第八話
夜が、静かに沈んでいく。
風は止み、月が冷たい光を岩壁に落としていた。
採石場の奥、崩れかけた石の影に、ボクとエリスは身を潜めている。
昼の戦いの跡はまだ生々しく、焦げた木の匂いと血の鉄臭さが混ざっていた。
「戻ってくる……必ず」
エリスの声は低く、凛としていた。
その目は前だけを見ている。
ボクは隣で、小さく息を飲んだ。
怖い。だけど――逃げるわけにはいかない。
“黒の尾”の頭目、ヴァルト。
マルクを襲い、罪なき人々を殺し、笑って彼らの全てを奪った男。
エリスの表情が彼の名を聞いた瞬間、ほんの少しだけ震えた。
静寂を破ったのは、地面を踏み鳴らす音だった。
足音は六つ、七つ……いや、それ以上。
粗末な鎧の擦れる音、獣のような息遣い。
「――来たわね」
エリスの唇が動く。
その瞬間、ボクの心臓が跳ねた。
闇の中から現れた男は、他の盗賊よりも一回り大きかった。
黒い毛皮のマントを羽織り、片目には傷跡。
背中には人の身の丈ほどある大剣。
「チッ……また討伐隊か? ガキどもめ、俺の縄張りを荒らしやがって」
ヴァルトの声は、地の底から響くように低かった。
エリスが立ち上がる。
「“黒の尾”の頭目、ヴァルト……あなたに罪の報いを受けてもらうわ」
「はっ、魔術師風情が随分な口をきくな。――お前、前に俺から逃げた女じゃねぇか」
ボクは息を呑んだ。
エリスが一瞬だけ唇を噛んだのを見逃さなかった。
「逃げたんじゃない……生き残ったのよ」
エリスが杖を構える。
青白い魔力の光が、夜の闇を裂いた。
ヴァルトが笑う。
「面白ぇ……じゃあ今度は“トドメ”をくれてやる!」
空気が爆ぜた。
次の瞬間、ヴァルトが地を蹴った。
信じられない速さで距離を詰め、大剣が月光を切り裂く。
エリスは結界を展開した。
金属音が響き、火花が散る。
「リオナ、下がって!」
エリスの声が鋭く飛ぶ。
けれどボクの足は、言うことを聞かなかった。
――怖い。でも、逃げたくない。
短剣を握る手が震える。
それでも、エリスが戦っているのに、ボクだけが逃げるなんてできない。
ヴァルトの動きが止まった。
その目が、ボクを見た。
「ほぉ……珍しいな。奴隷崩れだろお前、武器なんざ握ってどうするつもりだ?」
一瞬で僕が元奴隷だと見破られた
「黙れっ!」
ボクは叫んで駆け出した。
刃が月を反射する。
でも、ヴァルトの剣は一撃でボクの短剣を弾き飛ばした。
衝撃が腕を走り、地面に叩きつけられる。
「リオナ!」
エリスが詠唱を中断し、ボクに駆け寄ろうとする――その瞬間。
ヴァルトの大剣が彼女を狙って振り下ろされた。
ボクの視界が、白く弾けた。
――あ、まただ。
骨の奥が熱くなる。
耳の奥で、低い唸り声が響く。
視界の端に、白銀の光が広がった。
「やめろっ!!」
ボクの叫びと同時に、風が爆ぜた。
岩が砕け、砂が宙に舞う。
次の瞬間、ボクの腕が――白い光で覆われていた。
爪が伸び、空気を裂く。
それが自分の力だと気づくまで、数秒かかった。
ヴァルトの剣を、ボクの爪が受け止めていた。
火花が散り、鉄が悲鳴を上げる。
「な、なんだこりゃ……!?」
ヴァルトが目を見開いた。
ボク自身も同じ気持ちだった。
けれど、体は勝手に動いた。
爪が閃き、ヴァルトの胸を切り裂く。
鮮血が飛び散り、男の体が後退する。
「リオナっ! それ以上はダメ!」
エリスの声が遠くで響く。
でもボクは、止まれなかった。
心臓が、獣みたいに吠えている。
喉から漏れたのは、言葉じゃない――咆哮だった。
ヴァルトが呻き声を上げ、反撃に出ようとした。
だが次の瞬間、ボクの爪が彼の剣を粉々に砕いた。
そして、そのまま胸を――
「リオナっ!!!」
エリスの叫びが、闇を裂いた。
その声に、ボクの動きが止まる。
呼吸が荒く、体が熱い。
そして、恐ろしいほどの沈黙。
ヴァルトは地面に崩れ落ち、動かない。
風が吹いた。
月が、白銀の毛に光を落とす。
ボクの手が、震えていた。
「ボク……殺したの?」
その声は、自分のものじゃないみたいだった。
エリスはそっと近づき、ボクの肩に手を置いた。
「……大丈夫、死んではいないわ。ただもう動けないでしょうけど」
優しい声。。
「これは、僕が? 僕がやったの?」
喉の奥が詰まり、同様に声が震える。
ボクの中で、獣の鼓動が静かに沈んでいく。
エリスが抱きしめてくれた。
「大丈夫。怖がらないで。――あなたは私を助けてくれたの、リオナ」
その言葉が、ボクの耳に染みて、心の奥で静かに弾けた。
夜は、いつのまにか明け始めていた。
風が冷たく、鳥が鳴く。
ボクはその光を見つめながら、もう一度、自分の手を見た。
血と泥にまみれたその手をジッと見つめる。
今のは、フェンリルの力。
そして、ボクに宿る“獣神の娘”としての証。
「……ボク、怖いよ。エリス」
「怖くていいの。怖さを知ってる人が、強くなれるのよ」
エリスがそう言って、ボクの頭を撫でた。
涙がこぼれ、頬を伝って地に落ちる。
朝日が、崩れた採石場を照らす。
新しい一日が始まる。
けれどボクの中では――
ようやく、本当の“始まり”が訪れていた。
陽が昇りはじめた頃、採石場には静寂だけが残っていた。
地面には黒の尾の連中が倒れ、戦いの痕跡が散らばっている。
焦げた匂いと血の臭いの中、ボクはまだその場から動けなかった。
手の中には、ヴァルトの壊れた大剣の破片。
ボクの爪で、粉々に砕けたままのそれを見つめる。
「……ボク、自分の力で、あんな強いやつを倒せたんだ。」
小さくつぶやくと、隣でエリスうなづいたた。
「ええ。生きるために戦ったのよ。」
そう言うエリスの表情は優しかった。
「でも、ボク……あの時、止まれなかった」
「それが“力”ってものよ。扱うのは簡単じゃないわ」
エリスは腰のポーチから布を取り出して、ボクの手を拭ってくれた。
白銀の毛に付着した血はは、もうほとんど消えている。
けれどあの感覚――骨の奥から湧き上がるような熱は、まだ残っていた。
「エリスは、怖くないの?」
「怖いわよ」
その答えは、驚くほどあっさりしていた。
「でもね、恐怖を知らない人間は、剣を握る資格がないの」
エリスの瞳が、まっすぐにボクを見た。
「リオナ。あなたは初陣で命を賭けて、私を守ってくれた。――誰かを守ることができる人は、どんな才能よりも価値があるの」
ボクはうつむいたまま、拳を握りしめる。
血の匂い、岩の冷たさ、そして胸の奥に残る恐怖。
全部が、ボクの中で混ざって形を成していくようだった。
エリスは倒れた盗賊たちを確認しながら、討伐のための証拠を回収していく。
「討伐依頼としてはこれで完了ね。黒の尾はこれで壊滅。街に戻ったら報告して、拘束したヴォルトを引き渡して、報酬を受け取るわ」
「……エリスって、本当にすごいんだね」
ボクがぽつりと言うと、エリスはくすりと笑った。
「フフ、これでも私はBランクの冒険者よ?」
「B……!?」
思わず声が裏返った。
「そんなに強かったの……!?」
「魔術師って後衛に見えるけど、戦場で生き残るには自分を守る術を持ってなくちゃダメなの」
そう言って、彼女は小さく肩をすくめる。
ボクはエリスの背中を見つめながら、自分の胸に手を当てた。
あの時、確かにボクは普通じゃない力を使った。
でもエリスは、それを責めなかった。
それどころか、認めてくれた。
――この人みたいに、なりたい。
そう思った瞬間、胸の奥にあった不安が少しだけ溶けていくのを感じた。
風が吹き、朝の光が差し込む。
崩れた岩の上に、小鳥が止まり、さえずり始める。
まるで夜が終わったことを告げるように。
「さ、行きましょう。はやく街に戻らないと、目を覚ましたヴォルトが逃げちゃうかも」
「うん……でも、エリス」
「なに?」
「ボク、また戦えるかな」
「もちろんよ。力とその責任を知ったなら、もう一歩強くなれる」
エリスが微笑む。
その笑顔に、ボクの胸の奥が温かくなった。
――この旅が、どこへ向かうのかはわからない。
けれど、ボクはもう逃げない。
この力と向き合って、エリスと一緒に歩いていく。
太陽が完全に顔を出した。
採石場を後にしながら、ボクは小さくつぶやいた。
「……この力を自在に扱えるようにならなくちゃ」




