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憧盲  作者: 杜隯 爐
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羊水で出来た湖の浅いところから浮かび上がるように、男は目を覚ました。寝不足の頭痛を感じつつ、肩から腕、そして指に至るまで神経に気を配って動かす。上半身はまだましだった。多分下半身はしばらく言うことを聞かない。

(暖房がついて温度が上がれば、感覚も戻ってくるだろう。)


男は都心のある大きな駅の中に居た。周りには男と同じように、ただ帰る場所がないだけの人間がちらほら、慣れた寒さをやり過ごすように眠っている。あの医師との約束迄あと一日である。明日になれば、男は俗世を全て忘れて白い寝台で眠ることができる。あんなに憎かった病院の寝台が男は恋しかった。

男があの棲家を追い出されたのは、言うまでもなく近隣の住民からの苦情を一身に浴びた事で、警察沙汰にしない代わりに出ていけと言う次第だった。唯一男の事情を知る大家は何とか庇おうとしたが、男は別に宿を借りるから良いと言って出て行ってしまった。

もっと早く病院へ入院することも出来たのだろうが、男は我が身に残るたった一つの守るべき約束を破ることがとても癪だった。もう約束を守る相手も、一人しかいないのだ。なので男はまた意地を張って、何とか残り六日間は生き延びてやろうと決めた。

そうはいったものの、男は端から宿屋に泊まって温々と人生を終える気は無かった。『死にたくない。』初めてそれを口にして、いよいよ終焉との対決に臨む男は、命惜しさとは全く裏腹に、最後まで自らを酷な目に合わせてやりたいという願望が膨らませていた。この期に及んでも、やはり辛く、惨めで美しい小説のような幻想に引っ張られていたのである。

最初の一日は公園で過ごしてみた。が、真冬のそれは生身の人間には度し難い厳しさであったので、その日のうちに辞めてしまった。そうして男は駅に辿り着いたが、中々悪いものではなかった。外に比べれば楽園のように暖かかったし、雨風も凌げた。朝昼夜と、仕事や学校に向かう人々の群れを、途切れ途切れの意識ながらに見つめていた。若かった頃は、学校や会社の帰りに虚な眼で座り込む彼らに軽蔑の視線を向けていた男だが、こうなってしまうと金も身寄りもない中でただ生きてゆく道を模索して、そして尚生き延びている彼等を先人として尊敬し始めてもいた。


不衛生に耐性のない男の姿は、一見ホームレスには見えなかった。なにぶん金は持っているので、食べ物は買えたし、銭湯や有料洗濯機を使っていたので、着ているシャツや下着も綺麗なままであった。しかしそれこそが、男を自分が何か(まが)い物の落伍者であるような感じに苛み続けた。いつまで経ってもどっちつかずで、どう表現しても何者にもなれないこの状況に、男は虚しさを感じ始めていた。

(今日が、娑婆(しゃば)で過ごす最後の日か。)

結局俺は何がしたかったんだ。男は自問しながらおとつい買ったブランケットを引き被る。

男の意識はもう、ひねもす微睡(まどろ)んでいるような頼りないものになっていた。起きることも、寝ることも、生きていることも、死んでいることも、何もかもが同じような感覚の中で男は海月(くらげ)のように揺られている。


はっと、男は気がついた。しかし目覚めたのではない。気づくとそこは前も後ろも真っ白な世界で、その白の絶妙な表情の違いだけが世界の形を抽象的に射影していた。直ぐに男はそれが夢の類だと分かった。実際に起きていることだったら、こんなに思考は澄んでいないし、足もこんなに自由に動かない。

目には見えない壁や、障害物を慎重に(かわ)しながら男は白い世界を探索した。時々、前触れなく男の身体に衝撃が走る。誰か他の人間にぶつかられた感覚とそっくりであるが、衝撃の方を見てもただ白い靄が掛かっているだけで何も居ない。遠くで雑音が鳴っているのが聞こえる。時々遠雷のようにおどろおどろしい声のようなものも聞こえた。不愉快な叫び声のようでもある。

しばらく歩いてみると、男はようやく知識にある物体に出会った。白く覆われた世界にぽつんと改札が立っている。暖かさと抽象でできた光景の中にたった一人で、黒や鉄色の無機質な番人が佇んでいるのはえもいわれぬ違和感である。しかし男は予め決めていたことのように、躊躇いなく改札を通った。

また白い世界が続く、何処かを上がったり下がったり。途中には駅にある黄色い点字ブロックも見つけて、その通りに進むと楽だった。

(結局ここはなんなのだ。本当に白昼夢の中なんだろうか。いや、もしかすると天国かもしれないな。そう言われても頷きそうな風格がある。)

天国にも改札があるものなんだな。男はその手の皮肉は嫌いではなかった。


本当に天国だと信じかけた時、突然信じられないほど大きい音に驚かされて男は現の世界に取り戻された。落差で頭は殴られたように重く、酷い吐き気がした。

目眩がして近くの壁に寄りかかる。

男は本当にふらふらと立ち歩いていたのだ。殆ど意識のない状態で、夢遊病のように。

先程の音は、構内に進入した電車が男に警笛を鳴らしたものだったらしい。

とうに壊れ始めている男の脳は、もうまともな処理を果たさなくなった。視界に映るものはぼやけ、色は混ざり、周りの人間の視線が本物の針のように男を刺しゆく。感覚の飽和と緊張感で男の汗腺が開き、じわじわと全身が湿ってゆく。右も左もわからなくなった脳が思いつく限りの髄液(ホルモン)を男の身体に出させる。血流が速くなり、身体が強張ったり、熱くなったり、かと思えば急に冷たくなったりした。体内の均衡(バランス)が崩れる。男は自分の、男性たる部分が抑えようもなく膨張してゆくのを感じた。

脳がぐるぐると音を立てるのが聞こえるかと思うくらい、知る限りの感情と、思いつく限りの記憶が入れ違いに入っては消えてゆく。『—ちゃん。学校でお友達できた?』『なあ、今日帰りに俺の家に——。』『—君。高校はどうするんだい。』『お前なんか、居ても居なくても変わらない屑だろうが。』『大丈夫。何とかなるさ。』『てめぇ、この野郎!』『俺、大人になったらさ——。』『君、私のこと好きなの?』『自分の金は自分で使え。母さんはちゃんと俺が——。』『先輩、ちょっとこれ教えて欲しいんですけど。』『君、本当に使えないな。』『またいつか一緒に——。』『命を惜しんでくれよ。』

未来を語り合ったり、憎んだり、愛したり、教えたり、教えられたり。男はめまぐるしい焦燥感の中で人生の復習をしていた。

(ああ、本当に消えてしまう。彼らの中に、俺の存在は残るのだろうか。)


不意に目の前を、会社帰りの若い女が通った。何となく意識の内に入ってきたのだ。

(ああ、死ぬ。本当に女も知らないまま、俺は死んでしまう。)


「えっ。」

「あ。」


内なる究極の苦しみにもがいて、男は咄嗟(とっさ)にその女の腕を掴んでいた。

(しまった——。)

音が消えて、時間の流れが遅くなる。下着の中に雪玉を入れられたように男は()っとした。そして、怖っとしたのは勿論男だけではない。


「何ですか!離してください!誰か!」

「あ……。」


違うんだ、男は弁明しようとしたが言葉が出ず、代わりに後ろから強い衝撃を受けて倒れ込む。


「おいおっさん!何してんだあんた!」


大学生くらいの金髪の男が、腕を掴んだままの男を羽交締めにして、それから肩を極めて床に押さえつけた。


「大丈夫ですか。」

「き、急にこの人が掴んできたんです。」

「取り敢えず警察呼びましょう、警察。」


(違うんだ。)

男は声を出そうとしたが、胸を押さえつけられて苦しいだけである。極められた方の反対の肩越しに、自分を取り押さえている若者の表情を見る。

若者の顔は、困っている女性を暴漢から救い、力で物事を解決する快感に酔い痴れていた。興奮で赤らんだ頬に、口角は上がっている。

(いや、違くないのか。)

その表情を見た途端に、男は諦めがついた。


「動くな!」


興奮しすぎて加減が分からないのか、男は自分のどこかの骨が折れる音を聞いた。その鈍い痛みさえも、掠れた意識の一枚外側にあるようだった。

(医者との約束も、守れなかったな。結局何も出来はしなかった。)

意識が無くなる直前、男は誓った。

(もし、来世があったら。生まれ変わることが出来たなら、その時こそ自殺しよう。きっと、見事に死んで見せよう。)

反対のプラットホームに転がった空き缶をきっ、と睨み付けてから、男は意識を失った。


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