八
冬の終わりの日差しが優しく差し込む、南向きの窓がついた個室。その純白は文学的な温もりを感じさせつつも、無機質に揃えられたような色調と、薬品のような匂いが官能的な憂鬱を落とすような寝台。そこに、四十代半ばの一人の男が眠っていた。この男は半年程前に不治の病と診断され、三ヶ月と少しの自宅療養を経てここに辿り着いた。こつこつと、個室のドアが叩かれる。
「―さん。失礼します。」
「………。」
「流石に起きてないか。」
男は、一日のうち数時間も目を覚さない。どうやらそれくらいは起きているらしいが、一体いつ起きていつ置いてある飯を食っているのかは、ほとほと謎である。男は若草が太陽に向けて伸びてゆくように、南の窓の方を向いて寝ている。医師や看護師が見る限り、男は寝ている間ずっとこの姿勢である。
点滴はしていない。排泄や呼吸は機械で支持しているが、このままいけば男は順調に弱っていき、緩やかにその生を終えるだろう。男の心臓があと何回脈打つのかは、男自身も知らない。
「今日もいい天気ですね。小春日和だ。」
穏やかな口調で医師は声を掛けるが、返事はない。一月以上前、男が入院予定日の前日に救急隊と警察に囲まれながら病院へ来た時は医師も驚いた。何でも近くの駅で見知らぬ女性に掴みかかったらしい。しかし、死期を前にした人間の精神状態が如何様にもなり得ると考える医師にとって、それは男に対する何の評価にも繋がらなかった。それから医師は男の状態を確認し、看護師にいくつか指示を出してから部屋を出て行った。すやすや、男は子供のように迷いなく安らかな寝息を立てている。五階の個室には、窓を撫でる高風と、遠くを走る車の音。それと心優しい死神の足跡だけが聞こえている。
男の孤城にとって最初の来訪者はAであった。気にかけてはいたもののやはり音沙汰がなく、耐えかねて調べてみると男が愈愈入院したと聞いて、急いで車を飛ばして来た。
「こちらです。」
「ああ、ありがとうございます。」
病棟の入口で履き替えた少し小さいスリッパの音を立てながら、Aは個室の滑り戸に手を掛ける。案内してくれた看護師は軽くお辞儀をしてから去って行った。
「―。来たよ。」
「………。」
「いい部屋じゃないか。眺めも日当たりもいい。」
Aは椅子を持って来て、寝ている男の傍らに座る。例によって男は窓の外を向いている。
「聞いたよ。お前駅で女の子に掴みかかったんだって?……だめだなあ。だから若いうちに、もう少しくらい遊んだ方がいいって言ったのに。」
「………。」
「頼まれたことはやっておいたぜ。お前の本達は学校に届けたよ。いやあ、今の子は漱石や鴎外なんぞ読まないだろうと思っていたんだけど、後で先生に聞いたら意外にも読んでくれてる子が何人かいるんだって。お前の話をしたら泣いてくれた子も居たらしい。」
「………。」
ふと、Aは男の布団から腕がはみ出していることに気付いた。最初はそれが、同い年の男の腕にしてはあまりに細く、切り落とされた枯れ枝にしか見えなかったので、とても腕だとは思えなかった。Aはその血管を辿るように触ってから、包むように手を握る。とうとう、堪えていたものが滲み出て来た。
「頑張ったんだなあ…。」
この腕が、触れれば腐ってしまうような脆い身体が、思い出の中の男の姿——体つきは並でも、信念と思想に由来する情動を内に秘めた——を支えていたと思うと、Aはそこに燃えてから尽きる迄の命の本質を垣間見た。いつか灰になるまでが人生なのだと、Aは改めて思い知らされた気がしたのである。手を握る力を少し強くするが、男が起きる気配はない。
「…お疲れ様。」
震える声で言い出せたのはそれだけだった。Aはこの親友の散り方は充分に美しいと感じていた。男がそれを望んでいたと思うと尚更である。本人は不満足そうにするかもしれないが、Aは美しいと思う心を譲る気はなかった。それが、本当の価値など存在しない諸行無常において、出来得る最大の弔いだと思ったからである。
それからAは、特に何かをするでもなくただ男の側で仕事をしたり、疲れたら壁に寄りかかって休んだりした。まだ息がある内に、ただそばに居るだけの時間が欲しくなったのだ。親も子供もいない友を、一人にするのが怖かった。自分なら耐えられないと思った。
日が暮れ始めて、Aは帰る決心をした。荷物をまとめ、西日に向かって欠伸をする。覗き込むと、男の寝顔にも茜が差している。眩しいかな、と思い遮光布を引いてから男はまた滑り戸に手を掛ける。一度、名残惜しそうに男を見納めてからAは出て行った。
また一月ほど経った。弱りながら、尚も男は生きている。次に訪れたのは若い男女だった。男の方は染め上げた金髪を自慢げに流している。女は、男の後ろから警戒するように部屋に入って来る。紛れもない、三ヶ月程前に駅で男に腕を掴まれた女である。若者はその時に女を助けた英雄であり、後の警察沙汰等の始末をする内に接近し、付き合い始めていた。結局被害届は出さなかった。というのも、男という名の獣にとっては、ただのか弱く美しい一輪の花である乙女に手を挙げた、窶れた気色の悪い中年の男を存分に懲らしめようと思った矢先、その男が追先短い惨めな人間だと知らされたからである。女は訴えるのも無駄だと思ったし、世間体も気になったので結局有耶無耶にしてしまった。
それが今、当に今際の際を迎えているという話を聞いてから、どうにかしてその顔を一目でも拝んでおきたいと思ったのである。女の腕を掴んだ時の男の、訴えかけるような瞳が印象に残って離れなかったのだ。
当然、医師は彼らを男に面会をさせて良いものか逡巡した。しかし当の男が意識のある時に確認すると、『もし面会をしたいという人がいたなら、誰でも好いから通して下さい。親の敵だろうと構いません。』と冗談混じりに言っていたので、仕方なくそれを尊重することにした。
「ほらたっちゃん、この人だよ。」
たっちゃん、というのは若者のことである。
「あれ、こんな顔してたっけ。」
「危篤状態だから、ちょっと顔つきが変わっちゃうんじゃない?私のおばあちゃんもそうだった。」
「ふーん。…まあ、あの時おっさんの肋骨折っちゃったみたいだから、少し悪いことしたかな。」
「たっちゃんは悪くないよ。あの時すごく怖かったもん。たっちゃんが居なかったらほんと、どうなってたか。」
若者は女の肩に手を回す。女も満更ではないようにそれに寄りかかる。
「ねぇ、何でこの人、こんなに気持ちよさそうに寝てるんだろう。」
「知るか。実際気持ちいいんじゃねえの。死ぬまでずっと寝てりゃいいんだから。」
女は心が騒ついた。何となく胸の辺りを押さえて、わざとらしく苦しげな表情をしてみる。
「おい、どうした。」
「ごめん…私、ちょっと気持ち悪くなっちゃった。」
「そっか…もう出るか?」
「うん。」
本当は然程何も感じてはいなかった。ただ、悔しいような、許し難いようなものを感じた。この醜い死にかけの中年男が、悲劇の主人公のように居座っていることが堪らなく恨めしかった。酷い目に遭わされたのは私なのに。軽蔑するような視線を投げかけてから、二人は部屋を出た。
数年の後、この男女は結婚して子供を作る。しかし子育てに巨額の金が掛かることを恐れた男が他に女を作って蒸発し、女は終に気が狂って産んだばかりの子供も殺してしまうのだが、これは余談である。
最後の来訪者は一人の女だった。その女が病院に来たとき、受付から話を聞いた医師は酷く驚いた。女は、俗世に疎いこの医師ですら名前を知っている高名な芸術家であったのである。医師は休憩の時間に急いで男の病棟に赴き、女に挨拶した。整った顔立ちは目を引いたが、それ以上に年齢を推させない不思議な艶やかさが第一印象だった。黄色いワンピースに身を包み、装飾品は殆ど付けていない。だが、その人を見透かしたような視線は、やはり普通の人間とは思えない強さを孕んでいた。
(これが、芸術家の目って奴だろうか。)
一体、どういうご関係なのですかと男が訊くと、女は答えた。
「この人は昔の恋人よ。私が美大にいた頃のね。」
よく通る、迷いのない声。浮かんだ言葉の一つ一つを揺るぎない確信を持って発しているような声だった。
それでさらに度肝を抜かれ、立て続けにこう尋ねた。
「じゃあ―さんも、絵を描かれたりしたんでしょうか。」
「いいえ。この人は物理科よ。この人は小説は大好きだったけど、絵画には興味が無かったから、私が絵を描いてることも知らないんじゃないかしら。」
そんなことがあるのか。医師は一瞬疑問に囚われたが、すぐに論理的解決に至った。
(ああそうか、偽名で売れてるからか。この調子だとメディアには碌に顔を出していないんだろう。)
「元恋人、ということはずっと昔に別れなさったんですね。」
「そうね。顔を見るのも二十数年振りだわ。」
「それでも今いらっしゃったんですね。」
「ねぇ。医者ってのはみんなそんなに野暮なのかしら。」
「あ…、これは大変失礼しました。」
「ま、いいわ。…少し外してくださる?私、最後にこの人と話しておきたいの。」
「え、ええ勿論。失礼致します。」
女は手をひらひらと振って応じた。意識のない人間と何を話すというのか。
(どこまでも掴みどころのないお方だ。)
医師はそう思いながら部屋を出て行った。
「…久しぶりね。」
「………。」
「何で私がここにいるのかって?……君の会社のとこの子が、私の知り合いでね。その子に色々聞いてたの。そしたら君がとうとう死ぬって聞いたから、つい来ちゃったわ。」
女の感覚は、喋り出すほどに、学生だった頃のように戻っていく。自らの中に燃え盛る強烈な炎を、強い信念のもとに世界に見せつけてきた女は、この数十年来外向き用に作り上げた個性が崩れることは殆どなかった。しかし、その強い炎も、この男の前では小さな子猫のようにおとなしくなってしまうのだった。男は終ぞ知ることはなかったが、この女は、男が愛する以上に激しくこの男に恋に落ちていたのである。
「やっぱり、私の言う通りだったわね。君は生きるのが下手だって。」
そして若かりし頃の女は、愛する男という、幸福で耽美的な毒に自らの情熱が侵されるのを恐れて、そして捨てた。
「君を捨てたのは、とても非道いことだって分かってるわ。でも、私みたいな屑に恋しちゃった君だって、自業自得よ。」
そう言いながら、女は鞄から写生紙と鉛筆を取り出した。世間から稀代の天才やら奇人やら言われているこの芸術家の目にも、男の姿は美術品のようにただそこにあった。しかしこの女の感情の帰結は涙ではなく、絵に現れた。その方が的確に伝わると思ったからである。
数時間かけて、女は病院の寝台で眠りにつく男の姿を悉く描写してみせた。それは理想的な写実主義に則っていながら、それ以上に人を呑み込む力のある素晴らしい出来栄えだったが、女はそれを誰にも見せる気はなかった。自分が死んだ時に一緒に焼いてもらおうと、ただそれだけのために逸品を仕上げてみせたのである。
女は描き上がった絵を仕舞い、椅子から立ち上がって男の頬にそっと手を触れる。見知らぬものに触れる子供のように慎重に。女はこの男以外の手を握ったことがない。手の甲で触れてから、今度は手の平で。
仕上げに自らの顔を、すっかり痩せてしまった男の顔に近づける。既に死人の臭いがしていた。
「それじゃあ、おやすみね。」
私の最も愛しい人——。
それが、男の最後の面会だった。




