後悔
「10時か・・・」
ビル内は既に誰も居なくなったようで、警備員が「お帰りにはならないんですか?」と問いかけてきた。「君が後一周りしてきたら帰るよ」そう言って、帰る用意をする仕草をすると警備員は苦笑いをして、施錠したそうな顔をしていたが「では、もう一周りしてきます」と言って暗がりのフロアに戻っていった。カツンカツンと靴音が遠ざかっていく。
「皐月・・・もう、約束自体忘れてしまったか・・・?」
<ずっと・・・待ってるから・・・>
大きな瞳に涙を溜めて繰り返し言っていた皐月。自分が皐月を愛しているように、皐月もまた同じ想いなのだとずっとそう信じてきた。だから10年後の今日もきっと来ると。
「10年は長すぎたか」
せめて5年後にするべきだったかも。今更な事に、玲人の顔に自嘲の笑みが浮かぶ。皐月を養える様な大人になるには、東京へ出るしかない。と大学進学と同時に決意しそれをずっと胸に秘めてきた。そのお陰か、今すぐに皐月を養える位の社会的地位も確立した。それも、自分一人の独りよがりだったのかもしれない。
「久澄部長・・・?」
「ああ、分かった。今出るよ」
申し訳なさそうな顔でカードキーを取りだし、施錠したいと無言の態度で言ってくる警備員に「悪かったね」と声を掛け、EVホールに向かう。あと2時間、車で待つか・・・「今日」が終わるまで、2時間もある。最終電車はもう行ってしまっているが、何も電車で来るとは限らない。久しぶりに来る生まれ故郷で道も変わってしまっているから、車で来ていたら迷っているのかもしれない。外へ出ると、石碑に目が行く。ひっそりと、それでいてしっかりとそこに存在している石碑は、記憶の中のあの大きな桜の木と同じでいつも自分を迎えてくれる。辺りは人影はなく、玲人はそっと石碑に刻んだ皐月へのメッセージを指でなぞる。
「桜の精・・・。お前はあの約束を聞き届けてくれなかったのか?」
移植した桜は、都内の大きな公園で今もその悠然たる姿を見せ、行き交う人々に癒しを与えてくれている。桜の精も、都内に植え替えられて約束なんて忘れてしまったのだろうか。
「あ、あの。すみません。このビルの方ですか?」
社員専用の駐車場に向かおうと歩を進めた時、この辺りで良く見る青年がおずおずと声を掛けてきた。如何にもニートという風体の青年だが、どことなく社内にいるうだつの上がらない男に似ている気がする。社宅に住む人間だろうか。
「はい。そうですが」
「ああ、良かった。さっき、ここで事故があって。巻き込まれたっぽい人がこれを落としたんで返したかったんですけど。病室からいつの間にか抜け出してて・・・。ここに居たって事はこのビルに関係ある人かもって思ったんで持ってきたんです」
「俺が付き添ったんですよ。連れがいなかったみたいで」と付け加えて差しだしてきた手には、安っぽい黒い紐に桜の花びらを模ったペンダントトップを通しただけのネックレスがあった。
「これ・・・」
「ぶつかった時に外れちゃったんでしょうね。でも、ずっと手に握ってて。治療する時に邪魔だからって救急隊員が無碍にしたんで、俺が持ってたんです」
<ずっと・・・待ってるから・・・>
こんな事があっていいのだろうか。警備員が「近くの子供が巻き込まれた」と言っていたのを鵜呑みにして、どんな人間だったか調べもしなかった。このペンダントの持ち主は間違いなく皐月だ。ペンダントトップは開閉式になっていて、それを開けるとそこには乾燥して茶色に変色した小さな桜の花びらが一片・・・。
「皐月っ・・・」
「え?」
「何処の病院へ運ばれたんですか?」
「あー、中々受け入れて貰えなくてここから1時間以上も離れた「糸井病院」です。でも、もう居ないと思いますよ?なんせ、俺があれやこれや聞かれている最中に抜け出してるんですから」
俺は、馬鹿だ。皐月が約束を忘れているわけないじゃないか。ここに来ていたんだ。ずっと待っていてくれていた・・・。
「・・・取りあえず行ってみます。これはお預かりします。わざわざ、ありがとうござました」
「え、ええ。どうも」
去り際、念の為青年の名前を聞くと案の定、社内にいる中年の男性と同じ名字だった。詳しく話を聞く事もあるかもしれないと言うと「いつでもどうぞ」と返事が返ってきた。
「皐月っ・・・ごめんな・・・」
預かった皐月のペンダントを握りしめ、駐車場へ走って向かいながら呟く。自分がもっと早くここへ来ていれば、事故に遭わずにすんだ。もっと早く皐月と連絡を取る様にしていたらこんな事にはならなかった。玲人の中に様々な後悔の念が浮かんでは消え、自分に対してやり場のない怒りが体中を駆け巡り叫んでしまいそうになる。
「皐月!今、行くからっ!皐月っ」
車に乗り、エンジンを掛ける。急発進するタイヤの地面を擦るけたたましい音が辺りに響き、玲人の車は猛スピードで糸井病院がある繁華街に向かっていった。