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スカイラフター  作者: 中条 眞
第1章
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第3話


 昼食を食べ終えたケイトは、客室でひたすらペンを持つ手を動かしていた。白い掌ぐらいの大きさの紙に描かれるのは、ケイトと共にこの世界へと落ちたと思われる2人の人物の顔だった。

 ケイトの記憶力だけで描かれた2人の似顔絵は、まさにシズルとアキラ生き写しのような物だった。付き合いの浅いアキラを描くのは、少々不安に思うこともあったが、恐らくそのままそっくりであろう自身の腕に安堵の息を吐いた。

 「ケイトさん、準備はよろしいですか?」

 ノックと共にドア越しに、イヴァの声がかけられてケイトは紙を手に席を立った。

 「あぁ、待たせたな」

 ドアを開くと、顔をほころばせたイヴァ。恐らく、ケイトの口から発せられる懐かしい母国の言葉に嬉しさを隠しきれないのだろう。

 「それでは、行きましょうか」

 彼女の服と同じ色と素材でできた布を、頭からかぶりイヴァはケイトを連れて裏口へ行く。一枚布を被った彼女は、テレビでよく見るインド人その物だった。しかし、インド人とは全く違うサラサという民族に属しているのだから、どこか不思議な思いを感じた。

 「それでは、気をつけて行ってきてくださいね」

 ゴードンの笑みを携えた言葉と、小さなキックリがパタパタとやってくる。

 「ケイトさん、イヴァさん。行ってらっしゃい」

 「あぁ」

 「イッテキマス」

 2人が教会から出たのは、ケイトの見繕う服を手に入れるためだ。彼の今の服装は、あちらの世界から来ていた、白のポロシャツとズボンだ。そこまでこの国では違和感はないが、素材等などこの国にはあまりないものも含まれている。これでは目立ってしまうと考え、早いうちに服を一式買おうと考えたのだ。

 それを提案したのは、昼食前のリレイドとの出来事の前に、ケイトが接触したと聞いたキックリだ。リレイドに少なからず目をつけられたケイトが、これ以上悪目立ちをしないようにという、キックリの配慮である。

 そこで、キックリよりも比較的目立つことのないイヴァと共に、ゴードンが町に行きなさいと言ったのが始まりである。本来ならばゴードンが行けば一番安全なのだが、教会を空けるわけにはいかないし、老体である彼に負担はかけられないと言う3人の申し出があったため止めにした。

 2人で町へと続く道を歩く。教会は森のはずれにあるので、森を抜けるのに時間はかからなかった。すでに眼前に見え始めた町の入り口の門には知らない文字が綴られていた。恐らく、この町の名前である“フィリク”の文字が書かれているのだろう。

 町の中は活気にあふれていた。ガヤガヤと人々の忙しない働きぶりと生き生きといた表情に、ケイトは思わずあちらこちらに目を移させた。

 人通りの多さに、イヴァを常に視界に入れなくてははぐれてしまう。しかし、この市場はとても陽気なもので珍しい物を売っているところも多く、思わず歩幅がせまくなる。

 「服を買って、着替えたらいろいろ見て回りましょうね」

 「あぁ」

 「服屋さんは、こちらです」

 すれ違う人々は、皆金色などの明るい髪色をしていた。それにそろって顔の彫りが深く、皆一様に肌の色は白い。ゴードンもそうだったが、この町にいるのは見る限り全員ヨーロッパ系統の人間のようだ。

 それほど時間をかけずに、立ち並ぶ一つの店に到着する。店の棚に並べられた様々な服を見て、イヴァがケイトに問いかける。

 「ケイトさんは、服はどのようなものがよろしいですか?」

 「あまり派手でないものを。できれば、黒い服がいいな」

 ケイトの私服はモノクロが多い。あまりにも地味な服ばかりを持っていて、身内からはもっと明るい服を着なさいとよく言われたものだ。

 「ケイトさんの瞳と髪は黒なので、きっと似合うでしょうね」

 そう言う彼女の顔には嬉しさがにじみ出ている。「嬉しそうだな」と聞けば、一度きょとんとした顔になって、次いで破顔する。

 「嬉しいですよ。だって、私同年代の方とこうして話せるなんて久しぶりですから。それに、ケイトさんは私の言葉を話してくれて、昔を思い出します」

 昼食の時、ケイトが語学の違う彼ら全員と同時に会話ができる、という事実に2人は驚いていた。しかし、この奇妙な出来事でも、2人は笑顔で受け止めてくれた。むしろ、そのことをとても嬉しいと感じてくれそうだ。母国の言葉を聞けて嬉しそうに笑うイヴァを見て、ゴードンとキックリはケイトに礼さえ述べたのだ。ケイト自身も、イヴァの嬉しそうな表情を見て、この不思議な体験も悪くないと思えた。

 「あ、これなんてどうでしょうか」

 イヴァは一着の服を取り上げて、ケイトの前で広げて見せた。

 その黒い服は、地球の服と対して変わらない物だった。半袖で前をチャックで開き、裾が長く腰辺りにはベルトを締める部分もある。手触りもいいし動きやすそうだ。中に長袖のインナーを切れば、普通に過ごしやすい服だろう。

 もともと、ケイトにはファッションに対しての概念が欠けている。だから、イヴァが「どうですか?」と問いのに対し、二つ返事で返した。

 同じような素材のズボンと、ここでは皆ブーツを着用しているようで、合わせた黒いブーツにベルト、それから灰色のインナーを一式、店主であろう男に渡す。

 「1400リルだ」

 ぶっきらぼうに答えた店主に、一枚の紙幣と4枚の貨幣をイヴァが手渡した。店主はまるでひったくるように金をもらいうけたのに対し、ケイトは顔を顰めるがイヴァは気にすることなくケイトを見た。

 「この国の通貨はリルと言います。ケイトさんの世界ではどうでしたか?」

 「たくさんあるが、俺の国では円だったな」

 「エンですか。1エンとか、200エンって言うんですね。なんだか不思議です」

 笑みを漏らすイヴァに、ケイトもまた笑みが浮かんだ。

 服屋を後にして、町の中心にある広場へと訪れる。その広場は、北に領主の大きな屋敷を構え、南には先程いた市場、東西に市場に無い民宿や住宅があるらしい。

 広場には公衆トイレのような簡易手洗い所があるそうで、そこでケイトは手早く着替えた。目立つらしいこの服をいち早く着替えたかったのだ。元の服は布袋に入れ肩から下げた。

 「あ、ケイトさん。やっぱり似合いますね」

 全身を黒い服で身に包んだケイトを、イヴァは両手を合わせて嬉しそうに笑った。ブーツは履かないので、少しばかり違和感を覚えたが、慣れれば大丈夫そうだ。

 「……目立つか?」

 自分の体を見てからイヴァに問うと、イヴァは少し首をかしげた。次いで困ったように眉尻を下げる。

 「東の方と同じような顔立ちなので、この町では目立ちますね。この町の領主様であるケルン様をはじめ、この町の方はあまり外国の方がお好きじゃありません。ですから、完全に目立たないということは無理だと思います」

 それでも、先程までよりは大丈夫だと言うイヴァに、少しばかり安心する。

 「やはり、その髪と肌は目立ちますね」

 町に入った時から、2人は人々の視線を受けていた。その中には、リレイドのような嫌悪を含まれたものもあり、ケイトは不快に思っていた。そのような視線を受けないようにするためには、やはりこの見かけを隠さなければならないらしい。

 「私の場合は隠しきれませんが、ケイトさんは何か上から羽織るようなものさえあれば大丈夫でしょう。そうだ! 先程の服屋さんに、ローブがありました。それを買ってきますね」

 いい考えだと表情を明るくするイヴァに、ケイトは申し訳なさそうに続ける。

 「いや、ゴードンさんのお金だし、これ以上迷惑は」

 「大丈夫です。ゴードンさんは好きなだけ買えばいいとおっしゃってくださいましたから」

 大丈夫だと一点張りするイヴァに根負けし、ケイトは了承した。

 「悪いな」

 「いえいえ。ケイトさんは、こちらにいますか? そろそろ、お友達のことを聞き込みしたいのではないのでしょうか?」

 イヴァの言うとおり、2人のことをそろそろ聞きたい。服を買う目的ともう一つ、ケイトは2人の情報を聞き出そうとこの町へ来たのである。

 広場には多くの人々がいる。これならば、尋ねる人数には困らないだろう。

 「悪い。迷惑をかける」

 「平気です。……何か、いい情報が得られるといいですね」

 「あぁ」

 「それでは、すぐに戻ってきます。ケイトさんは、この広場から出ないでくださいね」

 「わかってる」

 それでは、と言い市場へと駆けて行くイヴァの背を見て、ケイトは布袋から2枚の紙を取り出した。

 「すみません。この人物を探してるんですけど、見覚えはありませんか?」

 目の前を横切った中年の男性に声をかける。しかし、彼は紙をちらりと一瞥しただけで、足を止めようともせずに冷たく言い放った。

 「知らねぇな」

 男の目は、昼間見たリレイドの瞳と同じようなものだった。その男だけではない。ケイトの周りは、他所者に対する不信感をありありと表した目でいっぱいだった。しかし、この目線に耐えなければ、この町や他の場所でも過ごすことはできないだろう。人間、図太くなってしまえばたくましく生きれるものだ。

 気を取り直して、ケイトは近くを通る人に声をかけた。

 それから、何人かの人々に聞き込みをしたが、誰もが首を横に振り、ケイトの期待に沿うような言葉は何一つ聞けなかった。

 広場をあちこち彷徨い、領主の屋敷へと続く道まで来た。広場から繋がる道の先には、大きな門の前に2人の衛兵を付けた屋敷がある。東西にある住宅の一軒とは全くの別クラスの大きさに、その領主の暮らしがどれだけ裕福なのかということが理解できた。

 あまりにも市場や住宅の雰囲気とは違う煌びやかな印象に、我知らずケイトはため息をこぼした。

 「ねぇあんた」

 後ろから声をかけられ、振り向くとそこにいたのは体躯のいい中年の婦人がいた。

 体を婦人のほうに向けると、婦人はケイトを見据えて極めて真剣な表情で言う。

 「あんた、さっきあのサラサの子と一緒にいたけど、もしかしてゴードンさんの所に厄介になってるのかい?」

 「……そうだ」

 「ゴードンさんは元気かい?」

 「俺が見る限り、元気そうだな」

 その言葉に、婦人は途端に顔をほころばせた。先程の真剣さを消した婦人は、嬉しそうに言う。 

 「そうかい。そりゃあ良かった」

 目尻を下げ破顔する婦人を見て、婦人が異国民であるケイトに対してそこまで疑念を持っていないということを感じた。現に、彼女は不自然に開いていたケイトとの間を狭め、こちらに近寄り笑みを浮かべている。

 「1年前から教会へはとんと行ってなくてね。町でゴードンさんを見かけることも無いから、心配していたのさ」

 ケイトは婦人に対して特に言葉を返さなかった。しかし、婦人はゴードンの現状を聞けて嬉しいのか、口は閉じずに次の言葉を言う。

 「それにしても、ゴードンさんはまた拾って来たんだね。全く、人がいいにもほどがあるよ」

 苦笑を浮かべた婦人。彼女の笑顔からは、ゴードンに対する信頼の気持ちが浮かび上がっている。

 「また拾ってきた、っていうのは、キックリのことか?」

 そう問えば、婦人の目が大きく見開かれた。

 「え? あ、あぁキックリね」

 歯切れの悪い声で、婦人は驚きを隠せないように瞠目したまま、ケイトを見る。その視線にケイトは顔を顰めた。

 「……なんだ?」

 「東には、キックリみたいな奴が多いのかい?」

 「は?」

 「いや、あまりにも普通だから驚いたんだよ」

 どうやら、畏怖の対象であるキックリの存在を、ケイトが別段代わり映えもせずに名を呼んだことに婦人は驚いたようだ。

 婦人はケイトを下から上まで品定めをするような目でじっくりと見て、「へぇー」やら「ふぅーん」やら意味深な言葉をひたすら呟いた。

 そして、ケイトがその不快さにしびれがきれそうになった時ようやく、婦人は上目にケイトを見てニヤリと笑った。

 「あんた、面白いね」

 その言葉に、ケイトの眉がピクリと動かされ、踵を返した。

 「あぁ、ちょっと待ちなさいって! 失礼なこと言って悪かったよ。違うんだ、今のは褒め言葉だよ!」

 あわてた様子でケイトの肩を掴んだ婦人に、顔を顰めたケイトが振り向く。ひきつった笑みの婦人は口早に続けた。

 「ははは、悪気はないんだよ。ただね、この町でそんなこと言う人間なんていないから、あんたみたいな人がいたから、あの子があんなに嬉しそうだったんだなって」

 「あの子……イヴァのことか?」

 婦人は頷いて、肩から手を話した。

 「そうさ。それにしても、あんた気に入ったよ。どうだい、立ち話もなんだし、あたしの店に来ないかい? 市街地で酒屋を開いてるんだ」

 親指を背後にある広場の東の道を示す。しかし、ケイトは行く気などない。イヴァをここで待っているという理由もあるし、あまり婦人を信用していないためだ。

 「遅れたけど、あたしはマーサっていうんだ。あんたは?」

 「ケイトだ。……悪いが、店に行くのは遠慮しておく。ゴードンさんのことを聞きたいなら、教会へ来ればいいだろ」

 「そうしたいのは山々なんだけどね。サラサの子もいるしキックリもいるし、町の人間は教会に近付けないんだよ」

 怪しい異国民には近づけない。暗に含まれているであろうその言葉が、ケイトの機嫌を一気に下降させる。もう話したくない、という意志表現のためにもう一度踵を返した瞬間、ケイト達がいる道の先にある門が、重々しく開かれた。

 「ケルン様が来る。あんた、早く隠れな!」

 途端に焦る婦人、もといマーサに手を引かれ、近場にある広場の茂みに連れ込まれる。頭を無理やり茂みの中へ入れられ、抗議の目を彼女に投げかけるが、マーサは極めて真剣な声音で早口に言う。

 「ケルン様は異国民を毛嫌いされているんだ。あんたが道の傍にいるだけで、衛兵があんたを捕えに来るよ。それでもいいなら道へ出るがいいさ」

 彼女の言うことが真実であることを、様子をみて理解した。茂みの隙間から見える道には、数人の衛兵を従えた装飾品をつけた馬に乗る男が見える。恐らく、その明らかに趣味が悪いと言えそうな煌びやかな服装を着ている若い男がケルンだろう。

 金の髪を風になびかせ、馬の上で堂々と胸を張る姿は雄々しいものを感じる。しかし、彼の端正な顔に似合わない趣味の悪い服装と、下々を見下すようなその顎を逸らす姿は、ケイトに嫌悪の印象を持たせた。

 「全く、あんな変な服を着て。あれがあたし等の領主様だって言うのが情けなく思うよ」

 ため息とともに呟かれた小さな声。どうやら、ケイトの思っていたことはマーサをはじめとしたこの町の多くの者が同様に感じていたらしい。

 すると、道から出てきたもう一人の男に、ケイトは目を見開く。

 「あれは……」

 「なんだい、リレイド大佐を知っているのかい?」

 馬に乗るケルンの横に立っているのは、昼間会ったばかりのリレイドだった。遠目で何を話しているかはわからないが、リレイドとケルンは難しい顔をして話しこんでいる。

 「昼間、教会へゴードンさんを訪ねに来た」

 「あぁ、またかい」

 納得したように、しかし呆れも含んだ声音に慧斗はマーサを見上げた。

 「そんなに何度も来ているのか?」

 「もう2か月近くこの町にいるよ。いまじゃ、あたしの店の常連さ。全く、大佐も諦めないね。いや、頑固なのは国王様か」

 「国王?」

 「そうか、あんたまだ何にも聞かされていないんだね。まぁ、ゴードンさんが自分の経歴について豪語するような人じゃないけどさ」

 話を聞いている限り、どうやらゴードンはただの神父という職だけではないようだ。

 「リレイド大佐は、国王の命令でゴードンさんに会ってるんだよ。詳しいことは知らないけどね」

 「なんでゴードンさんを?」

 「あの人はね、昔は現国王であるビヴァルス様の教育係だったのさ」

 その言葉に、ケイトは目を丸くした。国王に仕えていたとなると、地位もそれなりに高いだろう。しかし、彼の瞳からはただ慈愛だけがあふれており、常にケイトを含んだキックリ達には優しく紳士的だった。その様子が、教育係というケイトの固いイメージにそぐわなく、純粋に驚いたのだ。

 「まだ若いうちからビヴァルス様の教育をしてね。ビヴァルス様が無事に王位にたって、お次は王女の教育係さ。そのまま国王の相談係かなんかになるかと誰もが思ってたけどね、どういうわけかこの小さい町に移り住んできたんだよ。あのときは驚いたね。ゴードンさんの人柄の良さは国の辺境であるフィリクにも届いていたけど、この町に来た時はなにかしたんじゃないのかって焦ったものさ」 

 ケルン一行はそのまま中心の噴水を迂回している。どうやら南の道へと行くようだ。そろそろ大丈夫だと思い、ケイトは屈めていた身を立ち上がらせる。

 「それからすぐに森のはずれに教会をたててね。以来、あそこに住んでいるのさ。それから何度か王の使いが来て、ゴードンさんは城と町を行ったり来たりしてたもんだよ」

 何度も、というあたりゴードンは国王から深い信頼を得ているようだ。そんなすごい人にキックリをはじめとしたイヴァとケイトは世話になっているのかと思うと、どこか不思議で、何故か誇らしくも思えた。

 「それで、キックリを拾って、ゴードンさんはキックリを育てるためにあの教会から離れなくなったのさ。あの人かもわからない生物のために、国王から与えられる富やら名誉やらを断り続けているんだ。全く、素晴らしい方だよ」

 そこで、ケイトはマーサがケイトと同じようにキックリの名を呼んでいることに気付いた。彼女の瞳からは、キックリに対する畏怖の感情はあまり見られない。

 「あんたは、あまりキックリに対して気味悪がったりしていないんだな」

 その言葉に、マーサが目を丸くした。どうやら、その言葉を言われるとは思ってもみなかったらしい。

 「あー」と声を洩らし、後頭部を掻く。目線を下げ苦笑を洩らしているあたり、どうやら図星のようだ。

 「あたしの歳ぐらいの連中は、あの子が赤ん坊のころからゴードンさんと一緒にいるところを見ているからね。領主に目をつけられないよう見かけだけは毛嫌いしているようにしてるけど、内心そうでもないんだよ」

 「あんた何歳だ?」

 「……女性に歳聞くときは、もっと恥じらいと尊敬の念を持って訊くってことを肝に銘じときな」

 そのまま不機嫌に顔を背けられ、ケイトは小さく噴出して「すまない」と謝罪した。結局年齢を聞けずじまいなまま、マーサの話は続けられた。

 「まぁ、若い連中とは堅物な奴らは、キックリの存在を認めてないけどね。あのケルン様もそうさ。たぶん、今からリレイド大佐と一緒に教会へ行くんだろうね」

 「……またか?」

 ケルンは置いといて、リレイドが教会を訪れてからそこまで時間は経っていない。どれだけしつこく、そしてそのしつこさを要求している国王の命令とは一体何なのだろうか。

 「リレイド大佐は王の命令に従ってくれないゴードンさんにしびれをきらしてるみたいでね。だから、あまりよく思っていないケルン様と手を組んだんじゃないのか? ケルン様はケルン様で、嫌いな異国民と暮らしているゴードンさんを町から追い出したいのさ。おまけに年配の市民の信頼は、全部ゴードンさんにいっている。領主であるケルン様にとって、ゴードンさんは邪魔でしかないんだよ」

 そこまで聞いて、ケイトのケルンに対する関心は地の底まで落ちて行った。まだ彼のことを知らないままで嫌ってしまうのは、塔子が聞いたら静かに諭されると思うが、あんなにもいい人であるゴードンを悪く思われるのは気分が悪かった。

 その思いが顔に出ていたらしく、マーサも苦笑を洩らして「あたしも、ケルン様はあんまり好きじゃないよ」とこぼした。

 「若い連中は領主の影響をもろに受けてね、今じゃこのフィリクは異国民にはかなり住みづらい町になっちまった。あたし等も、キックリ達を毛嫌いしなきゃ領主の罰がやってくる。全く、独裁者を張りたいんだったら他所へ行って欲しいよ」

 なんとも横暴な領主だ。これでは、あまり市民に好かれていないというマーサの気持ちも当たり前と感じてしまうだろう。

 「おかげで、教会へ行ってゴードンさんに会いに行くこともできない」

 ため息をこぼすマーサ。やはり、彼女は他の市民よりも異国民に対する差別の気持ちが薄いらしい。フィリクへ来てからというものの、差別の目線しか与えられなかったケイトは、マーサの当初感じていた警戒の念が無くなっていることに気付いた。

 「それにしても、あんたいいタイミングでこの広場に来たね」

 ケルン一行をもう一度見ると、すでにその馬車は姿を消していた。教会へと向かうべく、南の大通りを馬で優雅に進んでいるのだろう。

 「リレイド大佐とケルン様のコンビだから、きっとあんたに対するバッシングはかなりひどいものになっていただろうね。鉢合わせせずになってよかったじゃないか」

 「あぁ、そうだ……な」

 不自然に途切れた言葉を見兼ねて、マーサがケイトの顔を覗き込む。その様子は、まるでなにか重大なことに気付いたように静かに瞠目していた。

 「どうしたんだい?」

 「イヴァが……」

 「あぁ、そういえば、あのサラサの子はどこにいるんだい? まぁ、あんたが一人だったからあたしも声をかけたんだけど……」

 「イヴァは今、南の大通りに服を買いに行っているんだ」

 マーサの瞳が大きく開く。次いで、口早にケルンについて告げた。

 「ケルン様は異国民に容赦ないよ! 無情に鞭を振るう奴さ。ゴードンさんが一緒だったら平気だけど、今は一人なんだろう?」

 言い終えるか終えないかの合間で、ケイトは勢いよく駆けだした。その足が行く先は、先程ケルン達が向かった南の道。

 「ケイト!」

 後ろでマーサが名を叫んでいるが、構わずに走った。

 服屋は市場の中でも大通りに面している場所にあった。そのままイヴァがそこにいれば、ケルンとの衝突は避けられないだろう。

 ケイトは南の大通りへと入り、見つけた路地に入った。大通りを走って自分がケルン達と鉢合わせては意味がない。ならば、先回りをしてイヴァを見つけなければならない。

 路地を走り、目の前に川が現れた。位置からして、どうやら大通りと平行にこの川は流れているようだ。

 建物で日が差さない暗い川沿いを、ケイトは建物の隙間から見える明るい大通りを見ながら走る。人は全くいない。たまにすれ違う人は、緊迫した表情で駆けるケイトを訝しげに見ていた。

 そしてケイトの目に、路地にあふれかえるほどの人だかりが飛び込んできた。その路地の一つ手前で、ケイトは曲がる。ここにも人はいるが、通れなさそうなほどでもない。

 人をかき分け、ケイトは漸く大通りに顔を出す。

 しかし、すでに遅かった。

 「イヴァ……!」

 心痛な表情に顔を歪め、まだ先にいる彼女の名を呟いた。

 大通りの中心に、イヴァの姿はいた。彼女の周りは、そこだけ人がいなくぽっかりと空間があいている。そして、膝を折り、両手を地面につけ頭を下げる彼女の目の前には、馬にまたがったケルンの姿が見えた。

 「モ、申シ訳アリマセン」

 震えるイヴァの声は、人々のざわめき声に埋もれてケイトの耳には届かなかった。しかし、この現状で彼女がケルンに対して謝っているということはわかる。

 それに対して、ケルンは鞭を目の前で何度も見せつけるように引っ張っている。

 ケイトはすぐさま、隣にいる若い男に声を荒げて尋ねた。

 「おい、何が起きている」

 「え? あんた、東の」

 「俺が質問しているんだ、答えろ。何が起きた。彼女が領主に何をしたんだ」

 若い男の異国民に対する視線などものともせずに、ケイトは有無も言わせない剣幕と囃したてる言葉で若い男の目線を下ろさせた。

 「え、あ」

 「さっさと答えろ」

 胸倉を掴み上げれば、自分より背の低い東の異国民に対して、若い男の身がすくんだ。

 「わ、わかんねぇよ。見てねぇから。で、でも、話聞いてると、あのサラサがケルン様の横を通り過ぎて、それでケルン様がお怒りになって……」

 ケイトは舌打ちをこぼした。たかが横切っただけという理由で、彼女に自分の武器を見せつけて謝罪させているのか。なんて反吐がでるような話なんだ。ケイトは内心、領主と恐らく同じようなことを思っているリレイドと衛兵、そして止めようともしないこの町の人々に悪態を吐く。

 とその時、イヴァの悲鳴が、雑踏のざわめきの中ケイトの耳に入った。

 見れば、ケルンがイヴァに対して鞭を振っているではないか。無意識に、ケイトが奥歯を噛みしめる。

 「オ、オ許シクダサイ……っ!!」

  鞭は大きく振りあげられ、空を切り裂きイヴァの頭をかばう腕へと傷を作る。何度か、イヴァの足元である地面を跳ね、そして時たま彼女の手や肩にあたった。

 ケイトは胸中から湧き起こる、激しい怒りに拳を固く握った。痛いほど握り、そこから今にも血が吹き出るほどだ。

 「くそっ! どけ!」

 前を遮る雑踏たちをかき分け、ケイトがケルン達の前へ飛び出ようとした。しかし――――。

 「ケイト!」

 腕を掴まれ、咄嗟にケイトは振り返った。そこにいたのは、先程話していたばかりのマーサが、肩で息をしながらケイトの腕を掴んでいた。

 「離せ!」

 「駄目だ! あんたまで危険に晒されちまう!」

 「そんなことどうだっていい!」

 「あたしはあんたが気に入ってんだよ! これで罰せさせられてでもしてみろ! 悲しむのはゴードンさんだ!」

 「イヴァの傷を見たら、ゴードンさんはもっと悲しむだろう!!」

 ケイトが身をよじり、マーサの手を振り払おうとした時、しかし彼女のもう片方の手が離さないとばかりに向き合うように肩を掴んだ。

 「いいかい、よく聞きな! あの子が今みたいな仕打ちを受けるのは、もう避けられない運命なんだよ!」

 2人のあたりにいる人々が、イヴァと領主から視線を外し注目する。しかし、彼女は気にもかけずにケイトに言った。

 「あんた、知らないみたいだから言うけどね、サラサはこの町じゃなくても、どの国でもそういう仕打ちを受けるんだよ! サラサはどこへ行っても差別され、忌み嫌われるんだ! どっかの国では奴隷だとか見世物にだってされている」

 『奴隷』『見世物』、その言葉にケイトの目の前が真っ赤に染まった。

 「民族は違うが、彼女はあんた達と同じ人間だろ! どうしてそんな酷いことを――――」

 「違う!!」

 はっきりと言いきったマーサに、ケイトの抵抗がわずかに薄れた。それの逃さなかったマーサが、両手でしっかりとケイトの肩を掴み逃さない。

 「あんたがさっきあたしに言ったように、キックリはもういいんだ。あの子はもう完璧に人とは違う生物だ。それに赤ん坊のころから知っているからもう特別何も思わない。でもね、たった1年やそこらこの町にいたあの子は違うんだよ。あの民族は人間として区分されない。“サラサ”っていう生物としてとらえられているんだよ!」

 彼女の剣幕に、ケイトは口を挟もうとしても防がれた。ケイトが口を開くたびに、発言は許さないとマーサが言葉をかぶせる。

 「サラサはあたしたちの得体のしれない術を使うのさ! “精霊使い”でも“術者”でも使えない術を、あの連中はいとも簡単にやってのける!」

 聞き覚えのない言葉が出てくる。しかし、その言葉の意味を問うことができるほど、ケイトに余裕などない。

 「術? 何を使うって言うんだよ」

 「呪いさ」

 緊迫した表情に、ケイトが目を見開く。同時に何度も反論しようとしていた口が閉じるのを見て、マーサがわずかに両手の力を抜かした。

 「サラサは呪詛を扱う。それは、噂によると人を死に至らす事だってできるそうじゃないか。他にも、呪いの種類は様々だって聞く。でも、どれも人を不幸に陥れる代物だそうじゃないか」

 だから、と彼女は続けた。

 「あたしたちは、あの子の存在を受け入れられないんだよ」

 完全に力の抜けたケイトを見て、マーサは漸くわかってくれたのかと判断し、両手を下ろした。

 「さぁ、わかったらここを離れるよ。大丈夫さ、暫くすればケルン様も飽きる」

 そう言って、ケイトの肩を優しく叩き、路地の道へと促そうとする。しかし、目を伏せたケイトの口から、まるで地を這うような低い声が響き、マーサの動きは止まった。

 「……あんたは、彼女が呪いを使ったところを見たことがあるのか?」

 ケイトは顔を上げない。しかし、その冷え切ったケイトの声音は、マーサと回りにいた2人の会話を聞いていた人々に緊張を走らせた。

 「い、いや見たことはない。ただ、サラサはそういった噂が絶えないんだよ。それに、ラフ教の本にもサラサについての記述が――――」

 「彼女の呪いを受けたという人間が、今までにいたのか?」

 「それは、……知らない、けど」

 伏せられていた黒曜石の瞳が、マーサを射抜いた。その鋭利な烈火のごとく燃え上がる怒りに、マーサのみならず彼の瞳を見た人々は虞を抱く。

 「宗教の本に記されていた? 噂が絶えない? ふざけるな!」

 ケイトの怒号が、彼の付近に響く。マーサの肩が、ビクリと大きく震えた。

 「彼女の話を聞こうともせずに、不名誉な罵倒を浴びさせ今まで彼女と一緒にこの町に住んでいたのか? 彼女がその間、何かしたのか? 今鞭を振るわれている彼女が、この町の人間を不幸にしようと呪いの言葉を口にしたか?」

 凄まじい剣幕に、マーサは後ずさりしながらもわずかに首を横に振った。

 マーサは先程「1年かそこらで」と言った。少なくとも、1年も彼らはイヴァの存在を知っていながらこの町で暮らしていたのだ。なのに、彼らは何も彼女のことを知らない。

 ケイトは知っている。彼女が自分の国の言葉を聞いて涙ぐむほど、故郷を懐かしんでいたことを。自分と同年代のケイトと話をしていて楽しいと感じた彼女を、ケイトは知っている。まだ半日程度しかイヴァと共にいないケイトよりも、彼等はイヴァの事を知らないのだ。

 「サラサという先入観に毒されて、あんた達は俺の世界と同じ普通の女性に壁を作ったんだ。――――彼女の本質を知ろうともせずに、彼女の価値をあんた達が勝手に決めるな!」

 怒鳴り終え、ケイトは身を翻した。もう、止めようとする手は来なかった。

 呆然とする人々を無理やり押しのけて、再度鞭を高く振り上げたケルンの前に、飛び出した。

 「貴様、ケイト!?」

 突如飛び出した人物にリレイドが驚きの声を上げ、手を止めようとしたケルンだが、勢いは止まらずに、ケイトの腕に派手な音を立てて巻きつかれた。凄まじい鞭の痛みに顔を歪めるが、巻きつかれた鞭を掴み思い切り引っ張った。

 「――――なっ!?」

 鞭を掴んでいた両手に引っ張られ大きくバランスを崩したケルンが、馬から無様にも転げ落ちる。同時に、リレイドが俊敏な動きで腰に差していた剣に手をかけ引き抜いた。

 喉元にリレイドの剣がつきつけられる。遅れて、ケルンを助け起こす衛兵以外の3つの剣が、ケイトを囲んだ。

 しかし、ケイトの怒気を孕んだ恐ろしいぐらいに落ち着いた瞳は、静かにリレイドの青い瞳を射抜いている。

 「け、ケイトさん」

 弱り切り呻くイヴァの声がケイトを呼んだ。そのあまりにも弱々しい声音が、彼女の恐怖がいかに強く、そして腕と肩にある血のにじんだ傷がどれだけ痛むかを物語っていた。

 ケイトは目線をリレイドのまま、しかし声音をできる限り優しく、イヴァに向けて言う。

 「悪い、来るのが遅くなった」

 その言葉が、いかにイヴァの心を温かくしたか、彼女の流れ落ちた一筋の涙を見ていないケイトが知る術は無かった。

 ケイトとリレイドの睨み合いが、先程までうるさいほどざわめいていた大通りを一瞬にして静寂に持って行った。重々しい空気の中、響いた声はどちらの者でもなかった。

 「き、貴様! 今、誰に何をしたのかわかっているのか!?」

 その声の主は、乱れた服を衛兵に整えさせ、怒りに震え情けない声を出したのはケルンだった。どうやら、馬から落ちた時に腰を強打したらしく、執拗に腰を片手でさすっていた。

 「この町の領主である俺にしたこと、ただの罰では済ませないぞ!」

 「マ、待ッテクダサイ! 彼ハ――――」

 「黙れ! 黙れ!」

 1人の衛兵が、ケルンの言葉に合わせてケイトに向けていた切っ先をイヴァへと向けた。

 「おい、あんた」

 横目で見えた衛兵の動きにすぐさまケイトが口を開くが、リレイドの剣はケイトの喉に当てられる。剣の切っ先がひやりと喉に冷たさを伝え、皮膚が裂けるか裂けないかの微妙な位置で寸止めされている。どうやら、発言は許されないらしい。しかし、このまま黙っていれば2人ともただではすまない。

 「……その剣を下ろしてくれないか、リレイド大佐」

 「それが大佐である俺に対する態度か? 異国民が」

 昼に出会ったときは、まだイヴァやキックリに対する瞳とはまだ柔らかみがあったリレイドの視線だが、この一件で完全にケイトを異国民に対する差別の対象ととらえたようだ。

 しかし、リレイドの剣幕とは裏腹に、ケイトは挑発するようにわずかに口角を上げた。

 「そうだ。俺は異国民だ」

 しかし、リレイドの脅しにも臆することなくケイトは続ける。

 「その“異国民”に、あんたたちはこんな物騒なものを突き付けていいのか?」

 余裕そうに口の端を持ち上げたケイトに、リレイドが目を眇めてケイトを見据える。

 「どういうことだ?」

 「俺は異国民だ。この町の住人でもなければ、この国の人間でもない。そのこの国とはまったく無関係な人間を、あんたたちはこの国のルールで罰せようとしているのか? と聞いているんだ」

 これは、ケイトの賭けだった。この世界についてケイトが知っていることは0に等しい。しかし、この世界の法律が地球と同じようなものならば、国籍の違う外国人を他国で罰することは、ある種問題が出るだろう。

 さらに、ゴードンは東の国について「最近交流を始めた」と言った。ならば、あちらの法律などもあまりリレイド達は知らないだろう。

 内心うまくいくかどうかもわからない無謀な賭けに、冷や汗をかいているがあくまで冷静に、ケイトは続ける。

 「この国の法律について、俺はよく知らない。でも、同様にあんた達は俺の国について知らないだろう。俺の国では、外人が国内で罪を犯したら、その母国にも連絡がいき、2つの国の法律で罰せられる。もちろん、他国の者に危害を受けられた時もだ」

 嘘は行っていない。ケイトは“自分の国”の話をしているのだ。

 「俺はそこのアホ面に鞭を振るわれた。その暴力を受け、俺は自分の身を守るために鞭を引いたんだ。そしたら、勝手にそこのアホ面が馬から落ちたんだ。これは正当防衛だ。俺の国では、過剰にならない限り正当防衛は罪に問われない。そして、俺は自分からは手を出していない。そこをよく理解してくれ」

 ゆっくりと、ケイトはリレイドと、そして周りの人間達を証人として言葉を紡ぐ。徐々にリレイドの背後にいるケルンが、顔色を変えていることに内心ほくそ笑んだ。

 「それらを考慮したうえで、あんたたちは俺を罰せられるのか?」

 静かな沈黙が降り立つ。ケイトは喉元にある剣が時折わずかに揺れてあたる、背筋が冷える感覚を長いようで短い時間味わった。

 誰もが固唾を飲んでいる状況で、リレイドは鋭い視線でケイトを射抜いたまま、ようやく剣を下ろした。

 次いで、周りの衛兵も剣を下ろす。遅れて、イヴァに剣を向けていた衛兵も、剣を鞘に収めた。

 「お、おい! 俺の命令を待たずに剣を下ろすな!!」

 吠えるケルンに、リレイドが冷たく言い放つ。

 「ケルン様、おそれながら申し上げます。ここでこの者と争うのは、下手をすれば“カナガト国”との同盟を目指す我々ディティーラにとって、不利になってしまうおそれがあります」

 恭しい言葉遣いであったが、駄々をこねるケルンに対しての忠誠と尊厳の思いは何一つ感じられなかった。それは衛兵たちも同じようで、ケルンの声には一切耳を貸さずにいる。どうやら、町の者のみならず側近の者からもこの領主は不人気のようだ。

 ケイトはケルンの人望の無さに呆れながら、地べたに座り込むイヴァに手を伸ばす。

 「大丈夫……ではなさそうだな」

 服が破れ痛々しい傷が、焼けた肌に負っている。その姿に、ケイトは申し訳なさそうに顔を歪める。

 「すまない。俺がもっと来るのが早ければ……」

 こんな怪我は負わなかっただろうに、と続けられるはずだった言葉はケイトの口に当てられたイヴァの手によって防がれた。

 イヴァは泣き笑いに似た笑みを浮かべてケイトを見上げる。

 「ありがとうございます、ケイトさん。私、嬉しかった」

 目尻に浮かぶ涙を拭い、イヴァはふわりと笑った。

 「だから、ケイトさんの謝罪は受け取りません」

 ケイトは目を瞬かせた後、「そうか」と口元を緩ませた。

 「立てるか?」

 イヴァの手を握り、優しく引っ張り上げる。そのままよろめくことなく立ち上がったことにケイトは安堵した。

 「大丈夫みたいです。あ、そうだ」

 すると、イヴァが近くに落ちていた布袋を拾い上げる。彼女の様子は広場で別れる前と同じようなもので、彼女の芯の強さにケイトは感心した。

 「これ、ローブです」

 はい、と渡された中身をみると、白い柔らかい素材でできたものだった。

 「すみません、白しかなかったもので。でもフードつきなので、これさえ被れば髪も肌も隠れますよ」

 嬉々として喋るイヴァに、一瞬あっけにとられ、次いで目元を和ませる。

 「ありがとう」

 でも、と続けられケイトはローブを広げた。予想以上に大きいローブは、被ればひざ丈まであるだろうと考えられた。しかし、ケイトはローブを自分が羽織らずに、イヴァにかぶせた。

 「え?」

 「傷が目立つ。着ていたほうがいい。女性なんだから、傷は気になるだろう」

 優しくフードをかぶされ、そしてあまり見せない柔らかい微笑に、イヴァの頬が一瞬にして赤く染まった。ケイトから目をそらせて俯くイヴァに、ケイトが顔を覗き込む。

 「傷が痛むのか?」

 「え? い、いや、その……!」

 イヴァは慌ててフードの端を掴んで引っ張る。深くまで隠されたイヴァの顔は、もうケイトからでは見られなかった。

 「大丈夫か?」

 「は、はい! 大丈夫、です!」

 「そうか……?」

 首をひねるケイトに気付かれないよう、イヴァは火照る顔を冷まそうと必死に手で仰いでいた。

 後ろで未だにリレイドに向かってケルンが怒鳴っているが、これは帰ってもいいのだろうか。と話すケイトとイヴァに、ケルンの矛先が移る。

 「おい、貴様ら! 俺を無視して帰る気かっ!?」

 指をさし怒鳴るケルンに、ケイトは煩わしそうに眉根を寄せた。

 「悪いか?」

 「当たり前だ!!」

 すると、ケルンはリレイド達の制止の声も聞かずに、馬にまたがる。何をするつもりだと、ただ黙っていたケイト達に向かって、馬を嘶かせその巨体を後ろ脚だけで支えた。

 「俺を侮辱するな!!」

 一瞬にして顔色を変えたケイト達に、持ち上げられた前足が高くそびえる。

 「ケルン、よせ!」

 リレイドの怒号が響くが、ケルンの我を忘れた行為は収まらない。周囲の甲高い悲鳴と共に、馬の両前足が勢いよく、無意識にイヴァを抱き寄せたケイトの頭上へ――――。 

 その刹那、一陣の突風が南の大通りから広場に向かって襲いかかった。

 耳を劈く凄まじい突風に、市場の商品たちは吹き飛ばされ、脆い屋根が音を立てて大破する。

 向かい風となった凄まじい突風は、ケルンの乗る馬に襲いかかり、その巨体は煽られ後方へとバランスを崩した。

 「うわあああ!!」

 ケルンの悲鳴と馬の嘶きと共に、馬は背後に倒れケルンの体は宙に投げ飛ばされた。そして、風が通り過ぎ終わった瞬間、ケルンは背中から地面へと叩きつけられた。

 石畳の上に音を立てながら落ち、ケルンは痛みに悶絶する。すぐさま衛兵が駆け付けるが、ケルンは無様に腰を抱えてあまりの痛みに衛兵の手助けを払いのけていた。

 呆然とする民衆とケイトとイヴァ。そして、唯一ケルンに手を貸していないリレイドだけが、ひたすらに真剣な且つ訝しげな瞳をケイトに向けていた。

 その視線にケイトが気付き、目線をリレイドへと向けた。

 「お前、まさか……」

 その後に続いた言葉はなんだったのだろうか。不自然に止まったリレイドの言葉の先を促さずに、ケイトは呆然とケイトを見やるリレイドから視線を外した。リレイドもまた、ケルンの叫びが大きくなったことで、ケルンに足を向けた。

 「イヴァ、大丈夫か?」

 「へ、平気です」

 「よかった」

 しかし、リレイドの耳が2人の会話を捕え、リレイドの足は止まる。ゆっくりと視線をケイトへ戻すが、ケイトはリレイドが自分を見ていることに気付いていない。

 彼がケイトに何かを言うことはなく、ケイトはそのままイヴァの体を労わりながら大通りの道から外れて行った。

 残されたリレイドは、暫くケイトの後ろ姿を見つめた後に、悶え苦しむケルンを介抱しようとようやく足を向けた。

 

  

 

 2人が町から帰った時、イヴァの傷を見てキックリは顔を真っ青にして慌てふためいた。薬を大量に持ってきて狼狽しながら手当をし、その慌てぶりにゴードンをはじめとし3人は落ち着かせようと宥めた。ようやくパニックが収まったころには、イヴァの治療は終わり痛々しい包帯が彼女の体のいたるところに巻かれていた。

 破けてしまい血の滲んだ服を着替えようと、イヴァがケイトに再度礼を言い自室へと戻ると、ゴードンは青い瞳を伏せた。

 「ケルン殿は、全くどうしようもありませんね……」

 ゴードンのため息と共に吐かれた声音には、明らかな呆れと失望の念を含ませている。

 「ケルン殿は先代であるお父上に甘やかされて育ちましたからね。先代亡き今、彼を叱るような方もいなく、今のような暴虐なふるまいをするような方となってしまいました。……やはり、一度叱っておいた方がいいかもしれませんね」

 どう叱るかは、ゴードンの細められた瞳を見て聞かないことにした。

 「それにしても、今回はありがとうございます、ケイト君」

 そう頭を下げられ、ケイトは両手を上げてゴードンを制す。

 「いえ、むしろ俺がいたせいでイヴァはケルンと会ってしまったんだ。俺の方こそ、すぐに彼女を助けられなくてすまないと思っている」

 「ケイト君はお優しいですね」

 くすくすと穏やかな笑みに、ケイトはむず痒い思いを感じ、頬を掻く。と、そこでキックリが声を上げた。

 「ケイトさん、その腕、血が!」

 そういえば、とケイト自身が忘れかけていた右腕を見る。灰色のインナーから血がにじみ出ており、気付くと痛みが思い出された様にわきで始めた。

 「あぁ、イヴァを庇ったときにケルンの鞭が巻きついたんだ」 

 袖をめくると、予想以上にうっ血していて青い右腕に、ケイトは顔を顰めた。それに顔を真っ青にしたのはキックリで、ケイト以上に自分が痛そうな顔をしている。

 「あ、あのすぐに治療を」

 オロオロと狼狽するキックリだが、しかし救急箱に薬草がないことに気付く。先程のイヴァの治療で使い終えてしまったのだ。あの時のキックリは本当にあわてており、量もふんだんに使ってしまったせいだ。

 「す、すみません。僕町で買ってきます!」

 「キックリ駄目だ」

 慌てて駆けようとしたキックリの腕を、ケイトが掴む。

 「今はあまり外に出ない方がいいと思う」

 「ケイト君の言うとおりです。町へは私が行きましょう」

 「いや、でもゴードンさんは……」

 「大丈夫ですよ」

 しかし、ゴードンもまた異国民と一緒にいる限り、なかなか町の者は好ましく思わないだろう。マーサのような人間が多くいれば、話は別だが。

 まだ騒動のざわめきが収まっていない中、彼らが町へ行けば何がおこるかわからない。自分は大丈夫だと口を開けかけた時、教会の裏口にノックの音が飛び込んできた。

 そのノックの音は小さく、まるで遠慮しているかのように控えめな音だった。

 「おや、どちらさまでしょうか」

 客人ならばキックリは出られない。ゴードンはゆっくりとした動作で裏口へと向かった。

 「……リレイド大佐だったり」

 「ケルンかもな。さしずめ、文句をいいに来たと言ったところか?」

 2人が身を強張らせ裏口に耳を澄ましていると、ゴードンが扉を開き、声を上げた。

 「おやおや、こんにちは。久しぶりの訪問ですね」

 声が柔らかい。どうやら想像していた人物とは違うようで、キックリはあからさまに安堵したように息を吐いた。

 「どうぞあがってくださいな」

 そう言い、こちらへやってくる気配を感じる。

 「ケイトさん、僕たちは部屋に入っていましょうか」

 「そうだな」

 ゴードンが特に何も言わずにこちらへ招くと言うことは、恐らくキックリ達に会っても何もならないとは思うが、キックリは人前に出るのに気が引けるようだ。キックリの客人に対する遠慮を察し、ケイトは頷く。

 しかし、席を立ったところでゴードンが2人を呼びとめた。

 「あぁ、2人とも。そのままでよろしいですよ」

 顔を出したゴードンの嬉しそうに笑んでいる顔を見て、2人は首をひねった。すると、ゴードンの背後から一人の女性がおずおずと顔を出した。

 「あんた、マーサか?」

 ケイトが驚きの声を上げると、マーサは気まずそうに視線を彷徨わせ、次いで苦笑をこぼした。

 「えっと、……さっきぶりだね、ケイト」

 ゴードンはマーサの背を優しく押し、彼女を前へ出す。あのやりとりがあり、若干気まずい2人の空気に、キックリはオロオロと2人を交互に見やっていた。

 イヴァを助けようとした自分を止めたマーサを、ケイトはまだ許してはいなかった。あの時止められなければ、もっと小さな被害で済んだはずだったのだ。無意識に睨む形となったケイトの視線に、マーサは目が合わせられないようだ。

 何度も壁や天井やゴードン、いたるところに視線を彷徨わせた後、マーサは一度目を強く瞑り、勢いよく頭を下げた。

 「悪かった!」

 突然のマーサの謝罪に、キックリがその小さな緑の瞳を丸くした。ゴードンはただ穏やかな瞳をしていたが、ケイトはマーサとの話を2人には話していない。彼は何故マーサがケイトに向かって謝罪しているか知らないはずだが、その瞳は全てを知っているかのようだった。

 マーサの深い謝罪に、ケイトの固い表情は変わらない。

 「……謝る相手が違うんじゃないのか?」

 冷たい声音は、マーサの肩を揺らした。

 「そ、そうだね。……でも、あんたにもあたしは謝りたいんだ」

 顔を上げたマーサは、まだ戸惑いに揺れる瞳をケイトに向けた。

 「そうだよね、あんたの言うとおりだよ。あたし等は、あの子のことを知ろうともしなかった。知るのが怖かったんだよ。自分の身が可愛くて、あの子の気持ちなんて一切わかろうと思わなかった」

 マーサはちらりとゴードンを向いて、自嘲気味に笑う。

 「キックリやあの子がこの町に来た時、ずっとゴードンさんはあたし等町の連中を諭そうとしてきた。でも、傍にいる2人を見て怖がって、あたし等に世話を焼いてくれたゴードンさんの言葉でさえ、あたし等はないがしろにしてきたんだね。そんなゴードンさんを否定して、何が心配だよ。心配する権利なんてないのにね」

 ケイトの言葉に、彼女は目が覚めたと言う。臆することなく権力のある者の前へ出て、イヴァを守る姿は、誰が見ても勇敢だった。そして差別する訳を聞いても変わらないその彼の姿勢は、あまりにも自分たちとは違く、自分がどれだけ卑しく情けないかを思い知らせた。いつだって尊敬する人物がその姿勢をしていたことにも気付かずに、目先の恐怖を恐れ、今日まで彼女を虐げてきた自分を愚かだと感じた。浅ましく、彼らから見ればなんて滑稽な姿なのだろうかと、自分を卑下した。

 「あの子があたし等を呪うなんて、そんな話聞いたことも無いくせに、妄想ばかり膨らましてね。ホント、あたしは馬鹿だね」

 マーサはもう一度、深くケイトに頭を下げ顔を上げると、瞳にうっすらと涙をにじませ精一杯笑う。 

 「ありがとうね、ケイト」

 その瞳からは、もうイヴァに対する懸念はないだろうと感じ、ケイトは固かった表情を和らげた。

 「いや、特に俺は何もやっていない。それよりも、イヴァにちゃんと謝ってくれ」

 「あぁ、そうするよ。それで、あの……差し出がましいことかと思ったんだけどね、結構ひどい傷みたいだったから、薬草を持って来たんだよ」

 そう言い、懐から取り出された布に挟まれた薬草を広げた。

 「ちょうど、ケイト君の傷を治療するのに切らしてしまっていたから、助かりますよ。マーサ」

 ゴードンの微笑みに、マーサは嬉しそうに破顔した。

 「キックリが治療は上手なので、キックリに渡してください。私はイヴァを呼んできますね。お話が、あるでしょう?」

 そう笑いかけ、ゴードンは奥の部屋へと入っていく。さりげなくもう1人の差別の対象であるキックリとの接触を図ったゴードン。マーサは、一瞬表情を固めたが、オロオロとケイトの傍で慌てふためくキックリを見て、困ったように笑う。

 「えっと、その」

 町の人との接触に、どうしたらいいのかわからないのだろう。必死にケイトに助けを求めようと目線を投げかけているが、ケイトは知らぬふりだ。

 「キックリ」

 マーサがおずおずと声をかけ、キックリの身長に合わせて腰を折った。

 「薬草、もらってくれるかい?」

 そう手渡そうと布袋を差し出すマーサに、キックリは戸惑いがちにそれを受け取った。

 「あ、ありがとうございます」

 まだまだ2人の緊張は無くならないようだ。しかし、今まで虐げられ暴言を吐かれ続けたキックリは、この初めて町の人と接しられ嬉しいようで、すぐに破顔する。

 「これで、ケイトさんを治療できます」

 「あんた、そんなにひどい傷だったのかい?」

 不安げに顔を曇らせたマーサは、自分が止めたことにより傷ができたことを悔んでいるようだった。もはやマーサを疑うことをしなくなったケイトは、マーサを安心させようと口を開く。

 「いや、痛みはもうそこまで無い。大丈夫だ」

 「そうかい。……よかった」

 「それじゃあ治療するので、ケイトさん座ってください」

 ケイトを座らせ、人よりも大きな鱗だらけの両手で、キックリは丁寧にケイトの傷を治療する。その気味の悪い手に、ケイトは何も動じないが、やはりマーサはまだ慣れないらしくわずかに身を後退させた。それを見兼ねたキックリが、申し訳なさそうに言う。

 「す、すみません。あ、あの、他の部屋へ移りましょうか?」

 「いや、大丈夫だよ。悪いね、その……見なれてないから、つい」

 ぎくしゃくとした彼らを見て、ケイトはキックリの治療に身をまかせながら呟く。 

 「まぁ、そんなすぐには無理だろ。ゆっくりやっていけばいい」

 「……出会って数分で慣れたケイトさんが言うと、なんか違いますね」

 「そうか?」

 「あんた、そんな数分でこんなに親しくなったのかい?」

 「普通だろ」

 「僕が言うのもなんですけど、ケイトさんは普通じゃないと思います」

 「キックリ、それは失礼なんじゃないのか?」

 「す、すみません」

 じと目でキックリを見れば、面白いぐらいうろたえて頭を下げてくる。そのあまりにも普通なやりとりに、マーサは目を丸くしそして苦笑していた。

 キックリがケイトに包帯を巻いている時、ゴードンとイヴァが現れた。イヴァの服はどこも汚れていなかったが、服から見え隠れする包帯の白が、彼女の焼けた肌に異常に目立っていた。

 イヴァがマーサの姿を見つけて、キックリと同じようにうろたえ始め部屋の中へと入ろうとする。どうやら、ゴードンはマーサについて何も言わなかったようだ。

 「こらこら、待ちなさいイヴァ」

 「ゴードンサン、デモ」

 たどたどしいディティーラ語で慌てふためくイヴァは、必死に彼女の前から姿を消そうとしている。今まで隠れるようにしていたイヴァが、どれだけ自分達町の者に気を使い続けていたかというものを理解したマーサは、わずかに眉尻を下げる。彼女は自分が嫌われていることを受け止め、極力姿を見せないよう心がけていたのだ。その悲しい彼女の気遣いが、マーサの心に深く浸透する。

 「待ってちょうだい」

 マーサから歩み寄り、イヴァは声をかけられたことにその瞳を大きく見開いた。その一つ一つの彼女動作が、マーサ達がいかに彼女に傷を作っていたか思い知らされる。

 「……ごめん」

 ただ一言、絞り出されたマーサの声は震えていた。

 一瞬何を言われたかわからないような呆けた顔をして、もう一度マーサは「ごめん」と呟いたことにより、イヴァの顔が、嬉しいのか悲しいのか、それとも恥ずかしいのか、様々な感情を織り交ぜた表情をした。

 「今まで、あんたに対してやってきたことは許されるわけがないってことはわかってる。でも、一言謝りたかったんだ。許さなくてもかまわない、あたしの気持ちを受け取らなくてもかまわない。ただ、聞いてほしかったんだ」

 多くは語らずに、ただ謝罪の言葉を口にした。先程のケイトに対しての謝罪と、イヴァに対しての謝罪はその規模が違う。何を行っても弁解をしようともがいている滑稽な姿しか映らないことを、マーサは感じたのだろう。

 深く頭を下げ、静寂が訪れた教会内に、イヴァは口を開く。

 「……顔ヲ上ゲテクダサイ」

 ゆっくりと顔を上げ、マーサはイヴァの柔らかな表情に見入った。

 「私、コノ町ニ来テ、今日ホド良カッタト思ッタ日ハ、アリマセン。アリガトウゴザイマス」

 感謝される理由なんてないはずなのに、イヴァはうれし涙を浮かべて綺麗に笑った。この町にいる若い女性と変わらないその姿に、マーサは涙を浮かべた。

 「ごめん、ごめんよ。今までひどいことをしてきて。ごめん、ありがとう」

 謝罪と礼を繰り返し呟くマーサに、同じくイヴァも繰り返した。

 「イイエ。私モ、怖ガラセテシマイ、スミマセンデシタ。アナタノ気持チ、私トッテモ嬉シイデス」

 彼女たちのすすりなく姿に、もらい泣きしたキックリが鼻をすする。ケイトとゴードンはその様子をただ微笑ましく見ていた。

  

 

 

 ようやく2人が落ち着いた頃に、マーサはケイトにこう切り出した。

 「あぁそうだ、ケイトに聞きたいことがあったんだよ」

 「なんだ?」

 「あんたさ、広場でなんか聞き込みしてたけど、もしかして人でも捜してるのかい?」

 その言葉に、ケイトは懐から髪を2枚取りだした。

 「そう言えば、あんたには聞いていなかったな。この2人に見覚えはないか?」

 そう手渡すと、マーサはじっくりと見た後首を横に振った。

 「いや、知らないね。でもこの顔は皆東の奴らなんじゃないのかい? どうしてディティーラに捜しに来たんだい?」

 そこで、ケイトはわずかに顔を強張らせた。しかし、マーサは気付かずにケイトの続きの言葉を待っている。

 彼女の中で、ケイトは東の国の人間だ。東からやってきた旅人だと、きっと認識しているのだろう。しかし、実際にはケイトは東ではなく、異世界から来た。何故彼がこの国へ来た経路を真実のままに話すとなると、せっかく打ち解けたにも関わらず、あまりにも常識離れした話をするのは気が引ける。いや、今の彼女がケイトを否定することはないとは、この場にいる誰もが分かっていた。しかし、今日一日で彼女は新たな一歩を踏み入れようとしている。そこで、さらなる混乱に巻き込むようなことは、ケイトはしたくなかった。

 「彼はこの2人と一緒にディティーラへ来たんですよ」

 そこで、助け船をよこしたのはやはりゴードンだった。ゴードンは顔色一つ変えずに嘘をマーサに言う。正直、神父の彼がここまで嘘八百を述べていると、若干申し訳なく思ってしまう。

 「ここへ来る船が、どうやら難破したようでね。それはもう悲惨だったらしいです」

 「そうだったのかい……。あんたも大変だったんだね」

 「そして、運良くウロラの森付近の海岸に漂流し、ここまで来たんです。かわいそうに、友人と離れ離れになり、さらには事故のショックで記憶まであやふやになり、常識ゼロの男の子になってしまったのです……」

 ゴードンはさも哀れに思っている、と言うように目を覆い悲しみに暮れている。ケイトを助けるためで非常にありがたいのだが、嘘をつくその演技を楽しんでいるようにも見えた。現に、付き合いの長いキックリは少々顔が引きつっていた。

 しかし、ゴードンを信じ込んでいるマーサはその話を真剣に聞き、そしてその悲惨な彼の人生に同情し、勢いよく立ちあがりケイトの両手を握った。

 「あんた、本当に大変だったんだね!! 記憶があいまいになるなんて、だからあんな図太い態度でいられたんだね!」

 「おい、一言余計だぞ」

 「あたし決めたよ!」

 そう叫び、マーサはその涙にうるんだ瞳に決意の炎を燃やし、ケイトの両手を握る力を強めた。

 「あんたのその人探し、全面的にこの“オーラ=パーラー”が協力してやるよ!」

 「……オーラ=パーラー? なんだそれ」

 「あぁもう、そんな常識も忘れてしまったのかい? なんてかわいそうに!!」

 なんだか馬鹿にされているようで、非常に不愉快だったが、ここで反論しては彼女の協力を無碍にしているようなものなので、ケイトは必死に押さえた。

 ケイトの機嫌が降下していることにいち早く気付いたのか、キックリが興奮するマーサをなだめようとする。

 「マーサさん。もしかしたら、東にはあまり伝わっていないことかもしれませんから」

 「イヴァ、何なんだ?」

 「全国ニアル支店ノ事デス」 

 ちなみに、彼女がケイトにディティーラ語で話していることは、ケイトの不思議な能力についてマーサに気付かれないためである。イヴァがサラサの言葉を話し、ケイトがディティーラ語で通じていたらおかしいので、誰か事情を知らない者がいた場合は、イヴァはディティーラ語を話すことにしたのだ。

 しかし、たどたどしいディティーラの言葉ではイヴァはうまく説明できないだろう。そこで、ゴードンが続けた。

 「オーラ=パーラーと言うのは、“リリス同盟”と呼ばれる白い花を紋章とした、大規模な貿易の組織に属している店の名前です。何年か前にある3人を中心に作られ、あらゆる場所を旅して、その場所の食物や酒、備品に至るまで値段を交渉し、それらを買い取りお互いの国や土地で販売するのです。買い取りのほかに、その土地では珍しい物品と交換したりして、国または土地同士の交流を主としているんですよ。その3人のおかげで、ディティーラは貿易大国となり、他国との交流も円満にでき、国民は物品に困らなくなったのです」 

 「同盟に参加している店は、他の土地の生産物を売れるようになったりしてね。他国の酒はうまいって評判で、あたしの店もうまいとこ営業できてるんだよ。最近あんたんところの東とも交流が始まっただろう。それも、その3人が東と契約したおかげだっていう話だよ」

 「でも、その3人について、国は正体を明かしませんよね。どうしてでしょうか?」

 「彼らは、顔を知られて動き辛くなることを嫌っているのでしょう」

 そう始終笑っているゴードンだが、ケイトはなにかその3人について彼は知っているのだろうかと感じた。しかし、まだその3人について興味のないケイトは、特にゴードンに聞かずに話を進める。

 「で、そのオーラ=パーラーについてはわかったが、どう協力してくれるんだ?」

 「同盟を結んでいる店は、この小さい町だけで10はある。それが全国、もしくは世界にまで広まろうとしているんだ。店同士の情報は、かなり早いよ」

 つまり、この似顔絵や2人に関する情報を店同士で流しあい、彼らを見つけようとしているのだ。それが本当にできれば、かなり効率良く2人を探し出すことができる。

 2人を見つける手立てが今目の前にあることに、ケイトは嬉しさに心躍る気持ちが湧き起こった。

 「ケイト、その似顔絵を貸してくれないかい? もしくはもう1枚ずつ書けないかい?」

 「書ける。何枚でも大丈夫だ」

 「いや、1枚ずつで足りるよ。知り合いの彫刻師にそれを掘ってもらって、刷ってもらうからさ」

 電気がないこの世界でもちろん印刷機はない。かわりに美術で良くやる版画方式でするらしい。それならば、何枚でも刷れるし、より多く店にまわすことができるだろう。

 「悪いな」

 「いいんだよ。大通りの時も言ったけど、あたしはあんたが気に入ってんだ。運が良ければ、その世界を旅してる3人にも情報が行く。そしたら、もしかしたら外国に漂流した場合も、見つかるかもしれないよ。まぁ、大船に乗ったつもりでいな!」

 ドン、と胸を叩きマーサは片目を瞑った。ケイトも自然と安堵の気持ちから笑みを浮かべた。

 「今日はもう夜になっちまうから、明日もう1枚ずつ書いて広場に来な。彫刻師に合わせてやる。実際に自分の目であれこれ指摘した方がいいだろう。間違っても、北の通りの近くにいるんじゃないよ」

 「あぁ、わかった」

 「それから、イヴァとキックリもつれておいで」

 「え」

 まさか自分達に話が来るとは思わなかったのだろう。同じように瞠目する2人を見て、マーサは照れくさそうにはにかんで言う。

 「店でサービスするからさ。一緒に飲もうじゃないか。あ、もちろん酒以外でね」

 マーサの誘いは、2人を感極まらせ涙目にさせて大きく頷かせた。

 「はい、必ず!」

 「喜ンデ、行カセテイタダキマス!」

 2人の嬉しそうな笑顔に、マーサは照れ隠しにそっぽを向いていた。すると、目に入ったケイトの肩を震わせている姿を見つけて、顔を真っ赤に染めて早口に言う。

 「あんた、何笑ってんだい!」

 「いや、別に」

 しかし、まだ止まらない肩の震えに、マーサは恥ずかしさでいっぱいになりケイトの頭を軽くはたく。その全く痛くないマーサの攻撃に、ケイトはさらに笑みを深くした。

 「照れるな」

 「うるさい!」

 マーサとケイトの攻防を見ていたキックリが、隣のイヴァの異変に気付き顔を覗く。

 「あれ、イヴァさんなんか顔赤いですね?」

 「エ、別ニ、ソンナ……!!」

 突然あわて始めたイヴァに、キックリは同意するように深く頷く。

 「やっぱり、嬉しいですよね。人から誘われるのは」

 「エット、……ソウデスネ」

 どこか歯切れが悪いイヴァの返答に首をかしげたキックリだが、彼女の真意は傍らで彼らを微笑ましく見守るゴードンのみが理解していた。

  

 

 

 

 日も暮れ、マーサとの穏やかな時間は終わりを迎えた。最初の頃の気まずげな空気も変わり、笑顔で去ったマーサ。もう、彼女がキックリとイヴァを虐げることはないだろう。

 心弾む満たされた気持ちを胸に、彼女は教会の傍にある井戸にいた。あの時、イヴァの怪我を気遣ったケイトが着せた、ローブを洗うためだ。ローブの内側はイヴァの血で微かに赤みを帯びている。これぐらいならば、きっと落ちてくれるだろう。

 イヴァは真新しいローブを手に抱きしめ、息を吐く。あの時、彼が笑いかけ自分を女性として扱ったことを思い出すたびに、イヴァは自分の胸が暖かくなることを感じていた。自分を助け起こそうと紳士的に手を伸ばしたケイトも、ケルンの馬からかばってくれたケイトも、全てが嬉しくてたまらない。

 イヴァはもう一度強くローブを抱きしめた後、水を汲もうと井戸のバケツへと手を伸ばした。井戸の底まで落とし、水をくみ上げようとロープに手を伸ばす。

 しかし、彼女の手がロープに触れるよりも早く、白い手がそれを阻んだ。驚き振り向くと、先程まで思っていたケイトがいた。

 「ケイトさん」

 「俺がやろう」

 短く言い、ケイトがやんわりとイヴァの肩を押してロープを引いた。

 ケイトはイヴァがローブを手に、教会を出て行った事が気になりこちらへ来たのだ。案の定、怪我をしているのにもかかわらず、重たいであろう水汲みをし始めたイヴァに代わり、ロープを掴んだ。

 多くは語らない無表情なケイトだが、イヴァは彼のその優しさを察し思わず頬が火照るのを感じた。

 思ったよりも思い水を汲み終え、足元にバケツを置く。

 「ありがとうございます。後は、お任せください」

 「いや、そのローブは俺のだからな。洗うのも俺がやっておく」

 腕まくりをし始め、その右腕から白い包帯を見つけてイヴァは慌ててケイトを止めた。

 「いいえ! 私が汚したんですから、私が洗います」

 断固としてローブを手放さないよう強く抱きしめ、ケイトを見つめる。どうやら、一歩も引かないようなので、ケイトはしょうがないと息を吐いた。

 「わかった。任せる」

 そう言えば、満足したようにイヴァは笑った。

 「はい。ケイトさんは、体が冷えてはいけないので部屋へ戻ってください」

 「それはそっちだって同じだろう。それに、もう日暮れだ。一人は危ない」

 薄暗くなってきたあたりを見渡す。この町の治安がどうなのかは知らないが、こんな人通りのない森の前ではどちらにせよ危ないことには変わりない。

 「あ、ありがとうございます」

 嬉しそうにはにかみ、イヴァはローブを水につけ洗い始めた。ケイトは井戸の塀にもたれかかり、黙ってそれを見ている。

 水音と木々の揺れる音だけが支配した空間で、ケイトは口を開いた。

 「……サラサについて、マーサから聞いた」

 ピクリと、屈んでいた彼女の肩が揺れた。彼女の手は止まったまま、ケイトは続けた。

 「俺はこの世界について何も知らない。だから、少しでもこの世界で言う“常識”というものを聞きたい」

 ここへ来るまで、ケイトは他人について興味を一切持たなかった。しかし、この右も左もわからないような異世界では、そうは言っていられない。何事にも関心を向けなければ、ここでの生活はできないし、余計なトラブルを引き起こしてしまう可能性がある。だからこそ、ケイトには知る必要があったから、手始めに彼女に聞いたのだ。

 しかし、恐らくあまり話したくない内容だということも、ケイトは理解していた。町のあの嫌悪ぶりから見て、大っぴらに話せるような軽いものではないだろう。だから強制はせず、なるたけ優しくに言う。

 「言いたくなかったら別に構わない。……だが、もし良かったら、サラサについて教えてほしい」

 彼女は手を止めたまま反応を示さない。やはり、今日初めて出会ったにも関わらず、繊細な部分を聞こうとするのは無粋だっただろうか。

 (キックリか、ゴードンさんに聞くか)

 彼等ならば、恐らく教えてくれるだろう。

 「嫌なことを聞いて、悪かった」

 俯く彼女に声をかけ、井戸から離れようとした時、イヴァが顔を上げた。

 「マーサさんから、どこまで聞いたんですか?」

 その表情は、不安と戸惑いが織り交ぜあったようななんとも言えないものだった。やはり聞かなければよかったと後悔しながらも、ケイトは答える。

 「……どの国でも嫌われ、奴隷や見せ物にされると聞いた。それから呪詛を使うことも」

 「そう、ですか……」

 そう呟いたきり、イヴァは口を閉ざしてしまう。ケイトもまた、この気まずげな空気に後悔しながら、ただ黙っていた。

 重苦しい沈黙を破るのは、戸惑いに瞳を揺らしていたイヴァの声だった。

 「……1年前、私は国の見せ物としてディティーラへ来ました」

 暗く、苦しむように絞り出された言葉に、ケイトは瞠目した。彼女自身が、そのようなひどい扱いを受けていたことに驚いたのだ。

 「サラサは南に住んでいる遊牧民です。何組かの一族と共に、季節の変わり目に家畜と共に移動します。その移動の最中、私たちは賊に襲われました」

 思い出すのが辛いのだろう。彼女の瞳は悲し気に揺れている。

 「私たちは必死に逃げました。でも、あの恐ろしい彼等は私たちをいとも簡単に捕まえました。……たくさん、私の家族達が倒れて行くところをこの目で見ました」

 子供を守ろうと大人たちは武器をとった。しかし、サラサはもともと戦う術を持たない民族だ。その抵抗は虚しいものだったと、イヴァは涙ぐみながら話す。

 「私の家族はもう年老いた方が多く、若くても男性やまだ小さな子供が多かったのです。見せ物にできるような若い娘は、私しかいない。私は両親と、そして最後まで必死に私を守ろうとしてくれた兄と引き離され、独りこのディティーラまで来ました」

 その現状をケイトは知らない。しかし、まるで地獄絵図のようなものを思い浮かべ、顔を顰めた。自分が想像で彼女の本当の痛みなどわかるはずもないが、ケイトの胸はその残忍さに怒りと悲しみを覚えた。

 「家族がどうなったかはわかりません。きっと、他の国で奴隷、もしくはそれ以上の苦しみを受けているのでしょう」

 引き離され、何度家族を思い夜に涙を流しただろうか。家族の安否をどれだけ心配しただろうか。しかし、この広大な世界で一度別れれば、もう二度と会えるような奇跡など起こらない。どれだけ襲ってきた輩を恨んだだろうか。今頃、家族を売った薄汚い金でのうのうと暮らしているのではないかと思うと、今にも賊を探し出して同じ苦しみを味あわせたいほどの憎しみの衝動があふれ出てきたと、イヴァは当時を思い出し言葉を言った。

 「サラサは、そういった扱いを受けます。まだ、この町はいい方なんです。もっと、もっとひどい扱いをする国や町はたくさんあります。どこへ行っても罵倒罵声を浴びせられ、石を投げられ、襲われる。だから、私の祖先達は町を出て誰もいない土地で静かに暮らしていたのです。ただ、幸せに、質素な生活をしていただけなんです……!!」

 とめどなく、彼女の瞳から涙がこぼれおち、水の表面に波紋を生じさせた。ケイトはイヴァの前へしゃがみこみ、彼女の肩を優しくさする。安い言葉など、かけられない。その彼の暖かな手を、イヴァは水に濡れた冷たい手を重ねた。ケイトの暖かなぬくもりが伝わる。

 「……私は、賊に連れられ、この国を訪れました。私の他にも、連れ去られた女性も多くいました。他の女性が売られていくのを目の当たりにし、私だけが残ったのです。……サラサを買う貴族など、いませんから」

 自嘲の言葉は震えていた。しかし、今まで伏せられていた瞳がケイトに向けられ、その色が悲しみからわずかな光を宿していた。

 「そこで、ゴードンさんと出会ったのです」

 何故ゴードンがそこにいたのかは分からない。気まぐれで通りかかったのか、それともまた違う目的があったのか。

 「ゴードンさんは売れ残った未来のない私を一目見て、私が買います、とおっしゃったのです。その時、私は神父の格好をしたゴードンさんを不審に思いました。神に仕える身でありながら、その手を汚すのでしょうかと、最初は思っていました。しかし、ゴードンさんはお金を払うと、私に笑いかけてくださったのです」

 本当に嬉しかったのだろう。先程までの賊に対する恨みのこもった表情から一転し、彼女の瞳は柔らかだ。

 「サラサに対する畏怖の感情も一切見せずに、ゴードンさんは優しい言葉をかけてくださいました。もう大丈夫。怖がらなくていい。そう何度もその広いお心で私を受け止めてくださいました。お金を払って私を買ってくれたのに、好きに生きなさいと私に自由をくれた。さらには、絶望しかなかった私の身をこの教会へ招いてくださったのです。どれだけ、この出会いを神に感謝したでしょうか」

 ゴードンに対する測りきれない感謝と、信頼とを語るイヴァは涙を流しながら笑う。彼女の中で、どれだけゴードンの存在が大きいかを、ケイトは彼女の幸せな笑みを見て知った。

 「私は本当に幸せです。ゴードンさんに出会い、キックリという新しい家族に巡り合い、そして今日、ケイトさんと出会えました」

 ケイトの瞳を見て微笑むイヴァに、ケイトが目を見開いた。イヴァはケイトをまっすぐに見つめ、さらに続けた。

 「ケイトさんと出会ったから、私はマーサさんと何の隔ても無い関係を築くことができました。あなたのおかげで、私は大きな幸せを手にすることができたのです。ありがとうございます。本当に……本当に、ありがとう、ございます」

 最後はもはや言葉にはならなかった。イヴァの視界は、涙で何も見えない。しかし、しっかりとケイトを見続け、今日という幸せを手にした事を、ケイトに告げる。言葉だけでは足りないほど、イヴァは彼に感謝していた。

 「あなたと出会えて、私は本当に、幸せです」

 すると、イヴァの頬に暖かなぬくもりが添えられた。優しい手つきで、ケイトがイヴァの流れ落ちる涙を拭ったのだ。視界が晴れる頃に、イヴァはケイトの笑みを見つける。

 「俺の方こそ、今日イヴァに出会えてよかったと思っている」

 一点の曇りのない、綺麗に微笑むケイトに、イヴァの頭が急速に熱くなるのを感じた。同時に、自分がはしたなく目の前で泣いているという羞恥に、顔が赤くなる。

 「す、すみませんっ! な、なんか突然泣き出したりなんかして」

 素早い動きでケイトから身を離し、イヴァは自分で涙にぬれた顔を拭いた。イヴァの頬を拭う形で制止してしまったケイトの手が虚しかったが、ケイトは何事も無く手を下ろした。

 「お、お見苦しいところを、すみません! そ、それに、サラサの事を聞いていたのに、わ、私の身の上話なんかして……!!」

 恥ずかしいと顔を覆い隠してしまったイヴァに、ケイトは思わず小さく噴き出した。しかし、すぐに真顔を取り戻してイヴァに頭を下げる。

 「俺の方こそ、辛いことを思い出させてしまって、すまない」

 「い、いえ! 私が勝手に話したことですし! むしろ、ケイトさんには私の事を知ってほしいなぁ、なんて思ってたから……。いえ、すみません! なんでもありません、忘れてください!」

 突然もごもごと呟き始めたと思ったら、急に慌てだし謝罪するイヴァに、ケイトは破顔した。その笑顔に、またもやイヴァは赤面するのだが、今度は平静を取り戻そうと咳払いをひとつしてから続けた。

 「え、えっと……サラサ族というのはだいたいこのような感じです」

 「無理やりまとめたな」

 「……言わないでください。あ、それからサラサの呪術のことなんですけど」

 そういえば、彼女の話の中では一切触れられていなかった。マーサの行っていた噂が本当ならば、正直その賊とやらに喰らわせればいいじゃないかとケイトはわずかに思った。しかし、彼女のその優しい性格ではできないだろうと一人で解釈していたら、イヴァがさらりと告げた。

 「それは昔のことで、今のサラサ族は誰も扱うことはできません」

 「……昔は、できたんだな」

 「はい」

 やはり噂は当てにならないと思うが、彼女が頷いたところを見ると、あながち人々の不安は間違っていなかったということか。

 「私の小さなころは、よくご老人たちに聞かされていました。その昔、まだサラサが町で人々と暮らしていた時、呪術で人々を助けたりしていたそうです。しかし、呪いは呪いなので、その町の人々から嫌われ、町を追い出され今の形になったと言われています」

 「町を出た時に、呪いをしなくなったのか?」

 「これ以上人々を苦しめたくないと言う、祖先の思いです。それで、呪術は子孫に伝承されることなく、その遥か昔の出来事がそのまま人々に知れ渡ってしまったのです」

 「つまりは、ただの誤解か」

 本当に人間の先入観と言うものはひどいものだと、ケイトは内心ため息を吐く。遥か昔からの言い伝えに振り回され、新たな情報を受け付けない。

 自分はもう大丈夫だと過去を乗り越えていようとしているのに、周りが腫れものを触るようにしてケイトとの壁を作ったように。周りの人々は本人よりも深くそして悪い方向に考えすぎている。

 「これは、明日マーサに伝えなきゃな。ついでに、他の町の連中にも言ってみたらどうだ?」

 「きっと、言っても信じてくれませんよ。でも、マーサさんなら、信じてくれますよね!」

 マーサとの壁が崩れ、イヴァも彼女のことをゴードンに対する信頼と同じものを感じ始めている。マーサがもし彼女の誤解を町の人々に伝えれば、恐らくこの信頼を向ける対象はさらに広まることができるだろう。

 その可能性のある未来を思い浮かべて、ケイトは目を細めて頷いた。

 「きっと、信じてくれるさ」

 「はい」

 笑いあう2人は、ようやくローブを洗い教会へ戻った。迎えたゴードンは微笑み、キックリは夕食の準備をイヴァと共にする。手持ち無沙汰となったケイトは2人を手伝おうとしたのだが、客人と言われ断られてしまった。仕方なく、客室へ明日マーサに持っていくあの2人の似顔絵を書くことに。

 客室の明りは、手元にあるろうそくのみ。ふと、シズルの顔のパーツを書いたところで、ケイトの手は止まった。

 「…………」

 マーサのおかげで、シズルとアキラを見つける可能性はぐんと上がった。それはとても喜ばしいことなのだが、しかしこれから自分はどうすればいいのか。

 ケイトは今、屋根のある教会で安全な夜を迎えている。それは、ケイトの運がよく、協力してくれるキックリやゴードン、そしてイヴァの存在がいたならではの結果だ。果たして、あの2人はどうなのだろうか。夜の寒さに震えてはいないのだろうか。

 今日の町の様子を見て、異国民に対して差別の思いがあることは痛いほどわかった。それは、どこの町にも絶対にないとは言い切れない。もし彼等がその差別を受け、今日のイヴァのような仕打ちをされていたとしたら……。

 一抹の不安が、ケイトの胸にしこりを植えた。そのしこりは、恐らく日に日に膨らむだろう。自分は、このままゴードン達に甘えていいのだろうか。不安と自分に対しての疑問が、ケイトの手を動かそうとしない。

 思案にふけるケイトの耳に、軽いノックの音が入った。ドアが開かれ、顔をのぞかせたのはイヴァだ。

 「ケイトさん、そろそろ夕食の準備ができますよ」

 「あぁ」

 イヴァは部屋の中へ入っていき、卓上のケイトと共にこの世界へ来た彼等の顔を見て、心配そうに紙をとった。

 「見つかると、いいですね」

 「…………イヴァ」

 「はい?」

 イヴァは椅子に座るケイトを見下ろした。ケイトは一度目を伏せ、そしてイヴァを見上げる。

 「ゴードンさん達と一緒に暮らすようになって、家族を探そうと思ったことはあるか?」

 「もちろんです。……でも、私には家族の安否を知ることができるようなつてはありませんし、この教会を離れ探そうとしても、また襲われるのがおちでしょう。ですから、私は探しには行けないのです」

 「そうか……」

 イヴァから視線をそらし、2枚の紙を見つめるケイトに、イヴァは続ける。

 「でも、ゴードンさんが、私が今精一杯生きるということが、家族の望んでいることだと、そうおっしゃってくれて。もはや、私の家族は生死さえわからないですから、せめて家族の分まで一生懸命、生きようと思っています」

 「たくましいな」

 「サラサの女性は、たくましくなければ生きていけませんから。それでは、ケイトさん。ゴードンさん達が待っていますよ」

 「あぁ。わかった」

 ケイトは席を立ち、ろうそくの火を消した。部屋は外の星明かりだけが差す薄暗い者となり、イヴァに続いて部屋を出ようとする。

 前を見据えるケイトの瞳は、今しがた決意した一つの思いに、鈍い光を放っていた。










≪第3話  END≫

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