第4話
固い木材でできた馬車は、慣らされていない地面の凹凸に時折激しく揺れた。お世辞にも居心地の良いものとはいえない馬車内で、男たちは金が入るという目先の欲望に談笑し、腕を縛られる男たちの“商品”は、ただ虚空を絶望に沈む瞳で見つめていた。
しかし、その中で他の者とは異なった表情を浮かべた2人がいた。シズルは目の前にいるアシンメトリーの年端もいかない子供を怪しげに見やり、子供はただ暗がりのなか大きな瞳をシズルに向けているだけだった。いや、それにはわずかな語弊があるのかもしれない。子供はシズルではなく、彼女の中にいる“ゼノ”を、見つめていた。
“アン”と名乗った子供は、名前からして少女のような印象を受けたが、やはり暗闇の中でこの幼い子供の性別を見分けることはできなかった。
ゼノの存在をアンが見抜いてから暫く立つが、アンの言う“1時間後の村”についていないあたり、まだそこまで時間は経っていないということだろう。目の前の少女の言うことが真実ならばの話だが。
アンはあれ以降、シズルを時折見つめてはにこやかに笑いかけるだけで、言葉は何も言わなかった。それが、逆にシズルとゼノにこの子供に対しての不信感を、さらに膨れ上がらせた。
ゼノに体を任せてから表に出ていないシズルは、ゼノに話しかける。
『ねぇ、この子もしかしたら、昔のゼノの事知ってるんじゃないの?』
(この小せぇガキがか? 馬鹿なこと言うんじゃねぇ。確かにどれぐらいの時間あそこにいたかは分からねぇが、少なくとも2、3年とかいうレベルの長さじゃなかったはずだ。このガキは見たところ、まだ7歳か8歳ぐらいだろ。俺のことを知ってる可能性は低い)
『でも、私を見てすぐにゼノのことわかるなんておかしいわよ』
(さっきの“黒”のことも気になる。しかも、お前を訪ねて来るなんておかしい。この世界でお前の知り合いはいねぇんだよな?)
『いないわよ。だって、すぐにこっちに来て、あんたと出会ったんだもん。知ってるにしても、あの気味の悪い白い子しかいないわ』
白い少女。ゼノはまだ話にしか聞いたことはないが、その“白”とアンの言う“黒”は、恐らく違うものだろう。信憑性の欠片も無いアンの言うことだが、この子の安心しきった表情を見ていると、どうもそれが本当のことなのではないかと思えてくる。
(ねぇ、あれこれ考える前に、もうこのアンって子に直接聞いたらどう?)
シズルの意見はもっともだ。しかし、正体がわからない子供に、むやみやたら聞くのも気が引ける。それに、何故ゼノの事が分かったと聞いて、逆に何故シズルの体の中にいると聞かれたら、それは当然答えるわけにはいかない。
むやみに自身の情報を教え、いらぬ疑いをかけられては困る。ましてや、畏怖のまなざしで見られゼノの目的が阻まれるような、動きにくい状況には絶対になりたくない。
『そんな警戒しなくてもいいわよ。めんどくさいわね。あんた、少し慎重すぎない?』
(るせぇ、黙ってろ)
再度思案にふけるゼノに、シズルはため息をこぼした。
すると、突然ゼノのシズルを動かしていた感覚が急速に薄れて行く。慌てて声を出したころには、もうすでに体の主導権はシズルへと変わっていた。
『この馬鹿、シズルッ!』
「ねぇねぇ、アンちゃん」
ゼノの制止の言葉を無視し、シズルは隣にいるアンの耳に身を屈めて囁く。すると、大きな瞳がこちらへ向けられ、シズルと同じように小さな声で答えた。
「なぁに? お姉ちゃん」
「どうして、ゼノがいるってわかったの?」
『馬鹿野郎! 勝手に名前だすんじゃねぇ』
(うるさいわね。いいじゃない、即席でつけた名前なんだから)
記憶が無くなり、新しくつけた名前なのだから、ここで名乗ったところで知っている者など存在しないだろうに。
アンは腕を縛られ動きにくそうに身をよじり、さらにシズルに体を近付けて囁いた。
「あのね、夢を見たの」
「夢?」
そう聞き返すと、アンは頷いた。
「馬車でね、なんだか気持よくなってきて眠っちゃったの」
『なんつー図太いガキなんだ、こいつ。攫われてんだぞ? どういう神経してんだ』
「そしたら夢の中でね、人からくしゃくしゃしたのが入ったり出てったりしてね」
『おい、くしゃくしゃしてるスプラッタは、もしかしなくとも俺の事を言ってんのか?』
(ちょっとあんた、黙って)
「それから、知らない人がやってきて、教えてくれたの。これから今見た人に会えるよ、って。その後黒が来るよ、ってアンに教えてくれたの」
「その教えてくれた人って、誰のこと?」
「わかんない。お顔も体もぼやけてわからなかった。でもね、たぶん男の大人の人だと思う。それでね、その人は黒が来ることをその人に伝えてね、って言って消えちゃった。もう戻らなきゃ、って言って。それで、目が覚めたの」
「戻る……? その男の人はどこに戻ったの?」
しかし、アンはわからないと首を振った。
なんとも言えない摩訶不思議な夢の話。信じろと言われて、馬鹿正直に信じる者は多くはないだろう。しかし、アンの言う「くしゃくしゃしたものが入ったり出たり」という部分は、恐らくゼノの魂の事だ。現に、この馬車に乗る前ゼノの魂は体の外に出た。その事実が、2人を悩ませる。
(どう思う?)
『わからねぇ。だいたい、夢の中の話だろ? だが、ガキの戯言にしちゃあ、妙に引っかかる。……シズル、こういう夢は何度も見るのか聞いてみろ』
(命令するの止めてくれない?)
『さっさと聞け』
変わらない横暴な物言いにため息を吐くが、言うとおりにシズルはアンに尋ねる。
「そういう夢、前からよく見るの?」
「今日が初めてだよ。でもね、アンのうんと昔のご先祖様はたぶん見てるんじゃないのかな。アンの一族は夢の中でね、神様の声を聞くの」
神様、そのあまりにも無縁且つ遠い存在の名前に、ゼノは馬鹿にしたような、そして呆れたように言った。
『おいおいおい、その夢の奴が神だって言うのか? 勘弁してくれよ』
(あんた無信教?)
『信じる神の名前を忘れちまったら、無信教にもなるだろうが。ていうか、シズル変われ。俺が聞く』
(あんた、ホント俺様ね)
アンの目の前で、突然先程まで優しい表情だったシズルが、豹変したように眉間に皺を寄せる。ゼノが表に出てきたのだ。一瞬にして不機嫌そうな顔になったシズルを見て、アンは別段うろたえもせずに笑いかけた。
「お兄ちゃんが出てきたの? ころころ変わって楽しいね」
「アホか。で、その夢の奴は神様なのか? 何百っていう大量にいる神さんが一人だけ、お前の夢に入ってお告げを言ったのか?」
『ちょっと、小さい子なんだからもっと優しい言い方で聞きなさいよ』
圧力的な物言いにシズルはゼノに文句を言うが、無視を決め込みアンの返答を待つ。アンは少し首を傾げた後、おかしそうに肩を震わせた。まるでゼノの言い分が変だと言うように笑うアンに、シズルの顔はムスッとしたものになる。
「何がおかしいんだよテメェ」
「だって、お兄ちゃん変なんだもん」
「ガキだからって容赦しねぇぞ」
シズルの声でドスのきいた声音を出し凄んでみるが、やはり女の声だから迫力がないのか、それともこの子供がつわものなのか。アンは笑いの収まらないまま答えた。
「この“スカイラフ”で、神様は1つだよ?」
「あ?」
思わず間抜けのような声を出して、それがおかしかったのかさらにアンは小さく笑う。視界の端で、楽しそうに笑うアンを見た男が訝し気な顔をしていたが、ゼノは気付かずにアンを凝視する。
「スカイラフで、神様は一つ。今も昔もどこの国でも、それは変わらないよ?」
『今も昔もって……、あんた本当にこの世界の住人? もう、頼りにしてるんだからしっかりし……て……』
そこで、不自然にシズルの声は途切れた。彼女が意図的にに言葉を止めたのではない。身の内から伝わるゼノの戸惑いに感化され、シズルもまた動揺したからだ。
『ゼノ? どうしたの……?』
「…………神が、1つ……だと?」
思ったより震えていた声音で訪ねると、アンは一つ頷きこう続けた。
「うん、当たり前だよ。神様がいっぱいても、意味がないでしょ?」
ゼノは、自分の心がひどく揺れていることを感じていた。
何故だかわからない。自分の知識が、この子供にとって異端であるということで動揺しているからだろうか。今も昔もと言うが、その昔とはどれぐらいの長さなのだろう。記録が伝承されている時期からだろうか。自分の中にある、多くの神が存在していたという知識は、それ以前の事なのだろうか。
そして、自分の知らないアンの言った名前。ゼノは、その名前が何なのかわからない。何の名称なのかさえ分からない。
だが、何故だろうか。知識にはないはずなのに、どこか、引っかかる。この感情が、果たして己の知らない“記憶”に関するものなのか。記憶が欠落しているゼノにとって、それはただ混乱を呼ぶものでしかなかった。
平静を失ったような感覚に、馬車の揺れとが合わさり、ひどく気分が悪くなった。何も吐く物はシズルの胃の中にはないが、無性に手で口を押さえたい衝動に掛られる。しかし、きつく縛られた縄がそれを許してくれない。
その気分のすぐれない感覚は当然シズルにも伝わり、シズルはゼノに何度も声をかける。
『ゼノ、しっかりしてよ。あんたがどれだけ昔の人でも、私は気にしないから。ねぇ、ゼノ!』
しかし、ゼノの反応はない。先程まで笑っていたアンは、さすがに様子のおかしいゼノが気になったのだろう。顔を覗き込み、声をかける。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
変わらぬゼノは瞠目したまま静止している。しかし、その口だけはブツブツと同じ言葉を繰り返し呟いていた。
「スカイラフ……。スカイ、ラフ……、スカイ……」
その時、馬車内が激しく上下に揺れた。
不意打ちの揺れに、体勢の崩れた何名かが床に倒れこむ。ゼノは瞬時に踏ん張りを見せその場に制止することができたが、アンはバランスがうまくとれずにシズルの体にもたれかかった。
「何だ?」
「ついたよ」
アンが、こちらを見て呟く。その目に、シズルを気にかける心配の色が窺えて、アンの言う“1時間後の村”に着いたらしいことを、2人は理解した。
馬を引いていた男が顔を出し、仲間に短く伝えた。
「俺は水と食料をもらってくる。こっちは任せたぞ」
「おう」
どうやら、ここは商品を売りさばく地ではないらしい。あの平地を横断した馬の休養と、男たちの食物の調達が主として、この村に寄ったようだ。
「お兄ちゃん、逃げるなら今だよ」
アンはそう耳打ちするが、この状態では簡単に逃げられはしないだろう。相変わらず馬車内に残る男たちは、警戒こそしていないがそうやすやすと逃がしはしないだろう。そして、まずはこの縄をどうにかしなければ逃げるどころの話ではない。
「お前はどうするんだ?」
「アンはね、もう少ししたらダズがお迎えに来るの」
ダズ、その人物はこの子供の保護者か何かだろうか。確信して言うアンは、シズルに一度笑いかけ、もぞもぞと身じろぎし始める。
「おいおい、んな動いても縄はほどけねぇぞ」
呆れてゼノが言うが、アンは構わずごそごそと動き、そして表情を晴れさせた。
「できた」
「はぁ? 何がっていうんだ」
そこで、ゼノは驚愕に目を見開いた。アンはにこやかにゼノに背を向けて、自由となった両手を開いたり閉じたりして見せたのだ。その下には、縄が落ちていた。
アンの背で隠れた自由を取り戻した両手は、アンの体で目の前の男たちには気付かれていない。まだ逃げる気はないようだ。
「何やったんだ……?」
アンの手に刃物は見当たらない。しかし、アンを縛っていた縄は、何か鋭利なもので切られただろうと思われる断面があった。
訝しむゼノに、アンは内緒事をしているようにいたずらに笑み、囁く。
「お願いしたの」
何に、というゼノとシズルの疑問は、突如轟いた耳を劈くほどの男の叫びにかき消された。
反射的に男の金切り声のした方向を見やるが、馬車の出口は扉が閉められ何も様子が分からない。水を取りに行くと言った仲間の叫びに、馬車内の2人の男は各々の武器を手にして馬車の外へと飛び出していった。
ざわめきは馬車内を満たし、中にいる全員に混乱を招いた。うろたえ始めたいくつもの声の中、アンがゼノを見つめて言う。
「来たよ」
その冷静を伴った声と同時に、外に出た男2人分の断末魔の叫びが響いた。次いで、一瞬にして静まり返った空気に、冷水をかけられたように背筋が凍る。まるで水を打ったように静まり返った馬車内。突如襲ってきた恐怖に、縛られ逃げられないと言う絶望に、アン以外の身がすくむ。
――――じゃり、と砂地を踏む気配がした。その音は、まるでこちらの恐怖を煽るように大げさなほどの音で、こちらに届いた。
「お兄ちゃん」
アンの小さな声が、ゼノの耳だけに届く。ゼノの肩が無意識に震えたが、アンを見ることなくただ扉を見つめた。
「馬車の馬に乗って、できるだけ遠くに行ってね」
また一度、砂を踏む音がアンの言葉にかぶせられた。間違いなく近づいてくるその足音に、知らずゼノが生唾を飲み込んだ。声を出しても、ゼノ以外には聞こえないはずなのに、シズルでさえその声を発さずにただ扉の向こうにいる謎の存在に震える。
緊張からの喉の渇きに声を出せないゼノに、アンはただ冷静な声で言う。まるで目の前の恐怖など感じていないかのように、ただ淡々と告げる。
「馬車につながってる縄は切ったよ。右じゃなくて、左の馬だよ。間違えないで」
額から冷や汗が流れ、顎を伝った。皆の大きく打つ心臓の音が聞こえてきそうなほどの静寂の中、アンの短い言葉が響いた。
「――――逃げて」
瞬間、シズルの両手を縛りつけていた縄が音をたてて切られ、同時にゼノは馬車のもう一つの出入り口、馬の手綱を引く場所へと強く駆けだした。
それとほぼ同時に、扉がけたたましい音を立てて開けはなれたのは同時である。
ゼノは振り向く余裕などもなく、悲鳴にあふれかえる馬車内を飛び出した。
『ゼノ、アンちゃんが!』
「馬鹿野郎! んなことに構ってられるか!!」
ゼノは両足で強く馬車の床を蹴り、一頭の馬まで大きく跳躍する。ドスンと馬の背にまたがり、衝撃に眉根を顰めるがすぐさま手綱を握り締め勢いよく手前に引いた。自由な体を大きく動かしたのは、馬車に繋がれていない左の馬。
馬の嘶きは強く響き、前足を一度大きく上げ、ゼノの両足の命令に走り出した。
『あんた、馬乗れるの!?』
「知らねぇよ!!」
叫び返すゼノだが、その手綱を引く手と身を屈める体制、シズルの体を操るゼノの動きは馬の乗り方を知らないような人間のできる代物ではなかった。
駆けだし、風を切る馬は一目散に馬車から離れて行く。
咄嗟にアンの言うとおりに動いて、本当に良かったと、シズルとゼノは胸中で同調した。疑問は多々あるが、アンは間違いなくシズルの味方だと判断してもいいだろう。
村の中を疾走し、このままどこか身を隠せるような場所でも捜そうと思った次の瞬間、突如馬の体が大きく傾き、地面に倒れこんだ。
「うお!」
『きゃああ!!』
ゼノの反射神経で受け身をとったのはいいものを、固い砂地に激しく体を打ち、シズルは痛みに悶絶した。その痛みを抑えようとしたシズルの思いが強く、ゼノはその一瞬、シズルの体の主導権を奪われる形となる。
「いったぁい!」
『馬鹿! これぐらいの痛みにうろたえんじゃねぇ! クソ、何で急に……!!』
倒れこんだ馬は、しきりに前脚を激しく動かしている。しかし、前脚とは逆に動きの鈍い後ろ脚に目を移すと、その後ろ脚の付け根に、何かが食い込み痛々しく血を流していた。
「何これ、ナイフ?」
『――――っシズル、代われ! “黒”が来る!!』
後ろから急速に近づいてくる気配に、ゼノが叫ぶ。反射的に振り向いたシズルは、こちらに静かに、そして素早く近づいてくる“黒い人影”に、頭から冷や水をかぶされたように体の芯が冷えた感覚が全身を駆け抜けた。
その“黒”を見た時、シズルの地面に座り込んでいた足は震えた。まるで初めてこの世界を来た時に見た、あの土人形を前にしたときのように、その黒づくめの人影に恐れを抱いた。恐怖に支配されたシズルの体は、まるでこの砂地に縫いとめられたかのように動こうとしない。
だが、あの時がそうだったように、シズルを我に返したのはゼノの一喝の声だった。
『シズル!!』
そこで我に返り、シズルは立ち上がり暴れ狂う馬から離れ駆けだした。
「何よあれ!」
『知らねぇ! でも、俺たちの敵だっつうのは確実だ!!』
両足を死に物狂いで動かし、シズルは村の中を駆ける。あたりを見渡し、村人が一人もいないことにゼノは違和感を覚えた。先程この村に響いた3人の男の叫びは、必ずこの家々に届いているはずだと言うのに、家から人が出てくる気配は微塵も無い。この違和感にゼノは内心疑問符を飛ばすが、それに構っていられる余裕はなかった。
『シズル、お前の体力じゃあ必ず追いつかれる。代われ!』
ゼノの言うとおり、この世界へ来てから飲まず食わず。おまけに馬車に乗るまで歩き通しだったのだ。シズルの体力の限界はもうすでにピークを迎えていた。
シズルの体を操るゼノは、衰え始めたスピードにもめげずに足をひたすら動かした。そして、しきりに周りを見渡す。
そこで、ゼノの前方に貧相な畑が見えた。作物は全くなく、今にも枯れそうな葉がわずかに生えているだけだった。しかし、その地面に置いてあった物にゼノは注目した。そして、グッと足に力を込めて背の低い柵を飛び越え、一気に近づく。走りながら瞬時に身を低くし、極力スピードを落とさないままそれを拾い上げた。
『あんた、鎌なんて拾ってどうすんのよ!?』
そう、ゼノが拾い上げたのは、恐らく草刈りに使われていたであろう使いやすい大きさの鎌だった。ところどころ錆びついた刃には、緑色の草がこびりつき、切れ味には自信がなさそうに見えた。
「決まってんだろ! 武器だ!」
『武器ぃ!? あ、あんたもしかして戦おうとしてんの!?』
シズルの驚愕の言葉に、ゼノは「そうだ」と頷いた。しかし、戦う気で鎌の柄を強く握りしめたゼノに、シズルの否定の叫びが降りかかる。
『無理に決まってんでしょ! だいたい、私戦えないわよ!』
「お前は戦わなくていい! 俺がこの体を操る! お前は俺に全部任せりゃいいんだ!!」
『無理よ! ていうか、そこの家の中入って、助けてもらおうよ!』
背に感じる“黒”の気配と、自分が戦うと言うことの恐怖とで、シズルは震える情けない声で懇願する。しかし、ゼノの怒号がシズルの心を叱咤する。
「馬鹿か! 人売りの男どもの叫びを聞いただろうが! 死体は見てねぇが、恐らく殺された!!」
そのあまりにも地球にいたころの自分とは縁の遠い犯罪の言葉に、シズルが息を飲む。
「アンが言ったように“黒”は俺達を狙ってる! 他の奴を頼れば、そいつに“黒”が手を出さない証拠はねぇ! お前は、関係ねぇ奴の命が消えてもいいっていうのか!?」
切羽詰まったゼノの、責めるような物言いに、シズルはぐっと押し黙る。シズルがそんな無情なことを、思っていないということはゼノもわかっていた。しかし、後ろから近づいてくる得体のしれない気配に、ゼノもまたシズル同様に恐れているのだ。
村を走り回り、そこで家畜を逃がさないように柵に縛り付けられた長めのロープを見つけた。己の運の良さに内心笑みを漏らすが、表情には緊迫したもの以外出ずに、ゼノはそのロープを鎌で断ち切り手にした。
そのロープは十分な長さを持ち、すぐさまゼノは鎌の柄の先にロープを縛り付けた。
『なにしてんの!?』
「武器だ。即席だが、ないよりかマシだ」
“黒”の武器などの手の内を知らないまま、この頼りない鎌だけで接近戦に持ち込むのは無謀だ。故に、ゼノは一つ“黒”に嗾けようと考えたのだ。
結び目を再度固く縛り付け、ゼノは体を反転させ前方から向かってくる“黒”と対峙した。
「……――――っ!」
この時初めて、ゼノとシズルは“黒”の姿をはっきりと目にした。“黒”は、黒ずくめの服を身にまとった男だった。黒いズボンに、全体的に線の薄い体に合わせた黒い服。袖はなく、肩から剥きだされた腕は、細いが無駄のない筋肉が覗かれていた。そして、黒い短い髪の毛に、その顔の鼻から首はマスクのように黒い布か何かで覆われている。
正体を隠しているのか、それとも隠す気がないのか、判断しにくい格好だが、姿勢を低く保ちながら走る姿は、さながらシズルの中にある“忍者“のイメージに合わさっていた。
先程の馬によって稼がれた距離にはまだ余裕がある。ゼノは右手にロープを掴み、縦方向に鎌を回し始めた。土仕事に使われた、草の臭いを放つ鎌が徐々に回転するスピードを増し、あたりに泥の混じった砂を飛ばす。
一定のスピードに達した鎌を、ゼノは黒めがけて勢いよく投げ飛ばした。
「オラァ!」
まっすぐに黒を狙い、凄まじい速さで黒へ飛び向かう。だが、一直線に飛ばされた鎌は、黒の眼前で金属音と共に弾かれた。瞬間見えた黒の手には、血の色で赤く染まった小刀が握られていた。
「まだまだァ!!」
黒の持つ小さな武器に一瞬ゼノは目を見張るが、すぐさま掛け声とともに素早くロープの持ち手を大きく引き動かした。その動きがロープに連動され、鎌の切っ先が黒に再度向けられる。
『すごいゼノ!』
シズルの賞する声音とは裏腹に、ゼノはまだ油断はしない。
案の定、ゼノの機転にも黒は眉ひとつ動かさずに、身を翻し小刀でロープを立ち切った。途端に宙に浮いていたロープはへたりと地面に落ち、ゼノは舌打ちと共に地面に投げ捨てまた駆けだす。
『使えなくなっちゃったじゃない!』
「やっぱ縄じゃ無理か。クソ! なんか武器はねぇのか!?」
と、そこであの人売りの男たちが持っていた武器を思い出す。男たちはナイフの他にも、馬車を飛び出した時大きな鉈か、刀のような物を持っていた気がする。
それを思い出し、もう体の体力がつきかけているという事実から、その武器を取った方がいいと判断する。
今までまっすぐに当ても無く走っていたゼノが、突如家々の隙間に入り込み大きく村を回り始める。
『どこいくのよ!』
「さっきの馬車だ! あそこにはまだまともな武器がある」
『戻るなんて、逃げた意味ないじゃない! だいたい、無理に戦う必要なんてないでしょ!? きっとあの人誤解してるのよ! 私を狙う理由なんてないもの! 人違いよ、だから話せばなんとかわかって――――』
「駄目だ! あいつが話を聞いてくれるなんて確証はねぇ! もし立ち止まって捕まれば、確実に殺される!」
『なんでそんなことわかんのよ!?』
シズルは、もはや極度の緊張からパニックに陥っている。金切り声が頭に響き、我知らずゼノは冷や汗垂れる顔を顰めた。
何故、こうまで「殺される」とゼノは確信しているのか。それは、馬から落ちシズルの体が動かなくなるほど感じた恐怖と、それと同時にゼノが感じた黒の爆発的な殺気を感じたせいだった。
殺人とは無縁の生活をしていたシズルは、黒を見た瞬間のあの硬直を、恐怖によるものだと思った。だがしかし、ゼノにはそれが恐怖だけでなく、シズルに向けられた黒の殺気にもよるものだと感じたのだ。
だからこそ、ゼノは自分の中で警報を鳴らす本能に従い、ひたすらに逃げそして迎え撃つという動きをしていたのだ。黒の隠す気も無い駄々漏れの殺気が、ゼノの確信を如実に物語っているが故に。
ゼノは浅い呼吸で苦悶の表情を浮かべながらも、叫ぶ。
「とりあえず、どうにかしない限りあいつは追ってくる! 大人しくあの男に殺されるなんて、俺はまっぴらごめんだぜ!!」
ようやく馬車を見つけて、馬車から出てくる捕えられた人々と、地面に倒れているもう事切れたであろう3人の男たちを見つける。どうやら、あの黒い男は馬車の中にいた人間には手を出さなかったらしい。
わずかにアンの無事の可能性を見え、まだまだ聞きたいことがたくさんあったゼノが安堵する中で、シズルの叫びが脳内に響く。
『なんで私が狙われなきゃなんないのよ!? 私あんなやつ知らない!』
シズルの言うとおり、そしてアンの発言から何度もゼノが訊ねた通り、シズルはこの世界へ来てすぐにゼノと出会った。そんな彼女が、誰かに恨みを買うようなことができるはずがない。ならば、ゼノの中で考えられることは2つ――――。
「お前をこの世界に連れてきた奴の差し金か。もしくは――――!!」
続きは、ゼノの口からは発せられなかった。
すぐ隣に、黒い影を目に捕え、瞳が大きく開く。
きらりと小刀光ると、ゼノは馬車方角へ強く飛び退いた。間髪いれずに、小刀の切っ先が左腕をかすめる。鋭い痛みが左腕に走り、顔を顰めた。
『ゼノ、切れた! 血が出てる!!』
先程のように、痛みにシズルが体を取り戻すという最悪な事態が起きなかったことに、わずかながら安堵する。
素早く体制を整えたゼノが男を振り向くと、すぐにこちらに第二の攻撃を繰り出すかと思ったが、ゼノの考えとは裏腹に黒はゼノを攻撃したその場で足を止めていた。
黒は赤く濡れた小刀を一度強く振り、血を地面に飛ばした。左腕の傷からは、わずかに血がワイシャツを赤く染めているだけだ。あの大量の血は全て横で倒れている男たちのものだろう。
黒の次の手が分からなく、身構えた体制から下手に動けないゼノに、黒はゆっくりとした動作で歩みを進めた。その緩やかな動作が、余計に2人の恐怖と不安を増大させた。
「まずいな。ガチで戦えば、勝ち目はねぇぞ」
肩で息をしながらちらりと横目であたりを見ると、もう馬車内には誰もおらず、皆が逃げた後だということを理解した。そして、5メートルほど離れた位置に、刀を握ったまま絶命しているうつ伏せの男たちがいる。
『ひっ。し、死んでるの……? う、うぇ』
死体に嗚咽を漏らしたシズルの声を聞き、ゼノは内心あの男たちが全員うつ伏せで死んでいることに安堵した。絶命した時の表情をした男たちの死に顔を見たら、この体は確実にシズルが取り戻し、震えてその場から動かなくなると想像できたからだ。その偶然に感謝しながら、ゼノは自分自身に落ち着けと心を静めようとする。
もうシズルの体力はない。スピードでは完全に敵わないだろう。ならば、あの武器をとり、戦うしかない。
ゼノは真正面にいる黒を見据えて、声を張り上げた。
「おい、テメェ!」
『ちょっと、ゼノ! 何言うつもり?』
「うるせぇ、お前は黙ってろ」
黒は別段変りもせずこちらを見ている。しかし、その足が止まったところをみると、こちらの話を聞く気はあるようだ。
話の通じる相手かどうかはわからないが、それよりもゼノは黒の全く動じない姿に眉根を寄せた。
「シズル、あいつおかしいぞ」
『え?』
「今、お前の声が聞こえているのは俺だけだ。あいつが見ている俺は、一人でブツブツ喋ってる気狂いな人間のはずだ。……なのに、あいつ何も反応しねぇ」
たとえ無表情な人間でも、この不可解な言動の人間を見て、何も疑いの眼差しをしないのはおかしい。いくら寡黙でも、いくら感情の見えない人間でも、必ずシズルをおかしいと思うはずだ。
しかし、その普通である反応を、目の前の人物は一切見せない。そこが、ゼノはあまりにも不自然でいておかしいと思った。
『た、確かに。普通変に思うわよね』
アンのように、シズルとゼノの関係を知っているのだろうか。聞いてみる価値は、あるかもしれない。
ゼノはただ黙ってこちらを見る無感情な瞳を見返し、問いかける。
「お前、なんで俺を狙う」
黒は答えない。だらんと下げられた両腕とその佇まいは、隙だらけのようにも見えるが、決してそうではないことを、ゼノは本能で感じる。
「狙いは何だ。シズルか? それとも」
ゼノは袖のないむき出しの右腕を目の前に翳した。刺青が隙間なく刻み込まれた赤褐色の腕の向こう側にいる黒を睨みつけて、ゼノは言う。
「この腕か?」
反応はなかった。
「ちっ、だんまりかよ」
この男、本当にシズルを攻撃する以外の行動をとらない。無慈悲な行動は、まるで義務付けられているかのようで、機械的で人間の感情などが窺えない物だった。そして、その動きもそうだが、黒の瞳には一切他の感情が見えない。義務的な動きと、その人形のような動かない表情に、シズルに対する私怨の類で狙っているのではないだろうと予想した。ゼノの中で、何者かの依頼でやっているということが可能性として高く見えてくる。
黒はもう話は終わりだと言うように、下げられていた小刀を握り直し手前に構えなおした。黒との距離、およそ6メートル。左手方面の武器との距離は、およそ5メートル。一か八か、やるべきだろうか。
ゼノは緊張から生唾を飲み込み、シズルに呟く。
(いくぞ、シズル。絶対にお前は表に出るなよ)
『ちょっと待って、あんた何するつもり……っ!』
シズルの言葉は最後まで聞かれず、ゼノと黒が走りだしたのは同時だった。
渇いた砂地を強く蹴り、一気に武器の許へ走る。背中から黒の殺気を痛いほど受け、ゼノの背筋は凍りついたように震えた。
すぐさま死体のそばに滑り込み、死亡したことにより硬直している男の手から、右手で力ずくに指から刀を引きはがす。そして、空いた左手で刀の柄を手に取り、間近に迫る黒を振り向きざまに切っ先を向けようと一気に振り上げた、――――が。
「っ!? 重い……!!」
刀の重さに耐えきれず、中途半端に左腕の動きが止まる。
刀を引きはがすにはゼノのかつての筋力がそのまま残っている右腕を使うほかなかった。しかし、シズルの――――少女の筋力を想定しなかったがために、その判断は致命的なミスとなりゼノの動きを一瞬鈍らせた。
そのわずかなゼノの動揺に、黒の小刀の刃がシズルの体に狙いを定めた。
想像する鋭い痛みから、ゼノは無念と固く目をつぶる。
――――ガキィ!
しかし、痛みは訪れず、代わりに何か固い物に刃物を突き立てたような高い音が、耳に届いた。
ハッと瞼を開け目の前にあった物体に、驚き目が大きく見開く。ゼノの目の前には、地面から盛り上がる土の壁が、突如出現していた。
そして、その壁を見た瞬間、体の主導権がゼノからシズルへと代わった。
「え……っ!?」
ゼノの消えた気配に驚き、黒とシズルの間に存在する壁に刃が突き刺さっているということに、シズルは驚愕する。黒の小刀は、深々と土の壁に突き刺さっていた。軟かくも無く、しかし固くも無い土が、黒の刃からシズルを守ったのだ。
シズルの中の混乱が、さらに渦巻いて脳の中身をかき混ぜる。浅い呼吸を繰り返し、痛いほど脈打つ心臓の音だけがシズルの耳を支配する。シズルは震える左手に掴まれた中途半端に上げられた刀を、抱きしめるように手前に持っていく。その行為は気休めにすらならなかったが、ゼノのいない今彼女がすがれるものはこれしかなかった。
頭の中でゼノの存在をひたすらに探す。しかし、いつも感じていた気配が、何故かシズルの中にはいない。その孤独感が、さらにシズルの黒に対する恐怖と絶望に拍車をかけた。
黒は無言のまま深々と刺さった小刀を、土の壁から抜いた。土の抜ける鈍い音に、シズルの肩が跳ねあがる。黒は無機質な紫色の瞳をシズルに向けた後、シズルの後方へと視線を投げかけた。シズルは振り返ることができない。黒から目が一切と剃らせないのだ。
黒がシズルの後ろへと視線を移して数秒、黒の瞳がもう一度シズルへと戻った。間近に見る黒の冷たい顔。無機質な紫紺の瞳と長い時間、見つめあっていた気がする。しかし、それはシズルが感じた時間であって、実際にはその時間はわずか数秒の時でしかない。永遠とも感じられた恐怖の時間の中、黒の薄い布で覆われた口元が動く。
「……“アマネ村”に向かえ。そこに、右腕の求めている記憶の欠片がある」
ただそれだけシズルに告げると、黒は後ろ腰に差した鞘の中へ小刀を収めた。
反応のできないシズルを興味のないただ無感情な目で一瞥した後、黒は背を向けた。その振り返った時、鮮やかな青い石のピアスが、不似合いに黒の両耳を光らせた。
ゆっくりと離れて行く男に、シズルはまだ状況に追いついていない脳で、左手にある刀を強く握り締め黒を見つめていた。
黒がやがて家の物影へと消えた瞬間、無意識に止めていた息をシズルは一気に吐き出した。強く握られていた刀は自然と手から落ち、震えの止まらない全身を色の違う両腕で抱きしめた。
「ぜ、ゼノ。ゼノ……!」
いつも中にいた名前を呟くが、反応はない。今、あの時の様に魂を入れるような物体はない。なのに、何故ゼノの意識が途切れたのだろうか。支えてくれる存在がいない孤独感に、シズルはただ自分の体を抱きしめた。
すると、目の前にあった土の壁が、音を立てて崩れていく。そして、シズルの体に背後から小さな影が差した。振り向くと、そこにはこげ茶の髪色を持ち、そして琥珀色の大きな瞳をこちらに向けていたアンが立っていた。
「大丈夫? お姉ちゃん」
馬車にいた時と変わらないアンの笑みに、シズルは思わず涙腺が緩むのを感じた。その満面の笑みを浮かべるアンは、あまりにも無邪気で無性にシズルの心を安堵に持っていき、シズルの瞳からとうとう涙をこぼれる。
『――――おい、シズル泣くんじゃねぇ』
と、目尻から零れた雫と同時に、頭に響いた不機嫌そうな声音に、シズルは思わず声を上げた。
「ぜ、ゼノ!? あ、あんたなんで今、いなくなったのよ!? わ、私、ホント不安で」
泣くなと言われたにも関わらず、この世界に来てからずっと聞いていたゼノの声に、また一度シズルは涙があふれんばかりに瞳にためる。
『あー、もう。泣くなっつってんだろ。うぜぇな』
「なによ! あんたが悪いんじゃない!」
突如一人で叫び出したシズルに、目の前で優しくシズルの肩を宥めるアンは首をかしげた。しかし、シズルは構わずにゼノに涙声で文句を言う。
「なんで突然いなくなったよぉ! しかも、名前呼んでも答えないし……。このばかぁ!」
『うっせぇな! 俺だってわかんねぇんだよ! 目の前の壁見たら、なんか急に意識飛んじまったんだよ! 悪いか!』
「悪いにきまってんでしょお!!」
ぐずぐずに泣きだすシズルは、ゼノに対する怒りもあったが、しかし戻ってきてくれた安心感に嬉し涙が次々とこぼれた。それをごしごしと乱暴に拭い、涙目のまま鼻をすする。
「お姉ちゃん、平気?」
「ぐす……。うん、もう大丈夫」
『たく、ガキの前でわーわー泣きやがって。恥ずかしくねぇのか?』
「あんた本当サイテーね……」
『サイテーで結構』
鼻で笑うゼノに、もし以前のように精神世界で会えるようなことがあったら、絶対に殴ってやろうと心に決めた。
ようやく泣きやんだシズルに、アンが頭を撫でて笑いかける。
「良かったね。お姉ちゃん、アンが助けなかったら多分死んじゃってたよ?」
「え……」
自慢げに笑うアンを見て、まさかと思い訊ねた。
「もしかして、さっきの壁って、アンちゃんが?」
「うん。アンがやったのー」
無邪気に笑うアンに、2人は驚きを隠せずに大きく目を見開く。黒がシズルの後方に視線を動かしたのは、アンがあの壁を出したことが分かってそちらを見たのだろうか。
驚愕をあらわにするシズルに、アンは不思議そうに首をかしげた。
「どうしたの? 精霊使いだったらあんなの普通だよ?」
「え、何それ?」
耳慣れぬ言葉に首をかしげる。ゼノもその言葉に特に反応していないので、どうやらゼノもまた知らぬ知識のようだ。
アンはその言葉に、あの時と同じように不思議そうにシズルを見つめる。またしても、この子供にとっては常識に入る言葉のようだ。
「……お姉ちゃん、本当に知らないの?」
異世界の者なのだから当たり前、と言いたいところだが、曖昧にシズルは笑みを見せた。無知なことに仕様がないことだが、小さな子供に不思議そうに見られるとどこか恥ずかしい。
アンは一度瞬きをした後、身を屈めて砂を一握り掴み、見せるように掌に乗せた。
「見てて」
すると、その砂が独りでに鋭く天に向かって鋭利にとがったのだ。その魔法のような様子に、シズルは目を剥く。
「え、なにこれ! すごい」
掌の砂は、鋭利な者から手の中で丸くなったり、様々な形となる。その当然の反応をしたシズルだったが、アンはやはりおかしそうに笑う。
「本当に知らないんだね。お兄ちゃんも変だけど、お姉ちゃんも変だよ」
そこで、ゼノの気配がやけに薄いのに気付く。また先程のように消えてしまっては大変困るため、シズルはゼノに慌てて声をかけた。
(ゼノ? どうしたの?)
『…………俺、あの術しらねぇ』
(……また?)
アンの常識を知らず、そして“普通”と呼ばれた独りでに動いた土の現象も知らない。彼等の知識はあまりにも違いすぎる。
いよいよもってゼノが“生きていた時代”というものが分からなくなる。混乱するシズルを他所に、ゼノは戸惑いの含まれた言葉をだした。
『いや、違う。知ってる』
(どっちよ)
『知っている。多分、俺はあの術を知っているんだ。だから、あの土の壁を見た瞬間、何かが引っかかって意識が飛んだんだ。でも分からねぇ。俺の“知識”にあの術はない。あるのはもっと他の、呪いとか、そういう人知の超えたもので……』
シズル以上に、ゼノの脳は混乱に陥っていた。もし彼が表に出ていたら、苦悩の表情で頭を抱えていることだろう。
そのゼノの戸惑いなど知る由もないアンは、手の内にある砂を大地に落とす。
「じゃあお姉ちゃん、“精霊”って知ってる?」
ゼノとの会話に集中していたシズルが、慌てて首を振る。すると、「やっぱり」とアンは困ったように笑った。
「精霊っていうのはね、このスカイラフの世界にある、いろんなところにいる、小さい神様みたいな存在の事だよ。あ、でも神様じゃないよ。神様は一つ。その僕とか手足とか、そうやって言われてるのが、精霊。その精霊達を操るのが、アン達“精霊使い”」
(ゼノ、知ってる?)
『……精霊自体は知ってる。だが、その精霊を操るなんてのは聞いたことがねぇ。だいたい、そんなこと人間には不可能だ。精霊もまがいなりにも神の一部のようなものだ。人間が操るなんて、そんなことおこがましいと思われていたはずだ。操るにしても、その精霊を生んだり使役するのは、数多くの神々の仕事だった』
内心眉間に皺を刻むゼノ。しかし、アンの“常識”は全く違うことを喋っている。
「精霊達はこの土にもいるし、水の中にもいる。後は空気とか、火にもいるよ」
「自然の中にたくさんいるってこと?」
「そう。その精霊にお願いして、精霊使いはその自然の一部を思うとおりに操るの」
こうやって、と言ったアンは両の掌を下に向けた。すると、土が盛り上がり、シズルとアンの間に1つの小さな山を作り上げた。
そこで、ゼノは思い当たったように『そうか』と呟いた。
『この土で、縛っていた縄を切ったりしてたのか』
「え、うそ。アンちゃん、もしかしてその力で、縄を切ってくれたの?」
「うん。お馬さんの方も、アンがやったの」
鋭くとがった土は、とても鋭利でこれならばあの縄を切ることなどたやすいことだろう。
「そうだったんだ。ありがとう、アンちゃん」
礼を述べれば、アンはどういたしましてとその琥珀色の大きな瞳を細めた。
未だ自由自在に形を変える土を眺め、シズルは羨ましそうに言葉を漏らした。
「いいなー、魔法みたいで。私もやってみたい」
『いや、無理だろ』
即座にゼノに否定され、むっとするシズルに、さらにアンが追い打ちをかける。
「お姉ちゃんにはたぶん無理だよー」
間延びした言葉遣いで否定され、不貞腐れた様にシズルがアンを見やる。
「精霊を操るのは、生まれ持った才能がなくちゃ無理だもん。努力したって、普通の人が精霊使いになれるっていうの、聞いたことないよ」
『まぁ、シズルは世界が違うんだから、才能どうこうの問題じゃないな。世界が違えばその体にあるルールも違うだろう。生まれ持った才能で決まるなら、体がこの世界の物じゃないお前には、できっこないことだ』
「えー、なんだぁ。残念」
わずかな落胆に項垂れるシズル。やはり、そういう能力を聞いたなら自分もやってみたいという希望はある物だ。しかし、やはりそういったシズルにとっての現実味のないことなど、そうそう体験できるものではない。
「……ねぇ、お姉ちゃんってどこから来たの?」
突然問われた言葉に、シズルがぎくりと声を詰まらせた。
アンは、本当に何も知らないシズルに対して、疑問を持っている。その説明を、アンは望んでいるのだ。
『シズル、馬鹿正直に喋るんじゃねぇぞ』
ゼノの制する言葉に内心頷いた。
しかし、そうは言ったものの、ゼノ自身もシズルについてどう説明すべきか悩んでいた。馬鹿正直に『異世界から来た』などと言っても、この子供は信じないだろう。いや、黒からシズルを守ってくれたこの子供なら、もしかしたらシズルに何かしらの協力をしてくれるかもしれない。だが、この時代の“常識”というものが欠落している2人にとって、なるべく“非常識”となる行動や言動は、これ以上やらかしたくなかった。
アンは小首をかしげている。シズルは瞳をあちらこちらに彷徨わせ、意味のもたない声をもどかし気に発していた。
「えーっと」
「アンはね、ここよりももっと南の村で、あのおじさん達に連れて行かれちゃったの。それからおじさん達はこの村に早く着きたかったから、あの“立ち入り禁止区域”を通ったんだ。そこで、お姉ちゃんを見つけたんだよ」
シズルを見つけた場所、つまりはシズルが落ちたあの遺跡のような場所は、一般人は近寄ってはいけないらしい。ますますアンの質問に対して答え辛い状況になってしまった。
(どうする? 正直に話しちゃう?)
『こいつが俺達に危害を加える奴とは思えないが……』
思い悩んでいる2人を見つめるアンの瞳が、突如として大きく見開き、次いで嬉しそうに輝いた。突然の反応に目を丸くするシズルだが、目線の先が自分よりも後ろにあることに気付いた。シズルが振り向くよりも早く、アンの喜悦に染まった声があがる。
「ダズ!」
そう嬉々としてシズルの横を駆け抜け、アンは大きな体躯の男に勢いよく抱きついた。
男の姿を目に止めて、シズルはギョッと目を見張った。
「でか」
思わず呟いてしまったのは仕方ない。ずうんと佇むその姿は余裕で2メートルを超しているだろう。服の上からでもわかる筋骨隆々とした胸板は、シズルの父、健二とは比べ物にならないほど厚い。父も武道のおかげでたくましい体をしていたが、この大男はたくましいの一言では表せないほどの体の持ち主だった。
ダズと呼ばれた男は、黒い癖のある手入れなどされていない髪を伸ばしており、目元が若干隠れるほどだった。口元に生える髭は一目でわかるほど伸ばしっぱなしで首の中ごろまで伸びていた。一目で不衛生な人物だと感じたが、その来ている服には汚れ一つとてないものだった。ところどころ布のほころびはあれども、その筋骨隆々とした服には小さい様にも感じる服には清潔さを感じた。
ダズは物静かな瞳をアンに向け、無言のまま低い位置にあるアンの頭をなでていた。
「お迎え遅いよ!」
頬を膨らまし真っ赤になってダズを見上げる。子供がやることでそれはかわいらしいものにしか見えないのだが、アンは一応睨みつけているつもりのようだ。
ダズは無言のままアンの両脇に腕を通し、軽々と持ち上げてその右肩へと乗せた。不安定な場所にも関わらず、アンはダズの首に手を回し、その小さな頬を膨らませている。
「アン、すっごい退屈だったんだから!」
「…………」
「アンが悪いっていうの? だって、ダズがアンから離れるからいけないんだよ!」
「…………」
「迷子になんてなってないもん! ダズがのろいからだもん!」
見る限り聞く限り、アンが一方的に喋っているようだが、どうやらきちんと会話を挟んでいるらしい。それとも、意思疎通でもできるのだろうか。髪と髭に隠れている表情の動きが分からず、シズルは呆けて2人を見ていた。
『なんか知らないが、説明しなくてもよさそうだな』
(うん。ていうか、あの2人もしかして親子?)
『いや、ちがうだろ。あの男はこのカナガト国の人間だろ』
武骨な顔つきだが、カナガト国特有の黒い髪を持っている。これで瞳も黒ならば確実にこの国の住民だ。
明らかにアンはカナガト国民ではないとわかるが、しかしその姿はまるで親子そのものだった。寡黙な父に活発な子ども。正反対だが、ダズの瞳は慈愛に満ちているようで、なんとなくだが優し気な表情をしている気がする。
散々文句を言っていたアンに構わず、ダズがこちらを見つめてくる。威圧感のある視線にシズルがひるんだが、すぐに気付いたアンがダズの肩をたたいた。すると、ダズはのしのしとこちらへ近づく。近づいてさらにこの男の巨体に圧倒され、首が痛くなるほどダズとアンを見上げた。
「お姉ちゃん、アンもう行くね?」
“お迎え”であるダズが来たからだろう。彼が来るまでシズルに興味を示していたはずだが、どうやらもうこの子供にはその思いなどないらしい。無邪気な笑顔でアンはシズルとゼノに別れの言葉を言っている。
しかし、乗り物と化したダズは一向に動きださず、未だシズルを見ていた。いや、シズルを見ているのではなく、正確にはシズルの右腕を凝視していた。
わずかに身構えるようにゼノが息を飲む気配を感じた。しかし、そのゼノの思いとは裏腹に、ダズは無言で腰にあった布袋に手を入れた。首をかしげるシズルに、ダズがずいと手を差し出す。
無言で差しだされた大きな手の中には、厚く巻かれた包帯があった。
「えっと……」
一応左腕にわずかな怪我をしている。だが、包帯を巻くほどではない。
彼の意図のわからない行動と優しさに戸惑っていると、肩に乗るアンが助け船をよこす。
「その包帯で右腕巻いたほうがいい、ってダズが言ってるよ」
「え」
アンを見上げれば、にこりと笑った。次いでダズを見るが、やはり表情の変化は見れずただ包帯を差し出すだけだった。
「その右腕、なんでそんな色かわからないけど、目立つから隠した方がいいって」
もう一度言われたアンの助け船に、ようやくダズの意図が理解できたシズルが、おずおずとその武骨な掌から包帯を受け取る。
「あ、ありがとうございます」
上目で礼を言うと、ダズはやはり感情のわからぬ瞳でシズルを見つめた。
『コイツ、喋るかなにかできないのか? すっげぇめんどくせぇ』
(ちょっと、ゼノ。あんた失礼よ)
『どうせ聞こえやしねぇよ。だが、包帯はありがたいな。まぁ、贅沢言うなら長袖の服か何かを貰ったほうがかなりいいんだがな』
遠慮の欠片も見れないゼノの横暴な発言に呆れていると、アンがシズルを見下ろして口を開いた。
「そうだ、お姉ちゃん。アマネ村に行くんだったら、ここからまっすぐ北に行けば大丈夫だよ」
「あ」
『あぁ? 何の話だ、シズル』
にこやかに言われたその村の名前に、シズルが思い出したように声を上げた。話の見えぬゼノの言葉に。シズルがしまったと言葉を濁しながらも、とりあえずアンに礼を言う。
「あー、えっと。アンちゃん、いろいろごめんね? なんかお世話になっちゃって」
「別にいいよ」
『おいシズル。アマネ村ってなんだ』
「黒の時も教えてくれてありがとう。お礼とか何にもできないけど……」
目を伏せたシズルに、アンは片手を振って否定した。
「気にしなくていいよ。アンも夢であったこと初めてだったから、なんかやらなきゃって思ったんだ」
『シズル』
「ダズさんも、包帯ありがとうございます」
「…………」
「ちょっとダズ! アン別にお姉ちゃんに迷惑かけてないもん! むしろ、アンがお姉ちゃんのお世話したんだよ? 何にも知らない癖に!」
どうやら、寡黙な彼は保護者としてシズルに何か言ったようだ。それにしても、なんてわかりにくい男だろうか。シズルの従弟であるケイトも無口で無表情なほうであったが、ダズはその比ではない。なんとも言えない不思議なアンとダズのコミュニケーションに、微笑みたいところだが、頭に響く抗議の声にひきつった笑みしかでない。
『シズル、てめぇ俺を無視するとはいい度胸じゃねぇか』
低く響く声に内心悲鳴を上げるシズルだが、ここを去ろうとする今日一日で世話になった2人にもう一度礼を言い、頭を下げる。
「ばいばい、お姉ちゃん」
ダズの肩の上で大きく手を振るアンに、シズルも手を振った。
「ダズ、早く行かなきゃ船でちゃうよ。 え、怒ってるの? でもアン怒られないよ、だってダズが悪いんだもん。……ダズ嫌い! そんなこと言うダズなんかこの国に残ればいいじゃん! アンはちゃんとディティーラに帰るもん! ダズのバカ!」
去り際に遠ざかるアンの声を聞き流しながら、シズルは漸くゼノの言葉をきちんと受けとめた。
『で? アマネ村ってなんだ?』
「……黒が言ってたのよ。アマネ村に行けって」
『はぁ? お前なんでさっさとんな大事なこと言わねぇんだ! この馬鹿!』
「馬鹿って言わないでよ! あんたがいきなり消えたのが悪いんでしょ!? しかも、あの時私がどれだけ大変だったと思ってんのよ! おまけにアンちゃんの話とか、いろいろあって、話すの遅れるなんて当たり前でしょ!?」
『だー! うぜぇガキだな!』
がおうと吠えるゼノに、こちらも負けじと怒鳴り返すシズル。傍から見れば気狂いな光景だが、幸いなことに外に生きている人間はシズルただ一人だけだ。見られる心配がないシズルは声を押さえることなくゼノと会話をする。
『で? 他に黒はなんか言ってたのか? てか、あいつ喋れたのか』
「当たり前でしょ、人間なんだから。……アマネ村のことしか話してなかったわ。ゼノ、その村知ってる?」
『いや、俺の知識にはそんな村ねぇ。たぶん、俺はこのカナガト国については名前程度しか知らなかったんだろうな。何か知ってるかと思ってみても何にも思いつかねぇ。てか、俺の知識はもう古いからな。基本信じねぇほうがいいだろ』
「そうね。あんたもう昔の人だもんね」
『おい、その言い方なんか腹立つぞ』
ふと、シズルは黒の言っていた重要な言葉を思い出し、慌ててゼノに言う。
「あ、そうだ。確か、あんたの記憶がどうとかとも言ってたわ」
『なんだと!?』
勢いよく食いつくゼノに、思わず身を引いてしまったシズル。しかし、この食いつきようは仕方がないことだ。アンと出会ったたったの数時間で、ゼノの生きていた時代というものは見当もつかないものだとわかった。記憶を取り戻すわずかな可能性でもすがりつくのは、当然の気持ちだろう。
「たしか、アマネ村に行けば記憶の欠片、がどうとか言ってたわ」
『それだけか?』
「それだけ。たった一言言って、すぐにどっか行っちゃった」
『…………』
考え込むように押し黙ってしまったゼノ。恐らく、黒の言葉を信じてアマネ村に行ってもよいのかどうか考えているのだろう。しかし、決断しなければいけない。その手掛かりをないがしろにすれば、2人の行く道しるべなど何一つないのだから。目標のないまま当ても無く動くのと、危険かもしれないが希望の見える黒の道へ行くの。その2つを比べて、どちらが彼女達にとっていいものかはわかりきっていた。
それでも、無謀にも敵の罠に突っ込むということに抵抗を感じてしまう。決断しきれないゼノに、シズルは自分の警戒心のなさを自覚しながらも、たどたどしくゼノに発言する。
「……黒の言うことは嘘かもしれないし、確証なんてないけどさ。やっぱり行ったほうがいいんじゃない? アンちゃんの時も疑ったけどさ、結局助けてくれて私達にとってはいい方向に転がってくれたじゃない。だからさ、あれこれ考える前に、行ってみようよ」
『……何だお前、結構行動的なんだな』
シズルの意見は危険なものだ。しかし、彼女の言うとおりな部分を感じ、ゼノはシズルに感心したように呟いた。初め出会ったときは泣いてばかりの状態だったが、はっきりと意見の言うこの性格は、ゼノは嫌いではない。
ゼノの言葉に、シズルは自然と緩んだ顔で言った。
「身内に、あんたみたいにあれこれ考える警戒心バリバリの奴がいんのよ。そいつを後先考えないで無理やり動かすのが、私の役目よ」
わずか1日離れただけだというのに懐かしく、そして寂しく感じたシズルの感情に、ゼノは短く笑う。
『はっ、めんどくせぇ野郎だな。……だが、そう思ってるのはお前だけかもな。案外、そういう奴こそ自分で自分の道しっかり進んでるもんだぜ』
「……なぁに? 実体験?」
『さぁな』
珍しい柔らかな言葉に、シズルは笑みを漏らした。
さて、と続けたゼノはアマネ村へと行く“足”を探せとシズルに言った。当然見る馬車には、もう一頭の馬の姿はなかった。恐らく、捕えられていた人間の内の一人が、逃げるために使ったのだろう。
「他の人たちは無事逃げたかな」
『他人の心配よりも自分の心配したらどうだ。この村には馬なんて見当たらねぇ。第一人がいるかさえ分からねぇからな』
あたりを見渡すが、やはり人の気配はない。ぽつんぽつんと建っている家にも、人がいる気配は感じられなかった。
あまりにも静かすぎる異様な村の雰囲気に、一つの事柄に思いあたった。
この村に人間はいない。畑にも作物はなかった。ましてや人の手入れすらないような程荒廃としたものだった。ならば、少なくとも1カ月以上畑の主は不在だったと推測できる。家畜の影もなく、畑同様に人の手が入った気配はない。
そこまで思い、この村が何かしらの理由によって、住民全員が同時期に移動したとゼノは考えた。村の概容に戦闘の後がないことから、略奪や盗賊の類ではないと思うが、それでもこの生活感のない村は異様だ。
思案にふけるゼノに感化されてか、シズルの眉根は無意識に皺を寄せていた。
しかし、考えすぎはまたこの体の持ち主にどやされると思いあたり、ゼノはその懸念を遮断した。
『とりあえず、アマネ村の距離がわかんねぇから、下手に動けねぇ。最悪、この広大な平地のど真ん中で生き倒れだ』
「それだけは嫌ぁ。――――あ、ねぇあの時乗った馬は?」
『あー、あいつか。そういや怪我したまんま放置だったな』
黒から逃げる際、乗った馬。あの怪我程度ならまだ走れるだろうか。いや、走ってもらわなければ困る。
村の中を行ったり来たりと、さすがにシズルの足はもう限界だ。何か精のつく食料でもあればいいのだが。
『腹減ったな』
シズルの胃は虚しく音を発している。考えてみれば、この世界へ来てから何時間経っただろうか。シズルが公園から空へ突然落とされた時、空は地球と同じく真っ暗だった。それから移動しあの遺跡へ。外へでたらもう日は十分に高く、馬車で約1時間。おまけにその間走りっぱなしである。これで空腹を覚えなければ、体がおかしいと言っても過言ではない。
『……住人がいる様子もねぇから、家には多分なんもねぇだろ。見た感じ市場も近場にはねぇだろうし。こりゃもう餓死だな』
「縁起でもないこと言わないでよ! じゃあもうさっさとアマネ村行かない?」
『そうだな。まぁ最悪5日ぐらい食わなくても生きてるだろ』
「絶対、イヤ」
『俺もだ。……あー、てかお前胃袋小さそうだな。がっつり食いてぇけど、なんかすぐ腹いっぱいになりそう。ぜってぇ欲求不満だ俺』
「それは、もう何とも言えないわ……」
とぼとぼと重い足取りで村を歩く。正直、あそこには死体が結構な近さでいたので、離れられてシズルは胸をなでおろした。
そこまで遠くも無いが近くも無い位置に、馬はいた。しかし、その体は未だ横たわっており、さらにその動きは止まっていた。
嫌な予感に内心汗をたらす2人は、少し小走りに近寄り、愕然とそこに跪いた。
「うっそぉ。もしかして、死んでんの?」
馬は後ろ脚からに少量の血を流し、絶命していた。
『あの野郎、ナイフに毒つけてやがったな。……お前あの時よく殺されなかったな』
深々と突き刺さったナイフを見て、ゼノは不思議に感じる。本当に、理解できない男だ。とりあえず、ゼノの記憶に関することを知っているということから、普通の人間ではないこととはわかったが、黒の目的と言うものは皆目見当がつかなかった。
『シズル、ちょっとそのナイフ抜け』
「え? 嫌よそんなの!」
即座に嫌そうな顔をして否定するシズルにため息がこぼれる。
『そう言うと思ったぜ。代われ、俺がやる』
「あんたと代わっても感触は結局感じるんだから、意味ないわよ」
『それでもまだ自分の意志じゃないんだからまだましだろうが』
その言葉に、「それでも嫌なものは嫌」と返すが、しぶしぶシズルはゼノに体を明け渡す。
ゼノは難しい顔をしながら、怯えるシズルの声をバックに馬の脚から黒いナイフを抜いた。その形に、シズルが声を上げる。
『なんか、それクナイっぽい』
「くない?」
『私の国のずっと昔いたっていう、忍者って暗殺者が使う武器。あの人見かけ黒いし、なんか忍者に似てるなーって思ってたんだよね』
馬の血のついたその“クナイ”と呼ばれた小さなナイフを見つめる。持ち手には滑り止めと思われる布が巻かれ、その先は人差し指一本通せそうな丸い穴がついている。刃の方は細長で、先端は鋭利で両刃。ゼノは刃の面を指で何度かはじく。固い音がし、素材が鉄であることを知った。
「こんな武器は見たことねぇな。多分顔つきからこの国の人間だとは思うが、独特の武器からして、どっかの特殊な民族の出かもな」
あの男の情報が欲しい。しかし、これではあまりにも素材が少ない上に知識がない。シズルと共にこの世界へ来た2人の人間の事も情報が欲しいし、ゼノがいた遺跡についても知りたい。
ゼノは無意識に舌打ちをこぼす。知りたいことが多すぎて、アンと別れたことを早くも後悔してしまったのだ。無理やりにでもついていくか引きとめておけばよかった。
しかし、もうすでに遅く、アンの姿はダズと共にもう影も形も無い。これから捜しに行くなど不可能だ。ならば、新しい人間に聞いた方が早い。
なおさらこの馬の命が尽きたことを惜しいと感じた。同時に黒に対する苛立ちが募る。
「とりあえず、この“クナイ”って奴は黒の唯一の手がかりだ。失くすなよ」
『じゃあ、スカートにポケット着いてるから、そこに入れて。変なとこ触ったらぶっ飛ばすわよ』
「てめぇみてぇなガキにゃ、興味なんてねぇよアホ」
かなり嫌そうに顔を歪め、妙に悔しいがよこしまな気持など一切ない様だ。ボロボロになった紺色のスカートを触る。あちらの服などに面識がないゼノは、暫くチャック付近に着いてある小さなポケットに気付くのに時間がかかったが、ようやく見つけると、その中に別のものが入っていることに気付く。
『あ、そう言えば、ダズって人に貰った包帯もそこに入れてたわ』
「ちょうどいい。少しクナイに巻きつけるか。毒もあるし、生身じゃ危ねぇ」
『でも腕に巻けって言ってたわよ? 長さ足りる?』
「こんだけの厚さがあんだ。大丈夫だろ」
ある程度の長さをクナイで切り取り、刃の全体をわずかに黄色が混じった包帯で巻きつけた。そして改めてクナイをポケットの中に収めた。
ゼノは馬の死体の前に胡坐を掻き、包帯の端を口で挟んで、肩に巻きつけて行く。
『ちょっと、足閉じて』
「うるせぇな、誰も見やしねぇよ。それにしても汚ねぇ包帯だな」
徐々に蔓の刺青の入った肩、二の腕を包帯で覆い隠していく。しかし、片手ではやはりやり辛く、所々ではあるが褐色の肌が白い包帯から見え隠れしていた。
『どうする? 歩いていく?』
目の前にいる馬は動きそうにない。ならばそうするしか方法はないだろう。
しかし、それはかなりきついものがある。この平地に果実が実るような木はないだろうし、ましてや木だけでなく植物さえあまり見当たらないのだ。あったとしても食物になりそうにない背の低い植物のみ。野生動物すら一度もお目にかかれていない。
と、そこでシズルが思いあたったように、脳の中で何気なしに呟いた。
『ねぇゼノ。あんた、この馬に乗り移れないの?』
「……あぁ?」
思わず声を上げたのは無理も無い。そんなこと思いもしなかったのだ。すると、シズルは続けてこう言った。
『だってさ、一応この馬も“入れ物”になるんじゃない? あんたの言ってた五体満足の条件もそろってるし、死んじゃってるから魂もないってことだから、弾かれることもないでしょ?』
「まぁ、確かに、考え的にはあってるかもな……」
『でしょ? ちょっと死体って言うのもなんか怖いし、この馬に悪いかもしれないけど、試してみる価値はあるんじゃない?』
なかなかいいところに目をつける。ゼノは何秒も考えずに、返事を返した。
「ものは試しだ。やってみっか。とりあえず、やってみて俺の意識が消えたら成功だ。後は、この死体がちゃんと動くかどうかだな。ちゃんと動いたら、特別に俺がアマネ村とやらに運んでいってやるよ」
『期待してるわ』
ニヤリと笑うゼノに、シズルも同じ調子で言葉を返す。
ようやく包帯は掌へと到達し、不自由にならない程度に指にも巻きつけた。まるで測られたかのように、包帯の長さはちょうどぴったりに無くなった。最後にほどけないようしっかりと包帯の始めと終わりを結び、ゼノは右腕を大きく回す。伸縮性が良いようで、引き締められた感覚さえ慣れれば、動きに支障は出なさそうだ。
「うし、じゃあやるか」
さっそく、ゼノは右手を馬の体に翳して意識を集中させた。そして、瞼を閉じ視界が0になったところで、ドクンとシズルの体から衝撃が響く。
そろりと瞼を上げたのは、表に出てきたシズルだった。
「成功、かな? ゼノー、どう?」
恐る恐る馬の死体を何度か軽く叩く。すると、ピクリと足の筋肉が動いたのを視認し、シズルは立ち上がりその場を2歩程離れた。
足の筋肉がまるで痙攣しているように細かに動いた後、その四肢が徐々に動きを表す。うまく動かせないのか、何度か確かめるように片方ずつ足を小さく動かし、そしてようやく横たわる体を起きあがらせようと動き始めた。
順調な体の動きに、シズルは期待した面持ちで馬を見つめた。
そして、3分ほどの格闘の末、ようやく本来あるべき位置へと体を置きあがらせた。ゼノが入った馬は一つ低く嘶き、前脚で確かめるように砂を掻き蹄を鳴らす。頭を一度大きく振り鬣をなびかせた後、ようやくまっすぐシズルを見据えた。
それがもう大丈夫だという合図だと察し、シズルは嬉々として近寄った。
「よかった! 成功みたいね。これでようやくアマネ村に行けるわ」
安心したように優しい手つきでゼノの鬣をなでるシズルの頭に、小さな声が聞きとれた。
『――――……』
最初こそ、それは虫の羽音のように微弱なものだったが、徐々に音量を増していき、やがて普段聞きなれた男の声となって頭の中に届いた。
『シズル』
「え? 嘘、ゼノ?」
『おう。やっぱやればできるもんだな』
「あんた、この状態で私と会話できたの?」
ゼノに向かって喋るが、馬の口元からはなにも音が聞こえない。死んでいるからか呼吸すらもないようだ。そして、やはりゼノの声がシズルの中にいる時同様に、頭の中に響いている声と同じだとわかる。所詮、テレパシーというものだろう。
『意識してやったら、なんでもできるみたいだな』
「……あんたとの、この関係の限界がわからないわ」
『俺もわかんねぇ。まぁ、まだまだ可能性はあるみたいだな』
「そうだといいけど、なんか混乱しそう。――――ところで、今回はちゃんと生き物だから、目とか見れる?」
目の前で片手を振って見せる、まるで頷くようにゼノは頭を動かした。
『大丈夫みたいだ。耳も聞こえる。だが、痛覚はねぇみてぇだ。後ろ脚の痛みが感じられねぇ』
そう言いながら、少しシズルの周りを軽く走ってみせる。体にまだ慣れていないだろうか、馬特有のリズムの良い音ではないが、蹄の軽快な音は耳に心地良い。
『体を動かすには不便はねぇからいいけどな。――――あとは、たぶん味覚もねぇだろうな。それから空腹も感じねぇ。“生きてる”っつう実感できる感覚は、特に感じねぇみてぇだ』
「やっぱり、死んじゃってるから……」
『まぁ、そういう感覚なんてのは、お前の体に戻ればいくらでも感じられる。あと、問題なのは“生きる”活動、つまり生物としての3大欲求がねぇ。食欲・性欲・睡眠欲。まぁ欲求じゃなくとも臓器の活動が止まっちまってる、この馬の未来が分かるか?』
ずいと馬の顔を近づけられ、思わず身を引いたシズルが応える。
「ふ、不死身とか?」
『まぁある意味そうだが、ちげぇ。“腐る”んだよ、この体は』
「げ、ゾンビ」
途端嫌な顔になり、顔を顰める。腐るとなれば、思いつくのはやはり異臭、そして死体にたかる虫。動物死体には嫌なイメージしかない。
『これが、生きているお前の体と、死んでる体の大きな違いで、欠点だ。お前の体はすぐに疲れて動きが鈍くなる。だが、管理をしっかりすればきちんと動くし肉体の力を強めることもできる』
「でも死体は自由に動く代わりに、期限があるのね」
『そうだ。疲れを知らないし、痛覚もないこの体はある意味不死身だ。槍で差されても五体満足のままだったら、恐らく動かせるだろうな。だが代わりに、永遠には動かないし、生きていた頃の筋力などで力量が変わる。これが、この体の欠点だな』
「それに死体なんてそんな、多く見かけることなんてできないしね」
『目も見えて耳も聞こえる。かなり好条件なんだが、いざとなった時お前から抜けるためには、やっぱ人形とかそういうお手軽な奴しかないんだろうな』
重いため息を吐き、項垂れるように頭を垂らすゼノ。無理も無い、人形や土でできた簡易入れ物はゼノにとって危険でしかない。五感をフルに使えるような入れ物があれば、本当に楽なのだが。
「アマネ村で人形あったらそれもらっちゃおうか」
『いいのがあったらな。できれば俺に似合う男前な人形で頼む』
「えー、かわいいのにしようよ。私がその人形に癒されたい」
『はっ、中身がこの俺でも癒されるっつうなら、いくらでも癒してやるよ』
「遠慮しとくわ」
人のいない小さな村で、シズルは馬となったゼノの頭をなでる。嫌そうにゼノは首を振るが、それをおかしそうにシズルは笑った。
日は傾き影が伸び始めた。アマネ村にはいつ頃つくだろうかと、まだ出発すらしていないにも関わらずシズルは思案する。果たしてその村に黒の言う“記憶の欠片”とは、どのような形で存在するのだろうか。
ゼノの記憶が戻ることは、シズルにとってもプラスになることだ。その情報は決してマイナスにはならないだろう。
ゼノにとって、目的を達成するために、そしてシズルという何も知らない人間と行動を共にするため、記憶が戻るということはとても重大なことだ。しかし、彼女にとっては小さな事柄にすぎない。シズルの瞳には、ゼノと出会った時も、アンと話していた時も、黒と対峙していた時も、いつだって弟の安否を気にかける心配の揺らめきがあった。
アマネ村という行くべき道が分かっても、その気持ちは変わらない。
この世界にいる唯一の親族である従弟と、その従弟の世界を広げてくれるであろう少年、そして日本にいる恋人と両親をいつだって気にかけていた。もとの世界に帰りたいという気持ちは時を追うにつれて募るばかり。
しかし、あの精神世界でゼノに「泣くな」と言われたからには、泣いているばかりではいけない。この世界を見つめ、そして帰れる手立てを、辛抱強く探すしかないのだ。
『じゃあ、行くか』
蹄を鳴らしてゼノが言う。どうやら、四足歩行の体に慣れてきたようだ。乗れと頭を動かし、体を横に向ける。しかし、そこでシズルは申し訳なさそうに苦笑を洩らした。
「えっと……、ごめん。馬の乗り方わかんない」
『……先が思いやられるな』
ため息をこぼす彼は、この殊勝な彼女の心を気に留め、彼女とのこの世界での未来に目を伏せた。
≪第4話 END≫