九
ふっ、と男は暗闇の中で目を覚ます。普段はずっと眠ってしまって、陽が出ているうちはいつ起きるのか男も知らない。だが、この夜の最も深い時間だけには必ず男は起きていた。しばらくの間ぼう、としてから、力の入らない手でボタンを押し、機械仕掛けの寝台を三十度ほど起こす。これが毎日の日課だった。
(今日は、誰か面会に来たんだろうか。)
枕頭に置いてある机の上には、前に目を覚ました時には無かった花が据えてある。
(誰が置いて行ったんだろう。俺にも花をくれる人がいたのかなあ。)
男は、嘗て自分の肉体が持っていたこの世界とのしがらみを、殆ど忘れてしまっていた。もうずっと、心臓の音を聞きながら暖かさの中を彷徨っていた。
暫く起きていると、雲が切れて月明かりが男の枕元に差し込んだ。優しい夜影に包まれた窓の外の風景を眺める。
(今は、冬なのかなあ。それとも春なのかなあ。)
首に力を入れたくないので、視線だけで月を見上げる。今、季節などはもうどうでも好かった。
(綺麗だなあ…。太陽にはお別れを言えなかったけど。この光が照らせば、俺はもう迷わないだろう。)
胸のうちから、どうしようもない程優しく、暖かいものが溢れてきた。残りの水分を精一杯枯らせて、目には涙が滲む。
それは、生きていることへの感謝であった。
(ああ…ああ。)
男はまた眠くなってきて、目を閉じた。
(さようなら。)
次の日、夜が明ける前に男は死んだ。
陽が盛んになる。病院から少し離れた道路の脇では、生い茂る草が何も恐れぬように太陽に手を伸ばす。
叢から飛び出した一匹の蟻が車に轢かれて潰される。
よろよろ、最後の力を振り絞って、やがて動かなくなった。
読んで頂き、ありがとうございました。




