第二十九話 根源的恐怖
空間の輪郭は歪み、色彩はくすんだ灰と紫が混ざり合う空間。
猫バイトと同様に、上下左右の感覚は曖昧で、まるで夢の中にいるような錯覚を覚える空間の中心では今―――人間姿のサクラノヴァに王都守護三番隊長のサヴァンが、長い銀髪を揺らしながら差し迫っていた。
「……面白い……では見せてもらいましょうかね――――!」
その言葉と同時に、彼は声高々に魔法を唱える。
「――【爆炎】ッ!」
サヴァンの声に合わせ、指先から赤黒い魔力の奔流が迸る。
空間そのものが軋むような圧力を帯び―――次の瞬間、眩い紅蓮の爆炎がサクラノヴァの眼前で炸裂した。
爆発の衝撃波が空間を引き裂き、耳をつんざく轟音が響き渡る。
熱風は暴風のように吹き荒れ、周囲の空気を灼熱に変え、まるで世界そのものが炎に呑み込まれたかのようだった。
そうしてサクラノヴァの体を直撃した炎は、瞬く間に黒煙を生み出す。
「くっくっく、私の挨拶は如何だったかな? その口が利けるのならばぜひ教えていただきたい」
煙の中から高笑いとともに現れたのは、銀髪を揺らす貴族の男。
その目には冷笑が浮かび、余裕に満ちていた。
だが、先の彼の余裕からこんなもので殺れる相手ではないとわかっていたサヴァンは相手の出方を伺っていた。
……しかし彼が煙の奥に捉えたのは――。
「―――っ!?」
――黒いローブを身に纏った、かつての男の面影すら残さぬ死者の残骸だった。
あまりのあっけなさに、サヴァンの胸に一瞬冷たいものが走ったがすぐに口元を歪め、皮肉を込めた声を吐き出した。
「……っ、おやおや……あれだけ高を括っていたというのに、蓋を開けてみればこの結末ですか……まさかあの程度の熱で体が焼け消えてしまうとは……はぁ……この結末を生前の貴方に見せて差し上げたいぐらいですよ……」
焼け焦げた匂いと熱風が渦巻く空間の中、サヴァンは勝利を確信して口元を歪めて笑った。
……が、それも当然。
目の前の男が骨へと変わり果てた――その事実を前に、誰も「まだ生きている」とは考えないのだから。
死は絶対であり、肉体の消滅は終焉を意味する。
そして、サヴァンにとってそれは当然の理だった。
―――ただ、それは理に囚われた者の常識である。
「しかし、それは残念ながら叶いませんが……」
彼が勝利宣言を続けようとしたその瞬間。
黒煙が未だ燻る死者の残骸の口が動き、脳に直接響き渡るような不快な音がサヴァンに届く。
「あぁ……生憎、俺はもう死んでいるのだからそれは叶わんだろうな……」
その声は低く、冷たく、まるで墓の底から響く亡者の囁きのようだった。
空洞の眼窩から青白い光が揺らめき、骸骨の顎がゆっくりと動いている。
亡骸であるはずの存在が言葉を紡いでいる――その異常さに、サヴァンの顔は瞬時に凍りついた。
「きっ、貴様……! リッチだったのか……!? 闇に呑まれた魔法使いの成れの果てが、なぜ剣聖と……!?」
―――リッチ。
それは、魔法使いが永久を夢見て禁忌に触れた結果、死を超え、魂を不滅の器に縛り付けた存在。
人の身を捨て、自然の理を踏み破った禁忌の象徴。
サヴァンは知識としてリッチのことは知っているが、実際に相対することが初めてであることから先までの余裕ぶった冷ややかな笑みは崩れ、驚愕のままに距離を取る。
「……リッチ、か。……剣聖とやらにも言われたが……もしや―――」
―――だが、そこはさすがに彼も歴戦の猛者というべきか。
王都という巨大都市での三番隊の名を背負う彼は凄まじい精神力で気を取り直して再び詠唱を開始した。
「ッ、下賤なる悪魔風情が何を吠えているのですかッ!? この私の前に立つこと自体が不敬であると知れッ!! 【聖なる槌】!」
貴族の男が高らかに詠唱を終えると同時に、空間が裂けるような轟音が響いた。
眩い光が天より降り注ぎ、雷鳴を伴った聖なる輝きが奔流となってサクラノヴァを包み込む。
その光はただの雷ではない。
―――聖属性魔法。
不死種を滅するために編み出された神聖なる力であり、リッチやゾンビといった存在にとっては、たとえ低位の術であっても致命傷となり得る、まさに"神の裁き"と呼ぶにふさわしい一撃であった。
「これで終わりです……!」
空間は白光に満ち、熱と雷鳴が重なり合い、周囲の空気すら震えた。
貴族の男は今度こそ勝利を確信し、口元に冷笑を浮かべる。
――しかし。
光の奔流の中心に立つサクラノヴァはそれを受けてなお、微動だにしなかった。
黒いローブを纏った骸骨の王はゆっくりと腕を上げる。
その動作はあまりにも優雅で流麗で、思わずサヴァンですら目を奪われてしまった。
そして彼の指先がわずかに動いた瞬間――。
聖なる雷は音もなく掻き消えた。
「―――は?」
眩い光は霧のように散り、空間を満たしていた神聖の力はまるで存在そのものを否定されたかのように消滅する。
残されたのはサヴァンの残響と骸骨の王の冷ややかな眼光のみ。
「そ、そんな、馬鹿な!? 聖国で学んだ聖属性魔法だぞ!? 一介のリッチ如きが防ぐことなど―――あり得んッ!」
貴族の男の声が震える。
その叫びは恐怖と混乱に満ちていた。
彼の信じてきた常識、聖なる力の絶対性が、今まさに打ち砕かれたのだ。
そしてそれに対しサクラノヴァはただ一言を返した。
「……“如き”、か。……まぁいい。だがそれなら貴様にとって最も恐れるべき生物はなんだ?」
その問いは絶対的な支配者の響きを持っており、貴族の男の背筋を氷の刃のような恐怖が襲う。
彼は思わず一歩退き、考える必要はないはずなのに、胸の奥から冷たい汗を滲み出しながら自身の記憶を思い返してしまった。
――私が最も恐れるべき生物?
脳裏にまず浮かんだのは、かつて王都を襲った強力な魔獣たちだった。
夜を裂いて現れた"魔犬"――シャドウハウンド。
群れを成し、兵士たちの悲鳴を掻き消すほどの咆哮を上げ、次々と肉を噛み砕いた恐怖の象徴。
そして、人の血を啜り、王城の壁を赤く染めた"血鬼"――ブラドオーガ。
たった一体にして兵士の隊列を蹂躙し、鋼の鎧を紙のように引き裂いたその姿は今もなお鮮烈に焼き付いている。
あとは――――と、そこまで考えたとき、サヴァンの手が無意識に震え始めた。
いやいや、何を馬鹿なことを考えているのだ私は。
彼らは確かに恐ろしい魔獣ではあった。……だが、私が感じたかつての恐怖はそんな程度のものだったのか? いいや違う!!!
――そうだ。……私は無意識に忘れようとしていたのだ。
かつての恐怖を心の奥底に封じ込め、思い出さぬようにしていたのだ。
だが今、彼の問いに心の奥底からの根源的な恐怖が封印を破り、記憶を蘇らせた。
魔犬も血鬼も、不死たるリッチですら恐怖の影に過ぎない。
私が真に恐れているのは……。
「……私が真に恐れを抱く存在は、古より伝わる“神敵”――天を裂き、大地を割る天災……竜です」
その言葉は震えながらも確固たる畏怖を帯びていた。
サヴァンの瞳には恐怖と憎悪が入り混じり、かつての竜の幻影を見ているかのように揺らめいている。
その告白を聞いたサクラノヴァは、しばし沈黙した。
そうして永遠にも思われるかのような沈黙ののち、サクラノヴァがサヴァンに語り掛ける。
……だが、その声色は先の冷たさが消え、むしろ……。
「ははっ!! そうか! なるほどそうか……」
「……っ? な、何を……?」
先の空気から一転。
愉悦に満ちたその声にサヴァンは思わず眉をひそめると、サクラノヴァは楽しそうに彼に問いかけた。
「貴様は竜を恐れると言ったな? では竜は嫌いか?」
問いかけは鋭くも、しかしどこか人間らしい興味を帯びていた。
その違和感にサヴァンは一瞬躊躇うも、やがて吐き出す。
「えっ、えぇ……私は恐れていますが、それと同じように憎んでいます。……嫌い以上の感情でしかありません……ですが、それが一体何だと―――」
サヴァンが言葉を紡ぎかけたその瞬間、サクラノヴァは突如として高らかに笑い声を響かせた。
「はっはっは!! これは愉快だ!! ……あぁ、失礼した。久方振りに俺と同じ意見の奴が見つかって嬉しくてな……」
「同じ……リッチが、竜を……?」
そう問い返す声は震え、理解不能の驚きが混じっていた。
彼の言葉の意味するところ――すなわちそれはリッチである彼が同じく竜を嫌い、恐れているということで……もはやサヴァンの脳は情報過多により破裂しそうであったがしかし次の彼の言葉に意識を引き戻される。
「くっくっく……まぁその辺はいい。だが、そうだな……貴様は気に入った。殺すつもりだったが、一つゲームをしようじゃないか」
「げぇむ……?」
聞いたことのない言葉。
死者同士の会話で使われる言語か、はたまた魔族の言葉か。
しかしそれを聞き返す度胸も余裕も、しかし今の彼にはなかった。
「……それは伝わらないのか……では、一つ賭けをしよう。規定は簡単。……今から俺が放つ簡単な電撃魔法を一回でも防げばお前の勝ち。俺らはこの地から撤退しよう……あぁ、もちろんどんな手段を使っても構わんぞ」
「それを防げなければ……?」
「あぁ、まぁその時点で死ぬ可能性はあるだろうな」
そしてやがてサヴァンは一瞬だけ沈黙した。
その言葉の意味を咀嚼するように目を細める。
「……っ……随分と自分に自信をお持ちのようだ……だがしかし、私の魔法をお忘れ……ということはないよう……? ……いいでしょう。そんな簡単なものならば、何度でも防いで差し上げますよ」
その声には、皮肉と誇りが混ざっていた。
二人の間に見えない緊張の糸が張り詰める。
だがサクラノヴァだけはただ静かに、心の底から楽しそうに眼窩の奥の光を強めた―――。
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