たった5分で終わった父との決別⑥
睨み続けるジニアスを目にして、ティーナはこれ見よがしに溜息を吐きたくなる衝動に駆られる。
ーーまったく弱虫のくせに、強情なんですから。
政略結婚で己の髪と瞳の色が異なる妻を娶らざるを得なかったジニアスは、妻の懐妊の報せを受けて、恐怖に襲われたのだろう。
もし、生まれてくる子供がカリナ家を象徴する髪と目の色じゃ無かったら?
しかもその子供が男だったら、兄と同じ末路を辿るのか?しかも自分の手によって。
妻のお腹に膨らみを感じる頃、ジニアスはそんな不安をずっと胸に抱え、恐怖に耐え切れず逃げた。絶対に自分を裏切らないであろう、理想の髪と瞳の色を持つ市井の女性の元に。
これはあくまで想像だが、シャシェの母親と出会った当初はジニアスにとって、彼女は保険でしかなかったのだろう。
けれども完璧主義の彼にとっては誤算だとも言えることだが、いつしか彼女に気持ちを傾けてしまった。
娘としては、こんな事実は認めたくはない。でも書斎のテーブルにはシャシェの母親からの手紙が投げ出されている。
カリナ家当主の座だけが大事なら即刻破棄すべきものを大切に取っている。これが何よりの証拠だ。
「ねえ、お父様……貴方は本当は苦しんでいるのではないのですか?夜会でシャシェを娘と認めなかったことを。……あの時、お父様がシャシェを娘じゃないと仰ったのは、わたくしがカリナ家の当主になることがどうあってもお嫌だったからではないのですか?父と髪と目の色が違うわたくしが当主になれば、兄様が報われないと思ったからじゃないのですか?」
「……」
「わたくしはお父様のお兄様にお会いしたこともなければ、どんなお姿だったのかも、名前さえも知りません。ですが、貴方が慕っていたお兄様は、そんなことで貴方を責めるようなお方だったのですか?」
「……」
「わたくしは、そう思わないと断言できます。お父様……もう腹を括って家門など捨てておしまいなさい。貴方を許すことはできませんが、苦しんできたことは理解できます。ですから、これ以上貴方に罪を問うことは致しません。どうぞ、わたくしの知らないどこか遠い場所で余生を送ってくださいませ」
一言一言紡ぐたびに、ティーナには父との在りし日の思い出が蘇ってくる。
おかえりなさいませ、と言いたくて眠い目を擦り続けて父の帰りを待っていたこと。父の為にお茶を淹れようと練習して、手の甲を火傷してしまったこと。
デビュタント前に登城した時、見知らぬ婚約者に会う不安と緊張よりも、父と並んで歩ける嬉しさで胸がいっぱいになったこと。
ーー愛されたかった。愛して欲しかった。
でももう、この人に愛を求めるのは終わりにしよう。それは嫌いになったからじゃない。ただ真実の愛を与えてくれる人が、自分を見つけてくれたから。
呪縛を断ち切るようにティーナが父に一歩踏み出せば、ジニアスは全てを諦めたような溜息を吐きながら聞き取れないほどの小声で呟いた。
「……断れば、どうなる?」
「あら、お聞きになりたいのですか?」
わざと場違いなほど明るい声で質問を質問で返せば、ジニアスは「お前の好きなようにしろ」と言い捨てた。
ただ最後に彼は、皮肉げに笑ってこう言った。
「当主の座をお前に譲って、そしてお前は王族の仲間入り……か。この家の財産も、王子妃の座も手に入れてとことん強欲だな」
跡継ぎがいない家門は、王家に吸収される。それはすなわち、王家に嫁ぐティーナのものとなる。
ティーナがジニアスに与えた罰は、忘れたいほどの過去の傷をさらけ出し、思い描いていた理想の家族とこの屋敷でやり直したいという夢を完全に打ち砕くこと。しかも、絶対に認めたくないと思っている、自分の血を分けた娘の手によって。
きっと父は、この断罪に情があることに気付けないだろう。憎しみしかないだろう。
でも、それで良いと受け入れているティーナは、父親に向けて優美に微笑んだ。父がもっとも苛立つ言葉を紡ぐために。
「ええ。だってわたくし、あなたの娘ですから」
カッとなった父親は罵声を浴びせようと口を開く。しかしその言葉を聞く前に、ティーナは書斎を出た。
廊下につながる扉を開ければ、懐中時計をじっと見つめるカルオットがいた。
「カルオット、わたくしお待たせしてしまいましたか?」
「いや。きっちり5分だ」
一秒でも過ぎたら扉を蹴破るところだったと付け加えるカルオットの言葉を聞かなかったことにして、ティーナは屋敷の外に出る。
御者はすでに二人を出迎える準備をしていた。
無言のまま馬車に乗れば当然、二人っきりになる。隣同士で座るこの空間は、言葉にできないほどくすぐったい。なのに、
「ティーナ」
カルオットから固い声音で名を呼ばれ、ティーナは身体を固くする。
「なんでしょうか」
「……いや」
言葉を濁す彼をじっと見つめるティーナは、思ったままを口にする。
「もしかして今日の事、後々わたくしが後悔するかもと不安に思っているのでしょうか?」
「ああ……そうだ」
観念した口ぶりで頷くカルオットに、ティーナはふふっと柔らかく笑う。
「生涯後悔することはございません。今はとてもすがすがしい気持ちでございます」
「ヒ素は暗殺の友……でもか?」
物騒な言葉を吐いたカルオットの表情は、苦し気だった。ティーナも同じ表情になる。
これはあくまで仮説だが、父親は一度目の生で自分を毒殺した。
家庭は私的関係だ。しかし聖域ではない。殴る蹴るといった暴行や、一夫一妻制でありながら、他所で子供を持つこと。また毒を盛るような行為は家庭内の問題とはいえない。懲罰の対象となる。
しかし、二度目の生ではジニアスはティーナを毒殺していない。それに、父に極刑を求めなかったのはーー
「わたくし、誰かの死の上に自分の幸せが成り立つのは嫌なのです」
亡き母は、息を引き取る直前まで、自分を愛してくれていた。そして誰よりも幸せになってほしいと願ってくれていた。
ティーナの母が亡くなる直前、体裁を取り繕うためにジニアスが呼んだ医者は、手の施しようが無いと即断して苦痛を和らげる薬だけをティーナの母に処方した。
でも、ティーナの母はそれを服用しなかった。苦痛を和らげる薬はとても強く、意識が混濁するから。ティーナの母は、最後まで愛娘と過ごす時間を大事にしてくれた。
「許して、ティーナ。あなたを一人にさせてしまって。愛してるわ……ずっと』
痛いとか、苦しいだとか。不貞なんてしていないとか、夫が憎いとか。そんな恨み言の代わりにティーナの母は、限られた時間の中でティーナに沢山の愛の言葉を与えてくれた。
だからティーナは、二度目の生では母が祈ってくれた通り幸せになると決めた。自分と母を苦しめた男なんて、さぁ?知らないわ、と笑ってやるくらいに。
「ーーですから、この処分が落としどころだと判断いたしました」
「そうか」
長々と語り終えて微笑むティーナの頬をカルオットは優しく撫でる。
そぉっと触れるか触れないかという触り方に、ティーナが身をよじればカルオットの腕が腰に絡みつく。
「逃げないでくれ」
耳元で囁かれ、心臓が跳ねる。ただならぬ予感がして、ティーナはぎゅっと目を瞑る。視界が闇に覆われたと同時に、カルオットに抱きしめられた。
不意打ちとも言えるそれに驚いたティーナは、つい目を閉じてしまう。
「こういう時に目を閉じるのは、そういう覚悟があるということかな?」
暗闇の中、カルオットの熱を帯びた声が耳朶に響く。咄嗟に違うと首を横に振ろうと思った。けれど、この先を望む自分も確かにいる。
だからティーナは、目を閉じたままカルオットに身を任せる。そうすれば触れるだけの優しい口付けが落とされた。
*
ーーそれから月日が経ち。
王都の大聖堂には祝福の鐘の音が響き渡り、新しい門出を祝う二人の為に色とりどりの花びらが青空に舞う。
本日はコンティノア国第三王子カルオット・リュ・コンティノアと、名門貴族当主ティーナ・カリナの結婚式。
一度は破綻間近だと噂されていた二人であるが、もうそれは過去のこと。真っ白な婚礼衣装に身を包み互いを見つめ合う二人は、誰がどう見ても深い絆で結ばれている。
「新郎、カルオット・リュ・コンティノア、汝はここにいるティーナ・カリナを妻としーー」
司祭の厳かな声が聖堂に響く中、参列者は起立した姿勢で式の進行を見守っている。
そんな中、ステンドグラスには日が差し込み、真っ白なバージンロードと新郎新婦の衣装に色を与えている。
始まりの日に相応しい光が満ちた空間の立会人席には、ティーナの母の肖像画が飾られていた。