乱される心
「すみません・・・」
「全く、怪我してるんですから勝手に抜け出しちゃダメですよ。ほら、ここ血が滲んでるじゃないの」
朝早くにホテルを出て、昨日抜け出した病院へ着いたのはまだ正午にもならない早い時間だった。皐月は、医師やナースのお小言を延々と聞かされ処置室で包帯を巻きなおして貰っていた。
「あの、俺どんな状況で事故ったんですか?何にも覚えてなくて・・・」
「私も詳しくは聞いてないけど、貴方が立っていたビルの前にカーブを曲がり切れなかった車が突進してきたって話してたわね。車は大破して、飛んできた車の破片にぶつかった衝撃で気を失ったのよ。でもこれ位で済んで良かったんじゃない?あ、そうだ。貴方、昨日誰かと待ち合わせしてた?昨夜、貴方が抜け出してから凄いカッコイイ人が訪ねてきたのよ?やっと逢えると思ってた友人なんですって言ってたけど?」
<10年後、この桜の木の下で待ってるから・・・>
「痛っ・・・」
「あら?大丈夫?」
ふいに甦る誰かの言葉。自分にとって、絶対に忘れてはいけないと自分の中の自分が警鐘を鳴らす。でも、誰が言っていたのか見当がつかない。
「その人、どこの人だか分かりますか?」
「え?」
「覚えが・・・ないんです。昨日、家からここまで来ていた事すら覚えてなくて」
「・・・。貴方、もう一度事故に遭った所に行ってみたら?事故の前後の事を覚えてないのよね?」
「はい・・・。というか、もっと前から?」
事故に遭ったのが昨日で、有休を出していたのは1カ月前だ。月曜まで休みを取っていたのさえ思い出せないと言う事は、事故云々で1カ月前の記憶も無くしてしまったという事なのか。怪我以外で自分はピンピンしているのに、記憶だけがポッカリと無くなっているのに皐月は気味が悪くなり俯いた。
「やっぱり、少し入院した方がよいのかしら・・・。先生にもう一度診てもらう?」
「いえ、もう大丈夫です。事故現場、見てきます」
考え込んでいる皐月に、心配になったようなナースは隣にいる医師に声を掛けようとするが、それを制すとお礼を言って処置室を出た。今度こそは保険証を出し、きちんと清算をすると先ほどのナースが出てきて「B&uカンパニー」と書かれた会社案内のパンフレットを差しだしてきた。
「これは?」
「昨日のカッコイイ人、社章がここの会社のだったのよ。5年前からこの辺の土地を買い占めてビル建ててるでしょ。多分、ここに行けば向こうから貴方に気がついてくれると思うの。気を付けてね」
そういえば、自分が関西に進学する時までは無かったような大型スーパーやガソリンスタンド、果てはファミレス等が病院の並びに建っていた。それらは、皆この企業のグループ会社だ。皐月はナースにお礼を言うと、徒歩では遠すぎる自分が育った場所の近くまで路線バスで移動する事にした。
「昨日の事故、見たかい?」
「ああ、見た見た。おっそろしいねぇ」
「私らだったら、あの世行きだぁねぇ」
「んでも、あの石碑は傷一つなかったっていうのも、また凄いやねぇ」
タイミング良くバスが来て、乗り込んだ皐月の耳に老人達の会話が聞こえてくる。頭に包帯を巻いている皐月に気がついているのかいないのか「事故は怖いやねぇ」と締めくくり、自分と同じ停留所で降りていった。古くから住んでいるような感じであったが、皐月が知らない顔ぶれで声を掛けるのは躊躇われた。
「え・・・?」
老人達が自分が住んでいた方向ではなくその反対方向へ歩いていった為、皐月はこの方向は何もなかったはずだと不思議に思い途中まで付いていく。記憶の中のこの場所は、大きな桜の木があって小さい頃は良く木登りをして遊んだものだ。しかし、自分の中で思い描いていた風景は無機質のビルが立ち並んだオフィス街に変貌していた。
「なっ・・・」
確か自分がここを出てから両親も海外に移住した為、10年は経っているがここまで変わってしまっていては異世界に迷い込んだような気になってくる。
「あ、君。昨日事故に遭った人だよね?」
綺麗に舗装された道路の前で茫然と佇んでいた皐月に、後ろから「あ、やっぱり」と言いながら駆けてきたのはラフな格好の青年だった。ナースが付き添ってくれた人が居ると言っていたので、軽く頭を下げる。親しみやすそうな青年は、「怪我してるし立ち話もなんだから・・・」とビルとビルの間にひっそりと営業している小さな喫茶店に案内し、皐月を促した。事故に遭った皐月に付き添ってくれたこの青年に聞けば、何か分かるかもしれない。そう思い、まだ痛む頭の痛さに耐えつつゆっくりとした足取りで喫茶店に入っていった。