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憧盲  作者: 杜隯 爐
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結局面会時間を一時間ほど超えてから、男は施設を後にした。未だ長い夏の日といえども、流石に待ちくたびれた様に長い影を引いている。男は疲労に見舞われて、差し当たり今日の宿を探すのも面倒になってきていた。ただでさえ怠い身体にさらに重石(おもし)を乗せたようで、足は浅瀬を踏み抜いたかのように重く、頭は理知を欠いたように鈍かった。ようやっとの思いで最寄りの駅に辿り着き、そこで電車賃が足りていないことに気づく。生憎現金は手元にない。

(金を下ろさないと。銀行は…。)

男は人気のない駅前の長椅子に座り込み項垂れた。またぼう、として意識が遠のいてゆく。雲よりも仄白(ほのじろ)く、霧よりも濃いものが男を飲み込んでゆく。と、その霞んだ意識の端が揺らいだように、質量のある視線が男の意識に凭れかける。遠くから男を睨みつける斜陽に目を(まばた)かせながら、男は視線のある方へ側向く。そこには時を経て相貌が変わっていながらも、次に瞬きをするよりも疾くそれと認められる面影を携えた旧友のAが立ち尽くしていた。


「―か。―じゃないか。」

「やあ。」

「一体いつ帰ってきたんだ。」

「朝。」

「なんだ薄情だな。メールの一つでもしてくれりゃあ、そっちまで行ってやったものを。」

「そんな手間はかけさせられんさ。」

「俺がそれを手間だと思うのか。」

「…いや。」


本当は少し気不味(きまず)いだけであった。このAという友人は男にとって、学生の頃から唯一この田舎で馬が合い、物の見方も似通ったような稀有で貴重な存在であった。男はそんな人間に、冬枯れにとうとう一枚残った葉のように惨めな自分を見られたくなかった。Aと男は考え方も背格好も似ていたが、全く違うところと言えば人付き合いの達者か否かである。Aは話せば話すほど饒舌になる世渡り上手で、幼い時から誰にでも友好的でまた誰からも好かれた。男はそれが恨めしくもあったが、Aの開放的で飾り気のない性格を悪く思うことはなかった。


「…その身体じゃあ、つらいだろう。」

「おっ死ぬまでの辛抱さ。だが…眠れないというのがこんなに苦しいとはな。」

「そりゃそうだろう。俺なんか一日でも眠れなかった日は、次の日の仕事は地獄を見るよ。」

「俺は仕事も辞めたからな。」

「……。」


男は自分がこれまで以上に弱気になっているのを感じていた。誰にも言わずただ募らせていた不安が、目の前の友を前にして新雪のようにとろとろと溶けて出てしまうようだった。

(いや、これ以上はぼろを出すまい。)


「まあ、精々死ぬまで生きてみるよ。最後に何か病院で趣味でも見つけるさ。」

「……今日、帰るのか。」

「いや、明日の朝に。」

「じゃあ、今日は呑まんか。」

「……いいだろ。」


(つい今ぼろを出すまいと誓ったのに、酒を入れたら何を言い出すかわかったものではないな。)

男は綺麗に断れない自分を嘆いた。それでも最後に自分の愚痴を聞いてもらいたいという欲に抗えなかったのだ。自らの血と涙では拭いきれない今際(いまわ)の呪いの影を、誰かに落とす業を背負ってでも。


それから二人は電車で移動し、男の宿泊の都合も考えて少しでも栄えている中継(なかつぎ)駅下の繁華街、そのうちのある寂れた居酒屋に入った。しばらく呑んでいると、やはり肝臓の弱い男はみるみるうちに()っと赤らんでいった。


「そういやお前、俺の事をここの奴らに言い触らしたらしいな。」

「言い触らしたというほどでもないがな。」

「しらばっくれるなよ。あの後顔も忘れたような奴らから雨霰(あめあられ)と連絡が来たんだ。」

「みんな心配してるんだよ。」

「何が心配なものか。あいつらなんて言ったと思う。俺の遺産をそっくり寄越せだとさ。この惨めな爺手前の男の遺産を。」

「そんな…。それは、すまなかった。」

「あ…いや、いいんだ。悪かった。つい興奮して。」

「いや。」


それからさらに二時間ほど酒に耽ると、Aの頰にも、薄くはない紅が差してきた。


「大体お前、何でもっと早くに俺を頼らないんだ。」

「それは、これと言った理由はないが…。」

「何でお前はそんなに落ち着いてるんだ。死ぬのが怖くないのか。」

「わからん。お袋も死んだし、親父ももう死ぬ。…俺の先生や尊敬する人も皆死んだ。結局同じ所へ行くだけさ。お前もいずれ死んで呉れるんだから、寂しくはないよ。」

「そうじゃない。爺手前と言ったがお前はまだ若いだろう。俺らの歳で結婚する人間もざらだ。」

「それこそ意味のない事だ。俺はもう死ぬ。それは変わらない。眠りは毎日浅くなるし、意識がはっきりしてる時間もどんどん短くなってる。俺はもう死ぬんだ。だったら綺麗に死ぬのが人間の底力じゃないのか。」

「そんな事を言わないで呉れ。頼むから。お前から連絡を貰った時俺がどんな気持ちだったと思う。せめて、俺の前で泣くくらいしてくれよ。この先も生きながらえなければならない俺が言うのも烏滸(おこ)がましい話だが、もっと命を惜しんで呉れよ。」


それを聞いて男はとうとう我慢できなくなった。

ふん、と鼻で嗤う。


「お前に何が分かる。嫁も子供もあって、目に映る全てに愛されるお前に何が分かるもんか。」

「そんなのだから、結局お前は死ぬ(まで)童貞なんじゃないか。いつまでも青臭い意地を張りやがって。」


お互いすっかり酔いが回って、自分の言葉を己で制するより先に、ただ思うこと思わないことを口走る。


「上等じゃないか。俺は女も知らず、罪も犯さず、何にも穢されないままあの世へ行けるんだ。寺の坊主だって羨ましいだろうよ。」

「やめろ!…もうやめてくれ。」

「……。」

「なんで…何で、お前が死ななくちゃいけないんだよ…。」


Aが小さく呟いたそれを聞いて了ったら、男はもう何も言葉にはできなかった。暫く俯いてから、低く、震えた声で男は独り言のように言う。


「…俺は。」


つう、と破滅した情緒の吹き(こぼ)れてしまった分が、紅潮を極めた男の目尻から頬にかけて伝わる。


「……。」

「俺は、どうすれば良かったんだろうな。」


答えは決まっている。どうすることも出来なかった。ただ一人の男が、予め決まっていた不治の病になり、産まれてきたことも幻想であったかのように無に帰る。世界から見れば、これはそう言うことである。


「なあ、覚えてるか。」


男は続ける。


「……。」

「中学生の時、お前に人生の目標を聞かれて。」

「ああ、あの時の。」

「俺が何て言ったか、覚えてるか。」

「忘れないよ。三十年経っても。お前、『本の主人公みたいに、綺麗に死んでみたい』って言ったんだぜ。十三歳かそこらの餓鬼がだ。あの時のお前の顔は忘れないよ。」

「そうだ。俺はずっと、多分最初から何かに飽きてて、俺にとっての美しい景色は死ぬことの中にしかなかったんだ。だから、だから俺は実直な生というものを等閑(なおざり)にしてしまったんだ。ただ一人の人間の分際で。」

「ずっと死にたかったのか。」

「生きていたくなかったんだ。ただ命が尽きるのを待つだけだった。それが本当の正しい生き方だと、心の底から思ってたんだ。なんて非道い傲慢だ。」

「……。」

「だからこれは罰なんだ。取るに足りない、ただ産まれてきただけの分際で命を冒涜して、あの綺麗な死に手を伸ばした愚か者への天罰だ。」


男の口は酔いが覚めたように饒舌になっていた。しかしとうとう感極まったのか、一言出だすたびに涙が溢れる。誰にも見せずに逝く筈だった涙が。


「お前はもう、救われないのか。」

「わからない。だけれど俺はもう、俺を赦すことができない。誰でもいい、俺の命を、その有様をどうか赦してほしい。誰かが赦してくれなければ、俺は死ぬ前に狂ってしまう。狂って死ぬのは厭だ。」

「じゃあ俺が赦すよ。お前のお袋さんも親父さんも、愛する人も子供も先生も兄弟もいないのなら、力不足かもわからないけど、俺が赦すよ。」


男は言葉が出てこないように、黙って涙を流しながら何度も小さく頷いた。

(俺が最後に出て行く時の親父も、本当はこんな気持ちだったんだろうか。)

また薄れ始めた意識の中で、男は別れ際の父親の姿を思い出した。


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