四
【どくぼっちさん、大丈夫ですか?】
【更新がないので、心配してました】
家に帰って気づいたのは、届いていたのはどくぼっちに寄せられたコメント。moment diaryの通知以外にも、婚活サイトの運営からも連絡がきてたっけ。
届いていたメールを開こうとして、やっぱりやめた。
【婚活は……もう、やめたい】
メールの代わりにmoment diaryを開いた。コメントに返信しようとして、思いとどまる。
私が打ち込んだのはあふれ出た本音。
里奈さんと出会ってから、どうしても婚活に前向きになれなかった。
いや、違う。
きっと最初から、婚活に前向きな気持ちなんてなかったんだと思う。
里奈さんと話した時、解放されたような。そんな風に心がすっきりした。私はいったい、何におびえて、何を気にして生きてるんだろう……。
考え込んでいると、フォロワーのタイムラインが更新された。
【今日は常連の屋台。食べ友と一緒。美味しいを共有出来て、幸せを分かち合えるっていいよね。女友達最高!満たされて幸せな一日でした】
それは、里奈さんの日記だった。
読み終えると、視界がぐにゃりと歪む。涙なんて最近は流すことなんてなかったのに。
私のお腹を満たした「美味しい」は、感情にも踏み込んでくるらしい。
その時、持っていたスマホが震える。誰かからの着信だ。画面に映った名前を見て、どきりとする。
「……お母さん」
気軽に通話ボタンを押すことは出来なくて、浅く深呼吸した。今までだったら、またあれこれ言われるのがイヤで、この電話も出ていないかもしれない。
だけど、意を決してグッとスマホを強く握った。
ゆっくりと通話ボタンを押す。
「も、もしもし?」
「綾? 今大丈夫?」
「少しなら……」
「すぐ終わるから。あのね、そろそろ実家に戻ってきたら?」
唐突すぎる提案に、思考が一時停止する。
どうして? なんで?
そう聞きたかったけど、母のマシンガントークは止まらない。
「婚活うまくいってないんでしょ? だったら、お母さんが地元で探すわよ。結婚してくれるなら、誰でもいいでしょ?」
誰でもいい? そんなわけないじゃない。
「34歳だもんね。貰ってくれるならありがたいわよね」
人をまるで、余りものみたいにいうな。
言い返さないでいると、母の言葉の毒はヒートアップして止まらない。
聞きたくない言葉も、次々と鼓膜をさした。
あぁ、めんどくさい。
ぷつりと何かが切れる音がした。
「お母さんはさ、なんでそんなに結婚させたいの?」
「なんでって、綾に幸せになってほしいから」
勝手に幸せを決めつけられるのは、もううんざりだ。
「だったら、大きなお世話。もう、幸せだから」
「結婚もしてないのに、なにいって……」
「私の中では、結婚がイコール幸せじゃないの! その考えはお母さんの考えだから。私の人生にまで、お母さんの価値観持ち込まないで!」
「……あ、綾?」
一度本音が放たれると、我慢していたものがあふれ出す。
「婚活だって、本当はしたくなかった。いや、違うね。お母さんにいわれたとき、自分の人生が幸せなのか、確信が持てなかったんだ」
そうだ。あの時、自信が持てていたなら。きちんと反論できたはず。
だけど、今なら……。
「ごめんけど。もう心配してくれなくていいから! 人生幸せに過ごせてるんで! 自分の幸せは、私に決めさせろ!」
殴りつけるように、強い語気で言い切った。そして、返事を待たずにぶつりと通話を遮断する。
「……ははッ、完全に言いすぎた」
途端にちょっと笑えてきた。
だけど、通話が終わり暗くなったスマホ画面に映った私は、開放的な笑みを浮かべていた。
*
金曜日
また一段と冷える日だった。けれど、寒空の下食べる楽しさを知った私は、寒さなんて平気だ。
ただ念のため、首元にマフラーを巻いて防寒対策も欠かさない。
冷えた指先をさすりながら屋台に到着すると。
淡く灯る提灯の近くで、里奈さんは手を振っていた。
「おつかれさま」
「お疲れさまー」
里奈さんもボリュームのあるスヌードをつけていたので、同じ思考だったのかな。と思わず笑ってしまった。
「綾ちゃんも暖かそうなマフラー付けてる」
「里奈さんはスヌード? いいよね。あったかい」
「そっ。すっぽりかぶるだけだからね」
テーブル席に座って、雑談を交わしていると。
「今日はカウンターで食べてって」
静かに現れて、ぼそりと言い捨てたのは、相変わらず不愛想な大将。
カウンターに招かれるのは、はじめてのことだったので、里奈さんと顔を見合わせた。
「どうしたんだろ?」
「寒そうだから?」
屋台のカウンター席も、けっして暖かい場所ではない。だけど、大きな鍋が目の前にあるので、テーブル席よりはあたたかいのだ。
外で食べる私たちに気を使ってくれたのかな。そんなことを思った。
「お邪魔します」
さっそく暖簾をくぐると、ふわりと美味しそうな匂いが広がる。おでん鍋から放たれる香りは、一気に食欲を刺激する。
「あれ、他のお客さんいないんだね」
「本当だ。いつもは満席なのに……」
大将のお店はいつも繁盛していて、どの時間帯も誰かしらお客さんがいた。誰もいないカウンターは初めてのことだった。
不思議に思ったけど、たいして気にしていなかった。
今日は焼き物のお品書きあるかなー?そんなことに思考を張り巡らせていた。
そんな時、衝撃の一言が下りてくる。
「実は、店じまいすることにしたんだ」
大将は、ぽとりと雫がおちるように呟いた。抑えた低い声が耳の底に響く。
「え、お店しめちゃうの!?」
「そんな……移転するとかですか!?」
受け止めきれずに、間髪入れずに返すと、大将は顔を左右に振った。
「いや……俺も、もう年でね。引退するんだ」
真剣な物言いに、私たちは何も言えなくなってしまう。
ちらりと里奈さんを見ると、瞳が潤んでいるように見えた。
そうだよね。里奈さんは、私と出会う前からこのお店の常連だ。悲しさも寂しさも、私より数倍大きいと思う。
「今日は最後におでん食べてってな。そんで、これはサービス」
寂しげに目尻を下げた大将は、コトンと白い器を置いた。その瞬間、里奈さんは顔を緩ませた。
「……あたし、これ大好きなんだよね」
ぽってりとしてまるっこい器。これを見ただけで里奈さんには、正体が分かったみたい。ほぐれた里奈さんの表情から、美味しいものだとわかる。それだけで、喉がなりそうだった。
気になって仕方がない私は、すぐに蓋をあけてみる。すると、湯気と共に上品な優しい香りが広がった。
「……茶わん蒸しだ」
立ち上る湯気の間から見える薄黄色の幕には、綺麗な三つ葉。絶妙な色のコントラストは、視覚の情報だけで唾液を刺激する。
「熱いうちに食べよ?」
「……いただきます」
木のスプーンで一口分すくってみる。乗った瞬間、ぷるるんっと揺れた。口に入れると、だし汁の味が口の中いっぱいに広がる。そして、ツゥルンと流れるように喉を潤した。
「おいし……」
あまりの美味しさに、ボソリと感想が溢れる。
出し汁の海の中には、具材がゴロゴロと入っていた。さっそくもう一口すくうと、大きめの鶏肉。噛んだ瞬間に、じゅわっと肉汁が出て、出し汁との相性が抜群だ。
えび、鶏肉、かまぼこ、シイタケ、銀杏。スプーンですくうたびに、新しい美味しさと出会えた。
上品なおいしさに「ほぅ」とあたたかなため息がでた。
「はぁ~、大将の茶わん蒸しだいすき。食べれなくなるのやだー!」
冗談っぽく言っていたけど、里奈さんの本心だったと思う。その証拠に、声が少し震えていたような気がした。
「これ……」
悲しみが押し寄せる中、茶碗蒸しを夢中で口に運んだ。そんな私たちの前に、大将は深刻な表情でそっとあるものを置いた。
それは、二つ折りになった白い紙。
「ん?」
「なに? お別れの手紙?」
質問には答えずに、大将は気まづそうに背中を向けた。私たちは不思議に首を傾げながら、2つに折られた紙を広げる。そこに書かれたのは……。
「だし巻き卵のレシピ……?」
「え、これって……」
背中を向けたままの大将は返事の代わりにこくりと頷いた。そして照れたように、ポリポリと頭をかく。
「……ずっと教えてって言っても、教えてくれなかったのに。最後にずるいじゃん……」
「いいんですか? 秘伝のレシピじゃ……」
乱雑な文字で書きなぐられたのは、だし巻き卵に使う調味料。そして、火加減まで詳しく書かれた料理過程だった。
「うちの味、忘れないでいてくれよ」
ぽつりとやっと聞こえるほどの大きさの声。その一言は、妙に心に響いた。
「忘れない……です。本当に美味しかった。大将のご飯に出会えて、人生変わりました!」
息巻いて伝えると、大将は目をパチクリさせた。
「大袈裟だな……」
眉間によっていたシワが解けて、フッと笑った。
大将の笑顔を見たのは初めてだ。
なんだか嬉しくて、私の口元も緩んだ。
それに、大袈裟なんかじゃない。
美味しいと満たされるということを教えてくれたのだから。
涙の感情が混ざった大将のご飯は、この日も絶品で箸が止まらなかった。
*
「はぁ~、大将の屋台がなくなるのは、寂しすぎるなぁ」
里奈さんの大きなため息は、静かな夜の空にとけた。
屋台を出た後、眠りについたように静かな夜の街を肩を並べて歩いた。
満腹なお腹と、アルコールが入った体はポカポカとあたたかい。だけど、大将の屋台が閉店という事実に、心は冷え切っていた。
大将のお腹も心も満たしてくれるご飯。それに、里奈さんと出会った場所が消えてしまう。
そう考えたとき、嫌な予感が走った。
大将のお店がなくなるということは、里奈さんとのご飯の日々もなくなってしまう……?
確かめたいのに「もう終わり」そう言われるのが怖くて、なかなか勇気が出ない。
いつもよりゆっくり歩く私たちは、しばらく無言が続いた。
「綾ちゃん、ありがとね。大将のお店で出会って、こうしてご飯友になってくれて……」
「……私のほうこそ」
冬の風と夜の闇のせいだろうか。どうしてもしんみりしてしまう。俯く私に降りてきたのは、普段通りのからりとした声だった。
「提案なんだけどさ。金曜日、大将のだし巻き卵作ってみない?」
「えっ」
「うちで作ろうよ! せっかくだから、一番最初に綾ちゃんと食べたいと思った」
「つ、つくりたい!」
思わず返事が早口になる。
「思い出のお店はなくなってしまうけど、私たちのご飯友達は続けようよ」
その一言に、冷え切っていた心に灯が点った。
「そうだ! 毎週金曜日、お互いの家でご飯を作るってどう?」
「記念すべき第一回目のメニューは、大将のだし巻き卵」
「いいね!異論はないです!」
その場に似つかないくらいに声を張ってしまった。そんな私の肩に、里奈さんは肩をこつんとする。
「きっとこれからも別れにぶつかることもあるけど……まだまだあたしたちの人生は、楽しいよ!」
「……うん! 美味しいご飯たくさん食べたい!」
「そう! ご飯は体の栄養だけど、心の栄養にもなるのだ!」
笑い合ってどちらかともなく、ぎゅっと腕を組んだ。
肌を指すような冷たい風は、私たちの背中を押すように、いつのまにか追い風になっていた。
*
大将のお店が閉店という寂しさを感じながらも、里奈さんと交わした約束。
毎週金曜日。一緒にご飯食べる。
新しい楽しみが増えて、部屋で独りニヤリと笑う。誰かに見られたら、完全に怪しい人だ。
そのとき、通知音が耳に届いた。
「ぽわん」
気の抜けるような通知音。moment diaryの通知だ。
実はこれまでも何度も来ていた。だけど、婚活を辞めた私は、開くことなくスルーしていたのだ。
スマホに手を伸ばしてアプリを開くと、予想以上にコメントが来ていて驚いた。
スクロールしていくと、どくぼっちに向けての心配のコメントの数々だった。
【どくぼっちさん、元気ですか? 更新がないから心配です】
【この間のこと引きずってますか?】
アカウント名、どくぼっち。
それは婚活用アカウント。婚活を辞めた今、普通の日記を書くのも違うと思って、しばらく更新していなかった。
気分を落ち着かせるように深呼吸をする。
SNSは必ず更新するなんて決まりはない。このままひっそりフェードアウトしたって別にいい。
だけど……私はスマホをぎゅッと握りしめる。
【ご報告があります。どくぼっち、婚活を辞めました。このアカウントをどうするか迷ったのですが、継続したいと思っています。どくぼっちというアカウント名はそのままで、ありのままの私の日記を書いていきたいと思ってます。結婚ではない人生。ガールズライフも悪くない……】
スマホで文字を打ち付けながら、ぴたりと手が止まった。
ガールズライフも悪くない……?
自分で打った文章に違和感を覚える。
いや、違う。
【……ガールズライフは最高だ】
本音を日記に載せると、胸のつかえが取れた気がした。モヤが消えて、嬉しさに心も体も包まれる。
このままアカウントを消したって、世界中の誰も困りはしない。
だけど、私はこの幸せな毎日を記録として残したい。
幸せにあふれた私の日記を発信したい。
つまり、”私の幸せな生活”を自慢したいのだ。
勢いのまま更新ボタンを押した。タイムラインに私の日記が更新される。
途端に、ひゅっと背中が寒くなる。
フォロワーさんの反応が怖くて、じっとタイムラインを見つめた。
すると、すぐに通知のボタンが赤く光った。
【いいと思います!】
【結婚がすべてではないですよね。女友達との時間も幸せです】
【大人になって仲良くできる友達って最高ですよね!】
【わかります。私もガールズライフ最高民です】
次々とあがる共感の声。ここは婚活垢なのに、こんなにも共感されるなんて思っていなかった。私の価値観が古かったのかもしれない。
それから自分でつけたタイトルをしばらく見つめた。
【アラサーどくぼっちが、幸せな結婚をするまで】
見慣れたタイトルを、消去ボタンを押して消していく。
【 】
まっさらになった日記のタイトル。
そうだ。このタイトル同様に、私の人生だって自由に決めていいんだ。
間違えたら、正しい道で上書きをすればいい。
これからは……ありのままの日記を綴りたい。
吹っ切れたように指が滑らかに動いて、タイトルが打ち出される。
新しいタイトル。それは……。
――私の幸せなガールズライフ。