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薄れていく青色の世界  作者: 空-kuu-


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第2話 インクの落ちる音

 肉の焦げる強烈な匂いが、過去の記憶を塗りつぶしていく。二子玉川のバーベキュー広場は、私の最も苦手とする種類の熱気に包まれていた。安っぽい音楽の重低音が響き、乾杯の叫び声に耳を塞ぎたくなる。そして、原色の服を纏った人々の群れ。私は、河川敷の入り口で足を止めた。


「……帰りたい」


 まだ誰にも会っていないのに、気持ちが重くなる。私が守りたかった静かな世界は、ここでは塵ほどの価値もない。昨日の夕暮れ、あのベンチで感じた藍青の気高さが、この騒音の中ではただの陰気として処理されてしまうのではないだろうか。引き返そうか。踵を返しかけた、その時だった。


「あーっ! 詩織! ここ、ここだよ!」


 大音量の音楽を切り裂いて、聞き慣れた高い声が飛んできた。視線を向けると、トングを片手に大きく手を振る美香の姿があった。彼女の周りには、すでに出来上がっている男女のグループがいる。見つかってしまった。私は観念して、重い足取りで砂利を踏みしめ、彼らの方へと向かった。


「やっと来た! 遅いよー、もうお肉焼けてるからね」


 美香は私の腕を遠慮なく掴み、輪の中へと引きずり込む。熱い。気温だけでなく、この空間に充満する、楽しむことを強制する空気が熱い。肌にまとわりついて、息苦しさを感じる。


「紹介するね、こっち親友の詩織。絵描いてるの。で、こっちが大学のサークル仲間の健太と、あそこの焼き場にいるのが……」


 美香が指差した先。煙の向こうで、一人の男が網の前に立っていた。周囲の喧騒から、そこだけ音が切り取られたように静かだった。彼は派手なシャツで装飾した周囲とは違い、シンプルな白のシャツを肩まで綺麗に捲り上げている。手際よく肉を裏返す所作には、バーベキュー特有の粗雑さがない。真っ白なシャツを、一滴のタレでも汚すことを許さないような清潔な拒絶。外科医が手術でもしているかのような、無駄のない動きだった。


「佐原さん! 詩織来たよー!」


 美香の声に、彼がゆっくりと顔を上げた。目が合った瞬間、背筋が少しだけ粟立った。整った顔立ちだから、というわけではない。その瞳が、この騒がしい場所には不釣り合いなほど、深く、理知的な光を宿していたからだ。彼はトングを置き、穏やかな笑みを浮かべてこちらに歩いてきた。


「はじめまして。佐原律樹(さはらりつき)です。美香ちゃんから話は聞いてますよ」

「あ、はじめまして……桐谷、です」


 差し出された飲み物を、私は反射的に受け取った。缶ビールの冷たさが、汗ばんだ掌に心地よい。


「賑やかすぎて驚いたでしょう? 無理して馴染もうとしなくていいですからね。適当に座っててください」


 低いけれど、よく通る声。その言葉は、私の心の壁を易々とすり抜けた。無理しなくていい。その一言が欲しかったことを、見透かされたような気がした。


 宴は進む。私は端の折り畳み椅子に座り、なるべく気配を消して烏龍茶を啜っていた。佐原さんは、この場の中心だった。けれど、大声で笑ったり、誰かを煽ったりはしない。空になったグラスに気づいて、さりげなく新しい酒を渡したり、会話に入れない人に水を向けたり。彼が動くたびに、場が滑らかに回っていく。指揮者みたいな人だと思った。この混沌とした騒ぎを、彼一人がコントロールしている。


「……退屈ですか?」


 不意に、隣に気配が落ちてきた。驚いて顔を上げると、いつの間にか佐原さんが私の隣の椅子に腰を下ろしていた。手には缶ビールではなく、ミネラルウォーターを持っている。


「あ、いえ。そんなことは」

「取り繕わなくても大丈夫ですよ。顔に書いてあります。『帰って絵を描きたい』って」


 心臓が跳ねた。図星だった。けれど、彼の口調には咎めるような響きはなく、むしろ悪戯な色が混じっていた。


「イラストレーターをされているんですよね?」

「……はい。まあ、細々とですけど」

「孤独な、仕事だ」


 彼は遠くの川面を見つめながら、独り言のように呟いた。


「え?」

「僕も広告の企画をやっていて、たまにデザインのラフを切るんです。深夜、モニターの前で一人。正解のない問いに向き合い続ける時間は、深海に潜っているみたいに苦しい」


 彼は私の方を向き、ふわりと微笑んだ。


「でも、その孤独からしか生まれない色がある。……貴方は、そういう目をしてますよ」


 時が止まった気がした。周囲の馬鹿騒ぎが、急に遠のいていく。孤独。私が誰にも理解されないと諦め、自分の居場所として守ってきたものを、この人は『苦しいけれど価値がある』と言った。元恋人は、私の沈黙を暗いと罵った。けれど彼は、それを肯定してくれた。


「……分かるんですか」

「分かりますよ。僕も、一人の時間が一番好きですから」


 嘘だと思った。こんなに人を惹きつける人が、孤独を愛しているなんて。けれど、私の目を真っ直ぐに見つめる彼の瞳は、暗い井戸の底のように静かで、嘘を吐いているようには見えなかった。


「どんな絵を描くんですか?」

「えっと、風景画が主で……今は、装画の仕事とかを」

「へえ、見たいな」


 普段なら断る。制作途中のラフなんて、肌着を見せるようなものだ。見せたくない。けれど、この人なら私の藍青を汚さないのではないか、という賭けのような気持ち。アルコールのせいなのか、それとも彼の醸し出す、知的な安全地帯のような空気のせいか、私はスマホを取り出していた。


「……これ、昨日の夕方に描いたラフなんですけど」


 画面に表示されたのは、昨日ベンチで描いた、曇天の多摩川のスケッチだ。佐原さんが覗き込む。肩が触れそうな距離。彼のシャツから、微かに洗剤の清潔な香りと、煙の匂いが混じった男の匂いがした。私は息を止める。彼は長い間、無言で画面を見つめていた。否定されるかもしれない。嘲笑われるかもしれない。指先が冷たくなる。


「……綺麗だ」


 ぽつりと、彼が言った。


「この青の使い方、すごく好きです。冷たくて、孤独で、どこか泣きたくなるような色だ」


 胸の奥が熱くなった。私の中の藍青が、届いた。喜びで表情が緩みそうになった時、彼がスマホの画面を指先でなぞった。


「ただ」

「……え?」

「この雲。もう少しだけ流れを作って、空に動きを出したらどうでしょう? そうすれば、この綺麗な青が、もっとドラマチックに引き立つ」


 ピクリ、と心が反応した。違和感。私の見た空は、重く垂れ込めて動かない空だった。それを動かせと言うのは、私の見た真実の否定ではないか。けれど、彼が指で示した構図を想像してみる。……確かに、その方が絵としては映えるかもしれない。大衆に受けるのは、きっと彼が言うようなドラマチックな空だ。


「僕の勝手な感想です。プロに失礼でしたね」


 私が黙り込むと、彼は申し訳なさそうに眉を下げた。


「ただ、誰かに見せた時の感情の揺れも、創作の燃料になることがあると思って。貴方の絵には、もっと多くの人を惹きつける引力があるから」


 上手い。その言葉は、私のプライドを傷つけず、むしろ、期待という糖衣で包んで、私の喉元を通り過ぎていった。否定されたはずなのに、認められたような高揚感がある。もっと多くの人を惹きつける。それは、私が無意識に蓋をしていた渇望だった。


「……参考に、します」

「うん。完成したら、一番に見せてほしいな」


 佐原さんは満足そうに目を細め、残っていた水を飲み干した。喉仏が動く様を、私は無意識に目で追っていた。


「さーて! そろそろ締めのアイス食べる人ー!」


 美香の声が響き、場が再び動き出す。佐原さんが立ち上がった。私と彼のだけの時間は、唐突に終わりを告げた。彼は一瞬だけシャツの裾を直し、私を見下ろした。逆光で表情が見えにくい。けれど、その視線の熱量だけは、はっきりと感じ取れた。


「今日は話せてよかった」


 周囲には聞こえない、私にだけ届く声量で彼が囁く。


「桐谷さん。貴方は、この場所には勿体ない人だ」


 ドクン、と心臓が大きな音を立てた。彼はそれだけ言い残し、笑顔をつくり直して、美香たちの輪へと戻っていった。取り残された私は、呆然と彼の背中を見つめる。勿体ない。それは、私を特別扱いする甘い響きでありながら、同時に「お前の居場所はここじゃない、俺のところだ」と告げるようにも聞こえた。


 風が吹いた。昨日のような湿った風ではなく、もっと乾いた、けれど火傷しそうな熱を含んだ風だ。スマホの画面には、まだあのスケッチが表示されている。私は、画面の中の雲を見つめた。彼の言った通りに描き直したら、この絵はどう変わるのだろう。想像しようとしたけれど、頭の中は先ほどの彼の声と、微かに触れた肩の熱さで埋め尽くされていた。


 怖い。昨日感じた予感が、確信に変わっていく。私は、この男に関わってはいけない。直感はそう警鐘を鳴らしているのに、私の目は、談笑する彼の姿から離れられずにいた。彼の視線が、時折こちらを向いている気がする。そのたびに、私の青い世界に、一滴ずつ、鮮やかなインクが垂らされていくようだった。まだ、引き返せるだろうか。いや、もう手遅れなのかもしれない。私は渇いた喉を潤すために、ぬるくなった烏龍茶を一気に飲み干した。

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