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第四話

 夜の風が、血の匂いを運んできた。

 ボクは厩舎の隅で、藁の山に身を埋めながら息を殺していた。

 身体のあちこちに残る鞭の跡が、まだ焼けるように痛い。

 もう何も考えたくなかった。考えれば、また心が壊れてしまう。

 ――生きている意味なんて、あるのかな。

 そう思って、ボクは藁の上に顔を埋めた。

 村に売られてから何日が経ったのかも、もう分からない。

 働いて、殴られて、また働いて。

 気を抜いたら蹴り飛ばされて、倒れたまま動けなければ冷たい泥水を浴びせられた。

 村人たちの目は、いつも冷たかった。

「化け物が」

「獣のくせに」

「人間の言葉を使うな」

 ボクが声を出すたび、罵声が飛んでくる。

 それでも、黙っていると「返事をしないのか」と殴られる。

 どんな返事をしても、間違いになる。

 だから、ボクは喋るのをやめた。

 声を出さなければ痛みは少ない。

 痛みが少なければ、死ぬことを考えずに済む。

 そんな日々の中で――

 その子は、ボクに話しかけてきた。

「……ねぇ、君。大丈夫?」

 その声は、どこか震えていた。

 小さくて、優しくて、耳に届いた瞬間に消えてしまいそうなほど儚い声だった。

 ボクは反射的に身を固くした。

 夜、誰かが話しかけてくるなんてありえない。

 見つかったら、また叩かれる。

 けれど、藁のすき間から覗いたそこには、ボクと同じくらいの年の少女が立っていた。

 月明かりに照らされたその髪は銀色で、目は澄んだ青。

 薄汚れたローブを羽織ってはいたけれど、その手には杖が握られていた。

 ――魔法使い? なんでこんな村に。

「ねぇ、君、名前は?」

 ボクは答えなかった。

 答えたら、また何かされるかもしれない。

 そう思うだけで、喉が凍りついた。

 少女は、少しだけ困ったように笑って、それでもしゃがみ込んだ。

「……怖がらないで。私は、エリス。旅の途中でこの村に泊まってるの。昼間、君のことを見たの」

 昼間。あの畑で、ボクが殴られていたとき。

 ……見られていたんだ。

 恥ずかしいとか、そんな感情はもう湧かない。

 ただ、ああ、見られてしまったんだ――それだけ。

「……放っといて」

 やっとの思いで、ボクは声を出した。

 自分の声が、こんなにも掠れていたなんて知らなかった。

 でもエリスは首を振った。

「放っておけるわけないよ。だって、君……死にそうな顔してる」

 胸が締めつけられた。

 そんなこと、言われたのは初めてだった。

 誰も、ボクの“顔”なんて気にしなかったのに。

「……別に、いいんだ。死んでも」

 ボクが呟くと、エリスはきっぱりと言った。

「よくない! 君は――生きなきゃ」

 その瞳が、真っ直ぐボクを見ていた。

 恐怖でも嫌悪でもなく、ただの“まっすぐ”だった。

 ボクはその視線から逃げるように、藁の中に顔を隠した。

 まぶしすぎて、目を開けていられなかったんだ。

 エリスはしばらく何も言わず、静かに藁の上に小さな包みを置いた。

 中には、パンのかけらと干し肉が入っていた。

「これ、あげる。少ししかないけど……食べて」

 ボクは返事をしなかった。

 でも――藁の奥から、手が勝手に伸びた。


 エリスが去ったあと、ボクはずっとそのパンを見つめていた。

 かじる気にもなれなかった。

 どうせ罠かもしれない。

 ボクが食べたことが知られたら、「盗み食いした」と言われて、また鞭が飛ぶ。

 それでも、腹が鳴った。

 身体が、理屈より先に反応していた。

 手が震える。喉が乾いて、舌が動かない。

 ……いいや。どうせ、もう壊れてるんだ。

 そう呟いて、ボクはパンを口に入れた。

 硬くて、ぼそぼそしていて、味なんてなかった。

 でも――涙が出た。

 生まれてからずっと飢えていたみたいに、ボクはむさぼるように食べた。

 喉が詰まりそうになって、涙と一緒に飲み込んだ。

 干し肉の塩気が、痛いほどしみた。

 それでも、温かかった。

 ……あの子、本当に優しい子なんだ。

 そう思いかけて、ボクは慌てて首を振った。

 信じちゃだめだ。

 優しい言葉なんて、みんな嘘だった。

 笑顔の裏で、鞭を握ってるのがこの世界の“人間”なんだから。

 それから数日、ボクはいつものように畑で働かされた。

 腰を伸ばすことも許されず、背中が焼けるように痛かった。

 でも、あの夜のことが、何度も頭の中で蘇る。

 エリスの声。

「君は、生きなきゃ」

 そんな言葉、誰もボクには言わなかった。

 それなのに、なぜかその言葉だけが、頭の奥に刺さったまま抜けない。

 そして、また夜が来た。

 ボクが厩舎に戻ると、あの子がいた。

 ランタンを手に、まるで最初から待っていたみたいに。

「今日も、無事でよかった」

 ボクは思わず後ずさった。

 けれど、もう逃げる気力もなかった。

「……また、来たの?」

「うん。君のこと、放っておけないから」

 エリスはそう言って、また小さな包みを差し出した。

 中には今度はスープが入っていた。

 木の器から、湯気がゆらゆら立ち上っていた。

「盗んだの?」

「違うよ。宿の人に、少しだけ分けてもらったの」

 ボクは信じられなかった。

 でも、匂いだけで涙が出そうになった。

 温かい匂いなんて、いつ以来だろう。

 震える手で器を受け取ると、指先がじんわり熱を感じた。

 まるで、体の奥にまで灯がともるみたいだった。

「どうして……そんなことするの?」

 ボクは、ようやくその言葉を口にした。

 エリスは少し考えてから、微笑んだ。

「……だって、君、泣きそうな顔してるから」

 ボクの胸が、また締めつけられた。

 なんでそんなこと言えるんだよ。

 ボクなんかに構うと、自分まで痛い目に遭うのに。

「助けたいの」

 その言葉に、ボクの心臓が止まりそうになった。

「必ず助けるから、待ってて」

 助ける?

 そんな言葉、ずっと昔に捨てた。

 信じても裏切られるだけ。

 期待したら、壊れるだけ。

 ボクは、かすれた声で笑った。

「無理だよ。ボクは、奴隷なんだ。どこにも行けない」

「そんなの、関係ない。私は魔法使いだから、力が足りなくても、探せば必ず方法はある」

 真っ直ぐな声。

 まるで、暗闇に差し込む灯みたいに。

 だけど――ボクは、それを見られなかった。

 まぶしすぎて、痛かった。

「……お願い、やめて」

 ボクは震えながら言った。

「そんなこと言われたら……また、希望を持っちゃう」

 エリスの表情が曇った。

 けれど、それでも彼女は一歩も引かなかった。

「希望を持ったっていい。私が、ちゃんと拾うから」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぐしゃりと音を立てた気がした。

 涙が出そうになったけど、ボクは意地でもこらえた。

 泣いたら負けだ。

 泣いたら、また誰かを信じてしまう。


 それから数日、ボクの体はだんだんおかしくなっていった。

 手首に縄の跡がいつまでも消えず、指の感覚も鈍っている。

 食事は腐りかけの麦粥と、どぶのような水だけ。

 畑の肥料に使う動物の糞がそこらじゅうに転がっていて、ハエが顔にまとわりつく。

 誰も掃除をしない小屋は、湿った土と汗と血の臭いでむせ返るほどだった。

 夜になると、ボクは軒先のわらの上に転がされる。

 痩せた犬と同じ場所で眠り、寒さで骨が震えた。

 体は重く、胸の奥にずっと針が刺さっているみたいに痛い。

 水を飲むたびに胃がねじれて、吐きそうになった。


 そしてとうとうある日、ついにボクは膝から崩れた。

 頭がくらくらして、視界がぐにゃりと歪んだ。

 誰も助けない。

 村人たちは笑って、「役立たずがまた一人減る」と吐き捨てただけだった。


 その日の夜、ボクは激しい腹痛に目を覚ました。

 体の芯が焼けるように熱く、汗が背中に貼りついていた。

 どろどろした水を飲んだせいか、腹がぐるぐる鳴って、どうしようもなくなった。

 厩舎の隅にしがみついたけど、間に合わなかった。

 わらが濡れて、あたりに酸っぱい臭いが広がった。

 涙が勝手に出て、唇がかすかに震えた。

「……やだ、もう……」

 喉が枯れた声しか出せなかった。

 ボクは人間ですらなくなった気がした。

 ただの獣、いや、獣以下の存在。

 そのとき、物音がして顔を上げると、ランタンの光が差し込んだ。

「リオナ……!」

 エリスだった。

 彼女はボクの姿を見て、息をのんだ。

 ボクの体、汗と泥と糞尿で汚れて、目もうつろだったに違いない。

「ひどい…こんな…」

 エリスが膝をついた。

 手に持っていた布を広げ、ためらいなくボクの体を拭き始めた。

 ボクは思わず腕を振り払った。

「やめて……ボク、汚い……」

「汚くなんかない!」

 エリスの声が震えた。

「君は、ここにいる誰よりも生きようとしてる。だから……絶対に助ける!」

 ボクの胸がずきりと痛んだ。

 その言葉を聞くたびに、心が裂けそうになる。

「やめてよ……そんなこと言われたら……また、信じたくなるじゃないか……」

 エリスの目が潤んでいた。

 そして彼女は、ボクの手をそっと握った。

 冷たいはずのその手が、火のように熱く感じた。

「信じなくていい。信じられなくてもいい。それでも、私は君を見捨てない」

 ボクは、もう言葉を返せなかった。

 ただ息をするのが精いっぱいで、視界がにじんでいた。

 その夜、エリスはボクのそばに座り続け、持ってきた水で口を湿らせ、額の汗を拭き取った。

 村人たちに見つかれば、彼女だって罰せられるのに。

 ボクはうつろな目で、彼女を見た。

 何も信じられない世界の中で、ひとりだけ、まっすぐな目をしている子がいる。

 それが、余計に怖かった。

「……ボク、助かる資格なんてない」

「ある。絶対にある」

 短い言葉。

 でも、その響きが、どこか遠くの自分に届いてしまいそうだった。

 ボクは震える手で顔を覆った。

 涙が止まらなくなっていた。

「どうして……そんなこと、言えるの……」

「私がそう決めたから」

 その答えは、あまりにもシンプルで、痛いほど真っ直ぐだった。


 次の日の朝、ボクはほとんど歩けなかった。

 下痢と発熱で体は重く、足枷に引きずられるようにして畑へ連れて行かれる。

 汗と泥と血で全身がぐちゃぐちゃで、息が荒くなるたびに胸が痛む。

 村人たちは冷たかった。

「また休むのか、役立たず!」

 木の棒で背中を叩かれ、鍬を握る手は震える。

 力が入らず、刃先が土に刺さらない。

 ボクはもう泣く力すら残っていなかった。

 ただ、呻きながら作業を続けるしかなかった。

 その時、遠くから聞こえる声――

「リオナ、大丈夫?」

 振り向くと、エリスが駆けてきていた。

 手には布と水の入った小さな瓶。

 彼女の顔は泥まみれで、でも目は必死に輝いていた。

「やめて、触らないで……!」

 ボクは声にならない声を上げ、体を逸らす。

 でも、彼女はひるまなかった。

「触るのは、汚れを拭くだけ。君を傷つけたりしない」

 ボクの体温は高すぎて、触れられるだけで熱が伝わってくる。

 それでもエリスは手を止めず、顔や首筋の汗を丁寧に拭った。

「……どうして……」

 吐き気と寒気で声は震える。

「どうして……そんなに……」

「助けたいから。君を見捨てたくないから」

 彼女の声は、弱々しい雨音にも負けない力を持っていた。

 その言葉が、ボクの胸の奥でチクチク痛みを生む。

「ボク……もう、誰も信じられない……」

 唇が震え、涙が止まらない。

「助けるって言ったって……そんな言葉、もう……信じられない……!」

 エリスは黙ってボクの手を握った。

 その手の温もりが、どんな鎖よりも重く、しかしどこか救いの兆しを感じさせた。

「いいの、信じられなくても。でも、私は絶対に諦めない。君が信じなくても、私は助ける」

 ボクの体は震え、息が止まりそうになる。

 まだ信じられない。

 でも、心の奥で、かすかに温かい光が差し込むのを感じた。


 その日の作業は地獄だった。

 足は膝まで泥に沈み、体力は限界で、何度も倒れそうになる。

 でも、エリスの言葉と視線が、わずかに力を与えてくれる。

「ボクが……助かるはず、ない……」

 そう思いながらも、ボクは何とか立ち上がり、鍬を握った。

 視界の片隅で、エリスはずっと見守っていた。


 夜、納屋に戻ると、ボクは藁の上で泥まみれになりながらも小さくうずくまった。

 腹痛と寒さで体が震える。

 でも、かすかな希望の灯が、まだ消えてはいなかった。

「……信じられなくても……それでも……」

 小さな声で、ボクは自分に言い聞かせる。

 明日もまた、絶望の一日が待っている。

 でも、エリスがいてくれるなら、少しだけでも耐えられるかもしれない――そんな気が、わずかにした。


 ――まだ、救いはない。

 でも、かすかな光が、ボクの胸の奥で揺れていた。

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