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第一話

 ボクは昔から、動物がとにかく好きだった。

 小さな頃から猫や犬に話しかけ、折に触れて野良の世話をしてきた。

 放課後に教室を抜け出して公園のベンチに座り、野良猫が寄ってくるのを待つ時間が何よりも幸せだった。

 図鑑をめくり、獣の写真に見入っては、心の奥でいつか彼らのように自由に生きられたらいいなと夢見ていた。

 特に惹かれたのは狼の群れの結束だ。映画やゲームで群れのリーダーが仲間を守る姿を見るたび、胸が熱くなった。

 獣人――人の形に獣の特徴を併せ持つ存在に憧れたのも、その延長線上にあった。

 だからこそ、あの夜の出来事は皮肉でたまらなかった。

 残業を終え、冷たい夜風の中を歩いていたとき、かすかな鳴き声が路地の奥から聞こえた。

 廃材と段ボールに囲まれた薄暗い隙間に、小さな子犬が丸まっていた。

 震える毛並み、痩せて骨が浮き出るような細さ。

 誰かに見捨てられたのか、必死に生き延びようとするその姿に、ボクの胸は締めつけられた。

 近づくと、その子は怯えて後ずさる。

 だがボクが手を差し出すと、ゆっくりと近寄り、震えた鼻先で手の甲を確かめた。温かさが伝わる。

 抱き上げると小さな鼓動が腕に伝わり、頬が緩む。

 病院へ連れて行かなくちゃ。

 持っていたタオルをかけ、スマホで近くの夜間動物病院を検索する──その瞬間、遠くからタイヤを鳴らす音が聞こえた。  

 明るいヘッドライトが路地に滑り込み、子犬が突然走り出した。

 どうしてそんな方向へ行ったのか、今でも説明がつかない。

 ボクは本能的に追いかけ、子犬を助けようとした。次の瞬間、轟音と共に身体が宙を舞った。

 鋼鉄がぶつかる感覚、そして全身を伝う痛み。

 世界がゆっくりと黒へと溶けていく。

 抱き抱えていた小さな命の重さだけは覚えていた。


 ……気づけば、真っ白な空間に立っていた。

 上下も左右も分からない。ただ果てしなく白い世界。

 痛みはなく、腕に抱いていた子犬の姿もない。

 代わりに、圧倒的な存在感だけがボクを包んでいた。  

「――よくやった」   

 低く響く声が、胸の奥に直接流れ込んでくる。

 振り向けば視界に巨大な姿が浮かぶ。

 銀白に光る獣毛、夜空のように深い瞳。

 目の前で息づくそれは、想像を超えた威厳を放っていた。  

「お前の行いは、無駄ではなかった。命を投げ出しても守ろうとした、その心は尊い」 

「……あなたは?」   

「我は獣神フェンリル。この世の獣たちを司る存在だ」  

息を呑む。まさか、自分が憧れてきた狼――いや、それ以上の神格を前にしているなんて。

 フェンリルは静かに続けた。  

「我が世界の世では、獣は虐げられている。道具として、玩具として、そして奴隷として。汝の心は、それゆえに尊い。故に、我は願うのだ――汝の魂を、我が娘として再び生かそうと」  

 理解が追いつかないまま、しかし胸の奥で何かが震えた。

 獣人になれるという想像は、子供のころ何度も描いた夢だった。

 だが同時に、そこには試練があると告げられるような冷たい予感も混じる。  

「……ボクが……?」と問えば、フェンリルは小さく頷いた。

「生まれ変われ。だが覚えておけ、楽はないと。裏切りと絶望は、その身に常に付きまとう」

 その言葉はまるで針のように胸を突いた。けれど、ボクが返した言葉はただ一つ――「やるよ」だった。  


 次の瞬間、光が全身を包んだ。

 暖かさと冷たさが同時に流れ、身体の感覚が変わっていく。

 何かが骨の中で引き剥がされ、皮膚の表面に新しい毛が芽吹く感覚。

 息を吸うと、空気が澄んで鋭く鼻腔を突いた。――そして、目を開けた。  


 世界は木々の匂いと土の香りで満ち、空は意外なほどに澄んでいた。

 両手を見下ろすと、白銀の毛に覆われた前足、鋭い爪。

 頭の上には一対の耳がぴんと立ち、腰には尾が揺れている。

 水面に映る自分の姿を見て、言葉を失った。

 幼い頃から夢見ていた「獣人」の姿が、確かにそこにあった。  

 喜びは確かにあった。けれどそれは一瞬のことだった。

 背後から響いた人間の声と、鉄の鎖が地面を引きずる音に全身が硬直する。

 数人の男が、欲を含んだ眼差しでこちらを見ていた。

 縄の輪が首に滑り込む。

 逃げる間もなく、粗雑に引きずられる。

 連れていかれる道すがら、町や街の光景が流れるが、どれも冷たく無関心であるように見えた。  

 初めて見た「自由」は、あっけなく奪われた。

 獣であることを願った自分が、まさかこんな形で「所有物」として扱われるとは思いもしなかった。

 夜の風に、フェンリルの言葉が遠くでこだまするように感じられた。

 ――「救え」。

 その短い命題が、今のボクにとってはあまりにも遠く、届かない。  


 転生する前、子供の頃の記憶が、ふと溢れてきた。

 夕暮れの小道で母に叱られながらも野良の子猫を隠して家に連れ帰ろうとしたこと。

 雨の中、震える子犬を抱えて近所を歩き回り、ついには獣医さんの助けで助けられたこと。

 夏休みには図書館から狼に関する本を何冊も借り、群れの習性や狩りのやり方を夢中で読みふけった。

 そうしていつの間にか、ボクの中に「守るべき者」への感覚が育っていったのだと思う。

 あの日、トラックの衝撃で空を飛んだとき、時間はやけにゆっくりと流れた。

 胸を締めつける痛み、耳鳴り、焦げたような匂い。

 だが同時に、子犬の温もり――それはまるで灯りのように暖かく、ボクの意識の中心に揺れていた。 

 消えないでくれ、という祈りのような気持ちが身体中に満ち、言葉にならない叫びが喉を震わせた。  

 フェンリルの体躯は想像よりも巨大で、思わず震えが走る。

 だがその瞳は優しく、どこか悲哀を湛えているように見えた。

「我が娘として……」という言葉に、ボクは不思議と拒否感よりも安堵を覚えた。

 誰かに自分の痛みや弱さを見つめられ、受け止めてもらう感覚があったのだろう。

 とはいえ、フェンリルは同時に試練を告げる。

 選ばれた者が享受する重責と孤独を、彼は淡々と語った。    


 フェンリルの声は、風の音に混じる鐘のように響いた。

 その言葉は慰めでも脅しでもなく、淡々とした宿命の宣告だった。

 重責と孤独――言葉が胸に落ちるたび、ボクの胸はぎゅっと締めつけられた。

 だが同時に、どこかでそれを選んだ自分を誇らしくも思った。

 守りたいものがあるという実感が、細い灯のように鼓動を強くしていく。  


 光がすっと引いていく。

 暖かさが消え、体の奥に新しい何かが残ったのを感じる。

 フェンリルの姿は遠ざかり、白い世界は曖昧に溶けた。

 次に目を開けたのは、ざわめく森の縁だった。

 風が葉を震わせ、土と草の匂いが鼻腔を満たす。

 自分の呼吸のリズムが、まるで以前と違うことに気づく。  


 手だと思って見下ろしたそれは、いつもの指とは違った。

 毛に覆われ、先端は鋭く、触れたものを微かに刻むような感覚が走る。

 頭の上の違和感に触れると、そこには淡い毛並みの耳がぴんと立っていた。

 腰にまとわりつく尾の揺れを感じて、ボクは思わず笑った。

 夢にまで見た姿だ——獣人になってしまったんだ、と。  

 けれど喜びは長く続かなかった。遠く、石や金具がぶつかるような金属音、人の声が聞こえる。

 次の瞬間には重たい縄が首筋に回り、冷たい金具が食い込んだ。

 ぐいと引かれる衝撃で視界が揺れ、人間の粗い手に毛を掴まれる。

 誰かが笑い、誰かが値踏みをする声。

 ボクは必死で抵抗しようとしたが、体がまだ馴染んでおらず、力はうまく出せない。

「見ろよ、珍しい狼獣人だ」  

「銀狼の類だろうか? あまり市場には出ないな」  

 耳に入る言葉は、どれも冷たく計算された音色だった。

 先ほど自分の中で燃え上がった小さな誓いが、鈍色の現実に叩き折られていく。

 鎖が地面を擦る音が、まるで始まりの合図のように響いた。  

 人間たちはボクを引いて、車が走る道を越え、小さな町へと連れて行った。

 見慣れない建物や看板、人の群れ——どれもがボクを「見る」目で満ちている。

 誰もが興味本位で覗き込み、子供は指をさし、大人はぽつりと値段をつぶやく。

 ボクは唇を噛み、目を閉じて世界を押し込めた。声を出せば殴られる。

 叫べば鎖の端にいる者が煩わしくなるだけだ。  

 その中に一つの気になる視線を感じる。

 哀れみでも珍しいものを見る目でもない。

 ただ純粋にボクをボクとして見てくれる目  その視線は一人の少女から放たれていた  


 夜が近づくころ、広場に組まれた台の上にボクは立たされていた。

 囲む人々の熱気と呼び声、売り声の混じるざわめき。

 太陽は傾き、空は血の色に近づく。

 ボクの胸の奥で、フェンリルの言葉がかすかに反響する——救え、という命題が遠く、小さく鳴る。  

「さあ、始めるぞ!」という甲高い声。

 競りの始まりだ。何を言っていいのか分からない。

 名前すら与えられていない。だが、耳に届く数の単位は一つだけじゃないことを知る。

 人々の手が金貨をはじき、声が値を重ねていく。

 ボクはただ、台の上で小さく震えているしかなかった。  


 どこか遠くで、幼いころ飼っていた犬の温もりが蘇る。

 あの子を抱いていたときの手の感触、心臓の細かな鼓動——それが今のボクをつなぎ止めているのかもしれない。

 だが、冷たい金属の輪と人々の計算は容赦がない。

 ボクは、自分がこれから何にされるのか、その全貌すら知らないまま、数々の視線に晒され続けた。


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