第3話 歪んだ契約
太陽が沈みきると、河川敷の空気は一変した。あれほど騒々しかった音楽は止み、代わりにパチパチと薪が爆ぜる乾いた音が夜を支配し始めている。バーベキュー場のあちこちで焚き火が焚かれ、オレンジ色の炎が闇を揺らしていた。昼間の無遠慮な明るさは鳴りを潜め、揺らぐ影が人々の表情を曖昧に隠している。その曖昧さが、私には少しだけ心地よかった。けれど、心臓の奥に落ちたインクは、まだ乾いていない。佐原律樹という男が残した言葉。そして、私の絵に対する批評。それらが頭の中で反響し続け、私は無意識に自分の指先をさすっていた。
「……少し、風に当たってこよう」
美香たちは、火を囲んでマシュマロを焼きながら、恋バナに花を咲かせている。その輪の熱量が、今の私には眩しすぎた。誰にも気づかれないように立ち上がり、闇の濃い川岸の方へ足を踏み出した。逃げたい。彼から、そして、彼に惹かれそうになっている自分の弱さから。冷たい夜風に吹かれれば、この火照りも冷めるかもしれない。そう思った。
「また、逃げるんですか?」
背後からかけられた声に、心臓が跳ね上がった。振り返るまでもない。その声の主は、私の脳裏にこびりついている男だ。ゆっくりと振り向くと、焚き火の逆光を背負った佐原さんが立っていた。炎の輪郭が彼の体を縁取り、表情は深い影に沈んでいる。
「……逃げるなんて。ちょっと酔いを覚まそうと」
「嘘つきだ」
彼は可笑しそうに喉を鳴らし、私の数歩手前で足を止めた。近い。距離は一メートル以上あるはずなのに、彼の存在感が私のパーソナルスペースを侵食してくる。
「あそこの輪、苦痛でしょう。桐谷さんの顔、ずっと暗かったですよ」
「……そんなにはっきり言わなくても」
「事実ですから」
彼はポケットに片手を突っ込んだまま、焚き火の方へ顎をしゃくった。
「戻りましょう。あっちの方が暖かい」
「でも、私は」
「無理に会話に混ざらなくていい。ただ座って、火を見ていればいいんです」
彼は一歩、私に近づいた。夜の冷気が遮断され、彼の体温がふわりと私を包んだ気がした。
「僕のそばにいてほしい。……それだけです」
ドクン、と胸が打つ。その言葉は、単なる誘い文句にしては、あまりにも湿度が高かった。お願いではなく、どこか決定事項のような響きを含んでいる。拒絶しなければならない。私の本能がそう告げているのに、足は勝手に彼の方へと向き直っていた。彼は満足そうに目を細め、私の背中に手を添えた。直接触れられているわけではない。けれど、シャツ越しのその熱が、私を逃がさない鎖のように感じられた。
私たちは、メインの集団から少し離れた、小さな焚き火台の前に設置されたベンチに並んで座った。目の前で、炎が生き物のように踊っている。木が燃え尽きていく匂い。灰になって崩れ落ちる音。私は膝を抱え、じっとその赤を見つめた。私の愛する青とは対極にある、破壊と再生の色。
「火って、不思議ですよね」
佐原さんが、独り言のように呟く。
「見ているだけで安心するのに、触れたら火傷する。近づきすぎると危険だと分かっていても、人はこの暖かさを求めてしまう」
彼の横顔が、炎に照らされて赤く染まっている。その視線は火に向けられているはずなのに、私の中身を透かして見ているような錯覚に陥る。
「桐谷さんは、硝子細工みたいだ」
「……え?」
「透明で、綺麗で、でも少し力を加えたら粉々になってしまいそうだ」
彼はゆっくりと視線を私に移した。その瞳の奥には、理知的な光と、それとは裏腹な暗い欲望のようなものが混ざり合っていた。
「そういう繊細な人はね、誰かが守ってあげないと壊れちゃうんですよ。外の世界は、貴方には粗雑すぎる」
守る。その甘美な響きに、心がぐらりと揺れた。ずっと一人で戦ってきた。誰にも理解されず、孤独な青の中で筆を動かし続けてきた。その孤独を誇りに思っていたはずなのに、彼の言葉は、私の心の隙間に温かい蜜のように染み込んでくる。誰かに守られたい。そんな弱音が、私の中にあったなんて。
「……私は、そんなに弱くありません」
精一杯の虚勢を張る。けれど、声は微かに震えていた。
「貴方の絵を見れば分かりますよ」
佐原さんはスマホを取り出し、私が送ったスケッチの画面を表示させた。指先で、画面上の私が描いた線をなぞる。
「強い芯がある。でも、危うい」
彼が画面をタップし、拡大する。
「例えば、この川面の線。もっと強く、迷いなく引いてみたらどうでしょう? そうすれば、この絵はもっと僕の好みになる」
まただ。心の中に、小さな棘が刺さる。アドバイスという皮を被っているけれど、私の作品を彼の色に染めようとする所有欲の発露ではないか。私の絵は、私のものだ。誰かの好みに合わせるために描いているわけじゃない。そう反論しようと口を開きかけた。けれど、言葉が出てこない。炎に照らされた彼の目が、あまりにも真剣で、そして美しかったからだ。最高級の宝石を見定めている、鑑定士のような目。そこには、私の絵への敬意と、私自身への執着が混在していた。怖い。自分の輪郭が、この炎の熱で溶かされていくような感覚。でも、その恐怖と同じくらい、私は彼色に染まることへの期待を感じてしまっている。それが、悔しかった。
「……考えて、おきます」
結局、私はそう答えることしかできなかった。佐原さんは、いい子だと言わんばかりに深く頷き、持っていた缶ビールを私の烏龍茶の缶に軽く当てた。カシュッ、という乾いた音が、契約の合図のように甲高く響いた。
「そろそろ、お開きかな」
美香たちが片付けを始めている気配がした。夢のような、あるいは悪夢のような時間が終わろうとしている。立ち上がろうとした時、佐原さんが私の手首を掴んだ。強い力だった。痛い、と思うほど強く。
「あ……」
「連絡先、交換しましょう」
有無を言わせない口調だった。私は震える指でスマホを取り出し、彼が表示したQRコードを読み取る。Ritsukiという文字が、私の友達リストに追加される。
「今日は、本当に来てよかった」
彼は私の手首を離さなかった。むしろ、親指で私の脈打つ場所をゆっくりと撫でている。ざらりとした感触。さっきまでの彼とは違う。今の彼は、大人の男の、生々しい熱を帯びている。美香の無邪気な笑い声が届くたび、私の手首を握る彼の指に力がこもる気がした
「桐谷さん」
彼は顔を近づけ、私の耳元で囁いた。
「これから、貴方の世界をもっと見せてください。僕が、きれいに磨き上げてあげるから」
その言葉に、背筋が凍りついた。それは成長の約束なのか、それとも書き換えるという宣告なのか。彼の顔が離れる。最後に、握りしめていた私の手を、さらに強く握り込んだ。骨がきしむほどの強さで。
「絶対、離さないから」
愛の告白には聞こえなかった。捕食者が、獲物に逃げ場がないことを教えるような、絶対的な宣言。私は呼吸を忘れた。パチン、と大きな音を立てて、目の前の薪が燃え尽きた。火の粉が舞い上がり、夜空に吸い込まれて消えていく。私の世界が、この炎に飲み込まれようとしている。逃げなければ。そう思うのに、彼に握られた手首の熱さだけが、これ以上ない真実のように思えた。私は、彼の瞳に映る自分の顔を見つめた。炎に照らされたその顔は、恐怖に怯えているようにも、歓喜に震えているようにも見えた。




