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憧盲  作者: 杜隯 爐
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男は東海道新幹線に乗って西へと向かっていた。体調が僅かに回復してから、男は家に籠り続けているうちに焦燥感だけが募っていたので、兎に角どこか遠いところへ出掛けてしまいたかった。男はそもそも逃避行のように景勝地を巡るのが好かない(たち)だったので、どこか行くべきところを探しても、この限られた残り時間に訪れるべき価値のあるような場所は思いつかないまま、(いたづら)に過ごしていた。

唯一つだけ、行っておかなくてはならないと、心のどこかでラムネの硝子玉(ビー玉)のように引っかかっていたのは、地元への帰省、母の墓参りだった。男は墓を立てたばかりで無縁墓(むえんはか)にしてしまう後ろめたさと、己の不甲斐なさを嘆いた。

(あの世でも母ちゃんに謝るんだなあ。)

男は結局のところ、何かまともな孝行をした気がしないまま八千代の別れに置いてけぼりを喰らったのだ。

そういう入り組んだ罪悪感から男はせめて最後にでも、常世にいる母に現世からの挨拶をしてやりたいと

思ったのである。実のところ、例の女の一件から、男は自らの地元については考えるだけでも億劫になりがちだったのだが、母に会いに行く為と思うと、不思議と新幹線の乗車券を買うのにも抵抗がなかった。


未だに衰えぬ夏のたけなわに、鬱鬱しい太陽光線が降り注ぐ中で、男は在来線に乗り換えて小一時間ほど揺られ、愈愈(いよいよ)といった思いで数年ぶりに故郷へと降り立った。移動疲れから伸びをすると、ふらっと頭と足に来てよろけてしまった。眠りは日に日に浅くなってゆき、男はもう起きているのも眠っているのも変わらないような気がしていた。

自分の知らない間に建った新しい店や、碌に使う人もいない癖に駐車場になってしまった嘗ての公園やらを見て回りながら、男はまず生家のあった場所へと向かった。今そこにあるのは柵で囲まれた、絵に描いたような空き地である。聞いたところでは、次の建設予定は既に建っているという。男の父と母との思い出の中だけにある家は、男の母が死ぬ直前に親族連中に諸々浚われて、あとは税金やらを払ってしまったら殆ど何一つ(のこ)らなかった。

(ここにあったんだ。昔の俺の全てが。)

男は自分の人生が半分くらい削り取られたような心地がして、呆然と立ち尽くしていた。過去を奪われ、未来を奪われた男。では今の自分とは一体何なのか。果たして自分は本当に生きてきたのか。子供もなく、自分の存在の鱗片(りんへん)さえも未来永劫残ることがない虚しさを抱えたまま、男はその場を去った。


その足で、男は母の眠る墓地へと向かった。その墓地はこの細やかな田舎で最も名のある寺にあって、母親の急逝に沈んでいた男が金目を厭わずに立てたものだった。

「母ちゃん。会いに来たよ。」

買ってきた石竹花(なでしこ)を花筒に添えながら話しかける。四十そこそこの男が独りで世話をしながら墓石に話しかける様は、傍目には何か潮垂(しほた)れがちで居た堪れないものを感じさせただろう。しかし男自身は至って真面目で、しかもこの激しい残暑の中で見つけた木陰に居るような涼やかな心持ちだった。母上の御前というのもあったが、元々男は死者との対話を重んじる性質の人間だったのである。手桶に水を汲んで墓石を磨き、労わるように手拭いで拭いてゆく。

(どうせこれが最後の世話なんだから、綺麗にしてやらんとなあ。いやはや、果たして親戚の人間達はここへ見舞いに来るのだろうか。)

男はあまり期待していなかった。男の母方の家系はか細く、母方の叔父のところも子供がいないのでこの墓を護ってくれる余裕もないだろうし、何より年寄りに自分の死後のことを頼むのは気が引けた。

(もしや、遺伝性だというこの病気が関わっているのではなかろうか。子供がこの病で苦しむのが嫌で、血を絶やそうとしたんだろうか。)

そう思うと、式を挙げてからの母と、諸々の事情を知った父が、十年以上悩んだ末の決断として自分を産むに至った議論と感情の曲折がおのずから想像されて、結局自分に命を与えてくれた恩と、このような宿命の中に産み落とされた恨めしさとが一緒になって男を襲った。だんだんと男は、畢竟(ひっきょう)自分が死にたいのか、死にたくないのか分からなくなってきた。

(じゃあ、また向こうでね。)

男は柄杓(ひしゃく)で墓石を清めてから、渋い顔をしながら祈るように手を合わせる。返事は返ってこない。死者は話を聴いてくれるけれども、決して応えてはくれない。


住職に少しばかり挨拶をしてから男は寺を後にし、ふぅーっと長い息をついた。一先ずやるべきことは済ませてしまった。この後はどうするのか。

(……やっぱり行こうか。)

何処へ行くというのか。男は自問した。

(親父、もう死ぬのかな。)

男の父親の魂もまた、未だこの田舎に在る。しかし母親とは違い、その肉体は滅んではいない。何の連絡も受けていないとは、そういうことである。男の父親は地元の介護施設に預けられているのである。男は余命宣告を受けてから、あえて父親のことについては考えないようにしていた。勿論、何度か会いに行こうと思ったことはあったが、その度に男の中の臆病や億劫が(いき)り立って男を引き止めた。

(そうは言ってもここまで来てしまったのだ。最後に顔を見せるくらいはするのが人の子の役割だろう。)

躊躇いながらも、男はこういう時に限って自分を監視して咎める義務感というものに引き摺られながら、その足を父親のいる施設へと向けていた。


「―さんの御面会ですね。こちらへどうぞ。」

「はい。」


男は看護師擬(もどき)のような服に身を包んだ施設職員の女にに連れられて父親の部屋を訪れた。年は男の少し上くらいだろうか。化粧が薄いのと、親しんだ施設の居住者が死んでも、その日のうちに切り替えてしまいそうなさばさばとした口調が男は気に入った。


「こちらですね。―さーん、面会ですよ。ほら、息子さんが来てくれたんですよ。ねえ?」

職員の女がこちらを向いて笑いかける。男は特に言うべきことも見つからないまま、差し当たり微笑(ほほえみ)を作り黙って頷く。

「……あ、あ。」


傾斜のきついベッドの上で佇むその老人は、返事ともつかない呻き声をあげた。視線は職員の女の方に向いている。そちらの方は、まだ慣れたものとして認識しているらしい。


「じゃあ、何かご要望があったら呼んでください。一応、面会時間は十六時までになってますから、ごゆっくりどうぞ。」


ありがとうございます、と男が返すと職員の女は軽く会釈をしてから個室のドアを閉めて出て行った。


「……父ちゃん。」


老人は振り向かない。嘗て父だったもの。腕は骨が浮き出て頰は()け、外の陽光を眺める瞳は(うつろ)である。エアコンの駆動音だけが、今男と老人の空間を繋いでいる。男は刹那の間、そこに半年後の自分の姿をも見た。しかしそれは本当に一瞬で、男は何か込み上げてくるものを抑えながらもう一度声を掛ける。


「父ちゃん。」


ふっ、と意識を取り戻したようにに老人の瞳が動き、壊れかけの機械のように首が男の方へと向く。


「父ちゃん、俺がわかるかい。」

「…あ…あ…。」


老人は何かを吐き出すように苦しげに声を挙げる。何か思い出すのか、男は(わず)かに期待したが、すぐに打ち砕かれた。


「あ…だれ、だれやあ、おまえ。」

「……。」

「だれや、おまえ…お、お、おまえ、この……。」


老人の顔は次第に紅潮して、追い詰められた獣のように眉が吊り上がる。


「この…おまえ…ど、どうなるか、あ…ぐゎが、のもぬが…んだ!だれが!」


老人は錆びた頭と回らない口で、最後の力を振り絞って言葉にならないこれを絞り出す。男は自分が敵意を向けられていることだけは明瞭に感じ取れた。


「父ちゃん。」

「あぁあ!あっ…うぁあ。」

「俺、死ぬんよ。」

「あぁぁぁ!…やが…むぐ。」

「多分、父ちゃんより先に、俺死ぬんよ。」

「があ、が、ぎぬ…。」


男はそれから、何の言葉も出てこなかった。ただその代わりに、親に先立つ不孝の罰を受け入れるように、男は老人が疲れて眠ってしまうまで、彼の怒号を聴き続けた。


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