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第六話

 朝の陽射しが、石畳の通りを黄金色に染めていた。

 レイアント――王国でも有数の大都市。

 魔導師と商人が行き交い、香辛料や鉄の匂いが混ざり合う市場。人々の喧噪が、まるで世界そのものが動いているかのように感じられる。

 僕がここに来てから、もう十日が過ぎていた。

 カース村から馬車で三日。泥に塗れた道を抜け、何度も揺られながら辿り着いたこの街は、少し前まで奴隷だった僕にはあまりにも眩しかった。

 エリスの家は、街の東区にある古い石造りの二階建てだった。

 小さな薬草店を営んでいて、通りに面した窓には乾燥させたハーブの束が吊るされている。

 僕はその家の二階の部屋で、まだ傷の癒えきらない体を休めていた。

「……ここ、本当に街の中なんだよね」

 窓を開けると、遠くで商人たちの声が響く。

「新鮮なパンだよー!」

「魔力結晶、今日が安いよー!」

 その声を聞いているだけで、なんだか生きてる実感が湧いてくる気がした。

 けれどリオナの胸の奥では、まだ不安が渦を巻いていた。

「……ボク、いつまでここにいていいんだろ」

「リオナ、またそんなこと言って」

 背後から優しい声がして振り向くと、エリスがカップに入れた温かいミルクを持って立っていた。

 ふんわりとした金茶の髪、穏やかな瞳。

 それだけで、空気がやわらぐ気がする。

「飲んで。疲れが取れるから」

「ありがとう……」

 リオナはカップを両手で包み、口に運ぶ。

 甘い香りが広がり、冷えた体がじんわり温まった。

「……ボク、本当に、助けてもらってばっかり」

「助けるって、そんな大げさなことじゃないよ。困ってる子がいたら手を差し伸べる――それだけ」

「でも、ボクは……奴隷だったんだよ?」

「知ってるよ」

 エリスの声は、変わらず穏やかだった。

「でも、今のリオナは奴隷じゃない。少なくとも、私の目にはね」

 ――奴隷じゃない。

 その言葉が胸に刺さった。

 信じたいのに、心のどこかで否定する声が響く。

「……そんな簡単に消えないよ。あの鎖の感覚も、痛みも」

「消えなくていい」

「え……?」

「傷があるってことは、生きてきた証だから。無理に忘れようとしなくていいんだよ」

 エリスの言葉は、まるで春風のようだった。

 冷たく閉ざされたリオナの心の扉を、優しくノックしてくる。

「でも、怖いんだ……信じるのが」

「怖いって思えるのは、ちゃんと心が生きてる証拠だよ」

「……生きてる証拠……」

「そう。リオナはもう“生きる”ことを選んでる」

 その瞬間、胸の奥が熱くなった。

 ずっと、そんなふうに言われたことなんてなかった。

 誰も、自分を“生きてる者”として見てくれなかったから。

 気づけば、涙が頬を伝っていた。

 慌てて拭こうとしたけれど、エリスが静かに抱きしめてくる。

「泣いていいの。泣くのは悪いことじゃないから」

 その声に、僕はもう何も言えなかった。

 エリスの胸に顔を埋めると、草木と薬草の優しい香りがした。

 なんだか懐かしい匂い。

 人のぬくもり。

 それが、ボクの心を溶かしていく。

 ――この人は、光だ。

 そう思った。

 でも、同時に怖くなった。

 またその光を失ってしまうんじゃないかって。

 闇の底に戻されるんじゃないかって。

「……ボク、また誰かを信じて、裏切られるのが怖い」

「裏切られてもいいよ」

「なにそれ……?」

「それでも、信じようとしたリオナの気持ちは本物だから」

 エリスの言葉に、胸が震えた。

 あたたかくて、苦しくて、涙がまた溢れる。

 この世界にもこんな人がいるんだ。

 ボクは、まだ生きていていいのかな――。


 それからの日々は、ゆっくりと、けれど確かに変わっていった。

 朝はエリスと一緒に朝食を取る。焼きたての黒パンにハチミツを少し塗り、薬草のスープを飲む。

 あの村で腐った芋を奪い合っていた頃からすれば、夢みたいな食卓だ。

 でも、ボクは最初、それを素直に食べられなかった。

「こんなもの、ボクに食べる資格がない」――そう思ってしまったから。

 けれど、エリスは笑って言った。

「資格なんて、誰が決めたの? 生きてる人が食べるのは、当たり前のことよ」

 それから彼女は、スープをひと匙、ボクの口元まで持ってきた。

 その優しさが、かえって痛かった。

 でも、ほんの少し勇気を出して口にした瞬間――涙が溢れた。

 味なんて、ほとんど覚えていない。ただ、“誰かと食べた”という感覚が胸に沁みた。

 それ以来、ボクは少しずつ“生きる”ということを思い出していった。

 昼はエリスの薬草店を手伝う。

 最初は、店の掃除や棚の整理だけ。けれど、次第に薬草の名前や効能を教えてもらえるようになった。

「この“月影草”は、眠れない人に効くの。光を浴びると、ほのかに白く光るのよ」

「へぇ……なんか、キレイだね」

「リオナも少し似てるわ。夜の中で白銀に輝くから」

 エリスはそう言って、にっこり笑った。

 そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。

 ボクの耳や尻尾を見て“気味悪い”と笑った人は山ほどいたのに。

 でも、エリスだけは違った。ボクを「もの」ではなく、「誰か」として見てくれる。

 ――それだけで、生きていてもいいのかもしれないと思えた。

 夜になると、二人で暖炉の前に座って本を読む。

 エリスは古い魔導書を広げ、呪文を小声で唱える。

 ボクは、その隣で静かにページをめくる音を聞いていた。

 たまに、彼女が眠そうに欠伸をして、ボクの肩に頭を預けてくることもあった。

 そんなとき、心臓がどくどくと鳴って、息が苦しくなる。

 でも、その苦しさは、嫌じゃなかった。

 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。

 そう思った瞬間、自分で自分に驚いた。

 「希望」なんて言葉を、ボクの口から出そうになるなんて。

 それでも、夜が深くなると、あの闇が戻ってくる。

 夢の中で、鞭の音が響く。誰かの怒声、血の匂い。

 目を覚ますと、喉が詰まって呼吸ができなくなる。

 そんな夜が何度もあった。

 そのたびに、エリスは静かに部屋へやって来て、何も言わずにボクの手を握ってくれた。

 ただ、それだけ。

 でも、温もりがあれば、闇は少しだけ遠のいていく。

「リオナ」

「……なに?」

「怖い夢を見たら、ちゃんと起こしてね」

「でも……迷惑じゃ」

「迷惑なんかじゃないわ」

 エリスは微笑み、ボクの髪を優しく撫でた。

「だって、あなたはもうひとりじゃないもの」

 その言葉が、胸の奥でずっと鳴り続けた。

 ――もう、ひとりじゃない。

 心が痛いくらいに、優しい言葉だった。

 ボクは、少しだけ笑った。

 それがたとえ震える笑みでも、たとえ涙がこぼれても。

 その瞬間、確かに「希望」という名の灯が、心の奥でゆらりと揺れた気がした。


 その日の午後、店の扉が勢いよく開いた。

 「エリスさん! た、大変だっ!」

 駆け込んできたのは、隣の鍛冶屋の青年、ガルドだった。

 その肩には、血まみれの男が担がれていた。

 「ひっ……!」

 思わず息を呑んだ。

 男の服は裂け、腕には深い切り傷が走っている。

土と血が混じって、鉄の匂いが鼻を刺した。

 エリスは表情を変えず、すぐに机を片づけた。

「こっちに寝かせて。――リオナ、清水をお願い」

「えっ、あ、うん!」

 慌てて水壺を持ち上げる。手が震えて、水がこぼれた。

 床に赤い血が混じって滲む。それを見ただけで、ボクの心臓が強く跳ねた。

 血。

 鞭の跡。

 泣き声。

 ――“また、あの場所”の感覚が蘇る。

「リオナ!」

 ハッと我に返ると、エリスの声が飛んできた。

 彼女の目は真剣だったけど、責めてはいなかった。

「大丈夫、怖くないわ。これは生きるための血なの」

 その言葉に、胸が少しだけ軽くなった。

 “生きるための血”。

 同じ赤なのに、意味がまるで違う。

 ボクは深呼吸をして、水を持ってくる。

 エリスは冷静に傷を洗い、薬草をすり潰して貼り付けた。

「……リオナ、包帯を巻いて」

「ボクが……?」

「ええ。あなたの手は優しいから、痛くないと思うわ」

 ――優しい?

 その言葉が頭に響いて、涙がこぼれそうになった。

 震える手で布を取る。

 男の腕に触れると、びくりと体がこわばった。

 “奴隷の手が触れるな”――あの言葉が脳裏をよぎる。

 でも、エリスが隣で見守ってくれていた。

 それだけで、ボクは手を止めずにいられた。

 ぎこちなく包帯を巻き終えると、男がかすかに息を吐いた。

ガルドさんが僕の方を向いて言う

「……助かった……ありがとう獣人のお嬢ちゃん」

 その言葉が、ボクの胸に静かに染みた。

 誰かに感謝されるなんて、いつぶりだろう。

 生まれてからずっと、ボクは“生きていてはいけない存在”だった。

 でも今、たったひとつの行動が、誰かを救った。

「リオナ、ありがとう」

 エリスが微笑む。

 その声が、暖炉の火みたいに心を温めた。

「……ボク、少しでも……役に立てたのかな」

「もちろんよ。あなたはもう、誰かを助けられる子なんだから」

 助けられる――その言葉が、ボクの中で何度も反響した。

 ボクが? 助ける側に?

 でも、そう思った瞬間、どこかで恐怖も湧いた。

 “助ける”ということは、また“失う”ことでもある。

 希望を持つたび、裏切られてきた。

 だから、信じるのが怖い。

 それでも、エリスの横顔を見たとき、ほんの少し勇気が出た。

 この人のそばなら、何かが変えられるかもしれない。

 その夜、ボクはベッドの中で目を閉じながら、手のひらを見つめた。

 血の跡はもうない。けれど、あの温もりだけは、まだ残っていた。

「……ボクも、誰かを……助けたい」

 かすかな声でそう呟いたとき、胸の奥に小さな火が灯った気がした。

 それは、きっと――エリスがくれた光だった。


 その後ガルドさんから話を聞けた

「この人は……行商のマルクさんだ。この街に来る途中馬車が山賊どもに襲われて……」

 ガルドさんの声は震えていた。

彼は朝から外回りに出ていた。

鍛冶用の鉄を買いに郊外の問屋へ向かい、帰り道に事故現場を見つけたという。

 その日は道がぬかるんでいた。マルクさんの馬車が道幅の狭い崖際で砂地に足を取られ、車輪がひっかかってしまった。

行商の一行は荷台から荷を降ろしている最中、後方の茂みから複数の影が飛び出してきた。

短剣や棒を持った山賊たちが襲いかかり、荷物を奪い、人を縛り上げ、逃げ去ったのだ。

 ガルドさんは偶然通りがかってそれを見つけたのだった。

事態はすでに惨劇だったらしい。

マルクさんは仲間を庇って刃を受け、右腕と腹を深く切られていた。

護衛らしき男たちはほとんど殺され、若い従者は茫然としていた。

山賊は数をそろえて急襲し、あっという間の出来事だったようだ。

「斬りつけた刃に毒が塗ってあったのかもしれない。傷が黒く腫れて、熱がでてたんだ。見ていられなくて……彼を抱えて走ったんだ。」

だから彼の服は泥と血で汚れている。

 だからガルドさんは店に駆け込んできて、エリスに助けを求めたのか。

 というのも、エリスはこの街で薬師と、治癒師を営んでいるからね。

 ボクはその話を聞きながら、胸が締めつけられる思いだった。

恐ろしい山賊の姿を思い浮かべるだけで、あの村の夜やあの市場の冷たい目が重なった。

けれど同時に、ガルドが見せた震える手の優しさ――人を見捨てられなかった勇気――が、ボクの中に小さな何かを灯したのも事実だった。

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