》。それは人のココロを形成する物質……』
そして美夏先生は大きく息を吸い込むと、その成果を盛大に祝うように言い放った。
『私達はついに《人のココロの解明》に成功いたしました‼︎』
その言葉とともに、信じられないという悲鳴混じりの歓声と拍手が湧き起こり、同時にアンコールの声を待っていたオーケストラが突如息を吹き返した。
奏でられるのは、喜びと癒しに満ちた賛美歌。
美夏先生はそれらに負けないくらい、きっと初めて、人間らしく、精一杯、高揚感を露わにして叫んだ。
『さあ‼︎ 人類の夢と希望の詰まった箱を開くのにふさわしいのは誰?! そんなこと考えるまでもありません‼︎ そう、それはもちろん、子供達です‼︎』
全ての観衆が、立ち上がって拍手を送っていた。
拍手はまるで世界中の人々からのものになっていた。
異議を唱えるものは誰も居なかった。
キミ、以外には。
キミはスポットライトに射されながら、心の中で懸命に泣き叫んでいたんだ。『開けたくない』って。




