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薄れていく青色の世界  作者: 空-kuu-


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第1話 藍青の孤独

 濁った水面の匂いが、湿った風に乗って鼻腔を塞ぐ。多摩川の土手は、六月の不安定な気圧が影を落としていた。空と川の境界線が曖昧になるほど、灰色の雲が低く垂れ込めている。私はベンチに膝を立てて座り、画板代わりのカルトンを強く押さえつけた。


「……邪魔しないでよ」


 誰に言うでもなく、ぼそっと呟く。突風が吹くたび、ケント紙が暴れようとするのに翻弄される。その白さを、私は鉛筆の先で縫い留めるようにして線を走らせた。世界を切り取るのは、いつだって私一人でいい。視界にあるのは、淀んだ川の流れと、対岸に見える工場のシルエットだけ。そこに人間の体温はいらない。騒音も、愛想笑いも、気遣いもいらない。私の指先から生み出される線だけが、私が呼吸をすることを、ここに居ることを許してくれる。鉛筆をHBから2Bに持ち替える。影を濃くしようとした、その時だった。


 ガサッ、と強烈な風が吹き抜けていった。紙が大きくめくれ上がり、慌てて左手で押さえ込む。その拍子に、鉛筆の芯がボキリと折れた。乾いた音が、鼓膜の奥で嫌な記憶を弾いた。


『お前の描く絵なんて、誰の目にも留まらないんだよ。そんなことより、俺を見てろ』


 不意に、男の声が蘇る。もう二年も前に別れたはずの、元恋人の声だ。あの夜も、こうして芯が折れた鉛筆を握りしめていた。締め切りに追われていた私の背後から、彼は私の手首を掴み、無理やり筆を止めさせた。酒の混じった吐息。苛立ちを含んだ低い声。


詩織(しおり)の描く世界ってさ、冷たいんだよ。もっと明るい色を使えよ。俺のために』


 愛という名の、暴力的な添削。私の個性を冷たいと否定し、自分の好みの色に塗り替えようとした熱い掌の感触が、ありありと皮膚の裏側に蘇る。吐き気がした。折れた鉛筆を持つ手が、微かに震えている。指先が白くなるほど強く鉛筆を握りしめる。爪が掌に食い込む痛みで、過去の亡霊を追い払おうとする。


「……終わったこと。もう、誰もいない」


 深呼吸を一つ。肺に広がっていくのは、雨の匂いを含んだ生ぬるい空気。そうだ。私の世界には、もう誰も入れない。この孤独で静謐な藍青を守るためなら、私は一生、誰とも関わらなくたっていい。


 ブブッ。ジーンズのポケットで、スマートフォンが短く震えた。張り詰めていた緊張が、無遠慮な電子音に削がれる。無視しようか迷ったが、震動は二度、三度としつこく続いた。ため息交じりに鉛筆を置き、スマホを取り出す。画面には『美香(みか)』の文字と、スタンプが踊っていた。


『詩織ー! 生きてる? 今どこ?』

『ねえ明日さ、やっぱり来ない? バーベキュー!』

『イケメン来るよ(笑) 気分転換しよーよ』


 美香からのメッセージは、いつも私の都合なんてお構いなしだ。画面の向こうにあるであろう、彼女の屈託のない笑顔が目に浮かぶ。彼女は悪い子ではない。ただ、私が必死に積み上げた静かな世界を、土足で踏み荒らすことに悪気がないだけだ。既読をつけてしまった以上、返信しないわけにはいかない。指先を動かすのが億劫だった。


『ごめん、パス。人が多いの、苦手だし』


 送信ボタンを押す。これで終わり。そう思ったのに、即座に既読がつき、吹き出しが増える。


『またそれー?』

『詩織、最近ずっと引きこもって絵ばっかりじゃん』

『たまには外の空気吸わないと、腐っちゃうよ?』


 腐る。その二文字が、妙に生々しく胸に刺さった。顔を上げ、川面を見る。流れの悪い淀みに、ゴミが溜まっている。あそこで回っている発泡スチロールの破片は、昨日の雨からずっとあそこにあったのかもしれない。あれは、私と同じだ。誰にも邪魔されず、自分の好きな色だけで世界を埋め尽くすのは心地いい。けれど、それは緩慢な死と同義なのかもしれない。言葉の通じない絵筆と向き合うだけの毎日。誰かの体温に触れて、傷ついたり、煩わされたりすることのない日々。それは安全だけれど、私の絵から生気を奪っているのではないか。最近、編集者に言われた「綺麗だけど、何か足りないね」という言葉が、美香のメッセージと重なる。


 ――腐りたくはない。


 本能的な恐怖が、喉の奥をせり上がってくる。スマホを握る手に汗が滲んだ。怖い。バーベキュー場のような、肉の焼ける匂いと、安っぽい音楽。男女の媚びた笑い声が混じる場所に行くのは、想像するだけで胃が重くなる。誰かが、私の聖域に入ってくるのは耐えられない。けれど、このまま誰とも言葉を交わさず、座っているベンチで風に吹かれているだけの人生の先に、何があるというのだろう。


 私は、壊れたいのだろうか。頑丈に鍵をかけたこの扉を、誰かに無理やりこじ開けてほしいと、心のどこかで願っているのだろうか。そんな馬鹿な。ありえない。首を振って否定する。けれど、指先は私の意志を裏切るように、勝手に文字を打ち始めていた。


『……分かった。少しだけなら』


 送信した瞬間、後悔が津波のように押し寄せてきた。ああ、送ってしまった。取り消したい。やっぱり行かないと言いたい。けれど、画面の中の美香は『やった! 絶対楽しくなるから!』と、無邪気に爆弾を投げつけて会話を終了させてしまった。スマホの画面が暗転し、私の顔がぼんやりと映り込む。眉間に皺を寄せ、ひどく不安そうな顔をした女がそこにいた。


 ゴォッ、と風が唸りを上げた。空を見上げると、いつの間にか、太陽は厚い雲の向こうに沈みかけていた。夕焼けの赤が、雲の隙間から毒々しく滲み出している。美しいはずのグラデーションが、今日はやけに不吉に見えた。空が割れて、そこから何かが垂れてくるような、そんな錯覚。スケッチブックを閉じた。今日の絵は、結局完成しなかった。芯の折れた鉛筆をカバンのポケットに放り込む。


「……帰ろう」


 立ち上がると、風にあおられて身体がよろめいた。明日、私はあの場所へ行く。騒がしくて、俗っぽくて、私が最も忌み嫌う、現実の真っ只中へ。胸騒ぎがする。心臓の鼓動が、早鐘を打っているのが分かる。それは社交への不安なのか、それとも、もっと別の――予感めいたものに対する警告なのか。足元の草が、何かに怯えるようにざわざわと揺れていた。私は逃げるように背を向け、土手の階段を上り始めた。背中に張り付く湿った風が、まるで誰かの手のひらのように、ねっとりと私を撫で回している気がした。

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