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憧盲  作者: 杜隯 爐
6/9

「―さん。申し上げるのも難ですけど、そろそろ日常生活に支障が出始めているのではないですか。」


男はまた週に一度の診察を受けていた。余命宣告を受けてから三ヶ月ほど経った。この頃は、立てばふらふらしていよいよ歩くのも辛くなり始め、まともな意識を保っている時間は起きている時間の半分以上あるかないかという所であった。それでも男が入院を拒み続けていたのは、俗世への未練と、人間としての最後の抵抗からであろうか。


「…まあ、出てないと言えば嘘になります。」

「勿論、最終的には御自身の判断になります。ですが、―さんの御病気はその…これから進行が早まることが予想されますので。」

「何だか脅されているみたいですね。」

「あ、いえ決してそういう(つも)りでは。ただ、病状を正しく理解していただいて、最大限―さんの後悔のない選択を…、―さん。どうされましたか。」

「……え。あ、ああ、すみません。またぼーっとしちゃって。」

「…そうですか。」


(潮時だな。)

男は頭のどこかで、その声を聞いた。


「じゃあ、あと一週間。」

「はい。」

「あと一週間だけ、うちに居させてください。その間に、色々とけりを着けますから。そしたら、もう病院に入りますから。それしか、無いんですよね。」

「介護をしてくれる方や、最期まで…面倒を見てくれる方がいらっしゃるならまた別ですが、―さんの場合はお一人だと言うことなので。幸い、我々の医院ではそういった方を受け入れるケースが過去に何件かありまして…、―さん。聞いておられますか。」

「……あ、ああ。そうですか。」

「…あと、一週間ですね。」

「はい。」

「私がとやかく言える立場でないことは承知ですが…どうか、悔いの残らないように。」

「…はい。」


家に帰ると、時刻は昼を過ぎた辺りである。男は腹が減るという感覚さえすっかり鈍ってしまったので昼食は食べない。

(朝の俺も、どうせ何も食っていないのだろうから夜には腹の虫が鳴くだろう。そうしたら何かしら食ってやりゃいい。)

男は身の回りの品を整理する算段を立てようと決めた。貸家の大家にも話を通して、一週間の後にはもう戻って来ないことを伝え、処分に困った家財道具は一切引き払って貰うことにした。男は先ず金目の物や資産に関わる物から処分を始めた。若い頃先輩に勧められて買わされた証券株は全て売り払った。酷く暴落していたがもうどうでもよかった。

(俺の貯めた金はどうなるんだ。)

ふと男は考えた。

(ああ、そうか全部国に掻っ攫われるのか。)

男は自分の親が死んだ時の転末を思い出して妙に納得した。納得したと思ったら、今度は不快さが沸々と湧いてきた。

(税金を払うのは構わないが、俺の人生そのもののようなこの金が、顔も知らないやつの腹を肥やすと思うと酷く屈辱的だな。下手したら官僚の財布に入るかも分からん。…そうだ。Aが酔っ払い(つい)でに俺の葬式の喪主をやるとか言っていたな。何かにこじつけてあいつに金をくれてやろう。あいつの子供も確かこれから金がかかる年頃だろうし。それか、どこかの慈善団体に寄付するのも良かろう。)

男は、遺産を譲る相手がいないというのも気が楽でいい物だなと思う反面、自分が稼いできたものの全てが、未来という溶媒に溶けて自分の存在が残らない寂しさにも襲われた。

(これだから、職人や芸術家というものが羨ましくて仕方がない。奴らはたとえ飢え死んでも、この世界に、或いは神に覚えていて貰えるのだから。)

一時期は小説家を目指そうと意気込んだこともあったが、自分の筆から、その心から出てくるものは悉く独りよがりで悪寒が走るような醜汚に過ぎなかったので、結局何も書き上げないまま筆を折って了った。


その後も男は整頓作業を続けた。家にあるものを引っ張り出してきては、捨ててしまうものと、誰か譲り渡すような心当たりのあるものとに分ける。社員旅行で行った北海道で買った持ち手が鮭のマグカップ。大学生の頃に好きだったバンドのサイン入りアルバム。彼女からの唯一の贈り物である掌程サイズの砂時計。

(何であいつはこれをくれたんだっけ。ああ、『君は、時間の流れと生きるのが下手だから』って皮肉でふざけて買ってくれたんだったか。俺も碌な男じゃないが、あいつも大概だろう。)

それでも男はその女が好きだった。この理屈と理想に煩い男が、人生で唯一それを恋と呼ぶことを許すくらいには。今思えば、あれこそ当に一生の不覚だったのだ。


思い出の品を掘り起こしながら、男の記憶は加速度的に過去を辿ってゆく。これから全て忘れてしまう愛しい思い出たちに、優しく布団を掛けて行くように。

男は意識を保ち続けることが難しくなってから、こうやって記憶を弔って行く時間を慈しむようになっていた。男は自分が様々なことに興味が薄い人間だと決め打っていただけに、思いの外始末をつける思い出の多いことに少し驚いてもいた。

(俺は以外と、人間らしい顔をして生きていたのかなあ。)


大方仕分けたかな、と男は少し満足した。そして壁に聳える身長より少し高い本棚を眺める。

(こいつが厄介だな。さて、どうしたものか。)

小説を集める趣味のあった男の本棚は、一人暮らしの会社員の本棚にしては多過ぎる程、種類の枠を超えて様々な本が並べてある。本達は背表紙を男に向けて黙りこくっている。漱石や三島などの純文学から、今年出たばかりの大衆文学に漫画、果ては結局殆ど読まず仕舞いの万葉集まで、固唾を飲んで男の処遇を見守っていた。

(捨てることだけは叶わんな。俺は小説というものに、心から敬服しているんだ。小説が今の俺の血で肉だ。ここにいる子達は、俺にとっても子供や親同然だ。)

長いこと悩んだ挙句、結局Aに頼んで出身の中学校に寄付してもらうことにした。今の子供は小説なんぞ読まないだろうが、他の本と一所にあれば寂しくはないだろうという腹だった。

とその時ぐう、と音がして、男はやっと自分の空腹に気がついた。もう手が震えてしまって包丁を持つのも心許ないので男は外に食べに行くことにした。暖かい格好に着替えて、部屋の電気を消す。

(後のことは、取り敢えず帰ってきてから決めよう。)

男は冷え切った冬空の中を、力の入らない足を杖で突きながらゆっくりと歩いて行く。



最寄りの駅の方へと歩き始めてすぐ、男は人通りがいつもより多いことに気付いた。

(ああ、そうか今日は十二月の二十四日か。)

男の住む駅前の広場にはご丁寧に莫迦でかい、赤や白や金で飾り立てられた樅木(もみのき)まであり、街には若そうな男女が蔓延っている。これもまた、生来この男には共感できない風習の一つだったのだ。

(あの樹も可哀想に。あれじゃあ眩しくて仕方がないだろう。)

男はこういう、盲目的でありながらも風潮に傾倒するような恋愛を軽蔑していた。男の考えでは、恋愛がどうあるべきかを考えた時点で、それはもう深く美しい愛にはなり得なかった。だが今、杖を突いて歩きながら、そういう人間の表情を見ていると、どうしても今まで抱いていたような嫌悪が湧いてこなかった。

そうすると、ずっと恐れていたある結論が、段々と男の確信に変わっていった。

(ああ、俺は(ひが)んでたんだな。やっぱり芯から性根が捻じ曲がってたんだ。)

男自身が物事を受動的に、しかし深く考え込む性格なのは勿論あったのだろう。だが男は自分の中に、やはりそれだけではない幼さ——玩具の一つを取られた幼児が、拗ねて全て投げ出してしまうような——をしかと見つけて了ったのである。今、終わりを目の前にして何もかも許そうという気持ちになってから、他人の恋愛を批評する人間の惨めさをようやく客観視したのだ。

『そんなのだからお前はいつまで経っても童貞なんだ。』Aの言葉が頭を過ぎる。

(そうだな。その通りだ。俺は、俺以外を愛せなかったんだ。全部他人のせいにしてたんだろう。)

目の前の男女の熱い抱擁を前にして、なったこともない父親のような虚しさと優しさを抱きながら、男はクリスマスツリーの眩い光から目を背けた。



それからまた一時間程して男は家に帰ってきた。結局行こうと思っていた店は余りに混んでいたので、他に店を探す気力も失せてしまった。一度気持ちが沈んだら、食欲も何処かへ落としてしまった。どうしようもない帰り道にコンビニで酒だけを買った。

大した距離は歩いていない筈なのに、全身が砂袋のようにやるせない。精神的にも、身体的にもかなり疲弊してきていた。とりわけ若い人間の情動を目の当たりにしたのが不味かった。男は自分が更に鋭敏に、感傷的になっているのを感じ取っていた。男は部屋の電気も点けないまま、缶を乱雑に開けて感情を抑えつけるように流し込む。一片に入ってきたアルコールの所為か、はたまた心の機微に反応してか、生暖かい雫がぽたぽたと床に落ちる。

(だめだだめだ。今さら泣き喚いたって何にもならない。近所迷惑だしな。そうだ、本の整理の続きをしよう。病院に持って行く本でも選ぼうか。)

ふらふら、と男は本棚に寄り手を伸ばす。すると足が縺れて本棚に倒れかかってしまった。その衝撃で一冊、硬い背表紙の本が音を立てて落ちてきた。男はそれを拾い上げる。よろめきながらスイッチを探して部屋の電気を点ける。


『アルバム』


それは男の母親が最初に作った、男の幼少期からの写真などが綴じてあるもので、男は最近では自分の旅先で撮った写真なんかも入れたりしていた。

男は何とはなしに、ただぺらぺらと、何枚か(めく)った。

自分の赤子の頃の写真。小学校の入学式。Aとのツーショット。高校の卒業式。大学の入学式。初めてこの部屋を訪れた日。


男は電気を消した。

ふうー、と長い長いため息を吐く。それでも抑えきれなかった。


「ちくしょう!」


男は叫びながら、持っていたアルバムをリビングの反対側、窓の方に力一杯投げつけた。


「ああ、あああ、ああああああ!!」


男は頭を掻きむしり、何かを吐き戻すような真似をして、膝から崩れ落ちる。ついに限界を超えた憎悪が、男から理性を奪った。


「あああ!いやだ!いやだああ!」


男は細くなった腕で、何度も、何度も拳で壁を叩きつける。鈍く響くような痛みが快感となって脳に染み渡って行くのを男は感じた。


「いやだ!死にたくない!うわ、うわああ!」


しばらくして、叩きつける右手の感覚がなくなってから、男は今度は急に黙った。


「……………。」


男がどれだけ大声を出しても、夜は明けない。誰も、男が死ぬことに興味なんぞない。気持ちのいい痛みも、絶望も、自傷行為も、全部惨めな中年の自慰でしかないのだ。


「いやだ。いやだよぉ。」


ただただ、死にたくなかった。


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