何かが足りない
目を開けると、白い天井があった。目だけを動かし、周りの様子を伺う。自分の部屋じゃない事は確かだ。白いカーテンと白い壁、何もかもが白い。
「何処?」
ゆっくりと起き上ると頭と肩がズキンと痛み、思わずウッと呻く。怪我をした記憶もなければ、病院と思しきこの場所に運ばれた記憶もない。自分は一体どうしたんだっけ・・・?
「あら。目が覚めたの?貴方、救急車で運ばれてきたのよ」
てっきり1人かと思っていたらベッドを囲んでいたカーテンが小さく開き、優しそうな顔の女性が首を突っ込んできた。皐月が起きあがったのを見ると「元気そうね」と微笑み、カーテンを全部開けてくる。部屋の全貌が明らかになると、やはりここは病院でかなり広い大部屋に居る事が分かった。隣にいたこの女性は明日の手術の待機で手術室から近いこの病室に移ってきたが、皐月が運ばれてきたので私は放置されてると可笑しそうに笑って話してくれた。
「俺、どうして運ばれたか覚えてないんです」
頭に再度手をやると、包帯が巻かれているようでサラサラとした布の感触が指に伝わる。同じく、肩にも大仰に包帯が巻かれていた。
「私に聞かれても分からないけど・・・。頭、怪我してるから一時的に記憶喪失なんじゃないかしら?ほら、良く言ううじゃない?事故の後、しばらく記憶がないけどしばらくすると治るって」
「テレビの見過ぎかしら」とケラケラと笑う女性は、自分のベッドに置かれているテレビを付ける。「貴方も見る?暇でしょ?」と言って、皐月にも見える様にテレビを向けてくるのにお礼を言って、丁度ニュースで株価の最終値を読みあげているキャスターの後ろの日付を見る。
「え・・・」
「どうしたの?」
何度見直しても、日付と曜日は平日を示している。救われたのは、明日が土曜で仕事が休みだという所だけだ。では、今日は?金曜だったら仕事が休みなわけがない。着衣を確認するが、病人が着るような水色の浴衣の様なものを羽織っているだけでスーツだったかどうかも確認しようがない。
「俺、仕事が・・・」
事故に遭ったとしても、着ていた服がないのは変だ。皐月は自分が寝ていたベッドの周りをキョロキョロと見回すと、カーテンの外側に私服がハンガーに吊るされていた。お気に入りの私服。
「ちょっと、何してるの?先生呼んだ方がいいんじゃない?」
「いえ、そうもいかないんです。俺、仕事休むわけにはいかないんですよ」
若干痛む肩を庇いながら、私服に着替える。仕事だったはずの金曜に何でお気に入りの私服なんて着てたんだろう。皐月は疑問が次から次へと沸き上がるのに詳しく話を聞きたい気もしたが、今は仕事が一番忙しい時期でゆっくり病院で寝ているわけにはいかない。第一、ここが何処の病院なのかも分からない。
「あの、ここって場所はどこなんですか?」
「ええ?この近所に住んでいるんじゃないの?」
皐月の問いに、女性は近所の人かと思ったと目を丸くし、皐月が生まれた村の近くの住所と病院の名前を教えてくれた。
「え・・・」
今、自分は大阪の商社に勤めている。何で、平日に生まれ故郷なんかに来ていたんだろうか。しかも、既に両親も居なく友達もそれぞれ都内や地方都市に移り住んでいる。こんな所に来る理由はない。
「そうだ」
携帯を見れば何か分かるかもしれない。営業マンとして働いている自分は常にメールで連絡事項の確認をしている。メール受信BOXを開き、今日の日付を中心に見ていくが不思議と社内連絡も取引先からの連絡もない。
「・・・とにかく、俺。帰らなきゃ・・・じゃ、失礼します」
「えっ、あ、ちょっと!」
いつも身につけている貴重品や時計が全て揃っているのを確認すると、皐月は病室を出る。ナースステーションの人に見つかるとベッドへ逆戻りだろうと、病室が並んでいる廊下の一番奥の非常階段を見つけてそっと扉を開けてみる。予想通り、非常階段から外へ抜けられる様な造りになっているらしい。皐月はある程度の低さまで階段を降りていくと、バスケ部で鍛えた身軽さでヒラリと地面に着地する事に成功した。
「痛って!」
頭と肩だけでなく、大腿部も怪我をしていた様で着地した際に激しい痛みが全身に電流の様に駆け巡るのに、その場でしばらく身を固めて痛みをやり過ごすと、そろそろと歩いていき車が行き交う大きな道路に出る事が出来た。
「取りあえず、駅に・・・」
生まれ育った故郷から、この幹線道路は車で30分以上かかっていたはずだ。財布の中身と相談して、タクシーを拾う。一番近い駅と言って座席に背を預けると「お客さん、病院から脱走じゃないべ?」と運転手が包帯だらけの皐月を訝しげにジロジロ見てきた。脱走者だったら、自分も責められると警戒しているんだろう。
「違いますよ。事故って治療してもらった帰りです」
脱走って言い方悪いよ・・・と思いながら、堂々とした口調で言い返す。脱走だと言ったら乗車拒否するに決まっている。「んなら、いいべ」あまりに堂々とし過ぎていたのか、運転手は前を向き直りガラガラと道路を駅に向かって走り出した。
「・・・・?」
ふぅっと息をつき、皐月は無意識に胸の辺りを手で撫でさする。そこにはいつも何かがあったはずだ。何か自分にとって宝物のような・・・。何度触っても、そこは自分の包帯で巻かれている胸板があるだけで何もない。何かを思い出しそうで、でも思い出せない。一体、なんだろう・・・。この変な感じは。皐月は窓に走る景色を見ながら、ずっと胸に手を充てていた。