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短編2

婚約破棄などするはずがなかった

作者: 猫宮蒼

 決して無能ではないけれど、物語にあるほど優秀でもない二人の話。



 ――ざぁっ、という音が今にも聞こえてきそうな勢いでアイシャ・バーンディ男爵令嬢の顔が青ざめるのを、王太子であるローランは何の感慨もなく眺めていた。


 市井に出回っている娯楽小説の中には、貴族たちが通う学園で身分の低い娘と王子が出会い恋に落ち、最終的に結ばれる、という身分差を乗り越えて真実の愛を掴み取る物語というものがいくつか存在している。

 実際にそんな事が現実に起きるとは思えないけれど、それでも小説の中の甘く切ない文章に多くの少女たちは胸をときめかせたりもしていた。

 一部の令嬢などは、もしかしたらそんな事が本当に起きてしまうかも……! なんて期待をした者もいたのだろう。


 間違いなく、アイシャ・バーンディはそんな夢を見ていたに違いない。


 だがしかし、物語のようにアイシャが悪役令嬢に虐められるような事はなかったし、卒業式で婚約破棄を宣言してローランがアイシャと結ばれるというような事は一切なかった。


 学生時代に偶然出会った事は確かだし、その後も何となく縁が続いて学友としてローランの近くにいたアイシャだが、それだけだった。

 学園を卒業後も何となくローランの近くにいる事を許されていたようだが、周囲が思い描くような事はどこにもなかったのである。



 それでもアイシャは夢を見続けていた。

 本来学園を卒業後、彼女はどこぞに嫁入りするか、そうでなければ家を出るしかなかったのだが、バーンディ男爵家は良縁を見つける事ができなかった。

 旨味が全くないわけではないのだ。

 バーンディ男爵家はかなり大きな商会を経営しているので、持参金をたっぷり持ってアイシャが嫁に行く事など容易いだろうし、資金援助も期待できる。


 金目当てで結婚したい、なんて言う相手は探せばかなりいるのではないだろうか。

 とはいえ、金を毟り取られるだけというのが目に見えているような相手に娘を嫁がせるつもりはバーンティ男爵にはないようだが。当然だろう。一方が損しかしない結婚に、それも自分たちが損をするとわかっているようなものに商人としてのし上がってきた男爵が頷くはずはないのだ。


 身分でもって相手に圧をかけて無理に婚姻関係を結ぶような事は法で禁止されている。

 かつてそれをやって手酷い目に遭った者たちがそれだけいたという事だろう。そうでなければ法で定められる事もなかったに違いない。


 お互いの家にとって利になる、と判断した上での政略結婚や恋愛結婚ならまだしも、家の当主を脅した上でその家の娘を嫁に寄こせ、というのはやった時点で色々とアウト。

 過去にそういったあれこれが蔓延っていたと考えると、頭の痛い話でもあった。


 ともあれ。

 アイシャに婚約者はいなかった。

 貴族の中でも階級の低い男爵家の人間ではあるけれど、しかしバーンディ家の資産は莫大である。故にわざわざ家柄だけが取り柄の貧乏貴族に取り入る必要性もなく、アイシャは特に結婚相手を学園で見つけてこい、などと言われるような事もなかった……とは、アイシャ本人の談ではあるが、それは建前だろう。


 ローランにはそう言っていたけれど、学園にいた時ローランは何度かアイシャから秋波を送られていた。

 ローランには婚約者がいるので気付かない振りをして無視していたけれど。


 それでもアイシャを近くに置いていたのには理由があった。



 バーンディ男爵家が経営している商会は、表向きこそクリーンではあるが裏では色々と言われている事もあった。勿論、貴族にしろ商人にしろ清廉潔白なだけでは勤まらない。ただ、グレーゾーン通り越してレッドゾーンに突入しているようであれば問題である。


 噂の中には商売敵が陥れようとして流した事実とは異なる噂だって勿論含まれているし、それ故に信じるべき情報かどうかは各々で調べなければならない。


 ローランはいずれ国を牛耳る事ができるかもしれないくらいの財力を持ち始めていたバーンディ家の裏を探っていたのである。


 故に、アイシャを近くに置いていたのは恋愛感情からではない。

 下手に王族が疑っていると知られてしまえば、バーンディ男爵家が逃げ出す可能性もあった。

 だからこそ、決して直接的な事は言わずとも、もしかしたら……という微かな望みを持たせるような態度でアイシャを留めておいたのだ。

 そうする事で、男爵家は自身の娘が王家に入る可能性をわずかでも考えるだろうから。



 そうしてようやくバーンディ男爵家が隠していた後ろ暗い数々の件を暴くに至ったのである。


 学園を卒業する前に決着をつける事ができればよかったが、しかしできなかった。

 故に、思わせぶりな態度でもってアイシャが領地へ帰らないよう、王都に留め続けていた事も、アイシャがいずれ正妃は無理でも側妃にはなれるかもしれない……と思わせるには充分だったのだろう。



 しかしそれもようやく終わりを迎えたのだ。


 バーンディ男爵家の罪を全て、詳らかにされて最早逃げる余裕すらない状況である、と知ったアイシャの顔色は死人のようだが、きっと今頃屋敷でこれからの明るい未来を思い描いていた男爵夫妻とアイシャの兄もまた、そうなのだろうな、とローランは連行されていくアイシャを見送って思った。




「――学園の卒業式で、それでも婚約破棄だ、なんて茶番をしてあげても良かったのではなくて?」


 すべてが終わってようやく人心地ついたローランに、しかし婚約者であるサフィスはしれっとそんな風に言ってのけた。


「そうすれば君に悪い噂が付きまとうだろう。冗談じゃない」


 ようやく落ち着いて婚約者と二人きり――周囲に使用人がいるけれどそれはノーカンである――になれたというのに、愛しい婚約者は相変わらずつれない態度で、故にローランは即座にそう答えていた。


 冗談でも婚約破棄だ! なんて言おうものなら嬉々として本当に解消しかねない。

 ローランは幼い頃に婚約を結ばれてサフィスと関わるようになっていくうちに、サフィス以外の誰かと結婚なんて考えられない! と思う程度には彼女に首ったけなのだ。

 なので冗談でもこの関係を終わらせるような言葉を出そうなんて思うはずがない。

 サフィスは自分に王妃だなんてとてもとても……なんて言っては辞そうとするが、しかし彼女以上に王妃として自分の隣にいるに相応しい人物はいない。


 ローランがもっと優秀な存在であればサフィスのその言葉は文字通りに受け取られたかもしれないけれど、しかし残念な事にサフィスの方が優秀なのだ。ローランはそんなサフィスにいつだって支えられている。執務的にも、精神的にも。


 サフィスは自覚している。甘やかそうと思えば簡単にできるけれど、しかしそれをするとローランはそのままずぶずぶと沼に沈んでいくように依存するだろう事を。だからこうしてやんわりと突き放そうとしているのだ。


 そしてローランもそれを理解していた。

 だからこそ常に己を律する事を忘れないように心がけている。


「茶番をしなくたって卒業後にまで彼女を身近に置き続けて、側妃になる可能性に関しては思い切り噂になっていたのだから、一切悪い噂がなかった、と言えば嘘になりますわね」

「……すまない、私が不甲斐ないばかりに」

「いえ。この件に関してはわたくしが動けば彼女は警戒したでしょうし、他の誰が動いたとしてもバーンディ男爵家が警戒して余計に時間がかかった事でしょう」


 バーンディ男爵が野心を持っていた事は知っていた。

 そして、周囲にそれをあからさまに知られないように動いていた程度には警戒心が高い事も。


 であれば、高位身分の者たちがバーンディ男爵に露骨に疑いの目を向けていたのなら、彼はきっとやらかしていた後ろ暗い事のほとんどを身代わりに押し付けて逃げ出していたに違いない。

 国外に逃げられてしまえば、こちらが手出しできる可能性はぐんと低くなる。


 それを避けるために、周囲はあくまでも極秘に、誰もバーンディ男爵を疑ってなどいないという風に装わねばならなかった。故に精々バーンディ男爵の周辺から聞こえてきた言葉は、彼を羨み嫉妬する声や羨望や称賛といったものだけだった。


 アイシャがローラン以外の高位身分の令息に見初められていたのであれば、学園を卒業後にさっさと結婚にもつれ込ませていたに違いないが、王太子ともなればそう簡単にいかなくても男爵もまたそれもやむなしと思えたのだろう。


 莫大な財を成したといってもバーンディ男爵はあくまでも低位身分の貴族で、高位の――それこそ王家のしきたりなど細かな部分を知るはずもない。

 だからこそ、今はまだ結婚できないのだとかあれこれ話を引き延ばしたところで、じれったく思っていたとしても、急かすわけにもいかなかった。自分より立場が下の相手であれば急かしただろう。だが王家相手にそれをやって、結果アイシャとローランを引き離されるような事になっていれば、バーンディ男爵の思惑からは大きくかけ離れる。


 自分の娘が王族に嫁入りする事を夢見ていたその期間は、しかしバーンディ男爵が行っていた後ろ暗い犯罪を明るみに出すまでの時間稼ぎでしかなかった、と捕まった後の男爵が知ったら果たしてどう思うかまではローランにとっては知った事ではないのだが。



「てっきり彼女もがっつり関わっているかと思っていたんだけど、実際知ってたのは麻薬を扱ってた事くらいだったよ」

「その麻薬も、麻薬と知らされずに……って事だったかしら?」

「あぁ、じゃなきゃ最初の頃にこちらに盛ろうとしなかっただろうね」

「媚薬的な効果のあるちょっとしたハーブ、でしたか? 彼女の言い分は」

「あぁ、実際はご禁制の代物なんだけどね。

 ……親に騙されたと言ってしまえばそれまでだけど、それでもやらかした事実は消えない。

 まぁ、バーンディ男爵家は取り潰されるし、夫妻は言い逃れもできないくらいに真っ黒だったから処刑は免れないし兄もな……無罪放免とは絶対に無理だとして……彼女は……」

「王族に麻薬を盛ろうとした、と考えれば処刑もありかもしれませんが、知らなかったのであれば平民落ちと言う名の奴隷落ちが妥当なところでしょうね。場合によっては国外追放もあるのかしら?」

「さてね。盛ろうとした、であって実際盛られたわけじゃないからそのあたりの裁量は私がやるべき事ではない」

「えぇ、貴方が即位していたのであればまた違ったでしょうけれど、今はまだ違いますものね」


「ともあれ、これでようやく周囲が落ち着くし、先延ばしになっていた結婚式も無事にあげられそうかと」

「ふふ、とっくに準備だけはしてあるので、後は式だけ、でしたものね。

 ……もっと長引いていれば、また準備のし直しになったかもしれませんが」

「やめてくれ……そうしたら君はまたあれこれ理由をつけて婚約を辞退しようとするんだろう。

 逃げられないために努力したのが水の泡なんてあんまりだ」


 本当に大変だったのだ。


 バーンディ男爵に余計な疑いを持たれないために、身分違いの恋に落ちたように見せかけるのも。

 周囲にそれでサフィスとの婚約がなくなるのではないかと思われて横やり入れられてはたまらないと、こっそり根回しした事も。

 他にもあれこれやるべき事は日々多く存在していて、ゆっくりと婚約者と二人きりで逢瀬を重ねるなんて事もできやしないくらいの忙しさだった。


 自分がもっと優秀であれば……! と何度己の不甲斐なさを悔やんだところで、現実はそう簡単にローランを完全無欠の英雄のような存在にはしてくれなかったし、泥臭く足掻いていた事を隠し通すので精いっぱいだった。


 ローランは自覚している。

 王太子という立場にあるとはいえ、それは他に適任がいないからというだけである事を。

 王位継承権を持つ者が他にいないわけではないが、現国王がそろそろ退位して後はのんびり過ごしたいなと思っている状況下で、国王としてやっていけて、なおかつ年齢的にも問題がない人物、というのに当てはまったのがローランであったという話だ。

 あともう数年頑張れば他の継承権を持つ誰かが選ばれたかもしれないが、国王はお疲れであったのでそこまで頑張りたくない、との事だった。


 実際バーンディ男爵家以外にもやらかす相手はいたので、そちらの対策などで確かに大変そうだった。


「……私が即位したら今回の件以上に面倒で厄介な事が大量にあるのか……務まる気がまるでしない」

「だからこそのわたくしでしてよ」

「そうだったね。頼りにしてるよ。というか、それなのに辞退しようとしてるの? やめて。国が傾くかもしれない」

「大袈裟ですわねぇ……殿下が即位する前にわざわざ陛下がかかるであろう手間を少なくしてくださってるのに」

「優秀な側近もいるとはいえ、それでも一人脱落したからなぁ……」

「あぁ……あれは……残念な事故でしたわね……」


 側近たちもバーンディ男爵家に関しては警戒していたのだが、その中の一人が迂闊というかうっかりというか、ともあれアイシャの持ってきた菓子に軽率に手をつけてしまい、そこに含まれていた麻薬を摂取してしまったのだ。

 一度だけの摂取だったので、廃人になるまではいかないが、それでもしばらくは治療が必要になってしまった。


 本人曰く別の店で買った菓子と似ていたせいで間違えた、との事なので本当にうっかりである。

 ちなみにこの一件でバーンディ男爵家への罪が一つ上乗せされたので、本当にうっかりかと他の側近たちは疑いの目を向けていたが。もしうっかりでなければ身体を張りすぎである。




「――これからもきっと私は色々と君に迷惑をかけるし、手間をかけると思うけれど。

 どうか見捨てないでほしい」


 改まって言うローランに、サフィスは一拍置いてから微笑んだ。



 別に、見捨てるつもりなんてこれっぽっちもないのだ。

 確かにかつて、ローランは甘やかされるままに楽な方へ流されかけていた事もあった。

 あったのだけれど、それはまだ幼い頃の話であって、今はそうではない。

 けれども、当時の事を思い出しては今もそうなるのだと信じて疑わない。自分自身への戒めとなっているのはいいが、もう少しその枷を緩めたところで問題はないのに。


 サフィスが口先だけとはいえ突き放そうとする素振りを見せるのは、そうする事でローラン自身が自分にがんじがらめになるレベルで戒めるのを緩める目的もあった。サフィスがそう言えば、ローランはそちらに意識が向いてそれ以上自分自身を追い詰めようとはしなくなるから。己を律するのはやめないが不必要なまでに追い詰めるのは一時的とはいえ止まるので。


 物語などではよく、王子が成人前に何やらとんでもない犯罪組織を潰したり、成人前に勇者として世界を救ったりするような話があるけれど、現実としてそんな王子が果たしてどれだけいるというのか。

 サフィスは優れた教育を受けて育ってきた王族という存在を、自国だけではなく他国の者も含めて目にする機会があったから知っている。


 ローランは決して自身が言うような無能ではないと。

 幼い頃にちょっと楽な方に流されかけて調子に乗っていた結果、育ちかけていたプライドがバキバキにへし折られた事もあったからこそ、自己肯定感が低めになってしまったけれど。

 けれどサフィスにとって、自分が知る王子様という存在の中でローランは一際優秀である。

 そんな相手から、サフィスの方こそが優秀だと言われて、正直自分自身もまたいつ彼に、

「あれっ? 思ってたよりサフィスは優秀ではないのでは……?」

 なんて思われるような事になれば、と考えるだけで常に気を引き締めなければと思う次第なのだ。


 だからこそ、サフィスは常に上を目指し続けるしかないし、自分自身が大した事のない人間であるなんて思われてガッカリされないよう、自分に価値があると思わせるように、悠然とした態度を崩さず振舞っている。

 表向き余裕のある強者の笑みを浮かべていても、内心ではいつそのメッキがはがれるかと冷や冷やしている小心者――それがサフィスだった。


 ローランが果たしてそれをどこまで気付いているかはわからない。


 わからないけれど。


「わたくしも、殿下に見捨てられないよう頑張りますね」


 見捨てるなんて有り得ない! と叫ぶローランに、


「では、お互いがお互いに見捨てられないよう頑張りましょうか」


 サフィスは淑女の仮面を捨てた、本来の笑みを浮かべて言ったのである。


 ローランは自分ばかりがサフィスの事を好きだと思っているようだけれど。

 素直に好き、と言えないサフィスなりの精一杯の告白を果たしてどこまで拾い上げてくれるだろうか。


「勿論だとも!」


 力強くそう言ったローランの態度から、どれだけのものを汲み取られたのかはわからないけれど。


 今はただ、ローランの瞳に映っているのがサフィスで、サフィスの瞳に映っているのがローランであるというその事実だけで充分だった。

 次回短編予告

 幼い頃のやらかしがその後の人生に影を落とした。

 それでも、生きていくしかない。それが償いなのだから。

 そんな風に生きてきた男が幸せになるまでの話。


 次回 切り離された祝福

 祝福と呪いは紙一重。

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この手の犯罪とか即座に完全無欠に解決出来るの物語の非実在、言っちゃえばアメコミとかなろうのスパダリと言う名のチートヒーローとか主人公と言うヒロインじゃ無いだけで カメラとかビデオとか録音機とか無しで発…
優秀な国王夫妻になりそうで、国の次世代は安泰ですね。ちょっとお互いに追い詰めあってない?と思わないでもないけど、切磋琢磨しているとも言えるし。上手くいきそうで何より
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