プロローグ
――良い事ばかりを思い出すというのは難しい。
何の意図もなくふとした切欠で蘇える記憶は大抵が悪いもの、あの時にああすれば、あんな事しなかったら、何故……そんな忘れ難い過去の幻影は蘇る度に何度も私を責め立て、飽きる事なく繰り返す。きっとそれは、私が生きる事をやめない限り続くのだろう。
――7 yers ago――
「ふぅ」
流れる風が頬を撫で熱く火照った顔を冷やしてくれる。耳煩かったはずの喧騒も村の中心部を抜ける事で一気に静かになり、今や僅かに聞こえてくるのは鳥の夜鳴きや虫達の声ばかり……足元を照らす灯りもない暗い夜道ではあったが空に昇る月は真白く明るく、私は何の道標がなくとも目的の場所を探す事が出来た。
曲がりくねった細い道を通り、いくつかの家屋の裏を抜ければ見えてくる巨大な古木。立ち並ぶ周りの木々の優に数倍はありそうなその威容は夜の気配の中でもよく目立ち、真っ直ぐに空だけを目指す自然の塔は高く伸ばした枝葉を巨大な緑の雲のように広げている。
「この辺りかな」
目指していた目的地に確かな確証がある訳でもなかった。
……絶対にあの子はここに居る、そういう明確なものではないが『多分』という名の直感。限られた時間の中で見知った彼は、また膝を抱えて泣いているのではないか……そんな直感に近い何かがあった。
相当数の樹齢を感じさせる太い幹、固い地面を突き抜けて張る根の上に立ち。私はわざとらしく声を上げる。
「あぁ、呑み過ぎたな」
……
「……ふ」
――掛けた声に、木の影から返ってくる言葉はない。
代わりに耳を澄ませば聞こえてくる人の身じろぐ気配と浅い衣擦れの音。
「やっぱりここか」
……
――うだるような暑さが支配する季節。見上げる空の、枝葉の間に見える明るい月は目に焼き付く程に鮮明で、自然と込み上げてくるいくつかの思いを飲み込み張り出した木の根の一本に私は腰を下ろす。
「またイジめられた?」
……
言葉の代わりにただ一度、ビクリと震える気配が風を揺らす。チラチラと樹木の影から窺うように見える小さな頭の端。しかし決して顔までは覗かせようとしないのは後の意地か……幼いとはいっても男の子だ。見られたくない顔というのもあるのかも知れない。
「いい月だ」
……
この村から見える景色は全て特別だ。あの子と過ごした時間も短くも大切なもの、決して満足と言える程じゃなかったが限られた中で私は何かを残す事が出来たのだろうか、自分自身で考えてもその答えは見付からない。
宴の席からこっそりと拝借してきた酒壺を一つ、口を開いて斜めに傾ければ熱い酒精が喉を焼いた。
僅かなに香る甘味とそれ以上に口一杯に広がる濃い苦味。
「殴られた?」
……
「そうか」
私は、明日には村を出る。だからこれが本当に最後だろう。
「痛かった?」
……
「そうか」
ぐずる声、しゃくり上げる声、唇を噛む音。
言葉としての返事はなくても確かにそこに居る。だからこそ私達の会話は成立していた。
「よく我慢したじゃないか、辛いかい」
……
「悔しい?」
……
「そう」
…………
「……そうか」
……
「ふふ」
……!
「おっと」
クスリとこぼした私の笑いに影は敏感に反応する。座り込んだ体勢から立ち上がり地面を擦って後ずさり……返ってくる反応はますます硬くなった。息の一つさえ押し殺そうとする必死な気配が伝わり、そんな事を不憫に思う。
どうかそこまで過敏にならないで欲しい。私は別に君を嘲笑って笑い声を漏らした訳じゃない、ただその純粋な反応が嬉しくて、つい笑ってしまっただけなんだ。
「悪いね、何も君を笑った訳じゃない」
……
「本当さ」
言葉と共に口端を上げる。古木を背にした反対側、あの子にとって見えるはずもないだろうが私は柔らかく笑みを浮かべる。
再び傾ける酒壺の中から流れ込んで来る液体が喉を焼き、胸が熱い。
不意に、目頭が熱くなる。まだまだと思っていたが私も十分に脆くなっていたのか。口内に残る苦味を新たな酒で流し込み酔いの回った頭をもっと鈍くさせてくれと強く願う。高い酒気は私の滑りの悪い口を饒舌に変えてくれ、心の底の素直な気持ちを汲み上げ外へと流してくれる。
「私もね」
……
「私も君と変わらない」
…………
「駄目だった。周りに合わせられなくて付いていけない……信じられなくて。裏では私をバカにして人間が居るのも知っていた、だから切り捨てた。幸い君と違って腕力だけは余計にあって、直接叩かれる事はなかったけど結局そういう人間はいつも一人だ」
白い月と古木の下、この会話も言ってみれば一時の仮初のもの。
二度はないこの瞬間を私は身勝手に、より良いあの子の中に残ればと思う。
多くは願わないからせめて良い思い出に……それだけでいいんだ。
……うそだよ
「っ、う、うん……うそ……かも知れないな」
……っ!
「……はは」
唐突に返って来たあの子の声に私は危うく崩れ掛け、緩む顔を意識して引き締める。木の根の上から幹へと移動し、硬くゴツゴツとした木の皮へと張り付ける背中。決して良いとはいえない感触の向こうで見えないあの子に語り掛ける。
「そうだ……それなら一つ、君に魔法をかけて上げようか」
……まほう?
「そうだ、絶対に悲しまずに済む魔法。怯えて、情けないとバカにされるのももう無くなる」
…………ほんと?
「知りたいかい?」
……しりたい
「そうか……はは、知りたいか……ふふふ」
見上げる空の月は白く明るく、溢れる水気に滲み出し鈍くぼやけてしまうので分からない。
流れる風は心地よくても。暑さが消えない季節に私はあの子との最後の時間を過ごす。
「なら教えよう」
過ぎた過去は変えられず取り返しも付かないがせめてこれから―――――――の未来が良きものであるように、そう願わずにはいられなかった。