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スカイラフター  作者: 中条 眞
第1章
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第2話



 「地名持ちというのは、その土地の所有者という意味です」

 キックリは先程の聞き覚えのない言葉の意味を、丁寧に教えてくれた。

 道中の獣道はだんだんと慣らされた道へと変わっていき、現在は立ち並ぶ木々に挟まれた、細い道を歩いていた。

 「たとえば、このディティーラ国の国王様は、お名前の後にディティーラが入ります。国王様のお名前はビヴァルスなので、ビヴァルス=ディティーラですね。国だけではなく、領主様もそうやって土地の名前を名乗ります。このウロラの森はフィリクという町の近くにあるんですが、そこの領主様はケルン=フィリクと名乗ります」

 「俺に苗字があったから、俺が貴族だと思ったのか」

 そういうことです、と言ったキックリは、続けて言う。

 「土地の所有者のご家族も、もちろんその土地の名を名乗ります。それから、その所有者に忠誠を誓っていらっしゃる方も、同じように名乗ります。その場合は主従の違いが分かるように、地名の前に階級やその職種によって違う名前が入るんです。たとえば、その方の階級が大将だったら、名前の後にアドミラルが入ります」

 中将はエンテナント、少将はマイジョー、大佐はオーベスト。次々に出てくる単語を、ケイトは頭の中に入れる。今後、何かあるか分からない。わずかな情報でもケイトは必要だと思い、キックリの言葉に聞き入った。

 「あ、すみません。こんなにたくさん言っては、混乱してしまいますよね」

 申し訳なさそうに謝罪するキックリに、ケイトは構わないと答えた。

 「一応、覚えられるものは覚えておきたい。……だが、少し急すぎたな。また教えてくれ」

 「はい」

 少し嬉しそうにはにかむキックリに、こちらも頬が緩んだ。

 すると、道が開いて前方に白い建物が見えてきた。

 「ここが、僕の暮らしてる教会です。ケイトさんは、ここで待っていてください。先に僕が神父様に事情を話してきます」

 そう言って、キックリは足早に教会の中へ入って行った。

 森の中にそびえ立つ教会の白さは、新緑の木々の中で美しく際立っていた。テレビや映画でよく見るデザインの、何の変哲もない教会だったが、初めて見たということとその汚れのない白さに魅入った。

 暫く教会のあちこちに目を動かしていると、キックリが両開きの扉から顔をだした。その後ろからは、齢70ぐらいの老人が姿を現した。

 「神父様、こちらがケイトさんです」

 老人は顔の笑い皺の彫りを深めて、柔らかい笑みを作った。曲げることなくしゃんと背筋を伸ばし、小奇麗な白を基準としたシンプルな服を着こんでいる。

 「はじめまして、ケイト君。ゴードンと申します」

 「……はじめまして」

 ゴードンは柔らかな笑みをそのままに、どうぞ、とケイトを教会へ招き入れる。

 中の作りは、想像していたものとほぼ変わらなかった。礼拝堂を過ぎ、ケイトは奥の部屋、キックリとゴードンが生活しているスペースへと連れられた。

 小さなキッチンとテーブルが配置されており、ここだけ見れば教会とは思えないだろう。

 椅子をすすめられ、ゴードンと向かい合わせに、そして隣にはキックリが腰を下ろした。

 「さて……」

 口元を隠すように手を組んで、両肘をテーブルに付ける。そして、淡いブルーの瞳がケイトに向けられた。

 「異世界から来た、と言いましたか。キックリに話を聞いたときは、とてもじゃないが、信じられませんでした」

 同意するようにキックリが頷いた。

 「おまけに、あなたの様子は突然異世界に来た人とは到底思えない、落ち着きがある」

 「……これでも、内心かなり焦っているんだけどな」

 ため息混じりの声音に、ゴードンは小さく笑みを漏らした。

 「あ、あの神父様。ケイトさんは、その、表情があんまり、出ない方だそうで、だから」

 「あぁキックリ、大丈夫ですよ。あなたが嘘をついているだなんて、思っていませんから」

 「え、じゃあ」

 「ええもちろん。私はキックリの言葉を信じます。つまり、ケイト君の話を信じますよ」

 よかった、とあからさまにキックリの表情が安堵に染まる。笑みを絶やさないゴードンの瞳が、隣にいるケイトをもう一度見て、首を小さくかしげた。

 「おや、ケイト君は驚きませんね」

 ゴードンの言うとおり、ケイトは最初から悠然とした姿でいた。どうやら、ゴードンが最初から自分の話を信じるということを分かっていたようだ。

 「キックリはああも反応してくれたのに」

 「……『話を聞いた時』とか、『信じられませんでした』とか、過去形で話してただろ。普通分かる」

 「おや、そうでしたか。すみません、キックリは単純なので、ついいつもの調子でからかいたくなる。どうやら、あなたはキックリとは全く違うようですね。安心しました」

 「神父様、ひどいです」

 「愛故です」

 ころころと笑うゴードンと呆れるキックリを見て、少し安堵する自分がいた。それは、ゴードンが信じてくれたということに対してと、奇怪な姿であるキックリに、家族のような存在がいたことに対してだった。奇怪な存在ならば常に孤独に過ごしているのか、と疑問を持ったが、森の動物やこの神父が、この少年には傍にいるのだ。その考えは杞憂な物だとわかった。

 「それではケイト君。話を聞きましょう。とりあえず、あなたがこちらへ来たという思い当たる節を、聞かせてくれませんか?」

 その言葉に、ケイトは顎に手を寄せて考え込む。わずかな間の後に、ケイトは口にした。

 「理由は、俺には思い当たらない。ただ、あいつ等は俺が必要だと言った」

 「あいつ等、とは?」

 「変な白い女の子と学校の教師だ。俺は、その2人にここへ連れてこられた。子供の方は全く知らないやつだ。教師の名前はリヒト・ディアルモンド。知っているか?」

 問うと、キックリとゴードンは顔を見合わせる。だが、2人とも記憶には無いらしく、首を横に振った。

 「一応、文書を調べてみましょう。次元をわたるというのは、恐らく相当な力の持ち主でしょう。もしかしたら、何かしら名前が載っているかもしれません。特徴はありますか?」

 「性別は男、歳は20代だ。黒い髪を後ろで束ねている。それから――――」

 一度言葉を切り、ケイトは顔をわずかに顰めた。思い出されるのは、あの冷えた青い瞳と、そして燃えるような赤い眼だった。

 あの両目、そして額にできた三つ目の瞳が、ケイトの脳裏に焼き付いて離れない。

 「ケイトさん?」

 黙ってしまったケイトを見兼ねて、キックリが心配の色を乗せた声音で名前を呼んだ。

 「気分でも?」

 「いや、大丈夫だ。……瞳の色は青だ。そして、そいつが俺をこちらへ送ろうとした時、色が変わった」

 「瞳の色がですか?」

 「ああ。赤い、眼だった。それから、額にも、眼玉が出てきた」

 「――――っ三つ目の瞳?」

 ガタリ、とゴードンが勢いよく立ちあがった。眼を見開き、その言葉に驚愕している。キックリも同じような眼で、ケイトを見ていた。

 「何か、知っているのか?」

 2人が驚く理由を、もちろんケイトは知らない。先を促すケイトだが、ゴードンは視線を落とし、ブツブツとつぶやいている。

 ゴードンは顔をあげ、キックリを呼び何事かを支持する。キックリは二つ返事で部屋の奥へと入って行った。

 「ケイトさん、もしかしたらあなたはとんでもない人に、連れられて来たのかもしれません」

 「……どういうことだ?」

 時間をおかずに、キックリが一冊の古めかしい分厚い本を手にし、戻ってくる。

 「持ってきました、神父様」

 「ありがとう。……ケイト君。あなたの世界では宗教やおとぎ話などの、伝説の類の話はありますかな?」

 「あぁ。国によって、種類も数も多くある。宗教も、同じように信仰する神も多くいる」

 「そうですか。私たちの世界にも、そのような話がいくつかあるのです。たくさんある伝説の中でも、それらの大本となるようなものがあります。私たちの世界では、国や人種関係なく、この話を小さなころから聞かされてきました。この世界に来たからには、絶対に知っておかなければならない、常識の一つです。あなたの話を聞いた後にお話ししようと思っていましたが、今お話します」

 言いながらも、ゴードンはその分厚い本を開いた。そして、最初の1ページを開く。

 「ケイト君はこのディティーラ国の言葉を話していますが、文字は読めますか?」

 「いや、見たことも無い文字だ」

 横書きで書かれた文字の羅列は、どの言語にも当てはまりそうにはない。それを確認したゴードンは、ケイトに向けていた本を、自分の方へと向かせ、さらにページをめくった。

 「これは、この世界が作られた過程が書かれている書物です。簡単にまとめられたものならば、大抵の家庭にはあるでしょう。では、簡単にこの説明をいたします。キックリ」

 「はい。まず先に、僕たちの世界では、神は一つしかいません。ですが、一部の種族では精霊たちを神と呼ぶ種族もいますが、大本の神はどこも一つです」

 「精霊?」

 「精霊と言うのは、水や火、空気などの自然物の一つ一つに宿っている小さな力のような存在です。詳しくは、後ほどお話しますね」

 「私たちはその一つの神を崇拝しています」

 本のページをめくり、中に挿絵が現れる。白黒でところどころ茶色に変色していた。

 「これが、私たちの神です」

 皺のあるか細い指で指されたのは、中心に書かれた黒の背景に浮かぶ白い球体だった。

 「これが、神なのか?」

 「神に形はありません。どんな物にもなれるし、どんな物にもなれないと聞かされてきました」

 「随分と、矛盾してる言い方だな。……この人影は?」

 挿絵に書かれている球体の下には、人の形をした黒い影が描かれていた。

 「神はあるものを作りました。その作った時期は、世界を作った直後なのか、それとも生物が誕生し、文明が発達した時に作ったのかは分かりません」

 「これは神が、この世界に秩序と平和を守るように作られたとも、世界に災いをもたらす物として作られたとも言われています。そして、これが――――」

 そう言ったゴードンがページをめくる。現れた挿絵に、ケイトは小さく息を飲んだ。

 「あなたの言う第三の瞳を持った、人間です」

 挿絵には、真っ黒な人影が中心に、その周りには小さな人影がいくつもある。そして、中心の人影の顔には、眼の部分が白く、そして額にも眼の形をした白い部分があった。そのシルエットは、まさに公園で出会ったリヒトそのものだった。

 「『赤い眼を持ちて、額に三つ目の眼を持ちし者、この世界に秩序と平和を、そして災いをもたらす者なり』と、そうこの本には記されています」

 「この人物について、知っていることはとても少ないです。その存在の有無もわかりません。誰一人、その姿を見た人はいませんから」

 でも、とキックリは続けて、ケイトを見た。ゴードンもまた、本の挿絵を凝視しているケイトを見る。

 「あなたは、この人に連れられて、この世界へ来た」

 「……我々が思っているよりも、事態は複雑かも知れません」

 ケイトの目は本のなかにいる、リヒトらしき人物の絵を映して、離れない。その視線はどこか疲労の色を示している。それを見兼ねたゴードンは立ち上がり、ケイトの傍まで寄り、肩にやさしく手を乗せた。

 「今日は疲れたでしょう。まだ日は高いですが、少しの間休むといいでしょう。それに、一気にたくさんの情報を教えても、頭にはいらないでしょうから。キックリ」

 「あ、はい。ケイトさんこちらです」

 ケイトは口を閉ざしたまま、キックリに連れられ奥の部屋へと入った。その部屋は時たま訪れる旅人を止まらせる客室である。

 ゴードンは二人の姿を見送り、開かれたままの本を手に取った。ページをパラパラとめくり、本の最後の方のページで手を止めた。

 「……あぁ、神よ。災いをもたらすと言われる『記録者』により連れられた少年を、私はどうすればいいのでしょうか」

 神を表す球体を背後に、人型をかたどった白い影に指を添えて、呟いた。

 「神父様」

 「……キックリ」

 戻ってきたキックリが、浮かない顔で俯いていた。

 「ぼ、僕は、ケイトさんが災いをもたらすだなんて、思えません」

 先程の独りごとを聞いていたのだろう。言いにくそうに口ごもりながらも、しかしはっきりとキックリは自分の意見を言った。

 「だ、だって、ケイトさんは、こんな僕に、優しい言葉を、かけてくれました。そ、そんな人が……」

 ゴードンは眉尻を下げ、曖昧にほほ笑んだ。

 「大丈夫ですよ、キックリ。私はケイト君を疑ったりしません。きっと、『記録者』に巻き込まれただけなのでしょう。……そう、思いたいです」

 2人の間にわずかな静寂が流れる。だが、長くは続かずに、ゴードンが口火を切った。

 「さて、そろそろお昼の時間ですね。キックリ、すみませんがイヴァを連れてきてくれませんか? ウロラの森へ山菜を採りに行っているはずです。ケイト君が起きてしまう前に、昼食の準備を済ましてしまいましょう」

 「あ、はい。神父様」

 パタパタと大きな足を動かし、キックリは足早に部屋を出て行った。

 一息ついて、ゴードンは本を片そうと、客室と隣の部屋へと入って行った。




 

 ――――コンコン。

 「はい?」

 ゴードンは、ノックの音に読んでいた本を閉じ、かけていた老眼鏡を机に置いた。

 扉をあけると、先程知り合ったばかりの少年が立っていた。

 「ケイト君でしたか。てっきりキックリかと」

 「…………」

 「立ち話もなんですし、どうぞ中へ」

 無言でケイトは中へ入った。

 「よく眠れましたか?」

 「いや」

 それはそうだろう。彼が部屋に入ってから、まだ30分もたっていない。ましてや、こんな状態で健やかに眠れるはずがない。

 「しばらくすれば、キックリとイヴァという女性がきます。そしたら、お昼にしましょうか。おなか、すいているでしょう?」

 にこやかに言うゴードンとは間逆に、ケイトは眉間にしわを寄せて、眼を伏せていた。

 ケイトを向かいの椅子に座らせて、ゴードンも腰を下ろす。表情のない彼の様子を見て、ゴードンは間をおいてから言う。

 「……この世界へ突然連れられて、不安ですか?」

 「…………」

 「きっと、元の世界へ帰ることができますよ。私も、できる限りのことは協力します」

 「なんで」

 「はい?」

 ぼそりと呟いた言葉を、ゴードンは聞き返す。次いで、ケイトは同じ言葉に少し加えて言葉を発する。

 「なんで、今日初めて会った奴に、そこまでできる? 俺が、嘘をついていたら、どうする?」

 「そんなことはないです」

 わずかな間も開けずに、ゴードンはすぐさまケイトの言葉を否定した。

 「キックリがあなたを好いている。そして、信じようとしている。それだけで、私にはあなたを信用するのに十分すぎるほどの理由になる。……キックリが、あなたのことを説明する時、とても嬉しそうだったんですよ」

 ゴードンは思いだすように瞼を閉じた。

 「一生懸命、異世界から人が来た、と説明してきてね。その表情が、どこか嬉しそうに見えて。あぁ、その人はキックリを受け止めてくれたのかと、そう思いました」

 言葉の節々に、キックリに対する愛情を、ケイトは感じた。

 「キックリは、生まれてすぐに教会の扉の前に捨てられました。驚きましたよ。扉を開けたら、布に包まれた緑色の肌をした赤ん坊がいるのですから。それからは、大変でしたよ。人間とは勝手が違うから、いろいろなことを試して、私が育てました。周りに聞いても、彼らはキックリを白い眼で見て、助けようとはしてくれませんでした。何度も、キックリを手放そうと考えたこともあります。でも、できなかった」

 ケイトは伏せていた眼をゴードンに向ける。ゴードンの瞳はケイトを映してはおらず、ここにはいない緑色の少年を映していた。

 「あの子は、私の息子なんですから。手放すなんて、無理なことでした」

 皺だらけの顔を、さらに皺だらけにして穏やかに笑うゴードンを見て、ケイトは眼を細めた。

 (あぁ、本当に、似ている) 

 キックリに自分自身を重ね、その親のような存在であるゴードンに、塔子を重ねた。自分は、とても幸運なのかもしれない。異世界で一番初めに、こんなにも安心できる存在に出会えることができて。

 ゴードンの微笑みは絶えず、その慈愛に満ちた瞳をケイトに向けている。

 「多くの蔑みを受けてきました。罵声を、この耳で聞きました。奇怪な眼で見られてきました。でも、そんなもの苦にならない。あの子が笑ってくれれば、それだけで私は幸せなのですから。そして、あの子が子であり、私が親である限り、無条件で私はあの子を信じます。そして、あの子があなたを助けたいと思っている。あの子を受け止めてくれた、あなたの力になりたいと思うことは、当然のことなのです」

 それが、親と言うものですから。

 (――――……親)

 別に、ゴードンとキックリを疑ってはいなかった。だが、言葉が自然と出てきたのだ。

 (俺は、落ち着いてなんかいない)

 焦っていた、苛立ってもいた。さまざまな感情を、ゴードンに無意識にもぶつけていたのかもしれない。 

 2人の間の沈黙は、それほど長くはなかった。

 沈黙を破ったのは、ゴードンでもなく、ましてやケイトでもなかった。

 ――――コンコン。

 静けさの中に聞こえたのは、とても小さなノックの音だった。この部屋のドアではない。この部屋はゴードンの私室なのだ。

 「……誰か、来ましたね。少し待っていてください」

 「あの」

 立ち上がったゴードンを、ケイトが呼びとめた。

 ゴードンは目線だけでどうしました、と問う。

 「…………すみませんでした」

 少しの間の後の謝罪に、ゴードンの瞳がわずかに見開いた。ゴードンが何かを言う前に、ケイトがすかさず言葉を紡いだ。

 「それから、ありがとうございます」

 ゴードンを見上げるケイトの瞳は、まっすぐに神父の瞳を見ていた。ゴードンはふ、と表情を柔らかくし、「どういたしまして」と言った。

 ケイトの言葉は足りない。だが、何に対しての謝罪と感謝か、ゴードンは尋ねずにそのまま部屋を出ていく。

 私室にそのまま一人で居座ることはできないので、後に続いてケイトも部屋を出た。そのまま先刻座っていた椅子へと腰を下ろす。

 再度ノックの音が聞こえ、教会の裏口の扉を開いた。 

 「おや、これはこれは。リレイド大佐、どうなされたのですか?」

 「用件は分かっているはずだ。邪魔するぞ」

 ケイトの場所からでは声だけしか聞こえないが、大人の男の声がした。静かすぎる教会では、盗み聞きをしたくなくとも、自然と会話は耳に入ってくる。

 「申し訳無いのですが、客人がいらしているのです。本日はお引き取りください」

 「部下たちは置いてきた。話をするだけだ」

 「ですから……」

 そこで、ケイトは極力音をたてないように立ち上がった。理由は、どこかに隠れるためだ。

 客人と言うのは十中八九ケイトのことだろう。会話から察するに、ゴードンはケイトを、そのリレイドという人物とは会わせたくないらしい。推測だが、大佐となれば軍などに関係する人物だろう。下手をすれば、不審者扱いをされてしまうかもしれない。

 「何故追い出そうとする。……何か隠しているのか?」

 「まさか、そんなことはないですよ」

 「ならば、あがらせてもらう」

 まずい、と思ったころには遅かった。

 荒々しい足音と、ガチャガチャと鉄の擦れる音が近づき、客室のドアに手をかけたケイトと鉢合わせた。

 「……誰だ、貴様は」

 「…………」

 リレイド、という男は太くりりしい眉をピクリと片方上げ、訝しげな視線をケイトに向けた。一方のケイトは、動揺せずに涼しげな顔でリレイドを見上げていた。

 リレイドの姿は、まさにゲームや漫画に出てきそうな騎士の姿をしていた。金糸の刺繍を施された嫌みのない程度の服をきっちりと着こなし、背には裏地が赤い黒のマントを着用している。腰には鞘に収まった剣が下げられている。精悍な顔つきの男は40代過ぎにも見えるが、その鋭い青い瞳だけは若い印象を受けた。

 「もう一度問う。貴様は誰だ?」

 再び問われた言葉に、ケイトは自身の名を言おうか戸惑う。そこに、リレイドの背後から老人がやってくる。

 「その方は私のお客人です。それから、大佐。尋ねるのならばまず自分から名乗るのが礼儀というものなのではないでしょうか」

 ゴードンはそのままリレイドの横を通り過ぎ、ケイトの横へ立った。始終笑顔のゴードンに対し、リレイドの眉間は深いしわが刻まれている。

 「……リレイド=オーベスト=ディティーラだ」

 次はお前だ、と言わんばかりにケイトを見下しながら、顎で示した。

 ケイトは横目でゴードンを見上げる。ゴードンはケイトの眼は見ずにただ笑っていた。

 「……ケイト」

 苗字は言わずに下の名だけを答えた。

 「ケイト、聞かない名だ」

 「彼は旅人でして、つい先程この教会へと来たのですよ」

 素早いゴードンの対応に、ケイトは内心安堵する。やはり、ゴードンはリレイドにケイトの存在を知られたくないのだ。

 「旅人だと?」

 素早くゴードンの言葉に反応し、リレイドはケイトを足元から頭までじっくりと見た後に、怪訝な表情をする。

 「お前、東から来たのか?」

 東、その言葉にケイトは内心狼狽した。この世界の地理など全く知らないケイトはどう反応していいのか分からなかったからだ。しかし、ここでうろたえた様な表情を出せば、せっかく納得しかけているリレイドに怪しまれてしまう。

 すると、やはりここでも助け船を出したのは隣にいる神父だった。

 「えぇ、そうです。彼は東から来たのですよ」

 「なぜこの教会へ来た? 何が目的だ?」

 「リレイド大佐。初対面で詮索するのは失礼ですよ。それに、彼は長旅で疲れています。少々休養を与えてあげたい。お話なら、私の部屋で窺いましょう」

 一歩斜めに前へ出て、ケイトを背で隠すような位置に出る。次いで、リレイドを誘導するように片手で自室の方を示し、もう片方の手でリレイドの背に触れ軽く押した。

 「…………」

 背を押されても、リレイドはその場を動かさずに、ケイトから眼を離さない。ここで眼をそらしたり挙動不審な行為はしない方が身のためだと思い、その青い瞳を見つめ返した。

 「大佐」

 急かすようなゴードンの声音に、リレイドはさらにじっとケイトを見つめると、向きを変えてゴードンの私室へと入って行った。

 私室のドアが閉まる直前、ゴードンの苦笑がこちらに向けられていた。

 「ケイト君。すみませんが、あちらの客室に暫くいてください。それから、もしキックリ達が帰ってきたなら、大佐がいらっしゃると告げておいてください」

 「分かりました」

 小さく会釈をして、扉は閉められた。

 「……はぁ」

 ため込んでいた息がゆっくりと吐き出さる。

 リレイドの視線は鋭く、始終睨みつける様に見つめてきたので、緊張していたのだ。知らずのうちに息を止めていたようで、ケイトはさっさと客室へと移動し、ベッドに座る。

 窓の外は眩しく、部屋の中は薄暗い。どうやら、ちょうど昼間の時間帯のようだ。

 ――――異世界、と言っても、さほど地球とは大した違いはないのだろうか。

 太陽はある。人だっている。言葉だって(名は違うが)一緒だ。文化や土地が違うだけで、大本の世界の構造は一緒なのだろうか。 

 (この世界のルールさえ何とかなれば、暫くは平和に生活できるかもしれないな)

 ケイトは、明日になれば元の世界に戻れる。全部が夢だった。などという考えはない。

 この世界で感じる全てが本物だ。森の景色も、草花の臭いも、感覚全てが本物で、夢ではない。

 そして、簡単に帰れるとも思っていない。帰る方法を調べるためには、それなりに時間がかかるだろう。それは1カ月かもしれないし、数年かけるかもしれない。そして、今のところ唯一の手掛かりは、あの神話だ。

 リヒトは神だったのか? いや、キックリ達は『神は一つ』と言っていた。ならば、リヒトは神ではない、別の存在。『神が作った』……なら天使か何かだろうか?

 「……それはそれで、嫌だな」

 天使の額に、赤い眼があるだなんて、むしろ悪魔にしか見えない。

 嫌な想像をしたと、ごろりとベッドに寝転がり、眠る気も無いのに眼を瞑る。

 ケイトは神を信じてない。家系もどこの宗教も信仰していない。

 いきなり神だとか、何だとか言われても、やはり信じる気は起きない。

 だが、それだけしか手掛かりがないのだから、話は聞いた方がいいのだろう。少しでも可能性があるのならば、それにすがるしかない。

 (キックリが帰ってきたら、詳しく話を聞いてみようか)

 


 ドアの向こうで、トタトタと軽い足音が聞こえ、眼を開けた。部屋は変わらず薄暗い。

 (帰ってきたか?)

 身を起こし、ドアを開ける。

 「ケイトさん。イヴァさん、ケイトさんが起きましたよ」

 最初から起きていた、とは言わずにキックリの視線の先を見る。

 「コンニチハ」

 訛りのあるたどたどしい口調で挨拶をしてきたのは、インド系統であろう20歳前後の女性だった。

 所々装飾のある、だが煌びやかではなく落ち着いた色合いの、長いワンピースを着ている。さらに、肩から腰にかけ、橙色の一枚布を巻いている。黒く、少し青みがかかった緩やかなウェーブの癖のある髪は、腰辺りまで伸びており、右耳に飾った白い花が、どこか彼女に上品な雰囲気を漂わせていた。

 「ハジメマシテ、ワタシ、イヴァデス」

 にこやかに黒い瞳を細め笑みを浮かべる。

 「あぁ、はじめまして。ケイトだ」

 「――――え」

  瞬間、彼女の表情が打って変わり、驚きを隠せないように大きく眼を見開いた。

 「? なにか?」

 「え、え」

 聞いても、彼女は変わらず言葉にならない声を発し、オロオロとしている。

 「ケイトさん、神父様は?」

 「あぁ、ゴードンさんは自室にいる。今、リレ――――」

 「あ、あの!」

 ケイトの言葉を遮ったのは、突然ケイトの腕を両手で掴んだイヴァだ。驚きイヴァを見ると、その眼はどこか焦りの色が見えた。

 「すみません、私の言葉、分かりますか!?」

 「は」

 「ちょ、イヴァさん、落ち着いてください。どうしたんですか?」

 突然のイヴァの叫びに、キックリが止めようとするが、イヴァの勢いは止まらない。

 「私の言葉、分かってますよね!?」

 「何言ってるんだ?」

 突然理解できないことを言うイヴァに、ケイトが顔を顰める。

 「イヴァさん、何言ってるかわかりませんって! ほら、ケイトさん困ってるじゃないですか」

 訛りの無い言葉を必死に綴るイヴァの瞳には、うっすらと涙がたまっている。

 「やっぱり、私の言葉が喋れるんですね! 嬉しい! 私、故郷の言葉を聞いたの、もう何年も前、で……」

 イヴァの勢いが徐々に薄れていき、やがて両手の力も抜けだした。

 なぜなら、その時のケイトの表情が、なんとも形容しがたいものだったからだ。眉間にしわを寄せ、だが怒りではなく困惑を表すようにその眉尻は少し下がっている。

 キックリもイヴァ同様に、そのケイトの表情に何事かと口を閉じた。

 固く結ばれたケイトの口が開いたときに、ゴードンの私室が開いた。

 「どうしましたか、大きな声を出して」

 現れたゴードンの後ろには、リレイドが佇んでおり、先程いなかった人物を見つけて、くわりと眼を釣り上げた。

 「貴様ら、まだこの教会にいたのか」

 まるで汚物でも扱うような低い声音に、2人の肩が揺れる。

 「さっさと、この国を出ていけ。化け物がこの国にいては、国民は夜も眠れない」

 リレイドの言葉と眼には嫌悪感がありありと出ていた。

 「リレイド大佐、何度も言いますが、キックリは」

 「貴様も人が良すぎるぞ、ゴードン。こんな化け物を置いても、何も利益など無いではないか。むしろ、この化け物がいるせいで教会には人が寄りつかなくなった。おまけに」

 鋭い視線はキックリからゴードンへ、そして――――イヴァに向けられた。

 「あのような汚れた異民族を置くなどと、正気の沙汰ではない」

 ビクリと、不自然に彼女の方が震えた。

 「全く、異民族風情がこの国に入り浸りおって。だからこそ、この国の治安が――――」

 「リレイド大佐」

 ケイトの腕を掴んだままのイヴァの手が、小刻みに震えている。

 「今日はどうかお引き取りを」

 隣にいるキックリを見れば、イヴァ同様に俯いてその緑色の肩を震わしていた。静かにキックリの肩に手を乗せると、一度大きく肩を震わせて、顔を上げて無理やりに浮かべた笑みを見せた。

 「なに、まだ話は終わっていない」

 自分は大丈夫、と言いたげだが、そのあまりにも痛々しい苦痛の表情に、ケイトの眉根が寄せられる。

 「ですから、お引き取りください。お話なら、後日またいらしてください」

 有無を言わせぬゴードンに、リレイドは舌打ちをこぼし、マントを翻し玄関へと向かった。数秒の後、荒々しいドアの閉める音が聞こえた。

 「……さて」

 重々しい空気の中、ゴードンは変わらぬ優しげな声音と共に、こう言った。

 「お昼にしましょうか」

 「――――は?」

 思わず間抜けな声が漏れたのは、あまりにも会った時と変わらない笑顔で言ったからだ。

 「それじゃあ、お二人とも、お昼の準備をよろしくお願いします」

 「……ハイ」

 「わかりました、神父様」

 「ケイト君はこちらへ」

 ゴードンはケイトの肩に手を添えて、自室へと入った。

 自室へ入ると、ケイトを座らせて自身も向かいに座る。

 「あの2人なら大丈夫です。リレイド大佐は会うたび会うたび、あのような言葉を言うのですよ。そのたびに落ち込むわけにはいきません。あの子たちは強いですから」

 穏やかに笑うゴードンの瞳には、あの2人に対する心配の色はなく、かわりに安心しきっている、信頼のようなものがあった。

 「それと、今はあの2人ではなく、ケイト君が優先です」

 「!」

 「あなたは、イヴァの言葉を理解していましたね」

 ――――『私の言葉、わかりますか!?』

 ――――『イヴァさん、何言ってるかわかりませんって』

 先程の二人の言葉が思い出される。

 「イヴァは南に住んでいるサラサ族という民族の出です。容姿もこの国の人々とは違い、もちろん言葉も、この国の言語とは全く違うものを話しています。それに、サラサ語はその民族以外は使いません。ですから、この国の人々はもちろん、他の国でも同じ言葉を喋れる人はとても希少です。私も、イヴァとのコミュニケーションのため、お互いの言語を教えあうことをやっていますが、日常会話がやっとできるほどです」

 でも、とゴードンは続けた。

 「ケイト君は造作も無く、イヴァと会話をしました。そして、同時に“キックリとも会話を成立させていた”。あなたは同時に2つの言語を喋ったのです」

 これだけ聞けば、意味のわからないことを言っているのだろう。だが、ケイトは自分がイヴァとキックリ、異なる言葉を同時に理解したことはわかっていた。

 イヴァが片言で話していたのは、慣れないディティーラ語で喋っていたからだろう。そして、訛りが消え、キックリが理解できない言葉で喋ったのが母語だろう。

 「驚きましたよ。部屋の外からイヴァの大きな声が聞こえてね。それに、自分の言葉が解るかと聞いている。キックリもキックリでケイト君の言葉を理解しているようでしたし」

 「……俺は、自分の国の言葉を喋っているつもりだ。ディティーラ語も、サラサの言葉も知らない。それに、同時に2つの言葉なんて、不可能だ」

 「それが普通のことです。でも、あなたはその“不可能”を“可能”にした」

 自分は日本語を話しているつもりだった。だが、キックリとゴードンにはディティーラ語に聞こえ、そしてイヴァにはサラサの言葉に聞こえた。普通はできない。

 困惑の表情を浮かべるケイトと同様に、ゴードンも難しい顔をしている。

 「……あなたは、特別な存在なのかもしれません。神が作った存在に連れられ、そして通常の人間には到底無理なことを普通にやっている。……以前の世界では、そういったことはありましたか?」

 ケイトは無言で首を横に振る。ゴードンは「そうですか」とだけ言い、おもむろに立ち上がり、一冊の本を取り出した。

 その本は、つい先程見せてもらった、あの古ぼけた本だった。ゴードンはパラパラとめくり、リヒトと思われる人物の挿絵が載ったページを開いた。

 「もしかしたら、あなたをこちらへ連れてきた人物が、何かしらあなたにやったのかもしれませんね」

 「……言葉が、通じる様にか?」

 「そのような術は聞いたことがありませんが、あり得ることです。神が創り出したこの人物は、不思議な能力を秘めている、と本に記されていますから」

 「ゴードンさんは、この本に書いてあることを、全部信じているのか?」

 ゴードンはその言葉に、少し目を丸くし、やがて苦笑を洩らした。

 「信じなければ、私は神父を務められませんから」

 「……それもそうか」

 頷くケイトに、ゴードンは緩めていた顔を途端に引きしめた。

 「ですが、教会に勤めていない者でも、大抵の人々はこの神話を信じています。ケイト君は違う世界の方ですから、信じる信じないはご自身で決めてください」

 至極真面目な表情で言われ、ケイトが少しばかり身構えた。老人の瞳は、先程まで談笑していたものとは違う真剣味を帯びていた。

 一度間を置いて、ケイトも同じように真剣な瞳でゴードンを見返した。

 「俺は、今まで無信教でやってきた」

 “困った時の神頼み”などという甘い考えは、とうの昔に捨てた。それこそ、両親があの不幸な事件で失くした時に。神に祈ったところで、現状など変わりはしないことを、ケイトは誰よりも理解していた。困難に立ち向かう時、自分の力と、そして他者の協力があってこそ、乗り越えられるものだと。

 「この世界でも、それは変わらない」

 一泊置いて、ゴードンは柔らかな笑みを携えて「そうですか」と言った。

 「それはとても結構だと思います。ですが、この国でラフ教について否定的な言葉は、なるべく避けてください。そうでなければ、信仰している人々に反感を買うかもしれませんから」

 「分かってる」

 「それから、もし誰かにラフ教関係のことを尋ねられたら、“東の出だ”とおっしゃってくだされば、大抵のことは回避できると思います」

 「東……。さっき、リレイド……大佐も言っていたが」

 「最近、ディティーラ国と交流を始めた小さな島国です。噂によると、そこはラフ教とは違う宗教を持っているそうで。それに、人々の信仰は自由だそうですよ。ケイト君のように、無信教の方もいるらしいです。大佐がケイト君を見て、東の出だとおっしゃったのは、ケイト君の顔つきや肌の色は、このディティーラを含んだ周辺の国にはいません。黒い髪に黒い瞳は、東の方に多いらしいので、大佐もそう納得したのでしょう」

 この世界で言う、アジアの部類に、東は入るのだろうか。恐らく、ディティーラ出身であろうゴードンとリレイドは白人で、ヨーロッパ人の特色を思わせた。ここを地球と同じように考えると、恐らく東の島国とは日本の位置にあたるだろう。

 顎に手を当て思案に暮れるケイトを見兼ねて、ゴードンはケイトに訊いてみる。 

 「自分と同じような人間がいる国が、気になりますか?」

 「……気にならないと言えば、嘘になる」

 そう言ったところで、キックリの昼食を告げるノックの音が、部屋の中に響いた。






===***===




 ゼノと行動を共にして、2人がこの体について分かったことが3つある。


 その1、“体の五感や感情・思考を共有している”。


 現在、シズルはそれについて激しく羞恥の心を持っていた。

 顔を真っ赤に染めてシズルは下っ腹に力を込めている。そう、まぎれも無く尿意だ。

 「ねぇ、あんたどうにかなんないの」

 『無理だな』

 「ふっざけんじゃないわよ! あんたが見てる前でトイレ済ませって言ってんの? あり得ないわ!」

 『お前が目を閉じながらやりゃあ済む話じゃねぇか』

 「そんな高度な技できるとでも思ってんの!?」

 『ぐだぐだ言ってねぇで、さっさとすんぞ! 俺だってお前の体なんだから、もう限界近いんだよっ!』

 お互いに切羽詰まった声で叫ぶ。実際には叫んでいるのはシズルだけなので、傍から見れば気狂いと思われても仕様がない状態だろう。まだ遺跡からそれほど離れていなく、木が茂る人気のないところだったのが救いだった。

 必死に打開策を考えるシズルとゼノ。しかし、こんな状態では策など浮かんでくるはずもない。おまけに、2人がシズルの体を共有し始めてまだ数時間しか経っていない。未だ把握しきれていない現状ではどうすることもできないのだ。

 頼みの綱は、ゼノだけだ。

 「ゼノ、本当どうにかしてぇ」

 シズルの顔は先程まで我慢のしすぎで赤かったが、そろそろ限界のようで逆に真っ青になりつつあった。我慢は体に毒とよく言うが、このままでは本当に毒どころかせっかく手に入れた大事な体がぶっ壊れてしまう。いよいよもって焦り出すゼノは、駄目もとで叫ぶ。

 『よし、シズルちょっと動くぞっ!』

 「え? ――――っきゃあ!?」


 その2、“体の主導権は変わることができる”。


 シズルの意思関係なく、足が勝手に動き始める。

 「ちょっと、いきなり動かないでよ!」

 『ちゃんと断りいれただろうが!』

 普段の主導権は、もともとの体の持ち主であるシズルである。しかし、1つの体で2つの心を持つ特異なこの体は、入れ替わり立ち替わりと自由にどちらか1つの心が思いのままに動かせるのだ。体の動きはもちろん、ゼノの言葉も表情さえもシズルの体で表現される。シズルはゼノが動いている状態の自分の顔を見たことがないが、ゼノは眉間に常時皺を寄せているので、鏡を一度見ればシズルはきっと憤慨を表すだろう。

 最初、ゼノの右腕がシズルについた時、気を失ったシズルに代わって遺跡を脱出したのは、主導権を握ったゼノである。どちらか一方の意識が失えば、もう片方が強制的に出てくる仕様らしい。

 意識がある状態でも、ゼノが強く望めばシズルの体は自由に動かせる。しかし、この体の本来の持ち主であるシズルが本気で抵抗を見せればゼノは太刀打ちできない。

 今は共に尿意と奮闘しているので、策があるらしいゼノにおとなしくシズルは身を任せていた。

 シズルの体はゼノによって近場の柔らかそうな砂地に屈みこんだ。そのままゼノは手で泥の混じった砂を書き集め始める。

 『あんた、何やってんの?』

 皆目見当もつかないゼノの動きに、シズルはたまらず問いかけた。

 「あぁ、泥人形を作ってる」 

 女性の高い声で告げられたゼノの言葉に、シズルはこの非常時に何をやっているのかと一気に腹が立ち始める。

 その感情を汲み取ったゼノが、やはり切羽詰まった声音でシズルを制した。

 「まぁ落ち着け。俺がこの絶望的な状況を変えてやるよ」

 青い顔で、我慢のせいで声音が震える彼はあまりにも頼りがいが無かった。しかし、もはや文句を言っても始まらない。

 『よくわかんないけど、早くして。もれちゃう』

 「耐えろ! どっちかが諦めたらもう終わりだぞ!」

 神速の動きでゼノは必死に両手を動かした。数秒後、歪な五体満足の泥人形が出来上がる。四肢は歪み、目玉らしき所と口元はくぼんでいて、一応耳と鼻もあるがその様はさながらゾンビのようだ。まるで幼児が作ったとも思われそうなその壊滅的な美術作品に、尿意を忘れシズルは『うわぁ……』とひきつった声を漏らした。

 「なんだよ! 文句あっか!!」

 『別に、無いけどさ。なんていうか、……ないわぁ』

 「うっせぇ、黙れ!」

 拗ねたように唇を尖らせるゼノに、実際のゼノの体でこの仕草をしたらきっと気持ち悪いんだろうなぁ、としみじみ思っていた。

 「失礼なこと思ってんじゃねぇよ! もうお前死ね!」

 『死んだらあんたも死ぬわよ』

 「るせぇ、黙って見てろ!」

 なんと横暴な。

 ようやっと目的を果たそうと、ゼノは右腕をその泥人形に当てた。

 「これは実験も兼ねてる。失敗するかもしんねぇが、まぁなんとかなるだろ」

 ゼノが目を閉じ、2人の視界が消えた瞬間、シズルの体に衝撃が走った。

 「――――っ、……え」

 声を発し、瞼を開けたのはシズルだった。まるで背中から空気の塊が通り抜けたような感覚だったが、どこにも体に異常は見当たらない。

 「え、ゼノ? あんた一体何したのよ?」

 数秒待つが、ゼノからの返事は来なかった。それどころか、今まで感じていたはずのゼノの存在が感じられない。

 頭を無意識に押さえ、ゼノを探そうと意識を集中させた。右腕を確認するが、やはり自分の体にしっかりとついていた。

 すると、シズルの視界の端、に茶色い物体がもぞりと動いたのを感じた。恐る恐る、シズルの目がその茶色い物体に向けられる。

 「…………、き、きゃぁぁぁ! 動いたぁ!!」

 どろりと、泥を多少こぼしながら、そのゼノが作った土人形が動き出したのだ。そのホラーにでも出できそうな不気味な姿に、恐怖心から叫び声をあげた。ついでに言うと、シズルのトラウマである遺跡の土人形にわずかに似てることから、無意識にシズルは踏みつぶそうと足を振りかざしていた。

 左右長さの違う足でやっと立てた泥人形は、足元に差した影にすぐさま前に倒れこんで、シズルの攻撃をかわした。

 「キモい! こっち来ないでぇ!!」

 シズルの再度上げられた足に泥人形がわたわたと動き、片足がぼきりと崩れたところで、今度こそ動けなくなってしまう。

 そして、シズルの足がその泥の体にあたる直前に、もう一度体に衝撃が走り、その足は止められた。

 「てっめぇ、何しやがんだぁ!! 俺を殺す気か!」

 『あれ、ゼノ!?』

 突如戻ってきたゼノの気配に、驚きの声を漏した。

 そのまま主導権を握ったゼノは、振りかざされた足を地面に下ろした。間一髪のところで救われた泥人形の無事を確認し、安堵のため息を吐いた。

 『え、どうなってんの? あんた今までどこ居たの?』

 「……お前が潰そうとした奴の中だよ」

 『え』

 

 その3、“ゼノの魂は別の入れ物に入ることができる”。 

 

 「まさか、本当にできるとは思ってなかったぜ」

 『じゃあ、さっきまで動いてたのは、ゼノが乗り移ったせい?』

 「そういうことだ。まったく、本当死ぬかと思ったぜ」

 『先に言ってよ』

 「なにさも俺のせいみたいな声で言ってんだよ」

 若干の怒気を含んだ声に、シズルは『しょうがないでしょ』と続ける。

 『だってキモかったんだもん』

 「……ガチでぶっ殺すぞてめぇ」

 ゼノが自分の美術的センスに絶望したところで、もう一度ゼノは人形の中へ入り、ようやっとシズルは用を足すことができた。

 その後、すっきりした面持ちで帰ったシズルとともに、2人は何の魂も入っていない泥人形の前で座り込み、話しこんでいた。

 まだまだ謎の多いこの体。それを少しでも多く把握しなければ、これから楽に暮らしてはいけないだろう。さらなる発見が、この体にはあるかもしれない。

 「他の物に乗り移れるってことはさ、別に私の体じゃなくてもいいんじゃないの?」

 乗り移れるということが分かり、一番最初に思ったのはこの疑問だった。シズルとしては、自分の体が好き勝手に動かされることに対して、あまりいい思いはしていない。かといって、彼がこの体から出ていくとなると、それはそれでこの世界で生きていく上では不便で、認めたくはないが独りきりとなり寂しいという感情があるのだが。

 しかし、そのシズルの思いとは裏腹に、この疑問をゼノは簡単に答えた。

 『いや、やっぱお前の体じゃなきゃ駄目だ』

 あの不気味な泥人形に乗り移って分かったことらしいが、まず第一にあの体は不自由らしい。やはり即席で作ったということもあり、バランスの取れていない四肢では動き辛い。さらに、乗り移れたとしても所詮は泥。手足でかろうじて動けはしたが、その他の視覚、聴覚と言った五感が機能していなかった。彼がシズルの足を避けられたのは、彼の第六巻というもので気配だけを察知して避けたという。全体的に考えて、ああいった人形で行動するのは無理に等しいというわけらしい。

 「人形じゃなくてもさ、他の人に乗り移ったりとかは?」

 『それも駄目だ。俺とおまえは、その右腕で体的にもつながっているから、魂も同じ体にいても今のところ拒絶反応はないんだ。だが、俺の体の一部を何も持っていないただの人間に乗り移ろうとしたら、多分弾かれる。……まぁ、死体とかはまた話が違ってくるだろうがな』

 全ては推測だが、あながち間違ってはいないだろう。

 『あと、お前が便所しに少し離れただろう。その時体になんか違和感があった』

 まるでシズルの体に、魂が引き寄せられるような感覚だったとゼノは言う。シズルはそのことを聞いても想像しがたいことなのだが、黙ってゼノの言葉を聞いていた。

 『あくまで俺の母体は右腕だ。母体から離れれば、魂は引き寄せられ強制的に体に戻るだろう』

 「そうなんだ」

 『まぁ、わかんねぇけどな。とりあえず、お前と別れることはねぇから、安心しろよ』

 まるであやす様なそのらしくない優しい声音に、ボッ、とシズルの頬に朱がかかる。

 「べ、別にあんたと別れたくないとか、思ってないから!」

 『はいはい、ソウデスネー』 

 もちろん、シズルの考えていることなど筒抜けである。からかいまじりの笑い声を洩らすゼノに、シズルは赤くなった顔を紛らわそうと必死に話題を変えようとふためいた。

 「て、てかさ、あんたホント不器用ね」

 『あぁん? 文句あんのかよ』

 「チンピラみたいな声出さないでよ」

 改めてその例の物を見ると、やはりひどいものだ。これならシズルが作った方が何倍も良いものが作れただろうに。

 『そう思うんだったら作ってみろよ』

 不機嫌丸出しで告げられた提案に、「やってやろうじゃない」と乗り気になったのは、やはり先程のことで火照った気持ちを冷ますためだ。

 「私がもっといい体作ってあげるわ」

 すでに泥だらけとなった左右違う肌の色をした両手を動かし、シズルは作品を作り上げる。

 そして、数分を経たずにできた作品に、ゼノはなんとも言えない声を出した。

 『お前……人の事言えないんじゃねぇのか?』

 「なによ、いいじゃない! かわいくない?」

 『いや、かわいいかきもいかって訊かれたら、そりゃあかわいいかもしんないけどよぉ』

 ゼノの作品と比べて、歪な形ではなかった。というより、歪どころか滑らかな曲線だけであって、決して気持ち悪い形ではなかった。しかし、なんというか。

 『これ、頭だけじゃねぇか』

 そうなのだ。全く持ってパーツが足りないのだ。おまけに両目はあるが鼻が無く、口も無い。とりあえず丸い平らな泥が目元に乗っかっているだけ。

 不細工とは言えない。かといってかわいいとも言えない。単純な構造のため、微妙だ。余談だが、彼女の中学時代の美術の成績は、5段階評価で2である。

 「何よ、文句あんの?」

 『今まで散々俺の作品に文句言ってたくせに、俺の文句は受付ねぇ気か』

 「却下よ」

 『クソが』

 「それよりもさ、こっちに乗り移ってみてよ」

 シズルの提案に、ゼノはしぶしぶと言った感じで右手をその丸い物体に近付けた。目を閉じるが、先程の衝撃は起こらない。

 『ゼノ?』

 暫くしても何一つない変化に、たまらずシズルが声をかけた。

 「あぁ? できねぇな」

 意味が分からないと首をかしげる。先程と何が違うのだろうか。憑依には特別な条件でもあるのだろうか。

 並んだ2つのお互いの作品を見比べて、ゼノはおもむろにシズルの作品に手を出す。

 『ちょっと、勝手にいじくんないでよ』

 ゼノは泥の頭に、小指で小さな穴をあけていく。鼻、口、そして耳の穴をつけ、先程までギリギリかわいいと言えていた物体が見るも無残な形となる。

 次いで泥を掻き集め、その頭に胴体と四肢をつける。隣の物体と指して変わらない歪な形となった五体満足の人形に、再度右手を掲げた。すると、目を閉じた一瞬のうちにもう一度あの衝撃がシズルの体を通り抜けた。

 「ゼノ?」

 もぞもぞと動き始めた自分の作品に、シズルは顔をひきつらせた。やはり、何度見ても泥の塊が動くさまは気持ち悪い。

 しかしそれも3秒もすればすぐにゼノが戻ってきて事なきを得た。

 「おかえり」

 『おう。あー、たぶん俺が乗り移るには、手足とか人間にとって必要な部分が無いと駄目らしいな』

 「そう……」

 『とりあえず、トイレとかになったら即席でなんか作るか』

 「そうね。――――ねぇねぇ、人形とか持ち歩いてたら大丈夫なんじゃない?」

 すると、ゼノは煮え切らない声を漏らした。

 『あー、そりゃあ便利だろうな。すぐに入れるし。でもなぁ』

 「何よ」

 『人形とか持ってるとか、恥ずかしくね?』

 その言葉に、思わずシズルは噴き出した。もちろん、憤慨を表したゼノの言葉が脳内に響くのだが、シズルは構わずに笑った。

 「あ、あんた変なところで気にするのねー」

 『うっせぇな。キモいだろうが、俺が人形持ってるなんて』

 「まぁ、確かにあんたが持ってたら引くわ」

 まだどんな顔をしているのか全く分からないが、少なくともこの細みだが筋肉のついたたくましい腕の持ち主なのだから、きっと自分たちが想像する人形は似合わないだろう。

 「いいじゃない。私が持つんだから」

 『精神的に嫌なんだよ』

 本気で嫌なのだろう。声音がそう物語っていた。それに益々肩を震わせて笑うシズルに、ゼノの機嫌はさらに下降していく。

 『もうお前黙れ。ほら、とっとと進むぞ。道草食いすぎた』

 そう言って、シズルの体は無理やり立ち上がらされる。太陽はまだ高い。しかし、この地平線まで何も見当たらない景色では、恐らく人気のある場所に着いたとしても、最悪何日かかかってしまうかもしれない。

 「進むって言っても、どこに行けばいいのよ」

 このまま野垂れ死に、ということもある。おまけに、じりじりと焦がすような太陽の熱に、シズルは喉の渇きを覚えていた。この世界の季節感がどうなっているのかわからないが、この暑さは地球と同じ夏を思わせる。

 シズルの問いかけに、ゼノは暫く考えたような声を洩らすと、やがて『適当に進め』というなんとも責任の何も感じない答を出した。

 「はぁ? それ本気で言ってんの?」

 『超本気だ』

 「もう、あんた本当あり得ないわ」

 思わず項垂れてしまう。

 しかしシズルがこうもなってしまうのも無理も無い。かれこれ結構な時間を歩いている。もともとシズルは忍耐力などと言う物は持ち合わせていない。ここらが彼女の限度だろうと、シズルの感情流れ込むゼノは理解した。

 しかし、ここで諦めたら何もできない。

 そこで、ゼノは提案する。

 『よし、俺が歩くからお前はちょっと寝てろ』

 「……なにそれ」

 彼女の声は疲れと喉の渇きから、掠れていて低い。

 『肉体の疲労は変わりねぇが、気持ち的には休んでおけってことだ。気分だけでも休めれば、気休めぐらいにはなるだろ』

 「そんなもんなの?」

 『そんなものだ。そうときまったら、交代すっぞ』

 途端に、ゼノの意識が強く強調し始め、シズルの体を動かすという気だるさが薄れていく。無事交代できて、シズルはゼノに体をゆだねた。

 「さて、行くか」

 ゼノに寄り再度歩き始めたシズルの体は、また当ても無く広大な大地を進む。

 『どうやって寝るのよ』

 「適当にボーっとしてれば寝れんじゃね?」

 『本当適当ね』

 「それほどでも」

 褒めていないのだが。

 あぁでも、ゼノの言うとおり、疲労からかシズルの意識は朦朧としてきた。大地を自分の足が踏みしめているという感覚はあると言うのに、意識だけがぼうっとしていて違和感がある。

 『私が寝たら、体も、寝るなんて、ことはない?』

 「大丈夫だ。現にお前の体はしっかり動いてる」

 舌足らずなシズルの言葉とは全く違う、はっきりとした口調でゼノは答えた。本当に意識だけが眠気をもたらしているようだ。なんとも不思議な体験に、シズルの意識は途絶えた。

 「シズル?」

 感じていたシズルというもう一つの気配を捜し名を呼ぶが、返事がない。どうやら、一つの意識だけが眠るということは成功したらしい。

 体が活動している状態で、彼女がどうやって起きるかは不明だが、起こそうと言う気も無かった。

 「……ふう」

 ゼノは足を止め、一度息を吐き出した。それから、肩に下げている彼女の本来の右腕が入っている布を、しっかりと再度きつく体に縛り付ける。

 手首と足首、それから体全体を伸ばしてストレッチをする。最後に首を左右に倒し、ゼノの体は動きを止めた。

 「うし、走るか」

 シズルが聞こえているということはないのに、独り言をこぼしたゼノは、シズルの足を前に出した。

 長距離を走るため、ペースを考えた安定した動きで、ゼノは颯爽と立ち並ぶ木々の間をかけて行った。

 森とは言えない、どちらかと言うとサバンナに近いこの平地を、ゼノは駆けていく。

 早速息の上がり始めたこの体に、ゼノは舌打ちをこぼした。

 (やっぱ、コイツ体力無いな)

 眉間に皺を寄せたゼノは、息が乱れる中わずかにペースを落とした。

 (運動とかしなかったのか? クソめんどくせぇな)

 彼の中で、シズルはあの遺跡から抜け出せた恩人とも言える存在だ。彼女に悪態を吐くのは彼自身いただけないものを感じるが、しかしこうまで体力がないとそうも言ってられない。

 シズルは幼少のころこそ父に武道を教えられ体力はあるが、今はただの女子高生。父の教育の賜物として、平均よりも体力や力等のものは他の女子高生よりもやや上だが、それでも男のゼノから見れば非力なものだった。

 (こんな体じゃあ、俺の目的は――――)

 この激情は、記憶を失くしても確かなものだった。まだ正体もなにもわからないが、なんとしてでも憎しみの対象である“なにか”を見つけ出したい。

 無意識に噛みしめた唇から、鉄の味がした。シズルの体だが構うことはない。

 (なんとしてでも、見つけ出してやる)

 ゼノは焦っていた。眠っていた時は焦りというものは感じなかったが、今ははっきりと感じている。もしその対象に出会った時、この体のままでは目的が果たせないかもしれないと考えたからだ。

 全ては自分の想像でしかない。魂がシズルから離れられない今、そのあっているかもわからない想像に合わせてこの体をどうにかしなければならない。この力もなにもない女の体を。

 (せめて、体力だけでも……)

 息を乱し、走る理由はそれのためだ。

 彼女が眠った時に走り出したのは、きっと反対するだろうかと思ったからだ。シズルが全力で抵抗すれば、ゼノは実行できない。だからこそ、ゼノはシズルが知り得ない時に体力を高めようとしたのだ。

 熱く降りかかる太陽の日差しを受け、ゼノはひたすら走る。

 人気のある場所を求め、そしてこの体を自分の満足のいくところまで高めるために。

 ――――ッガタガタ。

 遥か遠くからの音を聞き取り、ゼノは速度を緩めた。荒い呼吸を繰り返し、音の根元を探そうとあたりを見回す。

 ガタガタと、何度もする音は人が走る音ではない。まるでこの石が多い平地を車輪のついた車で走っているかのような音。それから、ドタドタとその車を引くであろう動物の足音も聞こえてきた。

 平地の遥か遠くに、小さな黒い点を見つけ、ゼノは目を細めた。その点は次第に大きくなる。砂煙を巻き起こすその車に、ゼノは自然と口角が上がるのが分かった。

 「シズル、目を覚ませ」

 徐々に近づいてくるその物体。しかし、シズルは反応を示さない。ゼノは目を閉じて、彼女を目覚めさせようと意識を集中させる。

 (シズル! 起きろ!)

 『え!? なに、呼んだ?』

 まるで跳ね起きたかのような反応をしたシズルは、瞼を上げた光景に途端に声色を輝かせた。

 『あれって、もしかして馬車かなんか!? やっと人に会えるの!?』

 「あぁ、たぶんな」

 嬉しい、と感激の言葉を言うシズルに体を明け渡す。すると、その物体の正体が分かるほどの距離まで近づいてきた、馬を2頭引いた薄汚い馬車を視認する。

 「おおーい!!」

 声を張り上げてその馬車に向かって両手を振る。左右色の違う腕が頭の上で左右に揺れているのを、馬を引いている者が見つけたのか、わずかに進路を変えてこちらに向かってきた。

 「わかってくれたかしら?」

 『あぁ』

 短く答えたゼノの固い声に、シズルは違和感を覚えた。

 「嬉しくないの?」

 『いや、嬉しいさ。でもな、シズル。あまり、警戒心を怠るな』

 「なんで?」

 まだ遠いが、その馬車の形は大きい。恐らく2,3メートルはあるだろう。木材の屋根と壁に囲まれて、中身はわからないが正面に座る馬を引く人物は男のようだ。

 『こんな何もない場所に、あのでかさの荷車だ。良くて商人、悪くて盗賊か何かだろう』

 「えぇ? 盗賊? ウソ、逃げた方がいい?」

 『いや、もう遅い』

 彼の言うとおり、馬を引かせた荷車はもう逃げられない位置まで近寄ってきた。そして、戸惑いを見せるシズルの目の前で、砂塵を撒き散らしながら停車する。

 『シズル。あまり下手なことは言うなよ。それから、声を出して俺に答えるなよ』

 了承の意を込め頷くと同時に、高い位置から布で顔などの肌を隠した男が降りてきた。

 「お譲ちゃん、どうしてこんなところにいるんだ?」

 低い男の声は優しげだ。しかし、逆にその声音がゼノに不信感を抱かせている。ゼノの気持ちを感じたシズルが、曖昧に苦笑を洩らして答える。

 「え、えっと、その道に迷っちゃって……」

 我ながらおかしな言葉だと思った。こんなところに歩きで、ましてや女性一人で道に迷うなど、あり得ないようなことだ。しかし、無理な言い訳を気にした風でも無く、男は優しく同情を示す様な声音で答えた。

 「そうかい。そりゃあ大変だったね。どうだい、近くの村まで乗せてってやろうか?」

 わずかな布の隙間から見える目は微笑んでいるのか、目元が和んでいる。だが、2人はその瞳が怪しげに何かを企んで笑んでいるようにしか見えなかった。

 (ゼノ、どうしよう)

 『ここで野垂れ死になるよか乗った方が安全だ。いざとなったら俺がこいつら蹴散らして逃げる』

 「ありがとうございます。助かります」

 ひきつった笑みを浮かべて、シズルは男に手を引かれて馬車の後ろに回った。男のごつごつとした手はシズルの左手を握って離さない。その力加減から、男がシズルを逃さないよう掴んでいることは丸わかりだった。

 「中には水もある。ゆっくり休んでおくれ」

 ガタリ、と両開きの扉から除かれた光景に、シズルは驚愕する。

 男のいやしい笑みとは間逆の、まさに“絶望”がこの中にはあった。

 『――――こいつ、人売りか!!』

 ゼノの嫌悪がありありと浮かばれた言葉に、シズルは顔を歪めた。

 荷車の中にいたのは、数えて5人の男女と子供が入っていた。どの人達も手を後ろ手に拘束されて、虚ろ気な瞳を空に投げかけていた。さらには入り口に2人の男が見張るように座り、手には暗闇の中に鈍く光る刃物が握られていた。

 思わず恐怖に震えると、その震えを逃げようとした動きととらえたらしい男が、シズルの左手を痛いほど握る。

 「おっと、逃げようとは思うなよ。女は高く売れるんだ。殺したくはねぇ」

 懐からナイフを取り出し、下品な笑みを浮かべてシズルの喉元につきたてた。短い悲鳴をこぼすシズルが恐怖に怯え抵抗を示さないとわかると、男はシズルの背を思い切り押した。

 「ぜ、ゼノ!」

 「誰かいんのか?」

 シズルが出した声に、男は仲間でもいるのかと思いあたりを見回すが、人気は見当たらない。

 『馬鹿、声出すんじゃねぇ』

 (だって!)

 『今はとりあえずおとなしくしろ。殺されてぇのか!』

 中にいた男たちに腕を取られ、荷車の中にシズルの体は入り込む。男はロープを取り出し手早くシズルの手首をひとまとめにした。

 「お前、面白い刺青してるな」

 一人の男が、赤褐色に入った蔓の刺青をまじまじと見て言った。

 「その女、顔はまだいいが腕のせいで台無しだな。こりゃ売れねぇな」

 「まぁ、奴隷か何かで500ロウぐらいは取れるだろ」

 (ロウって?)

 『通貨だ。ってことは……』

 「おい、ここは“カナガト国”か?」

 突然落ち着いた声音で、さらには先程までの恐怖の表情を彼方へ持って行ったゼノに、男たちは訝し気に肩眉を上げた。

 「あ? 当たり前だろう。他にどこがあるっつうんだ」

 「ここはカナガト国の南に位置する場所だ。お前さん、どっから来たんだ……?」

 怪しむ男の瞳を無感情に見上げて、ゼノの手は大人しく縛りあげられた。

 『ゼノ、カナガト国って』

 (俺が知っている知識では、東の小さな島国だった気がする)

 ゼノの記憶はない。しかし、どうやら“思い出”という感情的部分のみ欠落しているらしい。この世界で暮らしていくに必要な“知識”は頭に残っていたらしいことに、少なからずの安堵を感じた。だが、その知識をどうやって手に入れたかという経過はわからないあたり、不便なのかどうなのかは判断しにくいものだ。おまけに、ゼノはどのくらい長い時間をあの遺跡の中で過ごしていたのかが分からない。古い知識でどこまでこの世界に通用するかどうかが問題になってくる。

 両手を固く結ばれ、シズルの体は乱暴にもその場に押され、さほど広くも無い馬車の中に体をおさめた。

 扉は閉められ、ところどころある木々のわずかな隙間にしか日は差さない暗闇となった。

 警戒を怠らない鋭い視線を、ゼノはあたりに投げかける。その瞳は、先程怖がって震えていた少女のものとは、まるで別物のような眼光だった。

 シズルの体の中で、2人の会話は続けられる。

 『ねぇ、どうするの?』

 (こいつらは多分売り場に向かってる途中だろ。頃合いを見て脱出する)

 『そんなことできるの?』

 (俺に任せろ。遺跡のときだって、俺はちゃんと脱出した。俺を信じろ)

 『……わかった。全部、任せるわ』

 完全に体をゼノに明け渡し、シズルはこれ以上なにも言わなかった。

 ゼノは周りを盗み見て、敵の位置を把握する。シズルが座っている場所は、進行方向から見て右手の壁際にいる。シズルの左隣には恐怖に体を震わせている同い年ぐらいの女の子がいた。低い鼻に黒い瞳。そして肌の色は白くも黒くもない。目の前にいる彼らも女の子と同様に、一目でシズルと同じような人種とわかる容姿をしている。男たちも布の隙間から見える肌色から、シズルよりも多少は浅黒いが、同じような人種だと感じた。

 扉を背にして座る男と、向かいの壁に座る男。そして馬を引いている男。両手を縛られている状態でどうやって3人を負かそうか。思案するが、なかなかいいアイデアは無い。

 脱出の方法が思い浮かびそうにないゼノに、シズルが次第に不安の色を濃くしていることが伝わる。思考を伝え合うことができるのは便利だが、しかし今の状態ではゼノを焦らせている原因になるだけだった。

 険しい表情を浮かべるゼノに、右手から小さな声がかけられた。

 「ねぇねぇ、大丈夫?」

 心配げな顔を浮かべているのは、小さな子供だった。まだ10歳前後だと思われる子供は、少年とも見えるし少女とも見える、中世的な顔立ちだ。ゼノから見て右側の髪を伸ばし、逆に反対側は短いアシンメトリーの髪型をした子供の髪色は、暗闇で見えないが暗い色をしていた。

 「怖い?」

 こぼれおちそうなほどの大きな瞳で見つめられ、ゼノは我に返りぶっきらぼうに答えた。

 「いや、大丈夫だ」

 「そっか。良かった」

 そう言ってにっこりと笑った子供は、この場所になんとも似つかわしくない安心しきった顔だった。恐怖の欠片も感じないその違和感のある顔に、子供だがゼノは少し顔を顰める。

 「お前は、怖くないのか?」

 「うん」

 頷き即答する子供に、シズルが感心したような声音をこぼした。

 (ちっちゃいのにしっかりしてるね、この子)

 しっかりしているどころの話ではないだろうと、シズルに答える。この子供は、まるでどこか旅行にでも出かけるかのように落ち着き払っている。自分がこれから売り飛ばされるという懸念が一切ないような気配だ。

 見かけは可愛い無害そうな子供だが、どうにも怪しく思い、ゼノはたまらず子供に問う。

 「どうしてそんなに落ち着いているんだ?」

 すると、子供はゼノをまっすぐに見て、微笑んだ。

 「助かるから」

 「なに?」

 その言葉に、肩眉を上げゼノはますますこの子供にたいして疑念が湧き起こる。それに感化され、シズルも同様に子供を不審がる思いが生じる。

 「どういうことだ」

 「助かるよ」

 もう一度、少女は笑みを携えながら言葉にする。その声音はもはや抗えない決定事項のように感じた。

 「待ってて、あと少し。1時間もすれば、村に着くから。そこにね、黒が来るよ」

 “黒”、果たしてそれは人なのだろうか。それとも闇を意味する夜のことか。その言葉に含まれた意味を、2人は理解できない。

 すると、前方から豪快な男の笑い声が馬車内に響いた。

 「はっはっは! お譲ちゃん、そいつの言うことにいちいち振り回されちゃあいけねぇよ。そんなガキの言葉に、希望を見いだいしちゃあいけねぇ」

 少女の笑顔とは全くの逆の下劣な笑みを、馬車内にいる2人の男は浮かべている。向かいの男は続けてこう言った。

 「ここを通る前の村で、迷子になってるこのガキを見つけたんだけどよ。最初はおとなしかったけど、この土地に来るちょっと前から同じようなことしか言わねぇ。『黒が来る、黒が来るよ』ってな。自分は助かるって豪語してやがる。終いには、俺達悪党は皆その黒とやらに殺されるそうだぁ。大した預言者だぜ」

 「最初こそここにいる奴らも、このガキの言葉に喜んでたがな。まぁ、今じゃこの通りだ」

 男は周りにいる“商品”を示すように片手を上げた。彼らの絶望を映した瞳は、俯いた状態のまま動こうともしない。彼らの耳には、子供を含めた人間の言葉など、もはや聞こえていいないのだろう。

 「黒は来るよ。おじさん達は、死んじゃうんだ」

 子供の声に、男たちは大声をあげて笑う。しかし、それを気にした風でもなく、子供はゼノを見上げた。

 「黒は、お姉ちゃんを訪ねてくるよ」

 「……俺を?」

 だが、子供は先程の言葉とは違い、首を横に振った。その次に子供の口から出された言葉に、ゼノとシズルは驚愕する。

 「違う。“お兄ちゃん”じゃないよ」

 「――――っ、お前」

 『ゼノ、この子……!』

 息を飲んだ2人に、子供は無邪気な笑みを浮かべた。

 「気をつけてね。――――じゃないと、死んじゃうから」





≪第2話 了≫


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