詩小説
ガラスの壁の向こうには今来たばかりの朝焼けとすれ違うばかりの一瞬が映っていました。逆らうことなどないように思えて私は掴んだ土に手を伸ばしてみました。歌うのです、それは大空を駆けるように海を割るようにしていつの間にか私は家に帰っていました。表札がなくなっています。誰かに盗まれたのです。時々運の無いように思う時、私はそっと手のひらを眺めてみます。すると力の残っているような気がするのです。暗がりに見つけた置き忘れたままの傘。それを拾ってあげようという気になってくるのです。それは今ではないか。それはいつではないか。そんなことだって、私には大して気にはならないのです。向かい合うべきことがある時、私にはそれが見つからないような時。耳の消えてしまった跡を辿って、探しに行こうとします。近くまで歩いてきたら、それはいつの間にか消えてしまいます。思い出すこともありません。それは消えてしまいました。
なんでもないようなことが向こう側にある時。私は今いる場所を追いかけていきたい。ところによると降るらしい雨の音が聴こえる。それはずっと先の山の方から聴こえる。必ずしも手に入れたものが今時のものでないように、形を変えたまま迫ってくる霧の向こうの大きな影。目を見開いたままでは空想の海に溶けてしまう身体。たくさんある。ここには先の先の先まで見通せるような穴ぼこがたくさん開いており、周りの風景に溶け込んでいく。まずもって許し難い言動を一つずつ確かめていく。その過程で生まれてきたものが今目の前にあるらしい。ところどころで流行りを止めてしまう。嘘つきのようなものがそこにはあるらしいのだ。
マイナス4℃から始まった恋。うららかな春の日に大してやることもなかった私は飼っていた出目金金魚の水槽を壊して中から出てくるものをずっとそのままにしておいたのだがいつしか私は忘れてしまった。ここから逃げ出す方法など既に無いのだという発信音の後に伝言を残した。ここにいます。あるいはどこでもないいつか見た夢の中で私に声をかけてください。その時はちゃんと返事をしますから。いつだって私はあなたに応答するためだけに生きているのです。打てば響く鐘の音。辺りは、明かりは
消えてしまいました。
分からなくなっている。いつだって通り過ぎるためだけにそれはあったのだ。いつしか、でした。置き忘れたものを思い出せなくなっている季節に。いつか分からなくなってしまったことも、それはそうだねと思えているんでしょうか。裂け目から這い出てくる意図しなかったようなもの。置き忘れたもの。いつだって向こう側にある景色。一つ一つ数えあげて、それで何が分かったって言えるんだろう。いつか分かったって言える日が来るんだろうか。
それでは私のことをあなたは一つでも覚えていることがあるのでしょうか。そんなこともわからないままで、いつだって誤魔化すように日々を送っていて、それで良いって本当にそう思っているんですか。囚われたままの心とか歯がゆいまでの気持ちとかそういったものは、別にそのままにしておけば良い程のものだったんじゃないでしょうか。壊れてしまったのなら作り直せば良い。そんな簡単な気持ちで事が運んで行くだなんて本当にそう思っているんですか。
渇いたままでいられたらそれはそうで、そうであって嬉しい。でも、もしも思い出せないままでいたら。それはいつだってそう。分からないまま。私の中にあったもの。たくさん積み上げて分からなくなっていった。留まることのない声が言わずと知れた今がそこにあった。手を伸ばしてください。手を伸ばしてくださいって言ってる。聴こえない振りして留まり続ける言葉。
最後に祈ってください。望むなら希望を断ってください。今だっていつだって望むなら、いかなる理由があっても立ち上がらないでください。椅子に座ったまま、そこから見える景色だけを眺めていてください。私にはあなたの言うことが分かりません。私には何もかも伝わっていません。そこにあるもの。なんの役に立つか分かりますか。何の言葉で表現できるかあなたには分かりますか。
喜びの前に奪っておきたい言葉があります。悲しみの前に繰り返してはいけない行いがあります。いつまでそのままでいれば良かったのか。変わらないで。変わらないで。いつだってあなたのままでいて。繰り返す営みの中で起きてしまったらもう二度と眠ることはないかもしれない。触らないままでいたらいつまでも続けることになるかもしれない。今目が覚めたでしょう。訪れはいつだって突然です。終わりの無い夜を生きることになるのか。生まれ変わって二度と目覚めない朝。あなたに訪れるのは私が手を離した後のことになると思うのです。
適当に物事を重ねていってしまったら、さてそれをもう一度開いてみようとする時に、急に目が覚めてしまうことがあって、それを大事にしようとしているときに、急にわからなくなってしまう時があって、これは本当に私にとって必要なものだったのだろうか、これは本当に私にとってかけがえのないものだったのだろうか。見てはいられない、見ていたくはない、遠ざけてしまって、もうこれ以上近くにはいたくなくて。聞こえますか、聞こえませんか。その日あなたは私を捨てたでしょう。覚えていますよ、忘れませんよ。二度と同じことを繰り返すことがないようにそれは監視されなければならない。私の前にあなたは二度と姿を表さないでください。約束です。約束です。覚えていてください。決して忘れないでください。
確かなことが葬り去られようとしている。時間が形を変えて私の前に迫ってくる。要求する。要求する。声が聞こえなくなるまで耳を塞いでいてもやがて聞こえてくる。大きなうねり。加速する死者の数。変わらなくちゃ変わらなくちゃ。受け容れなければ、全ての新しいことを。今はっきりしたことを。まだ曖昧な姿のままでいることを。ともに在らなければ、消えてしまう、死んでしまう。私たちは、虚しい生き物。儚い生き物。だから手を繋いで手を繋いでって。うるさい声が要求する。私を私のままにしておいてって、私を籠から出さないでくださいって。何が自由だ。そんなものは望んじゃいなかった。私には私だけの日々があり、それはかけがえのない、もはやそうではない、一度に崩れてしまった、音は立ち上がっただろうか、ここには何もない、野ざらしの死体と、名前のない私たち、どこまでが身体で、どこまでが地面かもわからない状態で、眠りにつくこともできず、食事も喉を通らない。与えられたものだけ手にしていればいいって、それは自由じゃないって、そんな贅沢な言葉もここではもう聞かれなくなった。
間違いなく分からなくなってしまった。不確かな世界に降りてきてしまった。一日一日はもはや形を取らず溶けてしまった影のようにまとわりつくだけだ。見たくもないものにはそれだけの価値しかないのだ。忘れてしまった事柄にはそれ以上の価値はないのだ。見向きもされない日々には後に残すだけの何ものもないのだ。だから私は語り続ける。あなたについての言葉を残し続ける。切れ間なく、耐えがたくなってしまった気持ち。仲間を呼びたくなるような遠吠えに混じって。わずかな吐息を漏らし続けるあなたの言葉を誰が聞いていなくても私が覚えている。夢の話をしてよ。あなただけにしか分からない事柄について話してよ。私もそうするから。私にだってそれが良いことだって分かるから。
一日一日と過ぎてゆく中で覚えられない顔がたくさんあって、飛び出すと帰ってこられなくなるからまた明日遊ぼうって繰り返し繰り返し伝えた。明日の晩にはまた戻れなくなりそうです。明日の昼までには結論を出して置いてください。私はそうではなかった。私は言ってなかった。大切なことを伝えていなかった。また明日会えるとばかり思っていたのに。
忘れられないことばかりが思い出されるのです。遠い未来にはもう何もない。必要なことが覚えているべきことが何もないのです。忘れてしまったこととは何でしょう。覚えていられないことは必要でなかったことなのか。変わらないことが良かったのに。一日一日と過ぎてゆくことが良かったのに。もうみんな忘れてしまったかのようです。思い出せないみたいです。あなたのこと。一緒に過ごした時間。一日だって離れていたくないと思っていたはずなのに。
私の手は離れてしまって、もう届かない場所にいるのは分かっているのに。今にも目を閉じたらあなたが現れそうなのです。声を聴くことができるように思われるのです。気が変なのでしょうか。そうとも思われないのです。ただ私はあなたのことを考えているだけで、遠くまで来てあなたに会っているのです。遊ぼうねって約束したこと覚えていますか。今だって私はあの時の約束を果たすことが出来るのです。
呼んでいるだけで声が聴こえます。忘れないでいるだけで変わらない日々を生きることが出来ます。忘れないで。忘れないで。あなたに覚えていられるということが私の存在を支えているのです。暗くて冷たい死者の床に居て私は今日もまた新しい朝を生きることが出来るのです。おかしいでしょうか。今朝もまたあなたのことを考えていました。ひび割れてしまった世の中には身体が二つあっても足りません。呼んでください。名前などなくても構いません。あなたの声なら分かります。夢の中で会えたならきっとそれが分かります。
始まると同時に終わっていくような毎日で、目が覚めた時の気分を維持し続けるのは難しい相談だ。是非にと言われたから来たのに私の席など無かった。暗くなる前に行き過ぎた道を戻る為の灯りを見つけなければなりません。路地裏に置き忘れてきた祈りの言葉を拾い上げる度に、それはもう色が変わってしまっているのですが。わき道に逸れる度に浮いた話の一つもないような生活を思い出して。未だに恐怖するのです。このまま終わってしまうことに。今だってなにも分からずに同じ言葉を繰り返しているだけということに。
まだ目が覚める前の一日だ。言葉が生まれる前の呼吸、みたいな。わざと置き忘れた鞄みたいな。制服を着て一日が始まる前の今日。うたた寝する前の未来。家に鍵をかける前に疑ってしまったこと信じてみようかな。雨が降り出す前に駆け出さずにいたこと後悔してみようかな。回り道をして見つけた思い出のこと、まだ口に出さずにいて、誰にも見えないところで笑ってる。雀みたいな気持ちで今日も生きてみようかな。