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憧盲  作者: 杜隯 爐
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起きた時の頭痛といったら、筆舌に尽くしがたい激痛であった。これが一体病気の症状なのか、昨日走った弊害なのか。それとも深い眠りの代償なのか。男は様々に思案したが、そのあまりにも無意味なことに飽きて、考えるのを辞めてしまった。

とても心細かった。幼い頃熱を出した時、母が側に居てくれた温かさの偉大なことを思い知った。

右から左から、脳細胞を(ひね)りあげられるような気持ち悪さが押し寄せる。その波に合わせて身体を(よじ)る。布団を押し退けた右足の指で空を掴み、すぐに無力感に襲われて虚しくその足を落とす。一思いに死のうかとも思った。だがそれは男が最も避けたい結果であり、思っただけですぐに否定した。決して自死が(いや)なのではなく、痛みから逃れるように死ぬことは、男にとって最悪の屈辱であった。最期は、受け入れるように死にたい。痛みの中でそれだけを想った。


その状態が午前中続いた。午後になって頭痛が引いてから、尚も正気を保っている人間の精神力に感心しつつ、また痛んだ時にいっそのこと狂ってしまうことが叶わないことを悟り男は戦慄した。


取り敢えず気を落ち着けようと、戸棚からコーヒー豆をとってミルに仕込み、欠伸をしながらハンドルを回し始める。ばり、ばり。最初の数粒が砕ける音が心地よく響く。先月カルディで買って補充しておいた好物のマンデリンは、あと三分の一程しかない。男はマンデリンの酸味がなく、苦味とコクの深い味、そして香辛料のような気高さをも感じさせる芳醇な香りを愛していた。

(気分が最悪な日のコーヒーは最高に美味いんだ。)


初めてこれを飲んだ時もそうだった。大学卒業を控えた秋、人生最初で最後の彼女と立ち寄った喫茶店。さして詳しくもない癖に名のあるコーヒーを頼んでみたくなって注文したのがマンデリンだった。やけに値が張る一杯だったので目に留まったのである。

穏やかな雰囲気は長続きしなかった。女は何の前触れも無く別れ話を切り出した。流石の男も動揺してしどろもどろに問うたが、まるで最初から男のことなど知らなかったかのようにそのまま彼女は店から出て行ってしまった。翌日には連絡先も消されていた。一体男の何が逆鱗に触れたのか、今でもはっきりと答えは出せていない。いや、本当はどこかで察してある部分もあるのだが、あまりに慢性的で、男のという人間そのものに関わるものだったから反射的に目を背け続けているのかもしれなかった。とにかく、その日若かりし頃の男は一年付き合った女性に捨てられたのだ。店の外は秋の長雨が景色を染めていた。陰鬱が男を歓迎しているようだった。

(やっぱり俺には向いてないんだな、誰かと一緒に生きるってのは。)

男は深い付き合いを続けるのが苦手だった。必要以上に踏み込んだ関係になった者は、こぞって男から離れてゆく。

小洒落た喫茶店のガラス張りから外を眺めながら、コーヒーを口に含んだ。彼女が出て行ってから口に入れた料理の全てが不味かったのに、そのコーヒーの美味さだけは、今も忘れることができないでいる。


ケトルに移した熱湯を回すように淹れる。特に誰に習ったわけでもないが、男はコーヒーの作り方を知っていた。

(そういや、地元の同期とかはどうしてるんだろうな。俺の病気のことを、長い付き合いのあいつには連絡したけども、あいつはお喋りだからな。今頃知れ渡っているかもしれん。)

淹れ終えたコーヒーを片手にキッチンと繋がっているリビングへと移り、男一人が使うのに勝手のいい畳半畳程のウォールナットの机に腰掛ける。

一瞬、何かを思い出すように首を回して、1DKの部屋を見渡す。会社からも遠すぎず、家賃も決して高くない。近くには公園があって、夕暮れ前には殆ど毎日のように子供の無邪気で開放的な馴れ合いが聞こえてきた。また春になれば、少し歩いた川沿いの桜が、男の住む三階の窓から延々と望めるのも気に入っていた。

(ここが俺の城で、墓になると思ってたこともあったなあ。)

男は最早この貸家に居座りたくはなかった。だか、ふと思い立って引越すわけにもいかなかった。引越したら引越したで、近隣に顔が知れる前に死ぬかもしれないのだから。それに男は自分が、本当はどのような運命にあるのか知っていた。今男は週に一度の頻度で診察を受け、もう日常生活を歩めないことを認められたら、「最後」まで入院するという話で落ち着いていたのである。

(最期は病院のあの、無機質なベットの上で、あの硬いマットレスの上で死ぬんだ。)

男は盲腸で入院した時の光景を思い出した。あの人を小馬鹿にしたように寝心地の悪い薄いマットレス。男は入院は好きではなかった。


充電していたスマートフォンを表に返して充電器から外す。

(おや。)

何件かメッセージが来ていた。誰からなのかは検討もつかない。が、誰かから連絡は来るものだろうと思っていたので、それ自体にはさして驚かない。

(この人は……。)

問題はそれが誰か、ということである。送り主は親しい知り合いではなかった。だか、その名前には聞き覚えがある気がした。

(そうか、思い出した。小中学校が同じだった地元の女の子だ。)

男は高校から上京したので、田舎に残してきた友人—最もその女は特に親しい間柄でもなかったが—のことはあまり記憶にない。唸りながら記憶の中を探す。かなり幼い自分から眼鏡をしていて、何にでも覇気覇気と返事をするような女だったような。男は朧げながらに印象を辿る。それから、とにかく真面目というか融通の利かない気質だったような…。


メッセージの内容を一通り読み終えてから、男は深いため息をついた。読まなければ良かった、もう悔いても遅い。肝心の内容はといえば、先ず長い長い無沙汰を詫びてから、男の余命をつらつらと惜しんだ挙句、遺産の管理はどうするつもりか、ということだった。できれば自分にも手伝わせて欲しいと。

一度目を通しただけでは理解が及ばず二度、三度と画面を指でなぞる。終いには声にも出して読んでみた。

(くだらない。)

心底そう思った。何がくだらないというのか。命短い独身の中年に蛆の如く(たか)るのはそれとして、男が許せなかったのは、自分に訪れた悲劇の、孤灯一穂(ことういっすい)の美しさを度外視されていることだった。

(このような輩には、俺の気持ちなど輪廻の果てにもわかるまい。)

やはり田舎の情報網とは侮れないものだな、とも思った。母親が既に死んでしまっていて、自分が死ぬとなってもあの下衆共から乳繰り回される心配がないことだけが男にとって救いだった。


しかし男の元には、後日、また後日と多方から似たような手口の連絡が届いた。中には本当にただ心配をしているだけの連絡もあったのかもしれないが、男にはもうどうでもいいことだった。見分けようとする気力さえ湧かなかった。

誰彼(だれかれ)からの連絡や手紙が十を超えたあたりから、その人の連絡先を悉く消して行った。男は自分が生きてきた世界の醜さが厭になった。今男の目に映っている世界にはもう、精霊の血を啜り、嬰児(えいじ)を貪り喰らい、鏡の中の自分との情交に感けている醜悪な人間の像しか見えない。この中で自分が友交し、進学し、恋愛をしてきたことが気持ち悪くて仕方がなかった。事実このところは目眩と吐き気が酷く、ニ時間に一遍はトイレに駆け込んでいたので外出もままならない。かと言って食欲も出ないので、吐瀉物(としゃぶつ)は殆ど現れない。強いていえば虚しさだけを吐き戻していた。


また一週間ほどして、症状が落ち着いた。多少の目眩や食欲不振はあるものの、唐突に吐くことはなかったし、買い物の為に外出する事もいくらかはできた。

ただ、男はほんの少し前に比べて酷くやつれてしまい、鏡を見てみると隈と疲労で目が浮き彫りになったようにぎょろぎょろとしていて、皺も目立つようになり、心なしか白髪まで増えたように感じた。

体重は5キロほど落ちてしまっていた。

(ああ死ぬ、これは死んでしまう。)

男はそれから無理矢理にでも少しずつ食事を取るようにした。どうせ死に行くとわかっているのに、己の身体が日を追って細くなっているのをどうしても見過ごせなかった。

というのも、男はこの期に及んでようやっと、自らの肉体が腐っていくという恐怖に真向から直面したのである。

(即身仏のようになって死ぬのは御免だ。まだ病院のベッドの方がずっといい。)

男は初めて、死ぬのが怖いと思った。


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