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スカイラフター  作者: 中条 眞
序章
1/7

前編











 草が覆い茂る湖。その水面には輝く星達がひしめきあっていた。昼になれば輝く赤き太陽を映すだろう。そして水底には、蓮の花。あぁ、なんて美しきこの湖。

 だが、どうだろうか、この有様は。

 焼け野原になったこの大地。黒き煙が空を覆う様。生き物たちの亡骸が沈む水底。あぁ、なんて醜きこの湖。

 

 ――――彼の人は戻らない。我等はただただ待つのみ。この“約束の場所”で、いつまでも待とうぞ。

 あぁ、どうか。彼の人を見つけてくれ。そして、願わくば、我等の代わりに彼の人を守ってくれ。

 

 どうか、彼の人の幸せを、永久の平穏を。どうか、我らが成し遂げなかった役目を。



 

 どうか、どうか――――。










 「桐島、桐島」

 自分の名を呼ばれ、桐島慧斗は授業が終わったことに気づいた。

 机に突っ伏していた状態から身を起こし、ギリギリ目にかかる程度の漆黒の髪の隙間から、声の主を見やる。

 「おはよー。よく眠れたか?」

 はっきりしない頭をかいて、クラスの人気者である――――竹内晃――――の眩しい笑顔に目を細めた。

 「桐島が寝てるなんて珍しいな」

 「……最近、寝ていないからな」

 「へぇ。勉強とかで?」

 「いや、ただ単に、眠れないだけだ」

 「ふうん。なんで?」

 「……さぁな」

 そっけない言葉を口にしたが、晃は気にした風でもなく、次の授業が移動教室だと告げ、そばを離れて行った。いつも一緒にいる友人たちとじゃれあい始めた晃を横目に、慧斗は人知れずため息をこぼした。

 教室内は人がまばらになり、慧斗もまた同じように教科書等を用意する。

 竹内晃はクラスの人気者である。その明るい性格と人当たりの良さは、男女かかわらずに好まれ、教師等にもその顔を利かせている。所属しているバスケ部でも好成績を得て、いわば“人を寄せ付ける”タイプだ。

 そんな彼が、いつも一人で行動している慧斗に、最近声をかけてくる。

 慧斗は晃とは全くの逆で、教師相手でさえ変わらない冷たい態度と、いつも常備している無表情で、“人を全く寄せつかない”タイプだ。誰かと一緒に行動を共にするのが煩わしいと、慧斗は常日頃思っている。

 間逆の性分である二人が学校で行動をともにするなど、慧斗だけでなくとも周りの人間たちもあり得ないと口をそろえて言うだろう。

 だが、そう言うのは彼らと違うクラスの生徒たちだろう。同じクラスである2組にとって、その光景はもはや恒例となっている。

 なぜなら、晃の慧斗に対するアプローチは今に始まったことではないからだ。これは入学初日から始まったことだ。

 思いだしたくもない高校生活初めての一日目を思い出し、自然と寄った眉根を人差し指で押さえた。そんなことをしても眉間の皺が治ることはないのだが。

 入学初日、興奮した気分で友人作りを始め出した同級生たちとは雲泥の差で、慧斗は全く他者に興味を示さなかった。退屈な入学式を終え、さっさと家に帰りたいと気だるい気持ちで、周りの高揚した声をBGMに本に目を落としていた。

 集中し始めた晃の気分を一気にそぎ落としたのは、たくさんのクラスメイトの中、真っ先に慧斗に声をかけた晃だった。

 その時も慧斗の態度はまさに「冷たい」の一言だったのだが、晃はめげずにこの夏休み手前の7月まで、慧斗に声をかけてきた。もちろん、慧斗の態度が変わる気配はない。むしろ毎日のように声をかけてきて、激しく鬱陶しがられ冷たさが増している。だが、それでも声をかけ、たまに返事をもらえると、嬉しそうに笑うのだ。

 何故そこまで自分に執着するのか。思い当たる節はあると言えばあるのだが、もしその予想が当たっているのならば……。

 そこまで思い、慧斗の眉間がさらに深まった。気落ちした気分を紛らわすかのように、慧斗は次の授業へと席を立った。




 「晃、また桐島と話してたのか? 一方通行の会話」

 「お前も飽きないな。一方通行の会話でも」

 「一言余計だよ、お前ら」

 ニヤニヤと晃の両肩に左右から手を置くのは、いつも晃と行動を共にしている佐藤と花井だ。

 ガヤガヤと生徒たちの会話で賑わう廊下で、3人は肩を並べて歩いている。時折、開いている窓から涼しい風が、3人の体を冷やした。だが、それでも熱いものは熱いので、晃と佐藤の手には教科書が団扇代わりにパタパタと動かされていた。

 「だって、今日もどうせ晃が話してるだけだったんだろー?」

 佐藤のからかいのこもった問いとは裏腹に、晃は堂々と胸を張った。

 「今日はちゃんと会話したぜ!」

 何も胸を張って言うことでもないのだが、「マジで!?」と驚きの声をもらした佐藤に、晃は鼻にかけたように「どうだ!」と言い放った。だが、続いて織りなされた二人の会話に脱力する。

 「うっそ、晃だけ話してろよ」

 「残念だったな佐藤。賭けは俺の勝ちだな。と言うわけで、お前のから揚げはいただいた」

 「くっそー、俺のメインディッシュが……!! 次はぜってー負けねぇからな」

 「……お前ら俺らをダシにおかず賭けんなよ」

 呆れたような目線をよこす晃に、佐藤がにししと人のよい笑みを浮かべた。

 「いやー、それにしてもめげないねー。俺だったら桐島のあの冷たい視線で、すぐにリタイアするわ。てか、まず話しかけようとも思わねぇや」

 「右に同じく」

 「えー、ちょっとは頑張れよ」

 その言葉に、佐藤は苦笑を洩らし、花井は何も返さなかった。

 佐藤の言うことに同意するのは、何も花井だけではない。むしろ2組全員が同じ気持ちだろう。

 桐島慧斗という人物は、なんともいえぬ、近寄りがたい存在だ。

 黒目黒髪に、平均程度の身長で少し線の細い体。パッと見は普通だ。だが、その容姿は見れば目鼻立ちは整っていて、なかなか美形の位置に入るだろう。現に、以前女子が少し距離を置いたところで、慧斗を見てそわそわしているのを、佐藤は目撃したことがある。

 「いやー、なんつーか、あの目を見ると、どうも駄目なんだよなー。一回も話したこと無いのに、え、俺ってそんなに嫌われてんの? って思う」

 いかんせん、あの冷え切った瞳がどうも苦手なのだ。慧斗は目つきが悪いというわけではない。きっと誰かと干渉すると、途端に不機嫌そうに顰められるあの眉間の皺が原因だろう。

 「いやいや、んなことねぇって」

 晃の言うとおり、きっと桐島は自分に対してそんなことは思っていないのだろう。ただ単に、話すのが面倒だったり、極力他者と関わることを避けたいのだろう。

 だが、桐島の近寄りがたい雰囲気に気圧され、なんとなくそんな感情が植えつけられてしまった2組の生徒たちにとっては、佐藤と同じことを思っても仕方がない。

 「佐藤は桐島のこと誤解してんだよ」

 「まぁ、確かに誤解はあるだろうな。でも、それは桐島にも原因があるだろう」

 佐藤の代わりに答えたのは花井だ。花井は暑さを微塵にも感じさせずに、前を向いていた。

 「あんな非友好的な態度を取られたら、そう思うのは仕方ない」

 「あー……、まぁ、そりゃあそうだけどさ……。でも、そのー」

 返す言葉が無いのだろう。言葉を濁らせ、晃の視線はあたりを彷徨っている。そこで、佐藤は日ごろ疑問に思っていたことを口にする。 

 「なぁ、なんで晃ってそんなに桐島に執着するわけ?」

 さっきも、否定的な花井の言葉に、晃は慧斗を弁護しようと言葉を探しているようだった。あれだけひどい扱いを受けているのにもかかわらず、ましてや慧斗が知らないところで、何故かばおうとするのか。まあ、晃の性格からして、どんな人間でも悪口は言わないし、人からの悪口に賛同するような奴ではないということは、入学からの付き合いでわかっている。

 だが、それにしても桐島に対する者は、どこか他の者に対するそれとは違う気がするのだ。

 「え」

 興味があるのか、花井も目線をこちらに向けた。話を促すような視線を両側から受け、晃は小さくうなった。

 「あー、まぁきっかけっていうのは、あれかなー」

 晃の言葉にかぶさるように、授業の始まりを告げる鐘が鳴った。 



 ―――――約4カ月前、晃は慧斗と出会った。いや、正確には見かけた。

 桜が舞い散る3月。義務教育を終えたばかりの晃は、愛犬のモモを連れて、近所の公園へ出かけていた。

 モモの犬種はゴールデン・レトリバーなため、春の緩やかな日差しに当たる黄金に輝く毛並みはまるで太陽だ。

 「あ、モモだ!」

 「モモー」

 遊具で遊んでいた子供たちが寄ってきて、桜の花びらで埋まる地面の上でモモと戯れ始める。体中をなでられて、気持ち良さそうに目を細めるモモをみて、自然と頬が緩んだ。

 春休みのお昼頃だったので、公園には親子連れで訪れている人たちで賑わっていた。最近毎日のようにこの公園を訪れているため、もはや子供たちとは常連の付き合いだ。

 晃は、このモモと子供たち戯れる時間がとても好きだった。だが、少し物足りないという気持ちもある。それはきっとモモも同じだろう。

 この公園には子供が多い。だが、犬がモモ以外一匹もいないのだ。

 とても微笑ましい光景なのだが、やはりモモも友達がほしいだろうに。何度か犬を飼っている人を探し求めて、あたりを走り回ったこともあった。散歩の時刻を変えたりいろいろと探したのだが、見つけたためしはない。 

 モモの友人が増えれば、モモも楽しいだろうにと思っている。そして何より、その飼い主と友達になれれば文句なんて一切ないのだ。欲を言えば自分と同じぐらいの歳で、バスケが好きで……。

 ボーっとモモと遊ぶ子供たちを見ながら思案に耽っていると、一人の少年が指を指した。

 「ねぇねぇ、あそこにもいるよー」

 「黒ーい。かっけー」

 何がー、と指さす方向へ首を巡らせる。

 「――――っ!!」

 瞬間、晃の瞳がカッと見開いた。視界の端で、その晃の目を見た子供がビクリと跳ねあがっていたが、そんなことに意識を向けている余裕はなかった。

 大きく目を見開いたその先には、犬。全身が黒く、遠目ではっきりはしないが、モモよりも大きそうな大型犬だ。

 それも、その少し前を歩く飼い主らしき人物に、さらに晃は驚くこととなった。

 「あれ、桐島じゃね……?」



 「ちょっと、待った」

 「なんだよ、今一番いいところだぞ」

 気分が乗ってきたところで邪魔されたのが気に食わないのか、晃は唇を尖らせた。

 生物室で微生物の観察を早々に終えた3人は、授業そっちのけで円を作っていた。話題は休み時間からの引き続きで、晃と慧斗の関係についてだ。

 晃の過去話を中断させた佐藤は、片目を眇めて疑問を飛ばす。

 「春休みっちゅーことは、入学前だろ。なに、お前らって元から知り合いだったのか?」

 「おう。中学一緒だったからな」

 「マジか」

 「…………」

 「だから最初っから親しげに話してたのかー。晃だけ」

 一人納得したように、佐藤はうんうんと頷いている。その横の花井は、わずかに眉間に皺を寄せていた。だが、花井の変化には気づかず、晃は続ける。

 「つっても、クラスは一緒になったことはなかったな。でも、あっちも俺のことは知ってんじゃねぇかな」

 「なんで?」

 「俺、有名だったから」

 ニカ、と笑う晃は眩しい。

 「……そうっすか」

 呆れ笑いをこぼす佐藤だが、何故かは聞きはしない。大方、スポーツやら晃の器量の大きさで、知名度が高かったのだろう。

 「じゃあ晃は、なんで桐島のこと知ってたんだ?」

 佐藤の何気ない言葉に、一瞬晃の表情が強張った。だが、それはほんの一瞬の出来事で、晃はすぐにその顔に普段と変わらない、だが困ったような笑みを浮かべる。

 「あー、それは……桐島も有名だった、から」

 「へー、なんで?」

 歯切れの悪い言葉に晃は苦笑を洩らし、頬を掻いた。

 「えーっと、桐島って絵とかですげえ賞貰ってんだよ。なんかポスターとか? だからさ、みんな桐島すげーって知ってたんだ」

 「桐島って絵うまいのか。そーいや、美術部だったっけ?」

 「参加はしてないみたいだけどなー」

 晃の笑顔は変わらず、だが花井の妙に真剣な顔はその笑みの中に隠れているものを見抜いていた。

 「おい、そこのおバカ三人」

 「いって!」

 バコ、といい音を立てて、佐藤の頭に教科書を叩きつけた人物は、生物の教師だ。

 「くっちゃべってないで、ちゃんとレポート書けよー」

 トレードマークの大きい丸眼鏡を押し上げ、卓上に広がる3人分のプリントを顎で示した。

 鈍痛の響く頭をさすりながら、佐藤は教師を見上げた。 

 「せんせー、俺達優秀だからもう終わっちゃいましたー」

 「おう、佐藤。優秀なのは花井と竹内だ。どうせ2人のレポート写しただけだろーが」

 プリント無いようにさっと目を通し、バコバコと佐藤の頭を立て続けに叩く。痛がる佐藤を、「ほら、やっぱばれてるじゃねーか。だから自分で書けっていったのによ」と、カラカラと笑っていた。

 「せんせー、俺は文系なのです。あと、せんせーの愛の鞭が痛いです」

 存分に佐藤の頭を叩いて満足したのか、教師はまだ観察の終えていない班へと移動していった。

 「……で、続きは?」

 「あれ、花井結構気になってるのな」

 「まぁな」

 先程から何も話さなかったので、興味がないとばかり思っていたため、意外そうに佐藤は眼を丸くした。

 「あ、そうだったな。――――で、俺は桐島を見つけたんだよ」

 ふと、慧斗の方を見やると、すでに実験器具を片づけて、慧斗の視線は窓の外に向いていた。



 慧斗を目に留めた晃は、嬉しさに顔を緩ませた。散歩を続けようと行ってしまう慧斗を引きとめようと、声を張り上げた。

 「桐島ー!」

 手を大きく振り回し、何度も名を呼ぶ。公園にいる数人が、突然の晃の大声に目線を晃と慧斗に寄越した。

 「―――――!」

 呼び声に気付いた慧斗は晃を一瞥し、眉間に皺をよせた。だが、遠くからでまったく気付かない晃は、繰り返し名を呼び続ける。

 「桐島ー! 俺、竹内! なぁ、こっち来いよ。てか、俺がそっち行く!」

 モモおいで、と愛犬を引き寄せ、慧斗と黒い犬の方向へと駆け出す。

 こちらへ来たことに、さらに顔を歪めた後、素知らぬ風に慧斗はくるりと踵を返し、逆方向へ歩み始めた。

 「な!? ちょ、待てよ!?」

 逃げられたことに多少のショックを受けるが、諦めず追いつこうと全速力で駆けた。が、距離が距離だっただけに、曲がり角へと消えた慧斗を見つけることは出来なかった。

 「に、逃げられた……」

 せっかく会えた元同級生、さらには念願の飼い主仲間に逃げられた晃は、落胆する気持ちに打ちひしがれていた。

 あからさまに落ち込む晃に、慰めているのか、すり寄ってくるモモ。

 暫く黙った後、わなわなと肩を震わせ、低く笑いを漏らし始める。

 「ふふふ、桐島。俺は諦めないぜ……。ぜってー、桐島の犬をわしゃわしゃしてみせる!!」

 拳を固く握りしめ、決意を露わにする晃。周りどころがモモまで引いているが、そんなもの、今の晃は気にすることはなかった。



 「これが、俺と桐島の出会いさ! いやー同じ高校で、しかもクラスまで一緒だったことには運命を感じたね! やっぱ、神様は俺の味方だったんだよ! それにしても、桐島の犬、めっちゃかっこよかったなー。真っ黒でさ、大型犬で、なんか狼って感じでかっこよかった! あー、早くあの毛並みに触ってみたいぜ」

 興奮気味に犬について語りだす晃とは打って変わって、2人は絶句していた。妙に意気込んでいる晃に対し引いている、というものもあったが、大幅の原因は話の後半だ。

 「あー、晃。その、非常に言いにくいんだが」

 口火を切ったのは佐藤。花井はトリップしている晃を引き戻そうと、頭に一発拳を入れていた。

 現実に引き戻された晃は、痛みに涙目になりながらも、身体を佐藤に向ける。

 「なんだよ?」

 「いや、お前のそのー、野望? たぶん、叶わないと思うぞ」

 「なんで!?」

 がたん、と勢いよく椅子から立ち上がり、佐藤に詰め寄る。

 「なんでだよ!? 俺はあの身体に触りたいんだ!」

 「ちょ、変な言い方やめろ。そして声がでかい!」

 「おめぇもだ、馬鹿」

 「いって!」

 飛んできた教科書はパン、といい音をたてて2人の頭上へ落ちてきた。2人が暴走すると、止めるのはいつも花井だ。お決まりのひどい扱いに、2人は花井を睨みつけるが、それを増すドスの効いた声を発した。

 「あ? なんか文句あんのか?」

 暗雲を背後に、睨みつけてくる顔はまさに阿修羅の如く。

 「すんませんでした」

 もちろん、勝てるわけでもなく、2人そろって謝罪をする。すると、花井は睨みを引っ込ませ、晃に遮られた佐藤の言葉の先を言う。

 「つまりだ、晃。お前は桐島に好かれてない。というか、完全に嫌われてる」

 その言葉に、晃は下げていた頭をあげ、抗議の言葉を発した。

 「なんでさ? んなのわかんねぇじゃん」

 「いやー、誰でもわかるっしょ」

 さすがに、と頷く佐藤を無視して、野望を捨てきれない晃は納得がいかないようだ。

 それを見かねた花井は溜息を洩らす。

 「あのな、お前の話だと、桐島は晃のこと気付いていながら、避けたんだろ?」

 「……あぁ」

 「でもって、今もその避けようぶりは変わらない。だろ?」

 「そうだよ」

 不貞腐れたように言い放つ姿は、まるで子供だ。その様子に思わず笑ってしまいそうになるのを引っ込め、花井は続ける。

 「わかるだろ? お前は桐島と仲良くしたいけど、桐島はそうは思ってない。つまり、お前は振られたんだ」

 「…………」

 「え、振られたって言われたのに対して、なにか言わないの? ……花井、やっぱこの子本物だよ」

 「はぁ、世も末だな」

 晃は黙ったままだ。まさかここまで落ち込むとは思わなかったのだろう。というより、こんなにも落胆するほど桐島に執着していたことに驚きだ。いや、話を聞く限り、正確には桐島の犬か。

 「まぁそんな気にすんなよ。新しい出会いがあるさ!」

 「じゃあ、佐藤。お前犬でも飼ったらどうだ? 黒くてでかい犬」

 「あー、駄目だよ。俺、ウサギ派。花井こそ飼ってやれよ」

 「親が動物アレルギーなんでな。無理だ」

 「うわー、晃君かわいそうに。花ちゃんサイテー」

 「文句なら俺の親に言え」

 「俺……」

 「あれ、復活した?」

 今まで黙りこくっていた晃が、声を洩らしたことに、耳を澄ませる2人。俯いているため、表情はうかがえないが、花井は何故か嫌な予感がした。

 「俺……諦めねぇから!」

 「は!?」

 顔をあげ、決意を固めたというように宣言する。驚愕し声を上げた佐藤。やっぱりな、と諦めが入った溜息を零し、遠い目をする花井。だが、2人を気にすることもなく晃は意気揚々と告げる。

 「俺、あの犬に惚れたんだ! 絶対あきらめねぇ! 嫌がられても、嫌われても、何処まででも付きまとって、あの犬に会いに行く!!」

 「いや、そこまでいくとストーカーだな。てか声でけぇ」

 佐藤が言うように、先程から周りの目線が痛い。晃は自他共に認める人気者なので、クラスの連中は「またなんか晃がやってるよ」と、好奇の目線を投げかけている。うるさいと懸念する者がいないことは結構なのだが、一緒になって目線を受けている2人と、授業妨害に苦しむ先生にとっては、迷惑以外何物でもない。

 「と、いうわけで!」

 晃はいきなり立ち上がり、身体を反転させる。突然の行為に目を丸くする2人。

 息を大きく吸い込み、この騒動にも反応を示さずに窓に目をやっている慧斗に向かって、声を張り上げた。

 「桐島ァ!!」

 ビシィ、と効果音が付きそうなくらい勢いよく、指をさす。もちろん、クラスの目線は晃から、指名された慧斗に移された。

 当の本人は、別段驚きもせずに、ゆっくりとした動作で、面倒そうに、眉間にはしっかりと皺を刻みこんで、視線を晃へと投げる。

 2人の視線が絡み合い、暫しの沈黙が流れる。

 口火を切るのは晃だ。

 「今日、お前の家、行くから!」

 「…………はぁ!?」

 驚きの声を出したのは、花井と佐藤だ。他のクラスメイト達は、話について行けず、事の成り行きを見守っていた。

 「おまえ、馬鹿じゃねぇの!? いや、前から知ってたけどよ!」

 「ちょ、晃!? 俺らの話聞いてた!?」

 「うるせぇ!!」

 2人の制止の言葉を、一喝させ黙らせる。茶色の瞳を慧斗から離さずに、慧斗もまた、その黒い瞳を晃から逸らさなかった。

 「とりあえず、お前の家行くからな。だから、今日一緒に帰ろう。てか、強制!」

 (なんて、迷惑な!)

 今、花井と佐藤の思いは一致した。2人は内心冷や汗を流しながらも、目線を晃から慧斗へと移す。

 「……断る」

 高くもなく、低くもない声が、しんと静まり返った教室内に響く。今まで無言だった慧斗が発した言葉は、ハッキリとした拒絶のものだった。いつも無表情だった顔が、眉間に皺を寄せ、睨むように晃を見据えている。

 先程の花井とは違った、無言の圧力をだす慧斗は、正直言って怖い。無意識に顔が引きつっていくのがわかる。それは2人に限らず、クラスメイトにも言えるようで、慧斗から目を逸らしているのが窺えた。

 だが、晃も負けてはいない。

 「それを断る!」

 小学生かお前は、と突っ込みたくなるが、この雰囲気で言える者はいない。

 (馬鹿だ、コイツ。正真正銘の馬鹿だ……!!)

 クラス中が晃に対して、失礼な言葉を思っていることに、晃が気付くわけもなく、ただただ2人の睨み合いが続いた。

 「……はぁ」

 先に根負けしたのは慧斗だった。というより、馬鹿らしくなったのだろう。溜息を零し、開いていた教材を片付け始める。

 「桐島、ぜってぇ今日一緒に帰ろうな!」

 無視を決め込んだ慧斗に、晃の声は届かずに、虚しくも授業終了を告げるチャイムが鳴り響いた。

 「はい、じゃあ今日はここまでです。帰っていいぞー」

 次々と席を立つ。そこには慧斗も含まれていて、見つめたままの晃には一瞥もせずに、教室を出ていった。

 「あ、実験道具はそのままでもいいから。そこの三馬鹿が全部片付けてくれるそうです」

 「はぁ!?」

 「ちょ、なんでですか!?」

 「あんたら、うるっさいんだよ。だから、罰として、ね」

 「いやいやいや、うるさいの晃だけでしょ!? なんで俺らまで」

 「連帯責任ってやつよ。じゃ、頑張ってねぇ」

 ひらひらと片手を振って、教師は準備室へと姿を消した。最後に見えた似合わない爽やか過ぎる笑顔が腹立たしい。

 「次、体育だっつーのに! あぁ、もう!」

 「あきらめろ、佐藤。もうさっさと終わらせて、着替えようぜ」

 「くっそー。このお礼はきっちりと、返してもらわなきゃな。胡麻プリン五個で許してやるよ」

 「おまえ、そんな食うのかよ」

 「もちろん。……って、晃! 聞いてんのかよ?」

 「……あぁ」

 未だもう誰も通っていない扉を見つめる晃。それを見かねて、佐藤と花井が両隣りに並ぶ。佐藤が目の前で、パタパタと手を振ってみるが、反応はいまいちだ。2人は顔を見合わせ、苦笑を洩らす。

 「晃、んな気にすんな」

 「そーだぜ。大丈夫だって。晃にかかりゃ、桐島みたいな根暗、あっという間に懐いちまうぜ」

 「あんなに冷たいのは今だけだ。そのうち、ちゃんと会話もしてくれるさ。もちろん、その時には犬も自由に触れるぜ」

 「そーそー。今まで晃に懐かなかった人間と犬がいたか?」

 「……いない。たぶん」

 「だろ? じゃあ、大丈夫だ」

 「花井、佐藤」

 「なんだ?」

 「ん?」

 「俺……、腹減った」

 2人から愛の鉄槌が、腹と脳天にぶちのめされたのは、言うまでもない。




 (何故こうなった)

 「いやー、いきなり桐島消えるんだもん。焦ったぜ」

 (当たり前だ。お前と帰らないよう、SHRが終わった瞬間、教室から出たんだからな)

 下足を持ったまま、静止したままの慧斗を気にすることもなく、笑顔で晃はどうでもいい話をする。

 「間に合ってよかったよ。俺さ、桐島と帰るために初めて部活さぼっちまったよ。花井に頼んで、家の用事ですってことになったんだ。あ、俺と花井、バスケ部な」

 (お前がバスケ部だろうと、サッカー部だろうと、俺には関係ない)

 晃は慧斗と同じように、自分も下足を取り出し、履き替える。爪先をトントンと地面にたたき、しっかりと履いたことを確かめて、満面の笑みを出した。

 「じゃ、帰ろうぜ!」

 (もう一度言おう。何故こうなった)



 「はぁ」

 慧斗は何度目かわからない溜息を零す。原因は、隣でしゃべり続けている男。

 「あんま溜息ばっかついてっと、幸せが逃げちまうぜ?」

 本気で心配しているのか、表情を覗き込むように窺ってくる晃に、一種の殺意が芽生えてくる。

 夕焼け空が辺りを包み、オレンジに染まった道を歩く。ここまでに電車も乗ったのだが、晃が周りを気にせずにしゃべるので、大変居た堪れなかった。

 そして、そのマシンガントークは今も変わらない。

 「んでさ、モモがさ……」

 一緒に帰り始めてからこの調子だ。最初はバスケの話。次はいつも一緒にいる2人のこと。そして、今は愛犬の話だ。慧斗は相槌を打つわけでもなく、前を見据えて聞き流していた。

 だが、慧斗は聞きたいことがあった。今までは中々話の終わりが見えずに黙っていたが、これでは切りがない。

 「竹内」

 ハタと、口を閉じ瞬いた後、目に見えて嬉しそうに目を輝かせる。

 「なんだ!?」

 今まで、慧斗が話を自分からふるなど、見たことがないので、期待を込めて詰め寄る。もちろん、慧斗はその分身を引いてしまう。 

 「……お前、レオを見たら、すぐに帰るのか?」

 「レオ?」

 一瞬何の事だかわからない、と目を瞬いたが、すぐに犬の名前だと理解する。

 「桐島の犬って、レオっていうのか! 見かけもかっこよければ、名前もかっこいいんだな!! ……てか、俺桐島の犬が見たいって言ったっけ?」

 「あんなでかい声で喋っていたんだ。クラス中が知っている」

 本日の授業を思い出し、顔を顰める。あれは、相当迷惑だった。授業妨害にも程がある。まぁ、実験で尚且つ、自分の分は終わっていたので、まだよかったのだが。

 「マジか。あ、だったらさ、ちょっと聞いてもいいか?」

 返事はしない。だが、肯定の意味を込めて目を晃に向けると、意味を察したのか話し始める。

 「あのさ、なんであの時、逃げちまったんだ?」

 あの時、とは初めて出会った時だろう。そう解釈し、言っていいのかと思い悩む。

 正直に、喋るのが面倒だった、と言っても、別段コイツは気にすることはないだろう。だが、もう一つの理由は伏せていたほうがいいかもしれない。さすがに、コイツでも言うと気にするだろうから。

 「別に、ただ喋るのが面倒だっただけだ」

 「ふーん、そっか。ちなみにさ、俺じゃなくても面倒だと思った」

 「……同じ中学の奴だったら、そうだっただろうな」

 「そっか。うん、よかった」

 ほっとしたように、声を洩らす。何が、という風に晃を見ると、酷く安心した顔に、僅かに目を見開いた。

 「いや、俺さ、桐島に嫌われると思ってたんだよ。でもさ、最初っから嫌われてたわけじゃなくてよかった。あー、なんか安心したら腹減ってきた。どっかで飯食わね?」

 「……いや、いい」

 素気なく答え、先を急ごうとまた前を見据えた。 

 中学や使っていた公園が同じなだけあって、2人の家はとても近い。現に今、晃の家を通りかかっていたところだ。

 慧斗は知らずのうちに、晃の家の前を通学路としてきたのだ。次からは道を変えようと、心に決めた。

 道路から見えた金色の毛並みを目にとめて、晃が破顔し放し飼いにされている愛犬の許へと走り出す。

 「モモー! ただいまー」

 わしゃわしゃと撫でまくる晃。モモも気持ちいいようで、腹を上にして長い尾を振りまわしている。

 晃が愛犬に夢中になっている今の内に、と速足でこの場を去ろうとする慧斗。だが、晃は見逃さなかった。

 「あ、桐島どこいくんだよ」

 思わず舌打ちしてしまう。だが、晃には聞こえなかったようだ。

 「そうだ! なぁなぁ、モモも連れてっていいか?」

 名案だと、顔を輝かせる晃。それに対し、眉間の皺がさらに深くなる慧斗。

 「だ……」

 「よーし、モモ。みんなで散歩行こうか!」

 慧斗の否定の言葉は、晃とモモの泣き声によって掻き消されてしまった。

 そこからは、仕事が速い。晃はすぐさまモモにリードをつけ、散歩用の道具を手に持ち準備完了と言った風に、慧斗の前へ立つ。逃げる暇などあるわけがない。

 「で? 桐島の家って、どっちだ?」

 「…………こっちだ」

 完全に逃げることを諦めた慧斗の声は、酷く疲れていた。



 

 時刻はすでに五時を過ぎ、辺りは夕焼けに包まれていた。

 バスケ部の活動が終わり、早々に帰ろうとする花井の前に、佐藤が寄ってくる。

 「花井、もう部活終わった? 帰ろうぜー」

 「あぁ。軽音は終わったのか?」

 「ばっちし」

 「速かったな」

 「まぁ、いつも適当だからな。そっちこそ、いつもより早いんじゃね?」

 「試合が終わったばかりだからな。今日はミーティングだ」

 下足に履き替え、駐輪場へ足を運ぶ。佐藤は電車通学だが、花井は自転車だ。一緒に帰ると言っても、駅までで、時間によって花井はすぐに帰ってしまう。

 たったの10分程度の時間でも、2人が話し込むには十分だ。もちろん、話題は今日の晃のことについてだ。

 「やっぱさ、晃は馬鹿だと思うんだ」

 真剣な顔で佐藤が話題を切り出す。

 「あぁ、今日のことか? 確かに、あれは相当な馬鹿だな」

 今日の授業を思い出し、苦笑を浮かべる花井。

 「あれさ、強引過ぎるんじゃねぇか?」

 「いや、桐島にはちょっと強引じゃなきゃダメなんじゃないか? 晃もそう思ったんだろ」

 「いやいや、あれ絶対嫌われるって。ただでさえ嫌われてんのに、これ以上嫌われたら晃死ぬんじゃねぇのか?」

 「あの二人は、まったくの逆なタイプだからな。手懐けるのは相当キツイだろ」

 「クラスの人気者の晃と、クラスじゃ浮いてる桐島。あそこまで逆な奴等が一緒にいたら、俺はびっくりだよ」

 「同感だな」

 ふと、花井は自転車の鍵をポケットから取り出したところで、動きを止めた。

 「どした?」

 「お前さ、桐島が前の中学で有名だった、本当の理由、知ってるか?」

 思わぬ問いに、僅かに返答を遅らせる。本当の理由、とは晃が言っていた「美術の賞をたくさん取っていて有名だった」ではなく、別のものなのだろう。だが、佐藤には思い当たる節はない。

 「いや、知らねーけど」

 「……俺さ、今日改めて晃のこといい奴だって思ったわ」

 止まっていた身体を、再び動かして、自転車の鍵をあけた。

 「晃は最初からいい奴だぞ。馬鹿だけど。で、本当の理由ってなにさ?」

 さほど興味はないが、一度問いかけられたのだ。答は知りたい。

 すると、僅かに間を開けた後、花井は表情を変えずに淡々と答えた。

 「あいつさ、親いないんだよ」

 その答に、佐藤はいまいち釈然としなかった。親がいない家庭なんて、この時代そんなに珍しくもないだろうに。まぁ、両親ともいない、というのはそうそうないかもしれないが。

 それが答えか? と、疑問符を飛ばす佐藤に、花井は自転車のスタンドを外しながら訂正する。

 「離婚とかじゃねぇよ。ニュースとかで見なかったか? 両親が子供とお互いを刺し合って、心中。幸い子供は助かった、って」

 淡々と花井は話すが、内容の重さに言葉を失ってしまう。愕然とする佐藤を置いて、花井はさっさと自転車を押して行く。

 「ちょ、それマジかよ?」

 焦ったように後ろから、花井の許へ駆け寄った。

 「マジだよ。話によると、なんか会社が倒産とかいって、借金抱えて心中。中学一年に事件起こって、親戚かなんかに引き取ってもらって、こっちに引っ越してきたんだってよ。でも、やっぱテレビとか噂とかあんだろ? それで、結局中学変わっても、周りから同情の目線受けて過ごしたらしいぜ。だから、有名だったんだ。たぶん、その中学で桐島のこと知らねぇ奴は少ないと思うぞ」

 「うわ、そんな悲惨な……」

 現場を思い浮かべて、暗い表情で黙りこくってしまう。

 「俺も最初は驚いたさ。だって、まだ12か13歳だぜ? いきなり家帰ったら、親が殺そうと襲ってくるんだ。想像しただけで、泣きたくなる」

 いつの間にか立ち止り、苦しそうに顔を歪めた。

 「……だから、あんなに暗いのかな」

 「さぁな。元々かもしれないし、それがきっかけかもな」

 「もしかして、晃のこと毛嫌いしてたのって、元同じ中学だから?」

 「たぶんな。まぁ、推測にしか過ぎないが……。同情から声をかけてきたのかも、って思ったかもな。中学でもそうだったらしいし」

 「かわいそうに、ってみんな励ますもんな。でもそれって、本人にとって嬉しいことじゃないよな」

 「あぁ。むしろ、辛いものだと思う」

 重苦しい空気が、2人を包む。止めていた足をゆっくりと前へ進め、帰り道を2人で歩きだした。

 いつもはおちゃらけた佐藤も、さすがにふざけて言葉を出すことはできない。何とも言えないこの帰り道に、暫くの間沈黙が続いた。

 夕日がさす帰り道に、二つの影が長く伸びる。それを見つめる佐藤の表情は沈んでいて、交流のないクラスメイトのことで頭がいっぱいだった。

 ふと、浮かんだ疑問を花井に問う。

 「そういえばさ、なんで花井はそんなに詳しいんだ?」

 「その中学に、友達がいたんだよ。そいつが、桐島が俺と同じ高校だって知って、勝手に話した」

 「へー……。じゃあさ、なんで花井は俺に話したんだ?」

 「お前は口固いだろ」

 「そんだけ?」

 「それから、知っていたほうが、少しは桐島に対するイメージとか、先入観がなくなるだろ?」

 言われ、先程まで佐藤の頭の中を占めていた慧斗を思い浮かべた。

 「あの晃の調子だと、遅かれ早かれ仲良くなるかもしれないからな。その時、俺達と桐島の間に蟠りがあったら、お互いにやり辛いだろうからな」

 「なるほど。あの性格の理由とか知ってた方が、根っからの堅物とは思わなくて、話しやすいかも」

 頷き、納得した佐藤は、自転車を引く花井を見た。

 「晃はさ、やっぱ知ってるよね」

 「知ってるだろうな」

 「晃さ、俺が理由聞いてもその話ししなかったな」

 「周りも結構いたからな。まぁ、いなかったとしてもあいつが俺たちに話すことはなさそうだけどな」

 「晃いい奴だからなー。ちゃんと話してもいいことと悪いことは分かってんだろ。……ついでに聞くけどさ、晃は純粋に犬と戯れたいから桐島と仲良くしようとしてるのかな?」

 その疑問に対し、花井は暫く考えた後、曖昧にも答えを出した。

 「さぁな。でも、少しは同情があるかもしれないな。あいつ、どんな奴でも仲良くしようとするだろ? だから、クラスで浮いてた桐島に、犬とか関係なしに声をかけてたと思うぞ」

 「だよねー。晃、そういうのほっとけなさそうだもん」

 いつも一緒にいる馬鹿な友人を思い出し、2人は笑みを零す。

 「今頃桐島の家かなー。今度俺も、桐島の家行かせてもらおうかな」

 「無理だな」

 「はは、やっぱし? どうしよっか、晃追い出されてたら」

 「あり得るな。むしろ、桐島の犬に吠えられてるかもな」

 「えー、それこそあり得ないっしょ」

 知る人ぞ知る、大の犬好きが吠えられている姿を想像し、2人は同時に吹きだした。



 

 一方、そんな友人2人の会話がされているとは露知らず、晃はというと。

 「え? ちょ、マジで……?」

 信じられない、と顔を青くさせていた。目の前の現状から現実逃避したい衝動を抑え、ただ一点を見つめる。

 「残念だったな、竹内。さぁ、もう用は済んだろ。帰ってくれ」

 心なしか満足げな表情の慧斗。その傍らには、晃の愛犬モモと、低く唸り声をあげている黒い犬。

 場所は慧斗の家の玄関。二階建ての玄関には、僅かながらの手入れが施されている、花壇が置かれている。晃は外、慧斗と二匹は玄関口だ。

 「嘘だろ? てか夢だろ。俺が、この俺が初対面の犬に吠えられるなんて!?」

 絶望する晃の目線の先には、今にも噛み付いてきそうな剣幕を纏った、慧斗の愛犬レオ。

 慧斗の話によると、レオは雑種で犬種はわからないらしい。だが、その姿は山にすむ狼に酷似している。毛ヅヤの良い黒と焦げ茶が混じった毛並みに、ピンとたった耳と、逆立つ長い尾。そして極めつけの、剥き出しになった犬歯と、青がかかった睨みのきいた灰色の瞳。

 犬を愛してやまない晃でも、さすがに怖いと感じた。だが、恐怖も超える好奇心が、晃を動かす。

 「く、どんな犬でさえも、そうさ、チワワからシベリアンハスキーまでいとも簡単に、この黄金の手で虜にしてきたのに……! まさか、触らせても貰えないなんて!! 厳しすぎるぜ……!!」

 悔しそうに、固く拳を握りしめ、歯を食いしばる。その姿をみて、よくやったとレオの頭を撫でてやる。すると、気持ち良さそうに目を細めるが、すぐにいいなと羨ましそうに見てきた晃を睨みつけた。

 「ふ、なんて切り替えの速さだ。これは強敵だな」

 ワキワキと両手の指をバラバラに動かし、撫でてやろうと怪しい笑みを浮かべ身構える晃。その姿に、慧斗だけではなくモモまでが身を引いた。

 (なんで俺は、こんな奴を家へ連れてきたんだろうか)

 後悔しても時すでに遅く。この様子だと、晃はレオを触るまで帰らないだろう。

 「レオよ、ぜってぇ懐かせてみせるぜ。あと、モモは俺を裏切った罰として、後で撫でまわしの刑に処す」

 撫でまわすことが、果たして犬にとって罰になるのだろうか。むしろ逆な気もするが。

 ちなみに「裏切った」ということは、慧斗の家に着いた瞬間、晃を差し置いてモモはレオに懐いたのだ。というより、一目惚れの方が正しいのだろうか。

 戸を開け、主人を迎えたレオを見たモモは、一瞬にして晃から離れ、レオにすり寄ったのだ。最初こそ警戒していたレオだったが、五分もするとすっかりモモを気に入り、自分から身を寄せるほどの仲になっていた。

 その時の晃の顔は、まるで娘を盗られた父親のような顔で、悔しがっていた。それは今でも同じで、自分だけレオに懐かれたモモと、モモを盗ったレオに対し、複雑な嫉妬の目線で睨んでいた。

 その異様な光景に呆れ果て、目を伏せた。

 「竹内」

 「ん? なんだよ」

 「いつまでいるつもりだ?」

 慧斗の家に着いて、既に10分ほどは経過した。もちろん、家に招くつもりは毛頭ないので、2人と2匹はずっと玄関で佇んでいる。

 暫く瞬いた後、晃は当たり前と言わんばかりに、笑顔で答えた。

 「レオと戯れるまでだ!」

 「帰れ」

 「嫌だ!」

 間髪いれずに冷たい言葉を言い放つと、強気になって言い返す。

 断固として聞かない晃に、慧斗は溜息しか出てこない。

 帰り道を歩いていた時には夕暮れだったが、太陽は沈み、既に辺りは暗くなっていた。

 (コイツは迷惑という言葉を知らないのか)

 徐々に呆れが苛立ちに変わりつつある。この能天気な顔に一発でも殴れば帰るだろうか、などと野蛮な考えまで浮かんできてしまう。それほどまでに、晃は慧斗を苛立たせる名人だった。

 「帰れ」

 「いーやーだー!」

 「……レオ、行って来い」

 めったに他人には懐かない愛犬を見下ろし、顎で示す。さすがにこれ以上は相手をしていられない。だったら、さっさと満足させてしまおう。

 「え、来てくれんの!? おっしゃぁ! さぁ、カモン!!」

 しゃがみこみ両手を広げ、迎える準備をする。

 レオは、戸惑いがちに主人と晃を交互に見やり、暫くして渋々といった感じで晃の許へ歩いて行った。

 まるで少年のように目を輝かせる晃。犬の表情なんてものはわからないが、レオがげんなりしているのはきっと気のせいではないだろう。

 目の前に来た狼に似た犬を、おそるおそる手を出しその毛並みに差しいれる。モモの毛並みは柔らかい。だが、レオのそれは少し固めで、触り応えのあるものだ。

 「うわぁ! まじ、超かっこいい! この毛並み、この質感! 癖になる!!」

 (やめてくれ)

 冷めた目で見る慧斗に気付かず、晃は背中を撫でていた手を徐々に頭の方へ持ってきた。

 ―――――ガブ。

 「いってぇ!?」

 噛んだ。甘噛みなんて優しいものではない、歯型がくっきりと、いやあれは血が出ている。

 明らかに嫌がっているレオだったので、当然と言えば当然の結果だ。晃も甘噛み程度なら想定していただろうが、血が出てくるほど強く噛まれるとは思ってもみなかったようだ。

 痛みに目を剥き、耐えるように体を小刻みに震える晃に、慈悲の欠片もない慧斗の嘲笑が降ってきた。

 「は、相当嫌われてるな」

 コイツ相手だと罪悪感も感じない。ペットは飼い主に似るということを、改めて認識した瞬間だった。

 痛みが和らぐわけでもないのに、手に息を拭きかけ、少々引きつった笑みを慧斗に向けた。

 「あー、痛かった。でも、これも一種の好意の形として、受取っておくぜ!」

 なんて前向きな考えだろうか。

 これは重症だと、改めて晃の馬鹿さ加減を慧斗が目の当たりにしたところで、晃の背後に見慣れた頭を目視した。

 「塔子さん」

 「慧斗君、ただいま。そちらは、お友達かしら?」

 塔子、と呼ばれた人物は、両手に大きな買い物袋を提げた、細身の壮年の女性だった。目元ある僅かな皺と、穏やかに微笑む塔子には、晃に優しい印象を与えた。

 「持ちます」

 塔子の問いには答えずに、慧斗は晃を通り過ぎ、重そうな袋を受け取った。

 「ありがとう」

 「いえ」

 短い応答を終え、慧斗は荷物を早々に家の中へと運んで行く。レオも、後を着いて行った。

 「こんばんわ。春川塔子です」

 「あ、ども。竹内晃っていいます。それから、モモです」

 紹介したところで、モモがタイミングよく鳴いた。その愛くるしい姿に、手を口元に当てて上品に笑う。

 「晃君、って呼んでもいいかしら?」

 「あ、大丈夫です」

 (春川……。じゃあ、この人が、今桐島を預かってる親戚の人)

 人の良さそうな笑顔を浮かべ、晃との挨拶を終えた塔子は、腰を屈めてモモの毛並みを一撫でした。

 「ふふ、かわいいわね、モモちゃん。それにしても、慧斗君がお友達を家に呼んでくれて、嬉しいわ」

 本当に嬉しいと言うように笑う塔子に、晃は曖昧に声を洩らした。

 「それは、どうなんだろ。俺は、友達だって思ってます。でも、桐島は、俺のこと嫌ってるんで、違うかも」

 自嘲にも似た苦笑いを零す。一向に緩和されることのない慧斗の態度に、晃の日頃思っていた不安は積み重なり、自信を喪失していたのだ。

 だが、そんな晃の表情とは打って変わり、塔子は柔らかい笑みを浮かべていた。

 「あら、あなたが慧斗君のことを友達だと思ってるのなら、それはもうお友達よ。それに、後ろから見ていて、あんなに同学年の子と話してる慧斗君、初めて見たもの。私から見れば、2人は友達同士よ」

 意外とばかりに目を見開き、塔子を見つめた。次いで、彼女から見たら自分たちは友人同士に見える、ということに嬉しさが滲み出てくる。

 「そう、かな。……そうっスよね! うん、俺らダチ!」

 「ふふふ」

 「塔子さん」

 玄関から再び表れた慧斗は、不機嫌そうに眉根に皺を寄せていた。どうやら、先程の会話を聞いていたらしい。

 「桐島! 俺らダチ!!」

 「黙れ」

 嬉しそうに駆け寄る晃を一刀両断する。2人のやり取りを見て、塔子はコロコロと楽しそうに目元を和ませた。

 ふと、赤いものを視界の端に捉え、塔子は顔色を変えた。

 「まぁまぁ、晃君。手、怪我してるじゃない」

 すっかり傷のことを忘れていたらしい晃は、思い出したように声を洩らす。

 口調は穏やかなものだったが、まるで自分が怪我でもしたように塔子は顔を顰めた。次いで、晃の手をそっと両手で包みこみ傷の具合を見た。

 「よかった。そんなに深くもないわね」

 ほっと息をつく。会ったばかりだというのに、心配をかけさせてしまい、晃は申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまう。

 「大丈夫っすよ。ほら、血も止まってるし」

 正直言えば、鈍い痛みがあるが、これぐらいで音を上げる晃ではない。塔子の目の前で、手を開いたり閉じたりと、ちゃんと動くと見せる。

 「この傷跡……レオね?」

 手の甲と手の平にくっきりと浮かぶ、少量の血に染まった歯の跡を、骨ばった指で触れる。

 視線をレオと慧斗に向ける。レオは何の反応も示していないが、慧斗は罰が悪そうに顔を背けていた。

 暫く沈黙のまま見つめていたが、塔子は目を伏せて息を吐く。

 「……晃君、時間大丈夫かしら?」

 「あ、平気っす」

 「ご両親は心配しない?」

 「俺もう高校生っすよ? 大丈夫ですって。それに、両親とも共働きなんで」

 子供扱いするなとでもいう様に、晃は唇を尖らせた。そんな晃の気持ちが伝わったのか、「ごめんなさいね」と一言詫びると、照れたように晃は頬を左手で掻いた。

 「……塔子さん」

 これから塔子が言うであろう言葉を察し、慧斗は制止をかけるように名を呼んだ。

 「いいわよね? 慧斗君」

 疑問形だが、その笑顔には有無を言わせないというものが、感じ取れた。

 「え? なに? なにが?」

 1人理解できていない晃は、そんな2人のやり取りを見て、疑問符を飛ばしている。

 「もとはと言えば、慧斗君がレオを止めていれば、こうはならなかったのよ? いいでしょ?」

 「……勝手にしてください」

 僅かな間の後、諦めたように溜息を零し、慧斗はレオと共に家へ入って行く。

 「慧斗君の許可が得たところで、晃君。ご両親が共働きということは、夕食は遅いの?」

 「帰ってくるのが10時頃なんで、いつもそんぐらいです」

 「そう。じゃあ、今日はうちで食べていってくださいな。その傷の手当と、お詫びも兼ねて」

 「え!? マジっすか!?」

 あからさまに喜ぶ晃に、塔子は満足そうに微笑んだ。

 「ホントにいいんですか? 俺、そんなこと言われちゃうと遠慮なんてしませんよ?」

 「あら、元々私たちのせいで怪我をしてしまったんだもの。遠慮なんてしないで、どんどん食べてね。今日はしゃぶしゃぶのつもりよ」

 「肉!! 食べます!」

 嬉しさのあまり、小躍りして喜ぶ。「さぁさぁ、あがって」と、戸を開けて晃とモモを招き入れた。

 「お邪魔します」

 モモの足を拭いて、一歩、慧斗の家へと踏み込む。

 晃の家は洋風だったが、慧斗の家は真逆で、茶で統一された木構造だった。それほど長くもない廊下を歩き、居間であろう和室へと移動する。

 和室には、テーブルと座布団が何枚か置いてあり、正面にはテレビが置いてある。他にも棚などの家具はあるが、どれもシンプルな作りで、落ち着いた雰囲気のある部屋だった。

 「適当に座ってて、すぐに用意できるわ」

 「あの、春川さん。電話、借りてもいいですか? 一応、家に電話入れたいんで。というか、弟に」

 「あら、弟さんがいたの? 大丈夫かしら。家には1人しかいないんでしょう?」

 「たぶん」

 「じゃあ、早く連絡してあげなさい。もし、1人の様だったら、お詫びはまた今度、ということで」

 「すみません」

 気にしないで、と微笑む塔子は、買い物袋からある程度の材料を持ち、奥へと引っ込んだ。

 「竹内。電話の前に、こっちにこい」

 振りかえると、救急箱を片手に慧斗が腰を下ろしていた。

 意外そうに目を丸くした後、破顔して慧斗の許へと座り込んだ。いつの間にかモモとじゃれているレオには、どうやら晃は視界に入っておらず、唸るようなこともしなかった。

 「俺、自分で治療できるぜ」

 折角の厚意だが、慧斗の手は煩わせるわけにはいかない。これ以上は慧斗の機嫌を損ねたくないのだ。

 「いや、いい」

 その言葉以降、慧斗は話すことなく、手早く右手の治療に専念した。

 犬の戯れの音と、野菜を切る音以外は何もない。ただ、壁に掛けられた時計の刻む音が、緊張で神経を張っている晃にとっては、やや煩わしいものと感じた。

 いてもたってもいられなくなり、黙々と包帯を巻く慧斗に問いかける。

 「ここには、桐島と春川さん以外、いないのか?」

 言い終わった直後、後悔した。

 「あぁ、そうだ」

 変わらない素気ない答えだ。だが、一瞬暗くなった漆黒の瞳を、晃は捉えてしまった。

 「終わりだ」

 「あ、……あ、ありがと」

 立ち上がり、電話の場所を指示して、慧斗はさして広くもない和室を出ていった。その背を黙したまま見送り、晃は暫くその場で座り込んでいた。

 「……俺の馬鹿」

 ぽそりと呟いた声は、その場にいた2人の愛犬だけが耳にしていた。

 



 晃の電話はすぐに終わった。なぜなら、電話に出たのが母親だったからだ。どうやら、仕事が早めに終わったらしい。

 なので、弟のことは心配しなくても大丈夫、と塔子に簡潔に話した。

 包丁の手を止め、塔子は晃に向き直り、嬉しそうに顔を綻ばせる。

 「それはよかったわ。お母様がいるなら、弟君も晃君も大丈夫ね。でも、お母様は晃君の分のご飯を用意してたかしら。それだったら、悪いことをしたわ」

 「それは大丈夫です。むしろ、母さん手間が省けて助かった、って言ってたんで」

 「あら、あとでお礼でも言っておこうかしら」

 「いいっすよ、そんなこと。……あの、それよりも」

 「あぁ、慧斗君のこと?」

 口ごもった晃に、塔子はなんなくその内容を当ててしまう。

 「な、なんでわかったんですか?」

 「だって、晃君わかりやすいんだもの。顔に出てるわ」

 そうなんだろうか、と右手を顔に当てて、思い耽ってしまう。

 「……その包帯、慧斗君がしたの?」

 「あ、そうです」

 「ふふ、顰め面で巻いてたでしょう」

 「はい。めっちゃ眉間に皺寄せてました」

 「怪我のこと、謝った?」

 「……い、いえ」

 「やっぱりね。あの子、素直じゃないから、自分の感情を表に出すことが苦手なのよ。本当、昔からそうなの」

 懐かしむように目を細める。

 「……春川さんは、桐島のこと昔から知っていたんですか?」

 この手の質問は、彼女にも言ってはいけないのだろうとは思った。だが、咎められようと、晃は慧斗を理解したいという気持ちが大きかったのだ。好奇心とも、同情とも違う。ただ、純粋に桐島慧斗という人間を知りたいと。

 「えぇ、慧斗君が赤ん坊のころから知っているわ」

 塔子は、当初と変わらない笑顔で答えた。

 「あの子、学校では冷たい態度でしょう?」

 「……はい」

 やっぱり、と零して、塔子は野菜を切る作業を再開した。また、気持ちのいい音が室内に響きだす。

 「それも、昔からそう。言葉よりも態度で表わす。その体制、表情、全身で表現しているわ」

 晃は、包帯が巻かれた右手を見つめた。歪な所なんて一つもなく、丁寧に巻かれた包帯。顔は不機嫌そのものだったが、消毒だって手つきは優しく、痛みを与えないよう細心の注意を払っていたと見れた。

 「慧斗君が描く、自分の作品にもその態度が出ているわ。きっと、その包帯だってそうよ」

 しかめっ面は、きっと晃に対しての“煩わしさ”。自分でも、いきなり家に上がり込んで、厚かましいとは思った。

 そして、この丁寧に施された右手には、“謝罪”の意を込めているのだろうか。大して深くもないこの傷を、慧斗はいい気味だと笑った。だが、頭が上がらない塔子に咎められ、罪悪感が出てきたのだろう。

 その意味を、晃は理解できなかった。こんな些細なものでも、十分に慧斗を理解することができるのに。

 「中学にでも行って、桐島の作品、見てこようかな」

 晃が中学のころ見た作品は、大体が抽象的な絵だった。賞を取った作品の大体は風景画と聞いたが、美術室にあったものは抽象画。きっと、よく見れば慧斗を理解できたのだ。

 「やっぱり、慧斗君と中学が一緒の子だったのね」

 野菜を切り終えた塔子が、鍋を出す。答えないことを肯定だと受け取り、塔子は話を続けた。

 「さっきの2人の会話、聞こえたのよ。すぐに、この子は慧斗君の事情を知っているってわかったわ」

 “事情”という言葉が、酷く重く感じられ、晃は表情を暗くする。

 「そうやって、晃君は気を使って、慧斗君を傷つけないようにしてきたのね。ありがとう」

 そう言って、慧斗を見守り続けている彼女は、優しく微笑んだ。その酷く暖かい声音に、晃は苦しそうに顔を歪めた。

 「……違う」

 消え入りそうな声は、塔子の耳にかすかに届いた。

 「俺、馬鹿だから。さっきも、言っちゃいけないのに、桐島を、傷つけた。無神経に、大して意味も考えずに、言っちゃったんだ」

 あの時、垣間見えた慧斗の瞳が、脳裏に焼き付いて離れない。そんな顔をしてほしくないのに。

 「仲良くしたいのに、友達になりたいのに、自分で傷つけて、桐島は離れて行っちまうんだ。俺が、馬鹿だから」

 あの質問は、「他の家族は?」とも聞こえる。そのたった一言が、どれだけの心の闇を掘り出したことか。

 なんども自虐の言葉を並べる。俯いて、塔子に顔が見えないように、顔を歪めた。

 対面したまま、暫くの静寂が流れた後、塔子が口を開く。

 「晃君。私ね、あなたが家の前で、慧斗君と話しているところを見て、本当に嬉しかったの」

 突如の話題の切り替え。だが、晃は穏やかに見つめる塔子の瞳は見ない。

 「慧斗君は、学校のことは聞いても話してくれないの。だから、私はあなたたちがどうやって、知り合ったなんて知らないわ。でもね、2人のやり取りを見て、私は思った」

 両手で包みこむように、晃の頬に触れる。顔を持ちあげ、自分よりも小さな彼女を見た。彼女の手は暖かい。彼女の瞳は、優しかった。

 「あぁ、この子はちゃんと、慧斗君を見ているって。そう、思ったの」

 今にも泣きそうな顔で、晃は塔子を見つめる。互いに見つめ合い、塔子は微笑む。

 「同情から近づいたら、人は皆一歩、その人と距離を置くわ。近すぎると、思いやる心が和らいで、咄嗟に言葉が出てしまうから。離れて、何処から何処までが、その人の許容範囲か見極めるの。はたから見れば、それはとても滑稽よ」

 中学で、慧斗と一緒にいる奴等は、大抵が同情から近づいていた。元気づけようと安っぽい言葉を並べていた。いくつもの言葉を禁止にし、暗黙のルールを作った。それが、逆に慧斗を隔離する壁になっていた。

 輪の中にいても、どこか外れている。

 「逆に、好奇心で近寄る人は、本人からも他人からも軽蔑の目で見られるわ。その時の現状を思い出させる、とても厄介な人よ」

 輪の中には、そんな人間もいただろう。執拗に感情を問う、輪の空気を乱す輩が。

 「でもね、あなたは違う。多少の気遣いはあっても、対等だった。あんなに喋っている慧斗君を、私は久しぶりに見たわ。テンポよく会話をして、家に招くときだって、強く拒否しなかった。それだけでわかるわ」

 晃は、両手を塔子の腕にかける。引き剥がすのではなく、ただ触れただけ。より一層、彼女の体温を感じた。

 「慧斗君は、あなたを友達として、心を許しているわ」

 その言葉に、目を見開く。他人など存在してないかのように、日常を過ごす彼の瞳に、自分が映っているということに、驚愕した。

 「あなたはもう、慧斗君の中に入っているのよ。小さな喧嘩で、脆くも崩れるものではないって、あなたはそれを慧斗君より、よっぽど知っているでしょう? 慧斗君なら気にしなくていいわよ。今頃そんなこと忘れて、お腹を空かしてるわ」

 「そういうもの……なんですか?」

 僅かに疑問に思い、眉を顰めて小首を傾げる。すると、やはり彼女は笑顔で答えた。

 「えぇ。結構、繊細に見えて、適当な部分があるのよ」

 「そうなんですか……」

 「それに」

 続いた言葉は、晃の胸を強く打つ。

 「慧斗君は、あなたが思っているほど、弱くないわ。あの子は、芯の強い子よ」

 真剣な瞳で訴える塔子に、晃は瞠目した。次いで、理解できたように、気を緩め、そっと塔子の両手を自分の頬から離した。

 「うん、そっか。そうだよな。桐島は、強いよな」

 何度も頷いて、晃は慧斗が無意識にも“弱い”と認識していたことに気付いた。そして、その概念を塗り替える様に、“桐島は強い”と呟く。塔子もまた、同調する。

 「そうよ、あの子は私がいなくても、強く生きることができる。あ、でも寂しがり屋なの」

 虚をつかれ、晃は目を丸くする。その顔が可笑しかったらしく、塔子はその優しげな風貌に、楽しげな笑みをのせた。

 「そんなことは、微塵も表に出さないけどね。きっと自分でも認めてないわ。でも、あの子が極限までに弱ってしまったら、きっと人肌が恋しくなるわ。でも、頼ることなんてしないから、1人で抱えてしまうの」

 プライドが高いのね、と付け足す。慧斗の寂しがる様子など、想像にもつかないので晃は頭を捻った。慧斗の思念は、まだ理解するには時間が必要だが、自分がすべき行動は理解している。 

 「……桐島が弱ったら、俺が行きます」

 ゆっくりと、大事に言葉を口にする。右手を持ちあげて、緩く、包むように拳を握った。

 「俺、桐島がどんな気持ちでとか、どんな時に弱るとか、全然わかんねぇ。でも、すぐに飛んでって、愚痴でも体当たりでも、全部受け止めます」

 右手から視線を移して、塔子の瞳を見つめる。そして、満面の笑みを返した。

 「それが、ダチの役目ですから!」

 「……そうね、晃君ならそう言ってくれると思ったわ」

 その決意とも言える晃の言葉を聞き、塔子は内心酷く安堵した。

 晃を見た瞬間、直感的に感じた。“この子なら、慧斗君は心を開く”と。話してみて、晃の明るさと、人懐っこい笑顔に好感を持てた。他人のことを思いやることも知っている。故に、塔子は賭けをした。――――そして、その賭けは見事に成功した。

 晃の決意に、塔子は満足げに微笑んみ、置いていた鍋にお湯やら野菜などを入れ始める。

 「さて、そろそろ夕飯の準備ができるわ。晃君、悪いんだけど――――」

 「桐島、呼んできます!」

 言葉が言い終わる前に、塔子が頼もうとしたことを自ら進んで申し出た。瞬いた後、やはりこの子なら慧斗君を任せられる、と改めて確信する。

 「それじゃあ、お願いするわね。部屋は奥よ」

 先程までの思いつめた顔が嘘のように、爽快な顔つきで台所を後にする晃。

 「お肉、いっぱい買っておいてよかったわ」

 塔子は頬に片手を当て、にっこりと微笑んだ。




 電気を付けない薄暗い部屋の中で、何かが戸を引っ掻く音が響く。その音の主をすぐに理解し、慧斗はドアを開いた。

 自分の目線には誰も存在しなく、足元に擦り寄る黒い塊を目視する。無言のまましゃがみこみ、狼に似た愛犬を撫でた。レオは慧斗の肩口に鼻を当て、まるであやすように頬を舐めた。

 突然、レオが表情を変え廊下の奥を睨みつけた。低く、地を這うような唸り声を上げ、犬歯を覗かせる。

 その行動の意味を慧斗が理解したのと同時に、近寄ってくる足音が耳に届いた。

 顔を上げ、廊下の曲がり角から出てきた、今日一日で飽きるほど見た顔を見つけた。

 慧斗を視界に入れると、まるで少年の様な茶色の瞳を輝かせる。

 「桐島、飯だってさ!」

 速足で近づいた晃。だが、レオが一層強く唸ったため、数歩下がる。

 唸るレオを一撫でし立ち上がると、晃を見ることなく一言「わかった」と言った。そのまま一瞥しようともせずに、通り過ぎようとすると――――。

 「き……慧斗!」

 間近で、名を呼ばれた。親族以外呼ぶことの無くなった名前を呼ばれ、めったに表情を変えない慧斗の瞳が大きく開かれた。だが、晃が口を開く前に、その表情は不機嫌そのものに変わってしまう。

 「どうして、名前で呼ぶ」

 声音は低い。相当名前で呼ばれたことに嫌悪を感じたのかと、多大なショックを受ける晃。だが、すぐに気を取り直し、睨む慧斗を真剣な瞳で見返す。

 慧斗との距離は一歩あるかないかだ。僅かながらも、自分が慧斗よりも身長が高く、慧斗を見下ろしていることに始めて気付いた。

 「友達だからだ。それ以外何の意味があんだよ」

 「お前と友人関係になった覚えはない」

 「俺が勝手に決めたんだ」

 「お前は人の迷惑を考えないのか?」

 「俺のことは友達なんて思わなくてもいい。いや、そりゃ思っては欲しいけどよ。でも、俺が友達になりたいんだって思ったんだ。だからなる。撤回はしないぜ」

 有無を言わせない威圧感が、晃から感じられる。

 2人で衝突することは、今日で何回目だろうか。何度もあるからこそ、晃は結果が目に見えていた。だから、一歩も引かない。

 「……勝手にしろ」

 やはり、先に折れるのは慧斗だった。

 溜息を零し、今度こそ晃を通り過ぎる。

 「慧斗」

 まだ呼び慣れていない名を、焦って噛まないように慎重に呼ぶ。後ろで慧斗の足が止まる気配を感じる。晃は振り返らない。

 「さっき、ごめんな」

 お互いの表情は見えないまま、晃は返答を待った。

 「……なんのことだ?」

 帰ってきた言葉は、酷く晃を安心させた。だが、意味を理解できるはずなのに、わざと知らないふりをしたことを瞬時に察し、晃は慌てて振り向いた。

 慧斗は何事もなかったかのように、傍らにレオを連れて廊下を曲がり、姿が見えなくなっていた。

 沈黙の中、自分の失態を許してくれた慧斗に呟く。

 「……かっこいい」

 その時の晃の瞳は、尊敬の意を込めて輝いていたことを、慧斗は知るはずもない。




 「慧斗、慧斗。その肉取って! しゃぶしゃぶすっから!!」

 「自分で取れ」

 「はい、晃君。お肉いっぱいあるから、遠慮しないでどんどん食べてね」

 「はい!」

 「……うるさい」

 ぐつぐつと、鍋の煮る音と、楽しそうな晃と塔子の話声。そして慧斗は呆れた声を洩らしながら、椎茸をつつく。慧斗の傍が定位置となっているレオと、寄り添い目を瞑っているモモがいる。

 こじんまりとした質素な和室は、いつもより何倍もの音が聞こえ、騒がしかった。

 原因となる、対面した形で座っている晃を見る。晃は慧斗にとって、差して興味もない話題をしていた。

 「へぇ、じゃあ晃君はお医者様の子供なのね」

 「そうなんすよ。おかげで弟は親がいなくて寂しがってます」

 「ご両親ともじゃ、家が寂しくなるわね。いくつ?」

 「6歳っす」

 「あら、結構年が離れてるのね。かわいいんじゃない?」

 「めっちゃ可愛いです」

 そういって、弟の話を嬉しそうに喋る。年が離れている分、どうやら晃は弟を大切にしているようだ。

 「今度、慧斗に紹介するよ!」

 「どうでもいい……」

 下の名前で呼ばれることに、2人は慣れていった。最初は呼ぶ度に睨まれたが、執拗に呼びかけたら、次第に凄味が消えた。今では無愛想だが、言葉を返してくれる。

 着々と仲良くなりつつあることを実感し、晃は上機嫌に肉を頬張った。

 「おいしい?」

 「もちろん!」

 どうやら本心のようで、肉のみならず、野菜やら米やらを次々と制覇していった。育ち盛りなのだから当たり前なのだが、それは慧斗も同じだ。

 (塔子さんは遠慮するなと言ったが、さすがに食い過ぎだ)

 頭痛がする、とこめかみ部分を指圧する慧斗。暖かく見守る塔子と談笑しながら、晃は食べないのかと勘違いをして、慧斗の肉をも平らげてしまった。

 自分の分も満足に食べられないまま、騒がしい夕食は幕を閉じた。

 夕食が終わっても、塔子との話は終わらず、無理矢理慧斗も参加させられた。結果、時刻はすでに8時を回っていた。

 「ごめんなさいね、話が長くなっちゃって。おばさんの話なんてつまらなかったでしょう」

 「いえいえ、めっちゃ楽しかったです! また遊びに来てもいいですか?」

 「駄目だ」

 「もちろんいいわよ」

 「やった! ありがとうございます!」

 勝手に話を進められて、さらに不機嫌になる。慧斗はやっと晃が帰るということに清々し、別れも言わずに部屋へ引っ込む。

 「慧斗、また明日、学校でな!」

 返事が来ないことは何となくわかっていたので、その言葉だけを伝えて塔子へと向き直った。

 「ご飯、ごちそうさまでした。めっちゃおいしかったです」

 「ふふ、ありがとう」

 「それじゃあ、また来ます」

 「気を付けて帰ってね」

 短い挨拶を終え、晃はモモを連れて踵を返した。だが、後ろから塔子の声が晃を止めた。

 「晃君、慧斗君のこと、よろしくね」

 振り向きはしない晃。背後に彼女の暖かい視線を受け、晃の口元に笑みを作った。

 「約束します。今日言ったこと、絶対にやってみせるって」

 「ありがとう」

 「……お礼を言うのは、俺の方ですよ」

 拒否され続け、さらに自分の失態が重なり、晃は慧斗を理解しようとすることを諦めかけていた。

 「あなたの言葉のおかげで、俺は慧斗と向き合う勇気ができた」

 振り向いて、その優しさに満ちた塔子の瞳をまっすぐに見る。

 「ありがとうございました」

 それ以上は、どちらも何も言わなかった。ただ一言、互いに別れの言葉を言い、晃は夜道へと去って行った。

 その背中が見えなくなるまで玄関にいると、背後から慣れた気配を感じる。

 「風邪、ひきますよ」

 「大丈夫よ。七月なんだもの、むしろ熱いくらいよ」

 心配してくれたことに対し、ひとつ礼を言ってから玄関の戸を閉めた。

 部屋へと戻り、汚れてもいない机を拭く。慧斗と晃が手伝ったことにより、既に机には汚れなんてものはないのだが、拭くという動作は塔子の癖となっているのだ。

 塔子をじっと見つめ、慧斗は訝しげに聞く。

 「約束って、なんですか……?」

 突然の問いだが、塔子は予測していたかのように答えた。

 「内緒よ」

 「……答えになってません」

 「そんなに気になる?」

 黙ってしまったことを図星だと受け取り、塔子は手を止めた。

 「部屋に帰ったと思ってたのに、盗み聞きはいけないわよ」

 もうこの話は終わり、と言う様に雑巾を片手に台所へと入ってしまう。

 これ以上は問うても意味がないと判断し、慧斗の口から溜息が零れる。

 (これ以上、あいつとは関わりたくないんだけどな)

 約束とはなにかわからないが、十中八九自分に関してのことだろう。おまけに自分の叔母が絡んでいるのだ。絶対に反抗はできない。

 彼女がどれだけ自分に対して、良くしてくれたのはとても感謝している。実際に、何度叔母の優しさと包容力に助けられたことか。数えても数え切れないほど、慧斗には塔子に恩がある。

 両親がいなくなり、自らが引き取ると志願してくれた。殺伐とした心情だった慧斗を、時間をかけてここまで回復させてくれた。

 様々な面で、塔子は慧斗を支えてきた。そんな大きな存在に刃向かうことなど、無理なものだ。たとえそれが、自分にとって迷惑以外何物でもなかったとしても、慧斗は塔子には逆らわない。そう、心に決めているのだ。

 水の音が聞こえてくる台所へ向かって、聞こえるか聞こえないかの声で言う。

 「今日は、もう寝ます」

 返事はなかったが、聞こえただろうと判断し、自分の部屋へと足を運んだ。

 そして、明日からの晃との接触を想像して、顔を顰めながら眠りについた。



===***===



 時刻は日付が変わる少し前。

 夜空には雲ひとつなく、僅かな星たちが鈍い光を放っている。

 上弦の月を背後に、建物の屋上で一つの影が揺れた。

 周辺には黒光りする羽根を持った、カラスが数羽存在している。影は一羽のカラスを撫で、眼前に広がる住宅街を見下ろす。

 「あいつはいつ行動に出るかな」

 低い、若い男の声だ。カラス以外は何もいないのに、男は問う。

 「今半月だからぁ、やっぱ次の満月あたりかなぁ?」

 語尾を伸ばした、少女の声。

 「あの人はお月さまが大好きだもんね」

 声の高い、無邪気な子供の声。

 「それでは、四日後あたり、かのう?」

 しわがれた、老人の男の声。

 「もし本当に四日後だったらそろそろ準備しなくちゃ!」

 「やっぱり会いに行くのが一番いいかなぁ」

 「一番心配なのは、あいつが気付いてしまうことじゃ」

 「あいつは結構目を光らせているからな、慎重にいかなければ」

 「でも派手にやったほうが楽しいんだよな、これが!」

 「じゃあ、敢えて2人とも一緒に会ってしまおうか」 

 「いや、一緒はまずいな」

 「1人ずついきましょうか」

 「いや、やはり彼からの接触の方が効率がいい」

 「やっぱりあいつに会うのはなしの方向で!」

 「うーん、アタシ迷っちゃうなぁ」

 代わる代わる聞こえてくる、数十人の声。老若男女定まらず、一つとして同じ声の主は喋らない。

 「君はどう思う?」

 影は傍らにいる一羽のカラスに問う。もちろん、カラスが人語を喋るはずもなく、ただ鳴くだけだ。

 だが、その鳴き声で、まるで理解したかのように影は手を叩き、喜んだような声をあげる。

 「そっかぁ、やっぱり君もそう思うよね!」 

 「やはり彼だけに会いに行こう」

 「あいつに私の存在がばれたら、やりにくいもんね」

 「日時はどうしようか」

 「明日にしよう!」

 「でも、まだ心の準備が必要だから、明後日にしようかしら」

 「うん、決まり!」

 「明後日の夕方。彼が帰宅している途中で会いに行こう!!」

 影は踵を翻し、闇夜に姿を消した。

 


===***===


 


 「明後日? ごめーん、その日は友達と遊ぶ約束しちゃったんだ」

 受話器を片手に、少女は楽しげな声を洩らす。

 高いところで一つにまとめている髪は、彼女が動くたびにサラサラと揺れている。前髪はヘアゴムと同色の、赤い2つのピンで固定され、何本かが垂れている。茶色の瞳よりも明るい色の髪の毛は、以前染めたばかりで地の色は無い状態だ。

 「え? 女友達だよー。男なんていないって」

 困ったように笑みを浮かべるが、電話越しの相手にはわかるはずもなく、どうやら納得をしていないようだ。

 「もー、拓真ってば心配し過ぎだよ。私が浮気なんてするわけないでしょ?」

 ちらりと視線を台所の方へと移すと、母が苦笑を洩らして顎で示す。示された方を窺うと、こちらに背を向けてソファーでテレビを見ている父の姿があった。表情はわからないが、彼女の長電話をよく思ってないだろうと判断し、早急に終わらせようと捲し立てる。

 「じゃあさ、その次の日だったらいいよ」

 受話器からは、相手の唸る声が聞こえ、次いで了承の返事が耳に届いた。

 「ありがと。じゃあ、えーっと、3日後ね? 放課後クラスの前で待ってるから」

 じゃあね、と相手の返事を聞かずに受話器を切った。

 「静流、あなたちょっと長電話しすぎよ?」

 「ごめんなさーい」

 軽い返事をして、父の所へ行き――――雨宮静流は隣へ腰かけた。覗きこむように見ると、40半ばの色黒の男性が、眉間に皺を寄せテレビを睨んでいた。

 一見すると不機嫌に見えるが、父はいつもこの表情なので、家族はもちろんのこと、周囲にいる人間には慣れっこだ。だが、ひとたび初対面の子供が彼の顔を見たら、泣いてしまうかもしれない。

 静流の視線に気づき、父――――健二は娘と同色の茶色い瞳を向ける。

 「静流、彼氏とデートか?」

 ニヤリと、からかいの混じった笑みを見せつけた。

 「うん。拓真と放課後デート」

 花が咲いたように、静流は父に笑いかける。

 そうかそうか、と豪快に笑った後、健二は思い出したかのように声を上げた。静流が目で問うと、健二は苦笑を洩らす。

 「3日後の放課後は、父さんと久しぶりの稽古の日じゃなかったか?」

 父と同様に、静流は思い出したかのように声を洩らした。次いで、罰が悪そうに健二の瞳を見つめ、謝罪する。

 「ごめんなさい、すっかり忘れてた。また、今度でいい?」

 お願い、と両手を合わせて願い出た。すると、残念そうにしょうがない、と言って娘の頭をその大きな掌で一撫でする。

 「最近、道場に静流が来なくて、父さん寂しいぞ。まぁ、約束してしまったなら、無理に断ることはないからな。また来週、やろうか」

 「うん、ありがとう!」

 健二は、小さいながらも自分の道場を持っている。生徒の数も十分におり、毎日のように健二は師範として生徒たちに教えている。

 教えているのは空手だ。だが健二自身は趣味で多彩な武道をこなしている。実子である静流や少数の生徒には、時折剣道や合気道など様々な武道を教えている姿が見られることも多い。

 3日後に予定していた稽古も、空手ではなく竹刀での剣道の予定だった。

 白い半そでから出た筋肉の付いた腕は、とても逞しい。服の上からでもわかる、父の隆々とした腹筋やら胸筋。日頃の欠かせない鍛錬の賜物だ。

 「さて、風呂にでも入るか。母さん、風呂は焚いてあるか?」

 健二は立ち上がり伸びをして、皿を洗っている母に尋ねる。

 「焚いてありますよ。静流はもう入ったのよね?」

 「うん。さっき入った」

 テレビから目を離さずに、テーブルに置いてあるスナック菓子を頬張った。

 「お父さん、汗臭いから早く入りなよ」

 娘に急かされ、はいはいと言って、父はリビングを出ていった。

 健二が出ていったのを横目で確認し、母はソファーで寝転んでいる静流を見て溜息を零す。

 「静流、あなたお父さんとの稽古のこと覚えてたでしょ」

 生返事を零したものの、やはり母にはばれていたのかと内心焦った。

 「まったく、素直に稽古やりなさいよ」

 「えー、だって面倒くさいじゃん」

 「昔は、いつもお父さんの後を追っかけてたのにねぇ」

 小学生の頃の静流は、父が大好きで、何処に行っても父と一緒だった。稽古だって他の生徒にも負けないくらい、率先して毎日汗を流していた。

 だが思春期と言うこともあり、中学に上がる頃にはサボり癖がついてきた。17歳となった今では、稽古なんて月に一度、やるかやらないかだ。

 なにかと理由を付けては、稽古を休んでいる。今日も稽古の約束を覚えていたが、忘れたふりをして拓真とデートの約束をした。健二は見た目こそ怖い印象だが、子供には甘く、ましてや一人娘にはめっぽう弱い。お願いされては無下にすることはできず、毎回約束を延長するのだ。

 「お父さん、私がサボってること知ってるかな?」

 「そりゃあ、知ってるでしょうよ。でも、あの人優しいから。次はちゃんと出なさいよ」

 「えー、やだ。だって、疲れるじゃん。それに汗臭くなるし」

 もう一度溜息を零し、母は静流の傍により、パックをずいと目の前に突き出した。

 一瞬何のことかわからず、眉を顰めてパックと母を交互に見やる。なにか煮物のような物がパックに入っており、それが今日の夕食の残りだと分かった。微笑む母の顔を見て、やっと合点がついたように、盛大に顔を顰めた。

 「えー!? また?」

 「いいじゃないの、行ってきなさい」

 「お母さん行ってきなよー」

 「お母さん、お皿洗ってるの。それから洗濯物もたたまなきゃいけないし」

 「やだ、外暑い」

 「夜だからむしろここより涼しいわよ。ほら、暇でしょ?」

 半分無理矢理パックを静流の手の中に押し込み、さっさと台所へ戻ってしまう。

 暫く母の背中を見ていたが、これは行く以外選択肢がないと判断し、しぶしぶと身支度を整えに部屋へと戻って行った。

 

 


 目的地は、歩いて約10分だ。

 家の中よりは確かに涼しく快適だが、外に出るということがとても面倒ということで、静流は目に見えて不機嫌だった。

 「もう、なんで私が……」

 ブツブツと文句を言っている間に、目的地の家へと着く。

 部屋の明かりは付いており、普段ならば静かなのに、何やら今日は騒がしい。

 (めずらしいな、お客さんでも来てるのかな?)

 不思議と思いながらも、インターホンを押した。

 「はいはーい、どちら様……って誰?」

 「いや、あなたこそ誰よ?」

 チャイム音が鳴って暫くたった後、玄関のドアを開けたのは、見知らぬ茶髪の少年だった。爽やかなイメージを纏った少年は出た当初は笑顔だったが、見知らぬ静流を目に捉えて訝しげな顔をする。それは静流としても同じことで、訪ねた家にまったく知らない人間が出たら怪しく思う。

 「竹内! 勝手に出るな! というより、なんでお前が出る!」

 次いで、後ろから慌てた様子で駆けてくる、見慣れた黒髪を見つけて声を上げた。 

 「慧斗?」

 「あぁ、静流か? どうした」

 訪ねた人物が静流だと理解して、慧斗は僅かに目を見開いた。

 「どうしたって、おすそ分けを……。てか、この人誰よ?」

 目を眇めて問うと、晃も同じように尋ねる。

 「いや、あんたこそ誰だよ。……もしかして、慧斗の彼女!?」

 驚きに、そしてどこか楽しげに慧斗に問う晃に、目線をくれずに慧斗は言い放った。

 「竹内、お前ちょっと黙ってろ」

 2日続けて家にあがりこんできた晃のせいで、慧斗の機嫌はすでに地に付きそうだ。慧斗は極力自分の気分がこれ以上悪化しないよう、晃を視界に入れないように静流と対面する。 

 「あらあら、静流ちゃんじゃない、こんばんは」

 中から、次々と塔子やレオ、モモが姿を現す。

 「こんばんは、塔子さん。はい、これおすそわけ」

 「ありがとう。いつも悪いわね」

 袋を手渡したが、足元のレオが唸り声を上げたので、静流は飛びのいた。

 「ちょ、出たわねレオ。どっか行ってなさいよ」

 慧斗の足元にいる黒い犬を目にし、静流は鬱陶しげな目線をよこす。

 「レオ、静かにしろ」

 慧斗が声を上げるが、レオは唸るのを止めずに静流を睨みつけた。

 「なぁなぁ、そうだろ? 慧斗の彼女だろ?」

 「黙れ」

 「んな、照れんなって」

 さも迷惑そうに、顔を顰める慧斗には構わず、晃はニヤニヤと肘で突いている。

 「って、なんか犬二匹いない!? ちょっと、慧斗なんとかしてよ!」

 二匹の金と黒の犬を目にし、静流が慧斗の腕に縋りついた。慧斗の眉間がさらに顰められる。もう片方には、興奮したように言い詰め寄る晃が、腕を引っ張った。

 「だから、彼女なんだろ!?」

 両方の耳から、各々の言葉をしゃべり、両腕を違う方向へ引っ張られ、慧斗は煩わしさと苛立ちでワナワナと肩が震えだしている。だが、2人は気付かずに尚も声を張り上げた。

 「誰の犬よ、あれ! レオだけでも嫌なのに。助けてよ、慧斗!」

 「あれか、彼女じゃなかったら片思いか!? そうなのか、慧斗!」

 涙目で腕に縋りつく静流。腕を引っ張り満面の笑顔で寄ってくる晃。後ろではレオが静流を睨み唸っている。そのレオに擦り寄るモモ。そして、この状況を微笑ましそうに傍観している塔子。

 両側にいる2人が同時に、慧斗の名を叫んだことにより、慧斗の何かが切れる音がした。

 「お前らいい加減にしろ!!」

 日も暮れた夜の道に、慧斗の怒鳴り声が響いた。その場にいる全員が固まったのは言うまでもない。

 「とりあえず、お家に入りましょうか」

 始終微笑んでいる、塔子を除いて。



 

 「へー、雨宮さんって慧斗の従姉なんだ」

  開放された和室に、慧斗と静流と机を挟んで対面する形で、晃が座っている。

 「歳も1つしか変わらないし、家も近いから、兄弟みたいなもんよね」

 どちらも本当の兄弟はいないのだが、もしいたら、ということを思い浮かべて、慧斗は頷いた。

 「私のお父さんが、慧斗のお父さんの兄なの。あ、ちなみに空手の道場やってるから、興味あったらおいで」

 「マジっすか? 行きます! てか、かっけーな、空手! お父さんすごいっすね!」

 「ありがとー。昔は私も慧斗も、お父さんに習ってたんだ。今はもう全然やってないけどねー」

 ね、と同意を求めてくる静流に、慧斗は呆れ混じりに答えた。

 「静流はただサボっているだけだろう。俺は今でも週に1回は通っている」

 「え、ウソ」

 「本当だ。今度健二さんに聞いてみろ」

 「雨宮さんサボってんだー。ダメじゃないっすか」

 「たまには行ってやれ。健二さん寂しがってたぞ」

 「お母さんと同じこと言わないでよ」

 そっぽを向いて不貞腐れる姿に、慧斗は呆れる。その様子を、何が可笑しいのか、晃が笑みを宿した表情で話す。

 「ははは、慧斗は雨宮さんの保護者だな。どっちが年上かわかんねぇや」

 「失礼ね!」

 静流は憤慨するが、晃は気にした風でもなく声を上げて笑う。だが、嫌味を感じられないので、静流は怒るに怒れない状態だ。むしろ、笑顔の絶えない彼には、好感を持てる。

 どうやら晃と静流は馬が合うようで、会話が絶えることはなかった。

 会話の内容は様々だったが、慧斗は興味をなさそうに、適当に相槌を打っているだけだった。だが、暫くした静流の言葉には、反応せざるを得なかった。

 「それにしても、慧斗が友達を家に呼ぶなんてねー。前だったらあり得なかったわ」

 「おい、俺はこいつを家に呼んだ覚えはないぞ」

 頬杖をついて、いつものように眉間に皺を寄せている。

 「慧斗ー、そんな顔してっと、折角の男前な顔が台無しだぜ?」

 「そうよー、戻らなくなったらどうすんのよ。てか、もしかして竹内君、無理矢理押しかけてきたの?」

 「そうだ。昨日も無理矢理……」

 昨日のことを思い出し、思わず溜息をついてしまう。

 今日は部活が休みだとか言って、拒否する慧斗を無視し来たのだ。昨日と同じように、晃の家によってモモを連れ、唸るレオを落ち着かせたのだ。おまけに、晃のマシンガントークも変わらず。おかげさまで昨日今日でどっと疲れた気分だ。

 昨日の出来事を聞いて、静流は感心したように声を洩らした。

 「へー、竹内君ってチャレンジャーね。そこまで慧斗にアタックした人初めて見たわ」

 照れる晃から、慧斗に視線を変え、静流は微笑む。

 「良かったわね、慧斗。高校初のお友達ゲットじゃない」

 「俺はいらない」

 「大丈夫よ、竹内君。こんなこと言って、本心では喜んでるわ」

 「そ、そうだったのか、慧斗!」

 「勝手なことを言うな」

 「照れない照れない」

 「そうだぜ、慧斗。もっと、正直になれよ!」

 「黙れ、消えろ」

 「ちょ、ひどくね!?」

 「大丈夫、これも慧斗の愛情表現よ」

 「マジッすか?」

 「……お前ら、いい加減帰ってくれ」

 だが慧斗の願いもむなしく、2人は小一時間ほど居座っていた。

 席を立とうとしても、2人して慧斗を解放することを許さなかった。結果、2人の会話を延々と聞かされ続けたのだ。

 その慧斗にとって地獄とも言えるような時間は、鶴の一声ならず、塔子の声でやっと終了の時を迎えた。

 「2人とも、そろそろ帰らなくちゃダメよ」

 やっと会話を中断させ帰り支度をする2人。

 「やっとか。もう2度と来るな」

 「そんな冷たいこと言うなよ。明日も来るぜ」

 イイ笑顔で親指を立てる晃に、軽く苛立ちを覚えた。

 「あ、でも俺明日部活だ! ごめん慧斗。やっぱ明日無理だ」

 とても残念そうに手を合わせて頭を下げる晃。それとは逆に、いつもの無表情が僅かに嬉しそうに緩んでいる慧斗を、静流は見つけた。

 「いや、むしろそれでいい。お前は部活をやってろ。そして、2度と家に来るな」

 「慧斗……」

 「慧斗ー、竹内君最後のほう聞いてないわよ?」

 慧斗が俺を応援した、と全く違う方に受け止めて、ぬかよろこびをする晃。

 「俺、頑張るから!」

 「消え失せろ」

 「よし、夏の大会目指して、俺はやるぜ!」

 「わー、目が燃えてるわ。竹内君って、結構バカよね。クラスでもそう?」

 「知らん」

 やっぱり、と苦笑を洩らす静流。慧斗の視線から、いちいち聞くな、と目で言っていることがわかった。

 「じゃ、またね」

 「明日、学校でな」

 手を振る2人に、慧斗は無言で視線だけを送った。

 ふと、夏の夜空を仰ぐと、そこにはいくつかの星。

 そして、半月よりも少し影の消えた、十日夜の月が浮かんでいた。

 


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