後編
翌日、慧斗は不機嫌だった。
原因はわかりきっていた。本当、今すぐその顔面を殴りつけたい気分だ。
「慧斗? まーたそんな顔してんのか? ほらほら、笑顔」
ニカリと手本を見せつける晃を見向きもせずに、慧斗は本を睨んだ。
午前の授業が終わり、現在は昼休み。食欲もなく、1人静かに読書をしていると、何故か寄ってくるこの暇人。
入学してから毎日のように晃は慧斗に話しかけてくる。だが、それは限りなく少ないものだった。
だが、昨日からはその頻度は目に見えて高くなっていた。休み時間になれば慧斗のもとへ訪れ、勝手にしゃべって勝手に帰っていく。まぁ、それぐらいだったら慧斗はイライラしながらも適当にあしらうことができた。――――が。
「そうだぜ、桐島。晃の真似してみ?」
「いや、止めとけ桐島。晃の馬鹿が移るぞ」
「そっか。じゃあダメだ。俺、桐島が晃みたいになるのなんて見たくねぇや」
「2人ともひどくね!?」
(何故こうなった)
正面には晃が椅子に腰かけている。右には何故か佐藤。そして、左隣には何故か花井がいる。
慧斗の机を囲むように、3人は辺りにある椅子を拝借して座り込んでいた。
「最近思うんだけどよ。2人さ、俺に厳しくね?」
「何のことだ?」
「気のせいじゃん?」
「いやいやいや、絶対そうでしょ。俺、そんなやられ役になった覚えないぜ?」
「いやいやいや、ただの勘違いでしょ」
「はぁ、馬鹿の上に自意識過剰か。救いがないな」
「ほらね? この仕打ち! おかしくね?」
「まぁ、馬鹿だからな。仕様がない」
「やっぱ花井もそう思うよな。もちろん、桐島もそう思うよなー」
「そんなことないよな、慧斗! 俺馬鹿じゃないよな!?」
「いや、馬鹿だろ。桐島も晃のことは、救いようのない馬鹿だと思っているだろ?」
「……頼むから、俺にふらないでくれ」
あわよくば、静かに読書をさせてくれ。
悩みの種が一気に増えたことに、慧斗は疲れていた。ただでさえ晃一人でも心底うんざりしていたのだ。それが一気に2人増えた。唯一の救いは、2人が晃の様な馬鹿じゃないということだけだ。
この2人は以前の授業で、唯一晃を止めていた常識人たちだ。そんな2人を邪険に扱うことはできない。
本日、もう何度目かもわからない溜息を零す。ここ最近はずっとこの様な感じだ。溜息の数だけ幸せが逃げるなら、彼の幸せは限りなくゼロに近い状態だろう。
読書をして会話には参加しない、という態度を取っても3人には全く効かなかった。無理矢理にでも入れさせようとする。主に晃が。
無駄だとわかりきっていることをいつまでもしても仕方ないと思い、本を閉じた。
「あ、やっと読書終了?」
「この状態で本なんて読めるわけがない」
「桐島、何読んでたんだ? 面白いか?」
「推理小説。他の奴はどう思うか知らないが、俺は好きだ」
「へー、俺も読もうかな」
「図書室から借りてきた。もう読み終わるから、今度借りるといい」
「慧斗ぉ花井ぃ、俺も仲間にいれてー」
思いのほか慧斗と花井の趣味は合うようで、本の読まない晃を置いてけぼりに会話を進める。会話の付いていけない晃が不貞腐れて、机に項垂れていた。
花井と喋る慧斗の様子を、佐藤はじっと見ていた。
先日、慧斗の過去を知り、佐藤の中では慧斗に対するお堅いイメージがはがれた。
前は、ただの無愛想で周りにまったく興味がない、冷酷な人間だと思っていた。まぁ、それはあながち間違ってはいないのだが。
ふと、必死に話題を変えようと慧斗に話しかけている晃の右手を見る。以前見たときは包帯だったが、今日は絆創膏になっている。はみ出した、治りかけの噛み跡が痛々しい。
あんなに晃を邪険にしておいても、ちゃんと感情ある人間なのだ。詳細は知らないが、手当をしたことには変わりはない。
「いやー、ずっと威嚇してた野良猫が懐くって、こんな気分なんだろなー」
「なんだよ、いきなり」
突然しみじみとそう言った佐藤に、不審そうな顔をする晃、そして慧斗は胡乱気にこちらを見据えてきた。ただ一人、佐藤の心情が解ったのだろうか、花井は同意するように頷いた。
「佐藤、わかるぞその気持ち。でも、まだ一歩近寄ってきたって感じだな。触ることはできない」
「あ、やっぱそう思う? いやー、見てて楽しいわ。な、桐島」
「どうしてそこで俺にふるんだ」
頭痛がすると言わんばかりに、頭を抱える様を見て、佐藤はカラカラと笑うのであった。
昼休みも後半になったころ、教室のドアが開け放たれた。
ドアの開く音というのは、騒がしい教室内でもよく聞こえるものだ。反射的に、晃と佐藤は振り向き確認をする。花井は視線を寄越しただけだ。
そこには長身の、やや彫りの深い、ハーフだと思われる外人がにこやかに笑みを浮かべながら立っていた。年はまだ20代前半だろう。長めのまっすぐな黒髪を真ん中で分け、後ろで緩く結んでる。細められた瞳は、暗めの青だ。
「あれ、リヒト先生どうしたんすか?」
昼休みに来るのは珍しい、と続けて零す。
来訪者の名は、リヒト・ディアルモンド。このクラスの歴史を担当している、教員だ。入学当時は誰もが、英語担当だと思っただろう。だが、話を聞くと日本生まれの日本育ち。むしろ英語は話せないと言う。
性格は温厚で、物腰柔らかな態度はとても好感を持てる。そして、その端正な目鼻立ちは大半の女子生徒に人気なのだ。
リヒトは晃に緩く微笑み、流暢な日本語で話す。
「桐島君に用があるんですよ」
3人に囲まれているような形で座っている慧斗を見つけると、僅かに目を瞠るが、すぐに笑みを戻すと近寄る。
「なんですか?」
始終笑顔のリヒトとは対照的に、目上の人物にも決して愛想笑いすら洩らさない、無表情で単調な声を出す。
「遅れて出されたノートの評価が終わったので、放課後に取りに来てもらえませんか? 今は、たまたまこの教室を通りかかったため、持ってきてはいないのですが」
「あぁ、ありがとうございます。別に今でも大丈夫ですよ。というより、今がいいです」
一刻も早く、この3人から逃げ出したい。という思いが強いので、念を押したが、リヒトは首を横に振る。
「もうそろそろ昼休みも終わってしまうので。それに、おしゃべりの邪魔はしてはいけないでしょう?」
「いや、むしろ邪魔してください」
「うわ、桐島はっきり言うねー。そこまでくると、逆にすっきりするな」
「だな。変に気を使われると気持ち悪い。さばさばしている方が好きだ」
「俺もー」
「お友達増えましたね。良かったですね、桐島君」
「……頼むからひとりにしてくれ」
それじゃあ、とリヒトは4人に言い、静かに教室を出ていった。すると、リヒトの名を呼んでいる女子生徒の声が、廊下から聞こえる。
「リヒト先生、外人さんだからモテるよねー。どことのハーフだっけ? イタリア?」
廊下で騒ぐ声を聞いて、佐藤は3人に訊ねた。
「いや、アメリカと日本じゃなかったか?」
「ちげーよ花井。確かイギリスだよ」
「俺はアメリカって聞いたぞ」
「あれー? みんなバラバラじゃん。桐島は知ってる?」
「……俺はドイツだと思っていたが」
全員が全員、違う答えを出し、4人は首を傾げた。
主に慧斗と花井を除いた2人は暫くリヒトについて話していたが、徐々に方向がずれていき、収集がつかなくなったため、呆れる慧斗を横目に花井が切りあげた。
「まぁ、本人に聞いたわけじゃないからな。所詮噂だ」
花井の言葉に、昼休みの終わりを告げるチャイムが、重なった。
雲一つとない赤い空を、揺れる電車に身をまかせながら見つめている慧斗の姿があった。
車両内には、慧斗以外の姿はなく、ただがらんとした光景が広がっていた。一番端の席へ腰を落とし、眩しそうに目を細めながらも、赤く輝く太陽を見ていた。
本来ならばこんな夕闇のなか、電車に乗ることはなかった。いつもの時間帯なら、既に電車を降り、家路へと歩いているころだ。だが、今日はいつもよりも遅い。
理由は簡単だ。
放課後。昼休みに来たリヒトの言うとおり、晃たちと別れた後職員室へ行った。だが、そこに目的の人物はいなかった。
ホームルームが終わってからすぐに来たので、早すぎたという自覚はあった。だから、暫く待っていたら姿を見せるだろうと思い、廊下にいたのだ。
だが、待てど待てど、リヒトは表れず。痺れを切らした慧斗は近くにいた教師に声をかけると。
「リヒト先生? 確か急用ができたとか何とか言って、5限には帰りましたよ?」
それだけ言うと、名前も知らない教師はさっさと職員室へと入っていった。
呼んでおいて、という気持ちがあったが、急用なら仕方がない。そう思い、明日ノートを受け取ろうと決め、学校を後にした。
そして、今、通常より遅い時間の電車に乗っている。他の車両には、ちらほらと人気はあるみたいだ。
一人だけという開放感に浸りながら、本でも読もうかと思い当たり、横を向いていた身体を正面に戻した。
「――――っ」
瞬間、ぎくりとした。
目の前には、まだ10歳ぐらいの少女が、いつの間にか表れていた。少女は長い黒髪を頭の高い位置で、二つに結んでいる。
先程まで慧斗だけだった車両には、一人の少女が追加された。
少女の夕日に当てられたオレンジの顔には、笑顔が貼りついていた。一点の歪みのないその仮面のような笑みに、我知らず脅える自分がいた。
目も口も、形は笑っているのに、何故か作りものの様な冷たさを帯びている。すると、細められた目が開く。その目に子供独特の無邪気さはなく、ただただ慧斗を映していた。
「こんにちは」
ごく一般的な少女の声が、あまりにも明るく楽しそうで、異様な違和感を覚えた。
答えることをしない慧斗に、少女は笑いかける。
距離を置こうにも、壁や手すり、そして少女に囲まれては、無理なことだ。
少女は楽しそうに笑いながら――――たが、それは慧斗から見ればとても不気味な姿だ――――問いかける。
「学校楽しい?」
突然の質問に、慧斗は訝しげな顔をした。まったくの面識もない人間に、こんな質問をするのだろうか? 子供の、純粋な好奇心なものかもしれない。だが、その少女の仮面の様な顔が、あまりにも不審で、その可能性は少ないと思えた。
関わらない方がいいと感じた慧斗は、視線を外し、また窓の外へと顔を向けた。
「僕はね、学校なんてつまらないと思うんだ。だって、あんなに必死に勉強する必要性なんてないでしょ? 別に、勉強なんてしなくても、体一つあって、環境さえあれば生きていけるんだもん。だから、僕には、理解できないよ。ねぇ、そう思わない?」
まだ幼い少女にしては、大人びた口調だった。少女の一人称と、この他人事のような口ぶりのせいで、少女の醸し出す雰囲気に不気味さが更に付け足された。
「友達とかもめんどう。いちいちうるさいんだもん。頼んでもないのに構ってくるし。人の迷惑も考えないで、生活のリズムを狂わせる。本当、いらない存在だよね」
この少女は、自分に愚痴でも言いに来たのだろうか。高い声から出てくる暗いものが煩わしく感じ、慧斗は席を立った。目線は一度も、少女には向けずに、隣の車両へと足を向ける。
だが、少女は後ろから尚も話を続けた。
「それにね、家も嫌い。家にいるのは、善人ぶった人ばっか。優しいふりして近寄ってきて、最後にはポイって捨てちゃうくせに、構ってくるんだよ。それから――――」
車両を隔てるドアの前まで来て、ガラリと扉を開ける。
「まだ話は終わってないよ」
「なっ――――!?」
心臓が跳ねた。思わず目の前の少女から後ずさる。肩越しに後ろを振り向くと、そこにいたはずの少女の姿はない。
さっきまで後ろで話していた。なのに、いつの間にか、少女の笑顔は目の前にある。笑顔はそのままに、両手をドア枠に添えて、通さないと言わんばかりに行く手を塞いだ。
慧斗の無表情の中に、隠しきれない驚きと得体のしれない物に対する脅えが、見え隠れした。
ドアを開けた瞬時に、回り込んだのか? そんなことはあり得ない。確かに、少女はこのドアの向こう側にいて、慧斗を迎えたのだ。
「それから、従姉も嫌い。本当の兄弟でもない癖に、家族面して。鬱陶しい」
一歩、少女の足が前へと進む。反射的に、後ずさる慧斗。もう、目は少女から離せなかった。
「ねぇ、そう思わない? オモウヨネ」
最後の一言の声が、ブレた。まるで、副音声が被っているような雑音が、少女の声と一緒に聞こえる。
どこからかの声と混ざったと思ったが、音は間違いなく少女の口から聞こえた。それに、もう電車の音と、少女の声、そして自分の鼓動の音しか耳には届かない。
徐々に距離を詰めてくる少女に対し、慧斗は後ずさり距離を置こうとする。黒の瞳は見開かれ、額からは冷たい汗が垂れた。
その脅えようが面白いのか、少女は慧斗の瞳をまっすぐに見据えて笑みを深める。
「可哀想なものを見るように、近づいて、同情の壁で隔たれた関係。そんなの望んでないのにね。放っといて欲しいのに、そんなのお構いなしに近づいてくる。とっても、迷惑だよね」
不意に、少女の足が止まる。そして、笑顔だったはずの仮面を取り、空虚な瞳で慧斗を見上げた。
「ケイト」
その、なんの感情もない声に、肌が粟立つのを感じた。
何故名前を知っているのか、そんな疑問を感じる間もなく、その不快感さに背筋が凍る。名前を呼ばれただけなのに、こんなにもこの子供に脅えている自分が、不思議でならなかった。だが、この嫌悪感はまぎれもなく本物だ。
「おま、え……なんなんだ」
絞り出された声は、あまりにもか細く弱弱しかった。この時初めて、慧斗は自分の口の中がカラカラだということに気付く。
「なんなんだよ、お前。なんで、俺にそんなことを言う」
慧斗の問いに、少女は少しの間を置いて、ゆっくりと口を開いた。
「……嫌いだよ。関わろうとする全ての人間が」
まただ。所々、少女の声に幾人もの声が重なって聞こえる。同じ台詞を同じように、喋っている。
「友達だっていうあの男も。その周囲にいる奴らも。本当の家族でもないのに、接してくるあの人たちも」
ふと、慧斗の脳裏に、最近顔をよく見る様になった男と、その2人の友人、そして2人の身内が浮かんだ。
(あぁ、そうか。こいつが言っていることは――――)
少女の口角が、妖しく弧を描く。
「みんな嫌いだ。消えてしまえばいいのに……って思ってるよね」
問いかけのはずなのに、その声音は答えを知っているかのようだった。
慧斗は緩く、頭を振った。
「違う……、俺はそんなこと、思っていない」
「嘘つき」
雑音が、激しくなる。もう、少女の声とは重なって聞こえはしない。まるで、賑わう交差点の様な騒がしさに、酔う。
「ケイトも思ってるはずだよ。みんな、自分の目の前から消えてなくなればいいって」
「だま、れ」
震える声に構うことなく、少女の笑みは深くなった。
「ケイト、ここはとても嫌な所。ここにずっといる必要はないんだよ。それに、ここにケイトの居場所なんてないんだもん」
最後の言葉に、胸を突き刺されたような痛みが走った。鼓動の音が嫌に大きく聞こえ、相応して呼吸の音も早くなった。
「みんな、本当はケイトのことどう思ってるのかな。実は、一番迷惑してるのはケイトじゃなくて、周りの人たちかもね。人一人養うのって、大変だと思うよ? ましてや、暗くてコミュニケーションを取るのを嫌がる子なんて、面倒だろうね。それに、気を使って輪に入れても、見返りなんてあるわけない。その存在自体が、皆の輪を乱すんだろうな」
「…………おれ、は――――っ!?」
不意に、雑音が激しくなった。あまりにもの音量に、顔を歪ませ両手で耳を塞いだ。だが、すり抜ける様に脳内に響いてしまう。もう、少女の声は聞こえなかった。口を動かしているということだけが見てわかる。
頭痛がひどい。同時に眩暈も。音に酔ったのか、胃から込み上げてきたものを感じ、咄嗟に膝をついた。
夕日に当てられた少女の顔は、笑みを消し無表情に慧斗を見下ろしていた。
「――――、――――」
不協和音にも似たそれを響かせ、段々と意識が遠ざかるのを感じた。
少女の白い手が、慧斗に伸ばされる。その手を払い除けようにも、弱々しい力で掴むことしかできない。
体温を感じさせない腕という認識を最後に、慧斗の意識は放り出された。
ばたりと、その場に崩れ落ちる慧斗を、冷めた目で少女は見つめる。
電車の走る音だけが、車両内には響いた。
少女は黙したまましゃがみ込み、垂れる艶やかな黒髪を後ろに払った。苦しげな表情を浮かべながら気を失っている、慧斗の髪を撫でる。
すると、重なる音など一つもない、少女の声が発せられた。
「――――迎えに行くよ。満月の夜に」
――――おいで。
誰かが、呼んだ。それは、何故かとても聞きなれた声だった。
そこは、とても美しい場所だった。ぼやけた視界が捉えたのは、緑の草木と、青い空。そして――――美しい湖。
そこには、1人の人影があった。美しい背景とは違い、何故かその影だけ、黒く塗りつぶしたように、まったくわからない。
だが、何故かとても懐かしいと思った。この込み上げてくる、暖かな気持ちは何だろうか。
まったく知らない場所。まったく聞き覚えのない声。なのに、この心は躍る。
おいで、とまた影は言う。それに呼応する声はない。
なぜだろう、と思ったところで、世界が変わる。
――――青と緑だった世界が、赤と黒に変わった。
火の手は木々を焼き、生き物たちは逃げ惑った。黒焦げた死骸が、いくつも湖に沈んでゆく。
その凄絶なる光景に、我知らず震えた。
先程までの、あの美しい光景がもう見れないんだと思うと、無性に胸が痛んだ。
―――――。
ふと、またあの声が聞こえた。だが、影の姿はどこにもいない。
まさか、炎に身を焼かれてしまったのだろうか。
不安と焦りに身を焦がす。すると、また影の声が聞こえ、振り向いた。
――――早く。
振り向いた先に、影はいた。影はこの炎のなか、焦ることなく、淡々とした口調で言葉を口にする。
――――早く、ここに来るんだ。
呼応する声は、ない。だれに向かって話しているんだ、そう思ったところで目の前の影に火の手がかかる。
手を伸ばし、助けようと試みたが、火はそれを許してはくれなかった。
行く手を阻まれ、視界の全てが赤に変わった時、視界が暗転する。
真っ暗な闇の中、影の声だけが、耳に残った。
――――ここへきて、あの子等を見つけてくれ。そして、その小さな手を握り返してくれ。
意味を問うことも叶わず、遮断された視界に、光が浮上していった。
最初に視界に入ったのは、見慣れた天井だった。
数回瞬いた後、ここが自分の部屋で、布団で寝ていたことを認識した。
カーテンに遮られた窓の外に光はない。どうやら、今は夜のようだ。
慧斗は上半身を持ち上げ、そこで自分が制服のままだったことに気付く。普段なら丁寧にハンガーに掛けておくというのに。
そこまで思い当たった時、覚えのある鈍痛が頭に響いた。こめかみを押さえ、先刻起きたことが思い出される。
頭に浮かぶのは、あの少女。黒髪の、普通の子供だ。
悪い夢でも見ていたのだろうか。だが、家へ帰った記憶など一切ない。
鈍い痛みは引かず、頭をすっきりしようかと思い当たり、洗面所へと向かため身体を持ち上げた。皺を刻んだ制服を脱ぎ、丁寧に畳んだ後、扉へと歩む。
「――――レオ」
扉を開けると、そこには愛犬のレオが傍に鎮座していた。
ゆらり、と尻尾を揺らせて、主人を見上げて一吠えする。頭を撫でてやると、長い尾が左右に揺れ、鼻面を擦り寄せてきた。
洗面所で顔を洗い、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめた。その顔は、酷く青ざめて、病気かと思うほどだった。
顔に冷水を浴びたことにより、先程よりも幾分かはましになった方だったが、鈍い痛みは続いている。
『――――ケイト』
あの少女の声が、耳について離れない。思い出すたびに頭痛がひどくなるような気がした。
あの少女が言っていたこと、最初こそただの少女の愚痴かと思っていた。だが、あれはまぎれもなく――――慧斗自身のことだった。
少女が口にする悪態は、今考えると全て慧斗に当てはまっていた。周りをうっとおしく感じるなんて日常茶飯事。それを代弁したのは、得体のしれない人間。
少女が話したことを思い返し、そのはずれのない言葉たちに、自嘲めいた笑みが出てくる。
レオが、小さく切なく鳴いた。それに気付き、少し瞬いた後、めったに見せない柔らかな笑みを浮かべた。
レオはたまに、自分や塔子をはげますような鳴き声を出す。まるで人の言葉や心を理解しているようだ。傍にいてほしい時に、気を使うような対象ではない存在がいることは、心が安らぐ。
今回も、気が滅入っている慧斗をはげましているつもりだったのか。真意などわかるはずもないが、そう解釈をして慧斗は感謝の意を込めて優しく撫でた。
だが、完全に癒されるなどあるわけもなく。慧斗の口は少女の言葉を紡いだ。
「みんな消えてしまえばいい……か」
すると、人の気配がし、次いで塔子が顔をのぞかせた。
「あら、慧斗君。いつの間に帰ってたの? まったく気付かなかったわ。……って、どうしたの? その顔。真っ青じゃない!」
珍しく焦ったように駆け寄り、その手を慧斗の額に添えた。
「……熱はないようね。どうしたの? なにかあった?」
心配げに顔を覗き込んでくる塔子に、慧斗は一言「大丈夫です」、と答えた。
「……そう」
納得がいかない、という表情だったが、あえて食い下がることもなくそう返した。だが、やはり心配の色は消えず、血色の悪い慧斗を見つめた。
「でも、明日は学校お休みなさい」
「いや、別に寝れば治ります」
「ダメよ。そんな顔で出かけて、倒れられても困るわ。明日は安静にすること。いい?」
強い意志のある瞳で言われてしまうと、もう逆らうことはできない。慧斗はこの眼に弱いのだ。
「……わかりました。明日は休みます」
その言葉に満足したように笑む。
「ご飯、あともう少しでできるから。部屋で休んでいたらどう? できたら呼ぶわ」
「そうします」
塔子が洗面所を出ていく姿を確認して、慧斗は遠くを見つめた。
(あの少女が言っていたことが俺の本心なら、あの人も消えてしまえばいいと、俺は思っているのか?)
あんなにも、自分のことを心配してくれる、あの優しい叔母のことを?
いや、それは違う。そんなことは微塵も思っていない。
少女は、自分が絶対にそう思っていると考えているようだった。きっと、少女は自分のことをよく知っているつもりだったのだろう。
だが、本当は全く知らないようだ。
慧斗は、本気で人が消えてほしいなどとは思ったことがない。確かに、相手を煩わしく感じ、この場から消えてほしいとはよく思う。だが、それは完全なる消滅とは違う。
(本当に、消えてなくなればいいと思うのは、後にも先にも――――俺自身だ)
暗く闇を映す瞳を、ただただ黒い犬は見つめていた。
今は放課後。晃にとっては大好きなバスケに励む時間だ。そして今、晃はクラスで部活の身支度をしている。
傍にいるのは佐藤と花井。花井は晃と同じくバスケ部員で身支度をしているが、佐藤は何もしていない。軽音部は毎日活動していると以前聞いたのだが、話を聞くと今日はサボりらしい。
「お前は本当にサボり癖がついてきたな」
「いーの、別に。だって俺以外もそんな参加してないぜ? 花井だってたまには休めばいいのに」
「俺は真面目なんだよ。それに試合も近い」
「近いって、この前終わったばっかりって言ってなかったか?」
「あれはただの練習試合だ。夏休みにはでかい大会があるんだよ」
「えー、でも息抜きは必要だぜ? なー、晃」
隣で準備をしているはずの晃に話題をふると、何故か浮かない顔でぼそりと呟いた。
「俺、今日部活サボるわ」
「アホめ」
「えぇ!?」
間髪いれずに花井は罵倒を晃に飛ばす。晃も、まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったのだろう。うろたえながらも、花井を説得しようと試みる。
「ぶ、部活行ってたら、夜遅くなっちまうだろ? だから……」
大会が近くなると、その日の練習量は普段よりもはるかに多くなる。最近は部活が終了するのは、校門が閉まる時間ぎりぎりなのだ。おまけに晃は電車通学。家に帰るのが夜10時を回ることだってある。
「いいだろ? たまにはサボったって」
「アホめ」
「またアホって……!」
「いいか、お前は部員の少ない我がバスケ部の期待の星だ。馬鹿言うんじゃねぇ」
その言葉に、晃はぐっと言葉を詰まらせる。
花井の言葉の通り、バスケ部員はとても少ない。おまけに戦力になるのはほんの一部だ。そのなかに晃は入っている。
晃はどのスポーツに限らず、その奇抜な運動神経によってどれも得意なものとしていた。中でもバスケの腕は一段と際立っており、その実力は先輩をも凌ぐ。そんな晃が部活をサボるなどと、とんでもない。部のため、花井はそれを阻止しなければならない。
「一日ぐらいどうってことない、とか思ってんのか? そしたら、お前は正真正銘アホだ」
「花井ー、そうでなくても晃はアホだぜー」
「知ってる」
「だからさぁ、俺の扱いって!」
「お前がいなくなったら、部活の意気が下がるんだよ。おまけに、お前はムードメイカーみたいな存在なんだ」
「晃は皆を引っ張ってくの上手いからねー。体育祭すごかったわー」
「だから、お前が部活に参加しないのは、却下だ」
バスケ部にはお前は必要不可欠。そう言葉の裏で言われているようで、恥ずかしくも照れて項を掻いた。
いいな? と念を押されるように花井に迫られたので、晃は首を縦に振った。
「でもさ、なんで晃そんなに帰りたいんだ? なんかあんの?」
いつもは部活部活って言って、構ってもくれないのにさ。と佐藤が続ける。すると、晃が答えようとする前に、花井が言い当てて見せた。
「どうせ、桐島のところ行くつもりだったんだろう」
「あぁ、そういや今日休んだもんなー」
合点がついたように声を洩らし、鞄もなにもない慧斗の席に視線を寄越した。
「なんで花井わかったんだよ」
「んなの見てりゃわかる」
「なに、お見舞い行くの?」
視線を晃に戻しつつ訊ねると、晃は頷いて続ける。
「それもあるけど、これ早めの方がいいかと思ってさ」
そう言って取り出したのは、複数のプリントやら薄い教材だった。
それは、今日配られた夏休みの課題だった。まだ夏休みまで日はあるのだが、どうやら先にさっさと終わらして夏休みを満喫しなさい、という教師の計らいで配られたようだ。ちなみに、晃と佐藤は夏休みが終了間近で終わらせるタイプだ。そして、花井は夏休みが始まる前に全てを終わらせるつもりらしい。
「別に今日中じゃなくてもいいんじゃない? 明日は桐島復活してるでしょ」
「だって明日土曜だろ? だから今日がいいかなって思ったんだ」
「あ、そっか。じゃあ、明日の部活の帰りは? 試合近いんだったら丸一日やるっしょ?」
「そうだな。明日は確か9時から6時までやる予定だから、いつもより遅くなることもない」
予定表を鞄から取り出し、確認する花井。
「うん、7時には家に帰れるんじゃないのか?」
「でもさ、慧斗早めに終わらせたいとか思ってねぇかな」
「大丈夫だって。夏休みの課題は夏休みにやるもんだろ? そんな一日ぐらいなら怒んないって。むしろ、持ってきてくれたことに感謝するよ」
「慧斗が俺に感謝? やべ、想像するだけで嬉しくなってきた!」
「アホだな。そうと決まれば、とりあえず今日はしっかりと練習するからな」
「おう! てか、花井様、そろそろ俺のことをアホ扱いするのを止めて頂きたい」
「アホめ。さっさと行くぞ」
「ひっでぇ!」
2人のやり取りに、佐藤は肩を震わせている。笑うな、という意味も込めて睨むと、さらに笑われてしまった。
「じゃあな、2人とも。部活頑張れー」
おう、と片手をあげて2人は教室に残る佐藤に別れを告げた。
体育館へと続く廊下で、晃は立ち止まる。
「俺、飲み物買ってくるわ。花井なんかいるか?」
「おごりか?」
「まさか。俺の金欠なめんな」
「茶。銘柄はなんでもいい」
「おっけ」
鞄を持っていくという花井に、財布だけを取り出して預けた後、外にある自動販売機へと向かった。
小走りで駆け寄り、夏の日差しが強い中、小銭を取り出す。今日の空は雲一つない快晴なので、暑さが増して汗が伝った。
自分の分のミネラルウォーターを手に取り、花井はどうしようかと首を傾げた。お茶の種類は三種類。花井はどれでもいいと言った、それが一番困ると言うのに。
「ま、どれでもいっか」
悩んでいても仕方ない。そう思い目を瞑って、三つのボタン付近に指を近づけて、適当に押しあてた。
「とりゃ!」
ガタン、と音を立てて落ちてくる飲み物。片目を開けて、何が出たと確認すると。
「……やっべ。花井に怒られる」
あちゃー、としゃがみ込んでそれを手に取った。中身は落ちてきた振動で泡だらけだ。
どうやら、自分は3つのボタンではなく、その隣の炭酸ジュースのボタンを押し違えたらしい。紫色の液体を、じとりと見つめてそのまま自分の頬に当てた。
「きもちー。……まぁ、大丈夫だろ。これ、おいしいし」
もしダメだったら、自分のミネラルウォーターと交換すると言おう。
「あっちー」
これから練習で更に暑くなるだろう。別に運動は好きなのだが、やはり扇風機の一つは欲しいものだ。窓を開けても、体育館の中は暑い。
校舎の壁に寄りかかり、日陰の涼しさを堪能する。
ふと、空を見上げると、そこには太陽のほかに、白い月が浮かんでいた。
「おー、まんまる。今日は満月かなー」
「あれはまだ満月ではないですよ」
突然、ゆったりとした声が横から聞こえ、首を持っていくと、そこには穏やかな笑みを浮かべたリヒトが佇んでいた。
「あ、リヒト先生」
「こんにちは、竹内君」
リヒトの格好はいつものスーツで、上着を脱いだ状態なのだが、ワイシャツのボタンを開けるどころかネクタイすら緩めていない。立ち止まっていても汗を掻いてくるこの暑さなのに、リヒトは汗ひとつ掻いていなく、暑さを感じていないような涼しげな顔だ。
「あれ満月じゃないんですか。あんな丸いのに」
視線をもう一度空へと向け、その青空のまぶしさに目を細めた。リヒトも同様に空を見上げる。
「よく見ると、まだ少し欠けているんですよ」
そう言われ、よく目を凝らして見ると、僅かながら欠けていることが何となくわかる。
「あれは、子望月と呼ばれていますね。満月は明日の晩です」
「へー、じゃあ俺が部活帰る頃にはめっちゃ光ってんのかな」
「明日は、今日と同じく快晴らしいですから、邪魔する雲もなくきれいに見えると思いますよ」
どことなく嬉しそうに語るリヒト。その様子からリヒトが月を好きだと言うことを、なんとなく感じる。
「じゃあ、明日はモモと一緒にお月見だなー」
「おや、それはいいですね。モモとは?」
「俺んちで飼ってる犬です。ゴールデン・レトリバーっすよ。あ、慧斗も誘ったら来るかなー」
「おや、桐島君ですか? そういえば、今日は姿を見ませんでしたね」
「今日は休みっす。体調不良かなんかって、先生は言ってましたけど」
「そうですか。……結局、ノートは渡せそうにありませんね」
ぽつりと零した声を、辛うじて晃の耳は拾った。別に土日を挟むぐらいなのだから、差して悪くもないだろうに。
「なんなら、明日俺が渡してきましょうか? もともと慧斗の家に行くつもりだったし」
ついでです。と、人懐こい笑みを浮かべて提案してきたが、リヒトは緩く首を横に振った。
「いえ、大丈夫ですよ。それより、なぜ桐島君の家へ? 遊びに行くんですか?」
うーん、と唸ってから、晃はプリントを渡しに行くと答えた。本当は遊びに行くということが主なのだが。このことを慧斗本人が聞いたら、さぞかし眉を顰めるだろうな。
「そうですか……」
そう言って、考えこむようにリヒトは黙ってしまった。
会話も終わってしまったし、飲み物も既に手元にある。さすがにこれ以上長居してしまったら、冷たい飲み物も温くなってしまうだろう。
リヒトに一言別れの言葉を口にすると、晃は踵を返そうとした。
「竹内君」
「はい?」
肩越しに振り返ると、リヒトは相も変わらない笑みを顔に浮かべたまま、ゆっくりと言葉を口にした。
「明日は、桐島君の家へは行かない方がいいですよ」
「……え、なんでですか?」
素直な疑問だ。
だが、質問には曖昧な笑みを浮かべただけで、リヒトは自らが来た道を引き返して行ってしまった。
1人取り残された晃は、少しの間その言葉の意図に首を傾げたが、暑さに回らない頭で考えても意味がないと思い、体育館への道へと足を向けた。
学校を1日休み、土曜日を迎えた慧斗は、未だ頭に引っかかることに悩みを抱えていた。
あの日から、同じ夢しか見ない。と言っても2回ほどなのだが、妙にその夢は引っかかるのだ。
あの日というのは、夢か現実かもよくわからない、2日前の夕暮れの電車内でのことだ。あの時を思い出すたびに、痛む頭痛に悩まされる。
夢を見た後はとても、憂鬱な気分になる。何故だかは分からない。
森の中に湖があって、そこには人影がある。ただそれだけの夢だ。そこがどこなのか、その人影は何者なのか。一切分からない。
たかがそれだけなのに、気持ちが滅入る自分が謎だ。
今日の夜も、また同じ夢を見るのだろうか。
慧斗は最近多くなってきている、溜息を零す。
「また溜息? どうしたの、慧斗君」
慧斗を心配そうにのぞきこむのは塔子だ。
塔子は、食卓に出した食べ終わった皿を下げているところだった。ちなみに、本日の昼食はそうめんだった。
「大丈夫です」
「またそう言って。……なにか、悪いことでもあったの?」
慧斗を心配そうにのぞきこむのは塔子だ。慧斗は、無駄な心配をかけたくないという思いで、自身は平気だと言うが、やはり前回のこともあってか、なかなか引き下がらない。
「俺は平気です」
「私に、言えないようなことなの?」
「……別に、言えなくは、ない」
「それじゃあ、言って欲しいわ」
「……やっぱり、言えません」
「慧斗君」
塔子に言ったところで、きっと解決にはならないだろう。それに、小さな子供の言葉に気を失いましたなどと、冗談でも恥ずかしいことなど言えるはずもない。大腿、信じてもらえるかさえ微妙な話だ。一言で、それは夢だった、なんてことで片付けられもする。なにも確信がないこの話を、塔子にするのはどうも信憑性に欠けている。まぁ、塔子ならば慧斗の言葉は全て信じてくれるのだろうが。
「……しょうがないわね。なんだか、最近2人ともおかしいわよ」
「2人?」
「慧斗君と、レオ」
犬と一緒にひとくくりするのは、どうかと一瞬思ったが、いつも隣にいるはずのレオの姿が見えずに、塔子に続きを促した。
「おかしいって?」
「なんか、前から夜中にちょくちょく出ているみたいなのよね」
「……出てるって、どこからですか?」
「玄関よ」
当たり前だというように、ハッキリと言う塔子。慧斗の眉間に僅かながら皺が寄る。この家に、犬専用の出入り口など存在しない。
「……塔子さん、鍵は」
「開けてあるわ」
「やめてください」
即座に言うと、塔子はコロコロと笑う。
「大丈夫よ。こんな家、泥棒さんも願い下げよ」
「ぶっそうですよ。絶対戸締りしっかりしてくださいよ」
「だって、夏場は暑いから。少し開けとくと風が入ってきて涼しいのよ」
「昼間だったら構いません。でも夜は本当に気を付けてくださいよ」
「大丈夫よ。レオも慧斗君もいるじゃない」
「そのレオは、夜いないんでしょう?」
「そうなのよね。どうして夜中に出ていくのかしら。もしかして、縄張り争いなんてしてるのかな?」
さらりと話題を戻されてしまい、もう突っかかることができなくなってしまった。今夜からは、絶対に寝る前に戸締りをしっかりとしよう。そう心に決める慧斗であった。
「どうでしょうね。犬の生活なんて知りませんよ。まぁ、朝にはいるし、大丈夫でしょう」
「そうね、あの子逞しく生きてきているし。大丈夫よね」
にっこりと、心配の欠片もない表情だ。それは、塔子がレオに対し無関心、というわけではなく、レオの強さと飼い主に対しての忠誠心に、信頼があるためだ。
レオは決して、慧斗と塔子には逆らわない。特に躾などはした覚えはないが、気付いたらレオはこの2人に忠誠を誓っていた。まるで、護るかのように傍に付き添っているのは、とても心強い。
レオを飼い始めたのは、慧斗が中学一年のときだ。ちょうど、慧斗が塔子の家へ来るときに、遊び相手がいるであろうと考えた塔子は、慧斗を保健所へと連れていった。
そこで出会ったのが、この狼によく似た格好の良い黒い犬だった。
昔から何事にもそこまで興味がない慧斗は、やはり犬に対しても興味はさほどなかった。もちろん、それはレオに対しても同じことだ。塔子が選んでと言っても、その黒い瞳が地面から外されることはない。
そこで、数多くいる犬の中で、最初に行動したのがレオだった。レオは真っ先に慧斗の許へと来て、懐くように鼻面を押し当ててきたのだ。
それが決め手で、塔子はレオを引き取ることに決めたのだ。
話によると、レオは誰かに飼われていた形跡がなく、野良として今まで生きてきたようである。その逞しさからか、そこらの犬には負けることがない。
そんな強さを持っているレオが、夜中に抜け出しても別に問題はないだろう。
「あ、もしかしたら逢引してるのかしら」
「……誰とですか?」
「ほら、晃君のところのモモちゃん。仲良かったじゃない」
「あー……」
確かに。人間にも動物にもなかなか懐いている姿を見ないが、モモだけは傍にいることを許していた。と、余計な人物の顔まで思い浮かべてしまって、一瞬顔を顰めてしまった。
「そういえば、慧斗君が学校に言っている時も、少し落ち着きがなかったわ。やっぱり、会えなくて寂しがっていたのかしら」
「レオが、恋煩い……」
あまりにも似合わな過ぎて、すこし笑いそうになってしまった。
「今も会いに行っているのかしら。若いわねー」
「いや、あいつはもう人間年齢だと相当な歳だと思いますが」
「愛に歳の差は関係ないわよ、慧斗君」
「……そうですか」
詳しくは知らないが、モモはきっと1、2歳ぐらいだろう。それに比べ、レオは慧斗が飼い始めてもう3年は経つ。それに、保健所にいたころから、レオはすでに大きく大人の犬だった。これを、人の年齢に変えたら、相当な歳の差になるだろう。
だが、これはあくまでも人間的に考えるとだ。慧斗が犬の事情など知るはずもない。自分がとやかく言うことでもないだろう。
「それじゃあ、ご飯も食べたことだし、夕飯のお買いものでも行ってこようかしら」
「俺も行きましょうか?」
「大丈夫よ。買う物も決まっているし、そこまで大荷物になることもないわ。お留守番、お願いね」
そう言い残し、片付けた皿を手に取り、席をはずす。
残された慧斗は、暇になってしまった午後の予定を考えてみる。特にすることもないので、読み途中の本でも読もうかと思い当たり、自分も食卓から席を外した。
休日の朝ぐらいは、ゆっくりと起床したい。というのは子供でも大人でも誰でもそう思うだろう。だが、土曜の朝はどうしてもそれは叶わない。なぜなら、静流が通う高校は私立で、土曜でも午前中だけ授業があるためだ。
それが2年も通うとなると、さすがに慣れもするのだが、やはり面倒なものは面倒だ。
そして今は、以前に約束したように、自身の彼氏の拓真と、放課後デートの真最中だ。
学校から直に買い物や、辺りをぶらぶらとする。それが、もう日暮れ間近になるとさすがに疲れが出始めて、静流は欠伸を手で隠し抑えた。
「眠いのか? 静流」
「眠いっていうか、ちょっと疲れちゃったかも」
店が多く立ち並ぶここは、人の通いが多く、疲れを余計に感じたのかもしれない。
「少し、休むか?」
気遣う拓真に、苦笑をもらして大丈夫、と答えた。
見上げるとそこにいる拓真は、静流の彼氏だ。制服をそれとなく着崩し、短い髪はパーマをかけたように、緩いウェーブを描いている。
彼と付き合い始め、今月でちょうど半年がたった。高校1年の年明けに、静流に告白してきたのだ。彼は見た目の緩い印象とは裏腹に、なかなか謙虚で誠実な人物だ。最初は、告白されても付き合うという形ではなく、ただの友達ということで終わらせたのだ。だが、拓真のその一途に静流を想う姿に段々と静流も惹かれていき、晴れて付き合うことになったのだ。そして、現在も何事の問題もなく関係を築き上げてきた。
半年と言う時間は、あっというまに過ぎる。だが、一つ一つの2人で過ごした時間は、とても大切に2人の記憶の中に存在している。
「静流、なに笑ってるんだ?」
「えへへ、なんでもないよ」
そうか、と拓真も笑みを浮かべ、つながる手に力を込めると、相手からも同じように握り返してくれた。その手が暖かく、嬉しく感じ、また2人は幸せそうに笑いあった。
「そういえばさ、どうして拓真は私のこと好きになったの?」
「またその話? 恥ずかしいから、よしてくれよ」
「いいじゃない。どうして教えてくれないの?」
この手の話は何度もしている。だが、拓真が答えたことは一度たりともない。いつも、曖昧に言葉を濁して話題を逸らすのだ。それは、今日も同じだった。
「あー……、そういえば、門限って何時だっけ?」
「また逃げた」
「何時? 6時だっけ?」
「7時半までには家にいるようにだって」
「飯はどうする?」
「一緒に食べよ」
「じゃあ今日は俺が奢ってやるよ」
「えー? いいよ、別に」
「いいからいいから。今日はそういう気分なの」
「じゃあ、お言葉に甘えちゃうかな」
「よし、ドンと来い。あ、やっぱなるべく安いものでよろしくな」
「わかってるわよ」
赤の信号に立ち止まり、何処で食べようかと話し合う。やはり妥当な所は、お手軽なファミリーレストランだろうか。
ふと、前方に目を向けると、見慣れた黒い塊が向かいの歩道にいるのが見えた。
「げ、あれってレオ?」
思わず苦い顔をしたのは、静流が大の犬嫌いだからだ。小さい頃、犬に追いかけまわされた記憶があり、それ以来小型犬でもあまり近づきたくないほど、静流のなかではトラウマと化していた。
「どうしてここに?」
その周辺には、レオを好奇心で見つめる子供や道行く人間しかおらず、飼い主の姿は見当たらなかった。
「どうした、静流?」
「あそこにね、慧斗の犬がいるのよ」
「慧斗って……、確かよく話してる従弟のことだよね」
うん、と頷いてから指で黒い塊を指し示すと、拓真は散歩じゃないのか? と答えた。
「でも、あの子すごい人嫌いなのよね。こんな大通りにいるなんて珍しいわ。ましてや、慧斗も塔子さんもいないなんて」
「黒いなー。暑くないのかな」
昼よりかは下がってきている気温だが、それでも今は夏。十分暑いのだが、その黒い犬は日陰にも行かずに、太陽の下辛抱強く信号が変わるのを待っている。
近くの小学生らしき子供が、犬に触ろうと手を伸ばしていた。あー、噛まれるな。と思い、傍観を決めていると、とうとうその小さな手がレオの頭に乗せられた。
だが、予想とは裏腹に、その手を噛むどころか、レオは振り払うこともせずにただじっと前を見据えたままだった。
「うっそー、あのレオが?」
先日、慧斗の家へとお邪魔した時は、自分を見ただけで唸っていたのに。そして、そのとき知り合った晃にも、指一本と触れないよう近づくたびに唸っていたことを思い出す。
そこまでして、飼い主以外は絶対に触れさせないというのに、今前方にいるレオは別の犬のようだった。
「あの犬おとなしいねー。あんなにおとなしかったら、静流も大丈夫なんじゃない?」
「無理よ。だって、いつもはあんなに大人しくないもん」
「そうなの? じゃあ、違う犬かもよ?」
だが、あれはどう見たって慧斗の犬である。もう何度も見ているのだ。それに、信号を挟んではいるものの、そんなに遠くない距離だ。何より、静流にとって、レオは最大の天敵の様なもの。見間違えるはずがないのだ。
そうこう考えているうちに、レオが撫でる子供の手をそのままに腰を上げた。次いで、信号が赤から青へと変わる。
「やば、レオがこっち来る」
極力近づきたくはない存在だ。静流は拓真の腕を引っ張り、端の方から横断歩道を渡る。その僅かに距離があるところを、レオが颯爽と駆け抜けていった。
「ワンちゃん行っちゃったー」
残念そうに声を洩らす子供の声と、そうね、と声をかける母親らしき人影が、ゆっくりと静流達の横を通りすぎていった。
「はえー。てか、信号ちゃんと待ってたんだ。偉いなー。犬とか猫とかって、何処でも道路渡るからさ、危ないけど。レオ、だっけ? 頭いいんだな」
「まぁ、慧斗の犬だし」
「飼い主に似るってやつ? じゃあ、慧斗君は頭いいんだな」
「拓真よりかは、頭いいわよ」
「えー、ひどいな静流」
苦笑を洩らし、自分の腕を引っ張ったせいでほどけた指同士を、また絡ませる。
「さて、飯どこで食う?」
「まだ早いんじゃない?」
「じゃあ、それまでどっか行こうか。どこがいい?」
視線を、拓真から外して、レオが向かった方向へと向ける。だが、駆けていった黒い影は、既に人垣の中へと消えていた。
昼過ぎから上巻を続きから読んで、月が昇る頃には中、下巻と読んでいき、既に終わりを迎えたころだった。
ガリガリ、と聞きなれた音を耳にして、慧斗は栞を挟み閉じた後、自室のドアを開けた。すると、外にいたのはやはりレオだった。
暑いせいか、舌を出しているレオの頭を撫でる。
「部屋、入るか?」
中へ招くように、身体を横へ避けて道を作ったが、レオの体は動かない。どうやら、部屋に入りたいというわけではないらしい。
何がしたいんだ、と腕を組むと、レオは慧斗の着ている白のポロシャツに噛みつき、グイグイと引っ張ってきた。
「……散歩か?」
いつもなら、夕食を食べた後、運動がてら散歩へ行くのだが、今日はどうしたのか、まだ7時過ぎだというのにどうも慧斗を急かす。
「確かに、これはおかしいな」
塔子が言うように、やはりレオは様子がおかしいようだ。
この散歩の時刻は、何か用でもない限り、時間を早めるということはない。それはレオも承知で、日課になっているこの事で、時間を間違うはずはないのだが。
尚も急かすレオに、了承の意をこめてもう一度頭を撫でてやる。それでも、レオの口から服は取れなかった。
引っ張られながら、夕食の準備をしている塔子の許へ行く。
「塔子さん、レオの散歩行ってきます」
「あら、珍しわね。なにか用事?」
「いや、レオが急かすんで」
視線が下へと行き、レオを視界に捉えると、僅かに瞠目した後、頬に手を当てて困ったような笑みを浮かべた。
「あともう少しでできるのに」
「早めに帰ってきますよ。今日はカレーですか?」
鍋から漂う、香しい匂いに目を細めた。
「えぇ、そうよ。帰ってきたらいっぱい食べてね」
「はい」
行ってきます、と玄関へと向かう。
「慧斗君」
突然呼びとめられ、引っ張り続けるレオの首輪を掴んで、止まらせてから塔子へと振り返った。
振り返った先の塔子は、何やら心配の色を瞳に浮かばせていた。
「……気をつけてね」
「どうしたんですか? 夜の散歩ならいつでも行ってますよ」
「そうなんだけど。……なんでもないわ」
なんでもないと言っておきながら、その顔からは心配の色は拭えきれてなかった。その表情を訝しげに見つめたが、塔子がそれ以上何かを言うことはなかった。
暫しの沈黙の後、慧斗は短く息を吐き、踵を返した。
「カレー、楽しみにしてますから。10分程度で帰ってきます」
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関を出ると、昼間の暑さとは打って変わった、涼しげな風が吹いていた。まだ日が落ちてそこまでは経っていないので、どっぷりと暗いわけではない。
「レオ、そろそろ離せ」
頭を押して離そうとすると、案外すんなりとその口から服が外された。
レオとの散歩にはリードは使わない。どこかへ行く心配がないからだ。
「さて、行くか」
慧斗は左の道へと歩みを進めた。だが、またしてもレオが服を掴みその足を止めた。
長い尾をゆらりと揺らして、黒い犬は慧斗を反対の方向へと引っ張ろうとしている。
「……公園に行きたいのか?」
以前は散歩のコースは2種類だった。先程慧斗が行こうとしている左の道は、家をぐるりと回る、そこまで長くもないコースだ。そして、右に曲がると、すこし距離のある公園で折り返し帰ってくるというコースだ。
前までは普通にそちらにも行っていたのだが、公園には人が多くいるのと、近所の犬も集まるということもあり、レオの事を考慮してやめにしたのだ。まぁ、一番の決め手は、そこで偶然晃と出会ってしまったということなのだが。
会うことを避けるために、そのコースはやめにしたのだ。が、最近の出来事を思い浮かべてそれが意味のないことになってしまい、慧斗は内心溜息をついた。
さすがに、夜となれば人なんていないだろう。だが、塔子にすぐに帰ると言った手前、時間がかかる方へと行くのは気が引ける。
「レオ、今日はダメだ。明日行こう」
レオの頭を掴んで、服を引っ張り返し引き離そうとしたが、やはり引き下がることはない。
暫く経ってもレオの意志は変わることがなく、どうやら抵抗しても無駄だということを悟った慧斗は、大人しく手の力を抜いた。
手が服とレオの頭から外されると、レオも慧斗が諦めたことがわかったのか、顎の力を緩めた。
すると、いつもなら並んで散歩をするのだが、まるで誘導するかのようにゆっくりと慧斗の前を歩き始めた。
慧斗はしぶしぶと、レオの後ろを同じ速度で歩き始める。
「なんだ? どこにも行きやしないさ」
時折振り向き、慧斗がいるかどうか確認するレオ。やはり、どこか様子がおかしい。だが、原因の心当たりなどありはしない。レオの奇妙な行動に、ただただ首を傾げる慧斗だ。
もう通ることが無くなった道を、レオに誘導されて歩く。普段の速度よりもゆったりとしているので、すでに約束の10分は過ぎていた。自分の時間感覚があっていれば、このまま公園を折り返し、家に着くころには30分はかかってしまうだろう。
正確な時間が解らず、時計を持ってくればよかったと少し後悔する。
やっと公園へと着いた。昼間はとても賑わって明るいところなのだが、夜は誰も人が居らず風に吹かれる木々の音しか聞こえなかった。
こんなところに長居は無用だ、そう思いすぐに踵を返し家へと向かう。だが、今日のレオは本当におかしいのだった。
「レオ……いい加減にしろ」
先程と同じように、服を噛まれてその場に止まらせる。何度も引っ張ったりしたので、おかげでポロシャツの端がよれよれになってしまっている。
軽く怒気の孕んだ声音にも、レオは動じずに公園の中へと引っ張り続ける。
「……行けば、満足するのか?」
こんな質問をしても、答えが返ってくるはずもないのだが、なんとなくレオが頷いたような気がして、慧斗は溜息を吐く。
抵抗し続けているよりも、先にレオを満足させた方が早いと慧斗は考えたのだ。
一歩、公園の中へと入っていく。それを確認した後、レオは中へと駆け出して行った。
「――――誰だ?」
そして、レオが止まったその場所には、一つの人影があった。
こんな時間なのだ、誰も公園の中にはいないと踏んでいたのだが。と、思うよりもまず、レオが懐いている人間が自分と塔子以外にいることに驚いた。いや、懐いてはいないのだろうか。レオはその人影に近すぎず遠すぎない位置に鎮座していた。
暗い闇の中、慧斗を迎える様に佇む一つの影。顔には見覚えがあった。否、見覚えがなかったらそれはおかしいことだ。
慧斗よりも幾分も背が高いその人物は、いつものスーツを身に纏っていた。闇色の髪は長く、緩く後ろでまとまっている。そして、暗めの青い瞳は、まっすぐに慧斗を見つめていた。
「リヒト先生」
慧斗が名を呼べば、リヒトは口元にいつもの穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「こんばんは、ケイト君」
夜空に浮かぶ満月の光が、2人と1匹を照らしていた。
部活が終わった後、家にも帰らずに直に慧斗の家へと向かう。プリントは既に鞄の中に入っている。
晃は慧斗の家へと続く道を速足で駆けていた。
(まさか、練習が長引くとは思わなかったなー。おかげで遅くなっちまった)
右手にはめている腕時計をみると、時刻は予定の7時を過ぎて、あと少しで30分になるところだった。
本当は予定通り6時には終わるつもりだったのだが、いつになく夏の大会に燃えている顧問が、延長すると言ってきたのだ。もちろん、朝から練習漬けでくたくただったメンバーからは非難の嵐だったのだが、少しぐらいならということで長引いてしまったのだ。これでも終わってから即効で電車に乗ったのだが、やはり遅くなるのはしょうがない。
夕食時だったら邪魔になるだろうな、とは思うものの、昨日休んだ慧斗が気がかりでしょうがないのだ。一目見たらすぐに帰ってこようと決め込み、晃はそのスピードを緩めずに向かう。
ふと、街灯の明かりにしてはいつもより明るいな、と思い空を仰ぐと、そこには美しく輝く満月の姿が。
「おー、奇麗だなー」
思わず感嘆の声が漏れる。道理でいつもより明るいなとは思ったのだ。満月の光のおかげで、夜道は明るい。
そろそろ慧斗の家へ着く。家の屋根が見えてきたところで、晃は駆けだした。
すると、玄関の外に塔子がサンダル姿で佇んでいた。
「あれ、春川さん?」
「晃君!」
晃の姿を見つけた途端、切羽詰まったように駆け寄り、心配げな顔を晃に向けた。
「慧斗君、見なかった?」
「え、慧斗? いや、見ませんでしたけど……」
その言葉に、そう、と目を伏せてまた玄関口へと戻っていく。その後ろからついて歩き、晃は訊ねる。
「どうかしたんですか?」
「……実は、慧斗君が帰ってこないのよ」
「どっか行ったんですか?」
「レオの散歩よ。10分で戻るって言ってたんだけど、過ぎても戻らないし、何か嫌な予感がするのよ」
いつものあの柔らかい笑みは何処へやら。顔は青ざめて、その瞳は忙しなく慧斗を見つけようと辺りを彷徨っていた。
その様子にただ寄らぬものを感じ、晃は提案する。
「俺、探してきましょうか?」
「いいの? ……お願いしていいかしら」
「大丈夫です、任せてください!」
だから安心して、という気持ちも含めてニカリと笑い、自分の胸を叩く。
「ありがとう、晃君」
「散歩の道ってどこか知ってますか?」
「いつもなら家の周りを周ってくるんだけど、もしかしたら公園の方に行ってるかもしれないわ」
「じゃあ、とりあえず家の周りぐるっと回ってきます。それから公園の方行ってみるんで。春川さんは、入れ違いになるといけないから、ここで待っててください」
「えぇ、お願いね」
もう一度、笑みを見せてから、これお願いします、と鞄を預けて左の道へと駆け出す。
走りながら晃の頭の中は、慧斗の安否と塔子のあの慌て様に不安を抱いていた。あのいつも笑みを絶やすことのない塔子が、あそこまで取り乱していたのだ。不安にならない方がおかしいだろう。
「慧斗ー! どこだ!?」
近所迷惑なんて、晃の頭にはない。全力疾走しながら視線をあちらこちらへと走らせる。すると、見覚えのない男と親しそうに手をつないでいる静流が目に見えた。
「雨宮さん!!」
突然名を呼ばれ、一瞬ビクリと肩を震えさせる。暗がりの中、見える従弟の友人に、静流は不思議そうに名を呼んだ。
「竹内君? どうしたの、そんな大きな声だして」
「だれ? コイツ」
隣の男、拓真が訝しげに静流に問う。
「慧斗の友達の、竹内君よ」
自分の紹介などどうでもいい、晃は乱れた息を整えながらも口を紡ぐ。
「はぁ、慧斗、見ませんでしたか?」
「慧斗? ううん、見なかったわよ。拓真見た?」
「いいや、見なかったと思う」
「そうっすか」
「どうしたの?」
「実は、慧斗がレオの散歩行ったまま帰ってこないみたいで」
「ただ単に時間がかかってるんじゃないのか?」
拓真がもっともなことを言う。晃もそう思ったが、やはり塔子の様子が気になる。
「でも、春川さんがすっげぇ、慌ててたから。なんか、俺も心配になってきて」
「――――ちょっと待って竹内君。塔子さん、何か言ってた?」
え? と静流を見ると、真剣な顔をしていた。晃は塔子の言葉をそのまま伝える。
「なんか、嫌な予感がするとか、言ってましたよ」
その瞬間、静流の顔がサァ、と血の気が引いた。
「拓真、慧斗探すの手伝ってくれる?」
「え、あぁいいけど」
「私たちが来た道には慧斗はいなかったから、他を探すわよ」
「静流? どうした、顔色悪いぞ」
「……気にしないで」
心配の言葉も受け取らずに、静流は晃に訊く。
「慧斗は散歩しに行ったのよね?」
「あぁ。春川さんは、この道以外だったら公園だって言ってたけど」
「分かったわ、公園に行きましょう。2人ともついてきて」
「え、でもバラバラに探した方が効率いいんじゃないですか?」
「いいから、急ぐわよ!」
晃の提案に耳も貸さずに、地を駆けだした静流に、慌てたように後から付いていく晃と拓真。
横から見えた静流の表情は、緊迫したような強張ったものだった。やはり、塔子といい、静流といい、自体は自分が思っているよりも深刻らしい。
だが、塔子の勘だけでここまで行動するのは、どうしてだろうと感じる。そう思ったら思わず、口に出していた。
「どうして、そんなに必死なんですか。もしかしたら、ただの思い違いってこともあるかもしれないのに」
「……そんなことあり得ないわよ」
短い沈黙の後、重々しげに静流は口に出す。だが、その声は小さく、隣を走っている晃にしか聞こえないような大きさだ。
「塔子さんの勘はね、良くも悪くもほぼ100パーセントあたるのよ。それこそ超能力者みたいにね。まぁ、宝くじなんかは通用しないみたいなんだけど」
にわかには信じれないことだ。だが、真剣な表情に真実だと思わせるものがあった。
「良い方は置いといて、親戚の人たちは、悪い方の塔子さんの勘は、絶対に疑わないわ。その勘を信じないで、悪いことが起きることが多かったの。それから――――」
声を更に潜めて、後ろにいる拓真を気にしながらも晃に告げる。
「慧斗の両親のことも、塔子さんは察していたわ」
「え……!?」
晃の瞳が驚愕に見開かれる。
「会社をたてることを、塔子さんだけは反対していた。でも、いつもなら2人ともその言葉を聞き入れるんだけど、あの時だけはその反対を押し切ったの。それから、後に起きたあの事件の第一発見者は塔子さんよ。悪い予感がして家を訊ねてみたら――――、うん」
それ以上は言葉にはできない。静流自身も決して思い出したくはない出来事なのだ。辛い思いをさせてしまったと、自分を叱咤し晃は静流から顔を背けた。
「……竹内君。私ね、あなたには期待してるのよ」
「え? 期待って、なんすか?」
「何も、慧斗のことを心配してるのは塔子さんだけじゃないわ。親戚皆、心配してる。もちろん、私も弟のことは心配なの。でも、身内だけってのもなかなかできないこともあるわ。だから、他人のあなたに期待する」
静流は晃を見て、にこりと笑う。
「無理矢理でもいいから、慧斗を外の世界へ出して行ってほしいのよ。だから、私はあなたにこの話をした。あ、もちろん他の人なんかにしゃべっちゃダメよ」
「…………」
「まぁ、嫌だったら拒否してもいいのよ。私が勝手にしてることだから」
「拒否なんてしませんよ。俺、春川さんにも約束しましたら」
予想通りの返答に、笑みを浮かべる静流。すると、今まで黙っていてくれた拓真が指を差した。
「公園って、あれのことか?」
指示した先には、2人にとっては見慣れた公園が闇夜にあった。
「あれだ!」
息を整える間もなく、3人は慧斗の姿を探すべく、公園へと更に地を強く蹴った。
「いた! 慧斗だ!!」
晃が叫ぶ。
さほど広くもない公園の中心に、慧斗の姿が見えた。
「おい、他にも誰かいるぞ」
拓真の言うとおり、慧斗の前には1人長身の影が佇んでいる。遠目でハッキリとは分からないが、その姿に晃は見覚えがあった。
「リヒト先生……?」
そう呟いた刹那、3人の前に黒い物体が立ちふさがった。
「!? ――――レオ!?」
立ちふさがったのは、全身の毛を逆立て、姿勢を低くし威嚇しているレオだった。犬歯を覗かせている姿に、静流は身がすくむのを感じた。
「邪魔すんな、レオ!」
黒い犬の横を通り抜けようと晃が挑むが、その足にレオが牙を剥く。
「いっ!?」
牙が晃の右足に食い込んだ。だが、食い込む程度で皮膚が裂けるほどのものではない。それでも、甘噛みとは程遠いものだ。
低い、地を這うような唸り声をあげるレオは、その場を動く様子はない。自分の主人の一大事かもしれないというのに、何故この犬は救おうとする者たちの邪魔立てをするのだろうか。
「くっそ、そこどけよ!」
「静流、大丈夫か?」
「う、うん。なんとか」
今は恐怖心よりも、慧斗の身の安全の方が大事だ。自分の身可愛さに、優先するものを間違ってはいけない。今までにない剣幕のレオに足は震えるが、その瞳はしっかりと、目先の慧斗にいっている。
と、突然、レオの様子が一変した。
灰色の瞳は大きく見開かれ、勢いよく晃たちに背を向けた。すると、慧斗の方面に、吠えながら走っていったのだ。
突然のレオの行動に、一同唖然としたが、すぐに我に返った3人は目線を慧斗に移す。
そこには、慧斗とリヒト、そしてもう一つの小柄な影。
「……子供か?」
拓真が言うように、その体躯はまだ幼い子供だ。遠目ではっきりしないが、髪を高い位置に二つに結んでいる。
「なんでこんな時間に」
「そんなこと、どうでもいいわ。早く、慧斗を」
レオから与えられた恐怖心に、知らずに声が震えた。その声にこたえたのは、既に一歩踏み出していた晃だった。
「行きましょう」
3人が公園へ到着する数分前、慧斗は困惑していた。
「こんばんは、ケイト君」
これが昼間で、場所が公園ではなく学校だとしたら、慧斗は挨拶を返したのかもしれない。だが、日はとっくのとうに落ち、街灯と月の光が無ければなにも見えない状態だ。それに、リヒトと学校以外で合うのはこれが初めてだ。
そこで、レオがリヒトに一つ吠えた。それは、レオが静流や晃に対する、敵対心を持った声ではなく、むしろ慧斗や塔子に対する穏やかなものだった。
「ここまで、ケイト君を連れてきてくれて、ありがとうございました」
レオに向き直り、リヒトは言った。
連れてくる? リヒトがレオに、命じたというのか。慧斗をこの公園までつれてこい、と。
いよいよもって、慧斗はリヒトに対し不信感を抱き始めた。
レオをいつの間に手懐けたとか、そんなことも思ったが、それよりもまず、何故自分をここへ呼んだのか。話なら学校でもできるはずだ。何故、この時間で、この場所なのか。
慧斗は僅かに、一歩後ずさる。
「ケイト君。そんな怖い顔をしないでください」
リヒトは穏やかに言う。だが、慧斗の険しい顔は変わらない。
慧斗はこの時やっと、リヒトが自分の事を名字ではなく、名前で呼んでいるということに気付いた。あまりにも自然に名を呼んでいたので、気付かなかった。だが、一度気付いてしまうと、その声が違和感の塊のように感じてしまう。
「……俺に、何か用ですか?」
警戒心を隠すことなく、リヒトに問う。リヒトは笑顔のまま、淡々と答えた。
「迎えに来ました」
「迎え……?」
意味が解らない。と訝しげる慧斗に、リヒトは頷く。
「はい。僕は、君を迎えに来たんです。君が、必要なんです」
一緒に来てください。そう言って、リヒトは慧斗に右手を差し伸ばした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。いきなり何を……」
「時間が無いんです。さぁ、『あちら』へ」
慧斗の声を遮って、リヒトは一歩足を踏み出した。その分、慧斗は一歩、後ろへ下がる。
「意味わかんねぇよ。あちらって、どこだよ?」
「名前はないんです。ですから、『あちら』へ」
段々と、リヒトの口調が速まっていく。焦りを感じるその声に、慧斗は困惑するばかりだ。リヒトも、いつもと違う雰囲気だ。
「さぁ、早くこちらへ来てください」
「……断る」
「あなたに拒否権はありません。無理矢理にでも連れていく」
「レオ、帰るぞ」
リヒトから視線を外さないまま、レオを呼んだ。だが、レオは最初の位置を動こうとしない。動く気配すらない。ただじっと、二人のことを見つめているだけだ。
「レオ!」
慧斗はリヒトの傍にいるレオに、強めに視線と声を投げかけた。だが、それがいけなかったのか。一気に距離を詰めてきたリヒトに反応できず、腕を掴まれた。
「いっ――――」
その体躯からは想像できないほどの、強い力で腕を掴まれ、痛みに顔を歪める。リヒトを見上げると、その顔からは笑みは消え、冷え切った青い瞳があった。
「……離せ」
「お断りします。――――さぁ、行きましょうか」
言葉と同時に、青い瞳が揺らめき、徐々に色合いが変化していく。深い青はゆらりと揺れ、次第にその色は紫へと変わり、そして赤い色濃いものへと変色した。
その変貌を、間近で見ていた慧斗が、その現実味のない出来事に、目を大きく見開き、息を飲んだ。
吸い込まれそうなほどの、その妖しく光る赤い双眸に、慧斗自身が映っていた。
だが、その瞳は長く慧斗を見なかった。
「――――っ!!」
勢いよくリヒトは慧斗の後方へと視線を投げた。次いで、普段のリヒトだったら絶対にしないであろう舌打ちを零し、険しく顔を歪める。
「邪魔を……っ!! レオ」
リヒトが犬の名前を呼ぶよりも早く、レオは主人である慧斗の横を駆け抜けた。
反射的に慧斗が振り向こうと首を巡らせた。だが、リヒトの左手に顎を乱暴に掴まれ、その顔は再びリヒトに向き直られる。
「君はダメだ。僕の眼を見ろ」
再びその赤い双眸と目を合わせられる。だが、いつまでも大人しくいる慧斗ではない。
「離せ!!」
自由な腕で、リヒトの体を思いっきり突き飛ばした。思わぬ反撃だったのか、リヒトが後ろへよろめき、腕の力が弱った一瞬の内に、慧斗はリヒトを払いのけた。
「あんた、なんなんだよ! いきなり、意味わかんねぇこと言いやがって!」
よろめいた体制を整えて、リヒトは片手で目を押さえる。そして、小さな声で呟いた。
「……そうか、そうだったな。君には、僕の眼は通用しないんだった」
小さな声に、慧斗は反応しない。聞こえなかったのだ。
リヒトはまっすぐ背筋を伸ばし、片手を下ろした。開いたその眼の色は、未だ赤。
「嬉しいですよ、ケイト君。――――君は本物だ」
「は、何を言って――――っ!!?」
刹那、慧斗は突然襲ってきた頭痛に顔を歪めた。見覚えのあるこの痛みとともに、心臓がドクン、と一際大きく鳴りあがった。
「ケイト君……? どうしました?」
突然頭を抱え、痛みに耐えて目を固く瞑る慧斗に、リヒトは手を伸ばす――――が。
「こんばんわー。リヒト、久しぶりー」
突如黒い闇に包まれて、眼前に少女の姿が表れる。少女は笑みを浮かべて、さも嬉しそうに、慧斗に伸ばしたリヒトの手を握った。
「お前は――――っ!!」
リヒトは目を見開き、すぐさま顔を歪めて手を振り払った。そして、後ろに飛び退き、小さな少女と距離をとる。
「どうして、ここに……!」
驚愕にリヒトは口を開いた。
「あれー? 僕がここにいること知らなかったの? 結構前から、ここにいるんだけどなー」
少女はおかしそうにクスクスと笑い、目を細めた。
「リヒトってば、ここにきてから少し、鈍ったんじゃない?」
「黙れ」
一喝し、リヒトの赤い瞳が、苛烈に光る。最初の穏やかな雰囲気とは打って変わって、憎悪を纏った瞳で少女を睨んだ。
「そんな目で見ないでよー、怖いな。ほら、ケイトも怖がってるよ」
少女は後ろを振り返り、同意を促すように笑いかけた。
「おま、えは」
ズキズキと痛む頭を意識しながら、目の前の少女を慧斗は見た。
「久しぶりだね。ケイト」
少女が自分の名を口にする。そして、慧斗はこの少女が、以前電車内で会った少女だと確信した。
少女の姿かたちは以前と同じだったが、色が違った。
以前も白かったが、闇に浮かぶその肌は、病的なまでに白かった。白すぎて、まるで人間ではないように。そして、その肌と同じ色の、高い位置で二つに結んだ髪。月の光を浴びて時たま光るが、銀色ではなく、陶器の様な白。そして、同じように白い瞳。
全てが白に包まれた少女は、口の笑みを戻すことなく、慧斗を見上げていた。
「彼から離れなさい……っ!!」
怒気を含んだ低い声音に、慧斗と少女はリヒトに目を向けた。そして、その逆上した今にも襲いかかりそうな形相で、こちら(正確には、小さな白い少女)を睨むリヒトに、慧斗は身がすくむのを感じた。
リヒトの赤い瞳には、憎悪の念が色濃く表れていた。まるで、親の仇を見ているような、酷く惨憺としたものだ。普段のリヒトの優しい顔など、微塵も見せていない。
リヒトは未だ離れようとしない少女に痺れを切らし、一歩踏み出した。
「彼から離れなさい、指一本として彼に触れるな。彼の視界に入るな、離れろ。消え失せろ、二度と俺達の前に現れるな」
「あれ、リヒト。本性が出てるよ。いいの?」
「死ね」
「ひっどいなぁ」
言葉の割には、少女の顔は嬉しそうだ。小さく肩を揺らし、その体格に見合った小さな手を、口元に当てる。
「ふふ、『死ね』はないんじゃないのかな? というか、それはできない願いだけどね」
「黙れ、殺してやる」
「君には無理だよ、リヒト。君じゃ、僕は殺せない」
一語一句、ゆっくりとリヒトに告げる。リヒトの眼がクッと、開いた。垂れ下がったままの手が、力を込めて拳を握られる。
「殺せるさ」
「いいや、無理だよ。だって、そう言って君は何回僕の事を殺そうとした? 逢うたびに殺そうとして、一度だって僕の命を消せたことがあった? 何百回と挑戦しても、できなかったでしょ? 君に、僕は殺せ――――っ」
言い終わる前に、慧斗の眼前にいた少女の姿が消える。否、消えたのではなく、横に倒れたのだ。
あまりにも一瞬の事に、目が追いつかなかった慧斗だが、地面を見ると倒れた要因が解った。
「……れ、お」
少女の首元に自らの牙をめり込ませた犬に、慧斗は一種の眩暈を覚えた。以前から知っている愛犬の姿は、今ではまるで知らない狂犬の様な獰猛な犬に変貌している。
また一歩、慧斗の足が目の前の恐怖により、逃げようと後ろへと引かれた。
食い込む犬歯をものともせずに、少女は悠然とした態度で話しかける。
「やあ、君がレオだね。ケイトの飼い犬にして、リヒトの忠犬。はは、いいのかいそんなに怖い顔して。大事なご主人様が脅えているよ?」
少女は淡々と黒い犬に問う。レオは返事の代わりに、顎の力を強めた。肉が潰れる音はするのに、そこから血は一滴も流れてはいなかった。
「ケイト君」
「っ!?」
リヒトの赤い瞳が慧斗に向けられ、ガバリと顔を上げる。足元には横たわる少女と獣の姿。
慧斗の呼吸は浅い。恐怖とこの教師の殺気に当てられ、吐き気も頭痛も酷く増した。鼓動も鳴りやむことなく、早鐘を打っている。
リヒトが手を慧斗の顔に翳して、赤い瞳が揺れる。慧斗は唾をごくりと飲み込んだ。
何度もリヒトの注意が慧斗から外されたことがあった。その時、慧斗は逃げられた。だが、逃げなかった。いや、逃げられなかったのだ。恐怖により、足がすくんだ。まるで、足が地面に縫いとめられたように、動かせなかった。逃げたいという意志はあるのに、恐怖が邪魔をして行動できない。
リヒトの瞳の色が、業火のようにうごめく。そして、額に一本に引かれた縦の切れ目が浮き出てくる。
慧斗の眼は離せない。
「慧斗!」
少し離れた後方から、三人の人間が名を呼んでいるのも気付かないまま、慧斗はリヒトを凝視する。三人もまた、走りながらその異様な光景に戦慄が走る。
額にある縦の亀裂が、開かれた。そして、そこから現れた、リヒトの両目と同じ色の、赤い瞳。
リヒトの額に、赤い第三の瞳が、開眼された。
「……っひ!」
静流が小さく悲鳴を上げる。
額の赤い瞳は、2つの眼とは一回り大きいものだった。
第三の瞳は、開眼された時から目の前の慧斗を一点に、見つめている。慧斗も同じく、目が離せない。3つの赤い目が、慧斗を捕らえた。
刹那、慧斗の足元を中心に闇の穴が出現する。
叫ぶ間もなく、穴から這い出た触手のような闇の縄に、足全体をを絡めさせられ身動き一つ許されなくなる。そして、慧斗は泥沼のような穴に引きずり込まれた。
「慧斗!?」
代わりに悲鳴を上げたのは静流の声だった。そして、咄嗟に慧斗が手を伸ばし、それを掴んだのが晃だった。
「竹内!?」
一気に慧斗との距離を詰めた晃は、闇の中消えようとした慧斗の手を、その卓越した瞬発力で掴んだのだ。
既に胸まで闇の穴に埋められ、肩から上は辛うじて晃の力により無事な程度だ。焦りを伴った表情の晃は、慧斗を渾身の力で引っ張り上げる。だが、手汗が滲み上手く力が入らない。更に追い打ちをかけるように、闇の触手は力を強め、晃から慧斗を引き離そうとする。
「よせ、竹内! お前まで引きずりこまれるぞ!」
咄嗟に出た言葉だったが、実質慧斗はその手を離さまいとしている。それが言葉だけの物だと、晃は理解していた。
「離しなさい、竹内君! 僕が必要としているのはケイト君だけで、君には関係がない!」
「んなもん、知るか!!」
慧斗の瞳から目を離さず、晃は一喝する。
「目の前でダチが危ねぇんだ! 助けねぇでどうすんだ!!」
「竹内……」
晃は、慧斗がどう危険なのか理解できていなかった。
頭の隅では、『どうしてリヒト先生が』とか『なんで女の子にレオが襲いかかっているんだ』などといったその場に見合った疑問が駆け巡っていることだろう。だが、頭で理解するよりも早く、体が晃を動かした。
――――『慧斗を助けたい』、その一つの想いが、晃を恐怖から抜け出させたのだ。
晃のこれまでの動きは、全てが無意識の下で動いていたと言えるだろう。
すると、もう一方から別の、華奢な手が慧斗の手首を掴んだ。その見慣れた両手に次いで、一回り大きな手が2人の手を包み込む。
静流が晃の隣で、足を踏ん張らせている。そして、静流の背後から腕を回し、慧斗にとっては初対面の男が手を伸ばしていた。
「静流……、それにあんたは」
「ども。静流の彼氏の、拓真です」
ここで笑顔の一つでも出せればいいのだが、そんな余裕など皆無だ。
3人の額にはうっすらと汗が滲んでいる。加え、地面に縫いとめようと必死な足はがくがくと震えだしている。
その様子が、どれほどの力で慧斗を引きずり込んでいるかを物語っていた。
この時、3人は眼前の慧斗を助けようとしていたため、後方への配慮をしていなかった。
だが、3人の背後が見える慧斗は、それを見た。
赤い目をした教師の顔が、大層歪んでいることを。
困憊の色を浮かべた蒼白の肌に、溢れ出ている冷や汗。口を薄く開き、肩を上下させ荒い呼吸を繰り返している。
右手は胸元のシャツを握りしめ、深い皺がいくつもできていた。
だが、赤い眼は変わらずに慧斗を見ている。
リヒトは酷く疲労している。
その様子を一目見て、理解した慧斗が次に認識したことは、あの少女がレオの牙から逃れているところだった。
まさに一瞬。
慧斗の視線がリヒトから少女へ移った瞬間の、僅か数秒の出来事だった。
少女の腕がレオに伸びたかと思うと、瞬き一つの合間にレオは地面に沈んでいた。
少女の細腕がレオの首にあることを見て、少女がレオの首に手をかけて、自らの首から引き剥がしたのだろうと思い当たった。
レオは首にかかる少女の力から逃れようと、足をばたつかせ牙を少女に向けるが、それらは虚しくも空を切るばかりだった。
少女は変わらない機械的な笑みを絶やさずに、ゆっくりとその白い瞳を慧斗、次いでリヒトへと移していった。
「リヒトォ、やっぱ辛い? 予定では一瞬でケイトを連れていくつもりだったんでしょ? でも、残念ながら邪魔者が入っちゃった。長時間“穴”を開けてるのは、きついよねー」
「だ、まれ……」
絞り出された声音は、想像以上に脆弱で、リヒトの様子を物語っていた。
手元で暴れるレオを、力で捻じ伏せたまま、少女は口元で半円を描く。
「ねぇ」
甘く、甘美な声音で、少女はリヒトに言う。
「――――手伝ってあげようか?」
爛々と妖しく光る瞳をリヒトに向けたまま、空いた片手を慧斗たちに向ける。
その動作で次に出る行動を予測したのか、焦りを帯びたリヒトの叫びが慧斗たちの耳に入った。
「よせっ! 彼に手出しするな――――!!」
言い終わるか終らない内に、厚みを帯びた新たな“影”が、幾重にも慧斗の体に襲いかかる。
「慧斗!」
「くっそ! なんなんだよ、これ!!」
先程までは、なんとか慧斗の体を地上へとどめられていたが、本数の増えた状態で何倍もの力が加わり、3人の力の限界が来る。
「ダメだ! お前らまで引きずり込まれる! 離せっ!」
「嫌だ!!」
「この阿呆が!! 俺の事はいいか――――ぐっ」
“影”が慧斗の口を塞ぐ。“影”は何本も慧斗を隅々まで多い、とうとう3人が掴んでいる右手だけが、肌の色を残していた。
完全に慧斗の抵抗は許されなくなり、ずるずるとその得体のしれない“穴”へと体は沈んでいく。
「慧斗、いやぁ!!」
静流の叫びが慧斗に向けられるが、彼の耳に届いているのか。
3人が名を叫び続けるが、反応などない。更に、今まで離すまいと握られていた慧斗の右手が、緩められている。
慧斗を引きずり助けようなどと、無理なことだと、彼らは理解した。
「ダメだ、手を離すんだ! そいつはもう――――」
「嫌よ! まだ……まだ、大丈夫よ!」
拓真の言葉を遮り、静流は沈みゆく慧斗の右手を離さない。
「そうっすよ! まだ、まだ助けられる……!!」
既に力のこめすぎで、2人の両手は痙攣を起こしている。
だが、まだ認めるわけにはいかないのだ。
友人を、家族を失うわけにはいかない。
晃と静流。二人の想いは一つだ。
たが、それは拓真も同じく、大切な恋人が一緒にいなくなってしまうかもしれないという、不安もある。
「ダメだ、手を離せ! 静流、諦めろ!!」
聞く耳などもたない。2人は懸命に足を踏ん張らせ、力なく沈む手を必死に掴む。
ならば、無理矢理にもはがそうと、拓真の両手が静流の肩へ伸ばされた時――――、
「なら、君たちも行くといいよ」
背後に、高い子供の声が響いた。
晃が、静流が、拓真が振り返る。
「行ってらっしゃい」
そこには笑みを浮かべた少女が、足をこちらへ向けていた。
ドンドン、と軽い音が暗闇の公園内に響き、晃と静流の体が前方へと傾く。
同時に、二人の視界の端で、繋がれた手が“穴”に完全に沈んだ。そして、そこから新たに伸びた“影”の触手が、まるで開花の瞬間のように四方八方へと伸びていく。
「え……?」
それは誰が発した声だったか。
二人は拓真の目の前で、慧斗同様に全身を“影”に纏いながら、倍にも広がった“穴”へと沈んでいった。
抵抗する暇もなく、3人の高校生は“穴”へと引きずり込まれた。
闇。
まさに、眼前に広がるのは闇だった。
ただの黒い部屋かもしれない。だが、そのなんの光も受け付けないこの空間には、闇という言葉が一番ぴったりだと思った。
自分の体も確認できないほどの暗さに、一点だけ小さな光を見つけた。
それはとても微弱なもので、距離感がつかめないため、それが小さく目の前にあるものなのか、それとも大きくて遠くにあるものなのか分からなかった。
――――。
声を聞いた気がする。
それは聞き覚えのあるものだった。
そうだ、自分は確かこの声を聞いた気がする。
夢の中で。
……いや、自分は夢ではない所で、この声を聞いたはずだ。
昔、遠い昔にこの声を聞いたはずだ。
――――。
言葉は聞こえない。
だが、それが穏やかなものであることがなんとなくわかる。
それは、この冷たい暗闇のなか、暖かに淡く光るため、そのようなイメージが湧き出てきたのだろうか。
わからない。
『…………と』
あぁ、この声も聞きおぼえがあるぞ。最近良く聞く声だ。
『……けい……と』
この声も、聞き覚えのある声だ。良く知っている、昔から聞く声。
『ケイト』
2つの声が重なった。
光をみると、その光の中にある姿が確認できた。
夢の中の人影。
どおやら遠くて、小さく見えたようだ。
光の中の人影は、確かな声で、こう言った。
――――おかえり。
「慧斗!!」
ハッと、一気に意識が浮上してきて、そして全身で感じる浮遊感に身を包まれた。
そして、ケイトはその眼を疑う。
――――眼前に広がるのは、大地だった。何百という大樹が、まるで蟻のように、そして徐々に大きくなっていくではないか。
咄嗟のことに頭をフル回転させ、現在の状況を理解しようとした。だが、混乱し続けてきた頭よりも早く、叫び続けていた少女の声で叫んだ。
「いやあああああ!! なんで? なんで私たち、落ちてんのよぉっ」
この浮遊感、まるでジェットコースターにでも乗ったかのような、いやそれよりも恐怖心はこちらのほうが断然上だろう。
3人は、このくらい夜の空のど真ん中に、投げ出されたのだ。
公園にいた時は、固く慧斗の腕をつかんでいたが、今では離れ離れになっている。慧斗を真ん中にし、3人はすさまじいスピードで地に向かい落ちてゆく。
無駄な抵抗だとは思うが、それでも眼前に広がる大地を拒絶しようと、静流は手足をばたつかせていた。
「いやあああ、慧斗! 助けて!!」
「落ち着け、静流!」
落ち着く? そんなこと、自分だって無理だ。突然のこの状況で、どう落ち着けというのだ。
「慧斗! 手を!」
晃が慧斗に向かって手を伸ばした。その瞳は、やはり2人同様に恐怖の色をしていたが、ばらばらの状態よりも固まっていたほうがいいと、判断したのだろう。どうやら、今は慧斗よりも晃のほうが落ち着いているようだ。
この状況の中、必死に伸ばす晃の手が、とても大きく見え、少しばかり安心したのを、慧斗は心で感じた。
次いで、晃は叫び続ける静流にも叫び伝える。
「雨宮さん、あんたもだ!! 慧斗の手をつかめ!」
だが、静流に声は届かない。下からくる風の轟音と、自身の叫び声によってかき消されたのだ。
「静流! 静流!」
慧斗は風の音に負けまいと、声を張り上げた。だが、聞こえない。
「くそっ。静流!」
舌打ちをこぼし、静流へと手を伸ばした。晃から遠ざかってしまうが、放っておくわけにももちろんいかない。
暴れる静流の手をつかもうと、何度も名前を呼び掛けながら手を伸ばした。そして、その細い腕を、慧斗の手がつかむ。
「静流!」
「いやあああああ」
「静流、落ち着け! 俺なら、ここにいる!」
手を引きよせ、一気に距離が近づいた。
「慧斗、慧斗助けて!」
すがりつく静流を抱き寄せて、そして晃へともう一度手を伸ばした。だが、届きそうな距離ではない。届いたところで何もできるとは思えない。気休めにしかならない。あと十秒もあるかないかで、地面にたたきつけられてしまう。
(どうすれば、どうしたらいい!?)
「慧斗、後ろだ!」
晃が叫ぶ。
そして、すぐさま慧斗が背後に首を向けた。
ぎくり、とした。背筋が冷える感覚。先ほど何度も体験したこの恐怖。
慧斗の背後は、白だった。純白の白。
「さっきぶりだねー。どう、スカイダイビングは。楽しい?」
まるで、地上でのんびりとするように話しかけてきた少女。その長い二つにくくられた白い髪は、この風圧になびくことなく、垂直に地面に向かっている。
そのありえない状況に、3人は反応できない。
少女はにっこりと変わらない笑みを浮かべながら、3人と一緒に落ち続けているにも関わらず、指で晃を指した。
「ばいばい」
「え――――」
刹那――――見覚えのある黒い“影”が晃を包み込む。
「うわあああぁあああっ――――」
「竹内!」
晃の叫び声は途中でぶつりと途絶え、後に残るのは夜の空だけ。
「お前、竹内に何を――――」
「次はその子だよ」
つい、と指した相手は、竹内の名を叫んでいた静流。
2人に悪寒が走り、咄嗟に慧斗が強く静流を抱きしめた。
「いやぁ、やめて!」
「よせ!」
だが、無情にも少女の声が、2人に降りかかる。
「ばいばい」
ぶわり、と何もない空間から広がった“影”は、きれいに慧斗と静流の間を滑り込むようにして入る。そして、瞬く間にも静流は“影”に取り囲まれようとする。
「静流!」
「慧斗っ!」
“影”の隙間から覗かれた、大粒の涙を流した静流の瞳。それが、完全に包まれると、晃同様に静流は慧斗の目の前から消えた。
「さぁ、次は君だよ」
「――――っ!」
二人を失くした悲しみを、ましてや少女に対する怒りさえも、感じさせる暇を与えずに、少女が告げる。
至極楽しそうに笑む少女。その指が慧斗をとらえた。
もう、慧斗の眼は地には落ちていない。大地はもうすぐそこだった。それでも、死への恐怖よりも眼前いる少女の瞳を、慧斗は睨むように見た。その瞳には、恐怖と憤怒の色が苛烈に複雑に光っている。
少女はその視線を受け止めて、一瞬真顔になったが、すぐさまその顔は笑顔の形に歪められた。
それらがすべて一秒にも満たない、一瞬で終わり、そして――――
「じゃ、ばいばいケイト。がんばってね」
視界が夜の闇とは違った、黒に染まる。隙間から見えた夜の帳と、間逆な白。
少女の笑顔を最後に、慧斗は“影”と共に消えた。
落ちていく意味を失くした少女は、その場に留まり空に浮く状態となる。足元を見ると、少しばかりの距離を置いて、背の高い木々があった。あと少しでも遅れたら、慧斗たちはこの木に打ちつけられていただろう。
「……ふ、ふふ……ははは、アハハハハッ!!」
突然気でも狂ったかのように少女は笑い出す。その銀の瞳は爛々と輝き、まるで子供のように純真で、そして狂気にも似た感情が渦巻いていた。
ひとしきり笑い終えると、少女は両手を大きく広げる。まるで、この広大な大地を包み込むように、そして大きく笑いをにじませた声を張り上げた。
「さぁ! これが、始まりだ! ケイト、君はこの広い世界で、全てを見るんだ! 君がこの世界の鍵となる!」
彼はこの世界で何を感じるだろうか、何を想うだろうか。少女は楽しみで仕方がないとでも言うように続けた。
「あぁ、ケイト。頑張って生き延びるんだよ。そして、どうか……」
少女は言葉を切り、闇が広がる地平線を見やり、どこか憂いを帯びた瞳で見つめた。この自身の変化を、少女は自覚せずに言葉を紡いだ。
「どうか、“彼”の様に僕を――――」
言葉は続かなかった。少女は自身の両手の指をからませ、額に着ける。その姿はまるで、祈っているように儚く、切ない。
少女は、暫くその形で体を動かさなかった。そして、ゆっくりと顔を上げ、口を開く。
「おかえり、ケイト」
夜の帳に消えた少年たちは、この世界で自身の役割を見つける。
そして、自分たちの意思で、彼らは選択する時が来るだろう。
選択を迫られた時、彼らの中には何があるだろうか。
この世界で、何を思い、何を感じるのだろうか。
これは、この世界の物語。そして、あの3人の物語。