10年後~玲人~
「部長、この書類なんですが・・・」
「ああ、それで構わないよ。明日でも良いから、訂正して提出してくれ」
「はい」
新卒で大手企業の「B&uカンパニー」に入社した玲人は、入社後5年で社内では異例の最年少部長昇格を果たした。常に冷静沈着な玲人は、新人の頃から大きなプロジェクトを任され、それを一つのミスもなく完遂してみせた。それが上層部の評判を呼び幾つかのプロジェクトを受け持った後、トントン拍子に係長・課長とエリートの階段を上っていった。
「玲人、今日はこの後予定あるのか?」
同期の葛城が肩に腕を廻して、飲みに誘ってくる。この所、彼女に振られたといってしょっちゅう玲人を誘っては、居酒屋で飲みつぶれるまで酒を呷り玲人に介抱役を頼んでくる。別段、用事もなにもない為、玲人は彼女の想い出話しに付き合ってはいつもベロベロの葛城を家へ送る羽目になるが、それも付き合いだと表情を変えずに毎回付き合ってやっていた。
「いや、何も。また酒に付き合えって言うんだろ?いいぜ、付き合うよ」
「そうこなくちゃな。今日は酔わないから、安心してくれ!」
「・・・どうだか」
バシバシと背中を叩き、嬉しさの表現をしてくる葛城に冷たい視線で睨みつけると「そんな顔すると美しい顔が台無しだろ」と頬を抓られる。学生の頃からだが、玲人は日本人離れした顔立ちをしていた為大人になった今もたまにそう言ってからかわれる事が多い。玲人自身、気にはしていなかったが美しいと形容するなら皐月の方が断然綺麗だろうと、10年前に別れた恋人を想っていた。
<ずっと、待ってるから・・・>
声変わりを終えたはずなのに、それでも尚高いボーイソプラノの声は今でもハッキリと玲人の耳に残っている。
皐月と出会ったのは高校3年になった年、男子バスケ部の新規募集で皐月が部員として入ってきた時だった。2年時から選手だった玲人は、練習も別枠で取られていた為に新入部員の挨拶の時には別の高校との練習試合が控えていてろくすっぽ新入部員を見る事もなかった。早々と挨拶が終わり、練習試合の事ばかり気がいっていた玲人に補欠選手の囁きが聞こえた。「今度の部員。女みたいじゃないか。ちょっと味見、してみるか?」下卑た笑いを浮かべて何人かで囁き合っているのに、野蛮な奴らだと一瞥をくれ玲人はその噂の部員が何処にいるのかとコーチの前に一列に並んでいる新入部員達に目を走らせた。
「・・・」
遠目から見ても、一際目立つ容貌をしているその新入部員は玲人の興味をそそった。練習が終わり、補欠選手の野蛮な行為を阻止するべく、皐月に声を掛けたのが始まりだった。自分より20センチは低く、成長途中とは言えない細く華奢な身体からは、何とも言えない艶めいた雰囲気を醸し出す皐月に、いつしか玲人は同性と言う事も忘れ、皐月に夢中になった。大きな黒目がちな瞳と、ふんわりとした可愛らしい笑顔を自分にだけに向けたい。そんな独占欲が玲人を支配し、それから皐月を片時も離さずにずっと一緒にいた。ただ、皐月には自分が邪な事を考えているなんて微塵も出さなかったが。しかし、それは皐月も同様だったようで、そう時間を掛ける事もなく、2人はお互いの気持ちを打ち明け「恋人」となった。進学の時期、東京の大学に行く事が決まっていた玲人は時間の許す限り皐月を抱き、皐月もまた別れの時が来るまで夢中になって玲人を求めた。そして、あの桜の木の下で10年後に逢おうと約束し2人は別れ今に至る。
「おい、何考えてんだ?ぼーっとして」
その10年後が、明日なのだ。皐月はあの場所に来るだろうか。そして、言葉を失い立ち尽くしてしまうだろうか。そう考えると、玲人はすぐさま皐月に逢ってその細い身体を抱きしめたかった。大学の頃、お互いに忙しくて携帯電話を手に入れて番号を得意げに教えてから連絡は全くといってよいほど無くなってしまった。その間に、最初に買った携帯が水没し新しい携帯を買った事で皐月との連絡手段は失われてしまったのだ。しかし、10年後にあの場所で逢うという約束は絶対に忘れる事はなく指折り数えては、皐月を思い出していた。
「いや。なんでもない。明日は出張だからな、早目に切り上げる」
「はいはい。今日は酔わないって言っただろ」
出張と言う名のサボり。部長と言う肩書があっても、玲人は合間を縫ってはあの片田舎に足を運んでいた。
「お前、あそこに出張行くの多いよな。研修センターに行って何してるんだ?まさか、お前が教鞭をふるってるとか?」
「そんなわけあるか。ちゃんと研修してるかとか、研修項目の見直しとか、色々あるんだよ。部長ともなると忙しいんだ」
自分達が生まれ育った片田舎の土地の半分を、この大企業が大規模な研修センターと保養施設、一部の機能を移転させる為に買い取ったと聞いたのは5年前。丁度上層部に気に入られた時で、視察に一緒に連れて来て貰った。その時、あと5年で皐月と逢うだろう約束の桜の木は、その姿を変える事無く雄大な姿のまま玲人を迎えていた。しかし、上層部が話しているのをじっと聞いていた玲人は、この桜の木が伐採される予定であるのを聞き、必死に食い下がった。新入社員に毛が生えた様な若輩者だった玲人だが、事業開発という名目で木を次々と伐採していく企業は後に庶民に背を向けられるから、邪魔であるのなら他の場所に移植するとすれば社の評価もあがるだろうと進言し、伐採される事は免れた。
それから地ならしを終え、いよいよ桜が移植される日、社の社長が伐採に反対した玲人を呼び桜のあった場所に石碑を建てるから何か一句書かせてあげようと言ってきた。上層部が雁首を揃えていた中で、入社1年目の社員が目くじら立てて伐採に反対したのには何か理由があるのだろうと、ずっと気になっていたと言い、玲人はその有り難い申し出に皐月に寄せたメッセージを書いた。誰にも分からない、ただ皐月にだけ分かるメッセージを。
「さすがは部長様ですね。同期で部長を持って嬉しい限りですわ」
肩を竦ませ、ふざけた口調で言ってくる葛城を玲人は更に冷たい視線で一瞥すると、タイムカードを押して来ると言う彼の背中を見送った。