第三話
粗末な荷馬車に揺られながら、ボクは縄で繋がれたまま村へと運ばれていた。
赤牙団の連中から「二束三文」と吐き捨てられるように売られ、値段もつかないような荷物扱いだ。
馬車の床には古い藁が敷かれていたけれど、湿気と家畜の糞尿の匂いが染みついていて、鼻を刺す。
村へ着いたとき、すでに夕暮れだった。
木の柵で囲まれた小さな集落。
畑は雑草に覆われていて、土は乾いてひび割れ、ところどころに痩せた牛や山羊が繋がれていた。活気などなく、村人たちの顔は疲れ切り、ボクを一瞥するとすぐに視線を逸らした。
だがその目の奥には、好奇と嫌悪が入り混じっていた。
「こいつが……新しい奴隷か」
村の長と思しき男が、粗野な声で呟く。
痩せて背中を曲げた老人だったが、その目つきは獲物を値踏みするように鋭かった。
「まあ、安く買ったんだ。どれだけ働かせても損はあるまい」
男の言葉に、周囲の村人たちが小さく笑った。
ボクはその場で縄を解かれた。
けれど自由を得たわけじゃない。
代わりに足枷をはめられ、まるで家畜と同じ扱いだった。
その晩、ボクに与えられた寝床は納屋の隅。
床には汚れた藁が散らばり、湿気と獣臭とカビの匂いが混ざり合っていた。天井の隙間から冷たい風が吹き込み、布団どころか毛布すらない。
渡されたのは、ぼろ布のような麻袋一枚だった。
水が欲しくて桶を覗けば、そこにあったのは家畜と共用の濁った水。
泥や虫が浮いていて、とても口にできそうになかった。
けれど、渇きはそれを許さなかった。
仕方なくすくって飲むと、生温かい泥臭さが口いっぱいに広がり、思わず吐き出しそうになる。
次の日から、ボクの労働が始まった。
夜明けと同時に起こされ、畑の石を拾い、固い土を鍬で掘り起こす。
休む暇はなく、昼には家畜小屋の掃除を命じられた。牛や山羊の糞尿が溜まった床に素手で触れ、木の桶でかき出して運ぶ。鼻を突く悪臭に何度も吐き気を催した。
「獣人のくせに、これくらいで音を上げるなよ」
「臭い家畜が! さっさとしろ!」
村人たちの嘲笑が背後から浴びせられる。
昼食はほとんどなかった。ボクに与えられたのは、硬く乾いた黒パンの欠片と、酸っぱくなった乳粥。
喉を潤す水は、相変わらず濁った井戸水だった。
飲むたびに胃がきしみ、腹が鳴った。
数日も経たないうちに、ボクの身体は熱を持ち、腹痛で力が入らなくなった。
夜、藁の上で震えながら、ボクはどうしようもなく情けない現実を受け入れていた。
何度も腹が痛みで捻じれ、ついに制御できず、下腹から温かいものが流れ出た。藁が汚れ、臭いが鼻を突く。
必死に隠そうとしたが、翌朝にはすぐに気づかれ、村人たちから嘲りを浴びた。
「汚い獣め」
「畑の肥やしにでもしておけ」
その言葉が、心を深く突き刺した。
日が経つにつれて、ボクの姿はどんどん惨めになっていった。
毛並みは泥と汗で固まり、爪は欠け、足枷で擦れた足首は血が滲んでいた。
鏡などないが、きっと昔のボクとは似ても似つかない姿になっていたはずだ。
――フェンリル。
胸の奥で、あのときの神の言葉を思い出す。
「裏切りと絶望は、その身に常に付きまとう」
まさにその通りだった。けれど、今のボクには、それを乗り越える力なんて残っていなかった。
季節は初夏に移りつつあったが、ボクにとっては暑さよりも悪臭と飢えが地獄だった。
朝から晩まで畑を耕し、雑草をむしり、乾いた土地に水を運ぶ。けれど村の井戸の水は濁り、底からすくうたびに泥や藻が混ざり込む。
それを桶に入れて畑に撒けば、泥水の匂いが土から立ち上がり、鼻をつく。
そんな水しか飲めないボクの体調は、ますます悪化していった。
腹痛は一日中続き、作業の最中に力が抜けて膝をつくことも多かった。
立ち上がるとき、足枷が擦れて皮膚が裂け、赤い血が泥と混じる。
その痛みに顔を歪めると、近くで見ていた村の若者が石を投げつけてきた。
「サボるなよ、獣人奴隷!」
額に当たって血が滲んだが、反論する気力はなかった。
立ち上がり、また鍬を振るう。
腕は震え、目の前が揺れても、止めればまた罵声が飛んでくるのだ。
夜になると、藁の寝床に戻る。
藁はもう汚物で染み込み、乾くことなく悪臭を放っていた。
下痢を繰り返すボクには、それを隠す術もなかった。
ある夜、とうとう村人の一人が怒鳴り込んできた。
「てめえ、ここを豚小屋だとでも思ってんのか!」
容赦ない蹴りが脇腹に入る。
息が詰まり、藁の上で丸まったまま動けない。
さらに木の桶の水を頭から浴びせられ、汚れを洗い流せと怒鳴られる。
だが、それすらも家畜の足洗い用の水で、泥と糞尿が混じったものだった。
全身が冷え切り、震えながらボクはそれを受け入れるしかなかった。
村の労働は過酷で、そして終わりがなかった。
ある日、薪割りを命じられた。
大きな斧を渡され、丸太を並べて割れと命令される。
だが腕に力が入らない。
何度も斧を振るが、刃は木に弾かれ、手のひらに豆が潰れて血がにじんだ。
「おい、もっと早くやれ!」
村人の怒鳴り声が飛ぶ。
ボクは必死に歯を食いしばり、再び斧を振り下ろした。
その拍子にバランスを崩し、刃が横へ逸れて地面に突き刺さる。
次の瞬間、後頭部に衝撃が走った。
「使えねえ奴だな!」
棍棒の一撃だった。視界が揺れ、倒れ込みそうになるのを必死で堪える。
頭から流れる血が頬を伝い、土に赤い染みを作った。
その夜、納屋の隅でボクはひとり嗚咽を漏らした。
悔しいはずなのに、涙すら出ない。
ただ身体の震えと痛みだけが残る。
フェンリルの言葉――「裏切りと絶望は、その身に常に付きまとう」――が脳裏で木霊する。
救いなど、ない。
ある雨の日のことだった
。村人たちは家にこもり、ボクだけが畑に出されていた。
雨は泥を生み、畑はぬかるみと化す。
ボクは裸足のまま、足枷を引きずりながら泥の中で鍬を振るった。
雨は冷たく、服は瞬く間に濡れ、体温が奪われていく。
「はあっ……はあっ……」
息をするたび胸が痛み、腹も波のようにきしむ。
気づけば視界が揺れ、身体が傾き――泥の中に倒れ込んだ。
顔を上げると、雨水と泥が口に流れ込む。
咳き込みながら這い上がろうとするが、体は重く、まるで鎖に縛られて沈んでいくようだった。思わず目を閉じたとき、心の奥でかすかな声がした。
「立て、我が娘」
フェンリルの声だった。
けれど、それは幻聴にすぎないのだろう。
力など湧かない。ボクはただ泥に沈みながら、雨の音を聞いていた。
どれほど時間が経っただろう。
気づけば村の子供たちが畑の端からこちらを指さし、笑っていた。
「ほら見ろよ、獣の奴隷が泥の中で死んでるぞ!」
笑い声は雨よりも冷たく、胸を切り裂いた。
這い出そうとしても、子供たちが投げる石が背中や頭に当たり、力は奪われていく。
ようやく大人が現れたときも、助け起こされることはなかった。
「こいつが死んだら、畑仕事が減るな」
そう吐き捨てるように言われ、鎖を引かれて納屋に引きずり込まれただけだった。
朝は、村の鐘の音で叩き起こされる。
眠りは浅く、夜中は冷たい藁に背中を刺されながら何度も目を覚ましていた。
それでも容赦なく朝は来る。
「おい、起きろ。日が昇る前には準備をしろ!」
荒々しい声とともに桶の水がぶちまけられた。
冷たい。
身体に染み込んだ悪臭と混ざって、吐き気すら覚える。
ボクは藁小屋から這い出すと、すぐさま畑へと追いやられた。
鍬は重く、柄はささくれていて手のひらに食い込む。
握るたびに皮が剥けて血がにじむけど、手当てなんて許されない。
作業の合間に与えられるのは泥水のような濁った水。
井戸は壊れていて、村人たちは溜まり水をそのまま使っているのだ。
一口、喉を潤すつもりで飲んだだけで――胃が痙攣した。
しばらくすると下腹部が重くなり、耐えられない痛みが襲ってくる。
(やば……! ボク……!)
止めようと思っても無理だった。
畑の隅で膝を抱えた瞬間、制御できずに漏れてしまった。
汚物の匂いが風に乗って広がり、村人の一人が顔をしかめる。
「なんだ、この獣臭い奴隷が……汚ねえな!」
怒鳴り声とともに足蹴にされ、腹に衝撃が走る。
胃の中のものが逆流して喉を焼き、さらに下腹部から流れ出る汚物が下半身を汚した。 「す、すみません……」
そう口にするしかなかった。
恥ずかしい。惨めすぎる。涙が勝手に滲んでくる。
ボクはかつて憧れた獣人の姿を持っているはずなのに――その現実は、誰からも人として扱われない獣以下の存在だった。
昼になると、畑の土は日差しで焼けて熱を持つ。
裸足で歩かされるボクの足裏は火傷したみたいに赤くなっていた。
それでも鍬を振り続けなければならない。
止まればすぐに鞭が飛んでくるからだ。
「手を抜くな! 奴隷の分際で休む暇なんてあると思ってるのか!」
背中に鋭い痛みが走り、汗で濡れた服に血がにじむ。
声にならない悲鳴を押し殺しながら、ボクは歯を食いしばった。
やがて、同じ小屋に押し込められていた年端もいかない奴隷の子どもが、畑で崩れ落ちた。
熱中症か、あるいは不衛生な水のせいで腸をやられたのだろう。
「使えねえやつは捨てろ」
村人の一人が、子どもを藁束みたいに担いで小屋の外へ運んでいった。
そしてその子は二度と戻ってくることはなかった。
(生きることすら、許されないのか……?)
ボクの胸に重苦しい塊が溜まる。
憧れたはずの獣人の身体で生まれ変わったのに、こんなの、ただの地獄だ。
夜になると、腹の痛みはさらに増した。
汚れた水で下したせいで、力が入らない。
身体は熱を帯びて震えが止まらなかった。
小屋の隅で膝を抱えていると、同じように衰弱した奴隷が呻き声をあげる。
咳き込み、血混じりの痰を吐き、そのまま動かなくなった。
誰も気にしない。翌朝、村人が死体を縄で引きずり出していくだけだ。
――人はここまで冷酷になれるのか。
ボクは震える唇を噛んで、必死に自分に言い聞かせた。
(死にたくない……絶対に、死にたくない……!)
だが、希望の光は一つも見えない。
藁の匂いに混じる腐臭、腹を蝕む痛み、夜の闇に響く奴隷たちのうめき声。それが毎日のすべてだった。




