第二話
鎖が地面を擦る音が、遠くの鐘の音のように続いていた。
ボクは木組みの壇の上に立たされ、夕陽に照らされた人々の顔が一列に並んでいるのを見下ろしていた。
熱気と好奇心と、どこかいやらしい期待。目の前がぐらりと揺れて、呼吸が浅くなる。 「さあ、始めるぞ!」という声が奴隷商人の喉から吐き出されると、ざわざわとしたざわめきが広場を満たした。
手が金貨をはじく乾いた音。誰かの声が最初の数字を叫ぶ。
「金貨百枚!」
その一声で会場の色が変わった。
ボクはその響きが具体的にどういう価値を持つのか知らない。
けれど群衆の反応がそれを物語っていた。
人々の視線が鋭くなり、さざ波のように興奮が伝播する。
人々は口元に笑みを浮かべ、誰かが鼻息を荒くして囁くのが聞こえた
「百だと……すげえ」
次の声が上がる。
「百十!」
「百二十!」
値はどんどん上がっていく。
ボクの中にある小さな希望の灯火は、周囲の熱に押し流されるように揺らめいた。
やがて、低くて太い声が周りを切り裂いた。
「百五十!」
声の主は、革の胸当てに深い傷跡を刻んだ男だった。
肩には鎖のように重い剣を掛けており、その眼には戦場で磨かれた冷たさが宿っている。
彼が手を上げた瞬間、周囲の声がいくつか沈んだ。
奪い合いの熱はその一言で一度に静まる。
「百五十で、落札。赤牙団、獲得だ」
木槌が打たれると同時に、誰かが拍手をする。
だがその拍手は祝福の拍手ではない。値段が決まったという満足の音だ。
ボクは鎖越しに男の顔を見た。彼はちらりと横にいる仲間へと目をやり、ひどく淡々とした調子で言った。
「うまく鍛えりゃ、前線で使える。鼻が利くなら索敵にもなるだろう」
その言葉に、ボクの胸がぎゅっと締め付けられる。
フェンリルの声が遠くで揺れていた。
「救え」——その約束は今のところ、まるで別世界の戯言に聞こえた。
連れて行かれる道すがら、人々の囁きが耳に刺さる。
誰かが「珍しい」と呟き、誰かは自分でも手に入らないかと金貨の計算をし、誰かはただ興奮している 車や馬車の音、人間の足音、遠くで売られる声。
ボクは首につけられた金具が擦れるたびに、皮膚の奥に冷たい感覚が広がるのを覚えていた。
宿場に着くと、赤牙団の拠点というべき粗末な建物の二階の一室に押し込まれた。
檻というほどではないが、柵の張られた区画に立たされ、粗末な布を掛けられる。
仲間の獣人と呼ばれる者は同じように扱われている。
彼らは目を伏せ、誰もこちらに話しかけようとしない。
そして夜が訪れた 中年の男が酒を煽り、女が唇をとがらせて笑い、若い男が得意げに武勇談を披露する。
そんな声の中で、ボクは小さく丸まって藁の上に寝た。
身体はまだ慣れない獣の肉体に痛みを覚え、爪の先は鎖を引っ掻いたからか、血がにじんでいる。
しかし翌朝には、容赦なく仕事が始まった。
赤牙団のリーダーが朝餉の席で短く命じる。
「今日は森の小狩だ。お前の嗅覚で魔物の巣を探せ。獲物を見つけたら前に出て、こちらへ誘導しろ」
言葉の端々に冷たさが滲む。
ボクは首にかけられた短剣を握らされ、引かれながら森へと向かった。土と湿った葉の匂いが鼻腔を貫く。
ボクの心臓は鼓動を上げ、爪先が地面に馴染まない裸足で歩く感覚に焦る。
最初の遭遇は、惨めだった。
茂みの中から牙猪が飛び出してきたとき、ボクは反射で身体を動かしたが、相手の厚い皮膚に爪は届かない。
跳ね返され、腹部に鋭い衝撃が走った。視界が白くなり、耳鳴りがする。
後ろから魔力の閃光が走り、冒険者達が魔物を切り倒す。
ボクは地面に叩きつけられた。男たちの声が怒号へと変わる。
「ちっ、ただの囮にしかならん。金を無駄にしたな」
誰かが鞭で背を叩く。痛みと屈辱が重なり、涙がにじむ。
だがそれも長くは許されず、軽蔑と怒りの混じった手が再びボクを立たせる。
回復魔法で少し傷を癒される程度で、また前へと送り出されるのだ。
日々は荒々しく、無慈悲に過ぎていった。
依頼があれば森へ、洞穴へ、時には人里離れた谷へと連れ出された。
昼は重い荷を運ばされ、夜は見張りにつかされ、戦に巻き込まれれば前衛となって矢面に立たされた。
ボクはいつしか、自分を守る術を忘れていった。
どう振るえばいいのか。いつ牙を食いこませればいいのか。
フェンリルの血を引く狼獣人の中にある力は感じたが、それを引き出す方法がわからない。
怪我をすれば、赤牙団の女が淡々と回復魔法をかける。
必要最低限の回復だけで、次の任務へ送り出される。
彼はいつも効率に基づいており、情けはない。
ボクが呻くたび、誰かが笑い、誰かが嘲りを込めて言った。
「おい、てめぇは道具だ。何も考えるな」
その言葉は、夜の静寂の中で何度も反芻された。
ボクの胸の中にある小さな光は、少しずつ薄れていった。
だが完全に消えてはいなかった。
あの競りの時に見つめてくれた、静かな瞳の少女のことを思い出すと、胸が僅かに温かくなる。
あの人は、自分のことをどう見ていたのだろうか。
ただの通りすがりの憐れみに過ぎなかったのだろうか?
ある夜、焚き火のそばで男たちが談笑しているとき、リーダーの一人がつぶやいた。 「この獣人、百五十で買ったのは失敗だったかもしれん。戦いで使えるかと思ったが、どうやらただの足手まといだ」
別の者がなじるように笑う。
「二束三文でもあの村に売り飛ばして、また新しい奴隷でも買うか」
そのひと言が、ボクの胸に冷たい鉛の塊を落とした。
冒険者たちにとって獣人はただの道具でしかない。
使い潰せば終わりだ。
血の匂いと鞭の痛みで、ボクは自分が人ではなくなる瞬間を、何度も味わっていた。
数日後、決定が下された。
赤牙団はボクを、見切りをつけたうえで村へと売り渡す手配をしていた。
二束三文の値で引き取られるという話が、宿の片隅で囁かれる。
ボクは小さく震え、だが言葉は出なかった。
首輪の金属が冷たく光り、夕暮れの空が窓の向こうで赤く染まる。
連れて行かれるとき、ボクは目を閉じていた。
だが片隅で、ふと空を見上げると、遠くの木立の向こうに偶然見つけた月が薄く顔を出していた。
その冷たい光は、これから進む道の暗さを照らすだけのものかもしれない。
それでも、心の奥底で小さな何かが灯っているのを感じる。
おぼろげに、だが確かに。
宿の窓から漏れる薄い灯りを見つめながら、ボクは自分の手をじっと見た。
毛皮に覆われたその手は、まだ子どもめいた細さを残している。
かつて図鑑の写真を見ながら夢見た憧れは、いつのまにか痛みと怯えに取って代わられていた。
けれど指先の震えの奥に、小さな炎が残っているのも知っている。
それはフェンリルが言った「希望」の火であり、どれほど踏みにじられても消えないかもしれない芽だ。
いつか——もしまた誰かがボクをボクとして見てくれるなら、ボクはこの希望の火を燃え上がらせれるかもしれない




