たった5分で終わった父との決別⑤
父ジニアスは、ソファにだらしなく座っていた。
ローテーブルには酒瓶や、シャシェとシャシェの母親らしき人からの手紙が無造作に投げ捨てられている。空気はこもり、嗅ぎ慣れない強い酒の香りに胸が悪くなる。
記憶の中の父親は威厳のある男性だった。彼のピンと伸びた背中にいつもすがりつきたいと思っていた。
なのに目の前にいる父親は目は濁り、無精髭は生え、衣類は乱れ、威厳など影も形もない。
けれど部屋に入ってきたのがティーナだとわかった途端、その濁った目は怒りの色に染まった。
「……やってくれたな」
たったその一言で、この期に及んでも父親が自分を己の娘だと認める気はこれっぽっちもないことを悟った。
既にわかりきっていた事実に落胆を覚えるけれど、胸の痛みは思ったほどではない。それより父親に向けての同情心が強かった。
「なんのことでしょう?お父様」
「はっ、忌々しい奴め」
首を傾げてとぼけてみせれば、ジニアスは世界中の憎悪を集めたような顔で言い捨て、酒瓶を手に取った。
グラスに注ぐこともせず直接、瓶に口を当て飲む様は品の欠片も無い。変わり果てたその姿に、ジニアスが思っていた以上に自暴自棄になっていることを知る。
ーーこんな状態では、わたくしの話なんて聞く耳を持ってくださらないわね。
最後に父と本音をぶつけ合いたかったティーナは、怒りよりも虚しさを覚える。とはいえ、何も語らずに父を断罪する気は無い。
聞く耳を持っていようがいなかろうが、胸に抱えていた想いは全て吐き出させてもらおう。
「お父様……わたくしは貴方に認めて欲しかった。長い歴史を持つこの家門を背負う気高い貴方に愛されたかった」
「……」
「今だからこそ、敢えて伺います。何をすれば貴女はわたくしを認めてくださったのですか?髪を染めたら?瞳の色を変えたら?そうすれば、貴方はわたくしを娘として認めてくださったのですか?」
「……」
「やはり、何も仰ってはくださらないのですね……わかっていましたけれど」
壁に向かって話しかけているような感覚に囚われたティーナだけれど、傷付くことは無い。もう慣れっこだ。でも、これを伝えればきっと父は反応を示してくれるだろう。
「でも、もう良いんです。だってわたくし……貴方もこのカリナ家の呪詛に囚われた可哀想な人だと知りましたから」
「なんだと?」
予想通りジニアスはティーナをギロリと睨む。対してティーナは、涼しい顔を浮かべるだけ。
少し前ならたったこれだけで全身がこわばっていた。震える唇で思いつく限りの謝罪の言葉を紡いでいた。なのに今は微笑みすら浮かべることができる。
そんな自分を不思議だなとティーナは思いつつ、言葉を続ける。
「貴方には、とても優秀な兄がおりましたね。でも、その人はカリナ家の戸籍に入れられることは無く、貴方が成人を迎えると同時にその存在すら消されてしまった。そんなひどい扱いを受けたのは……わたくしと同じように髪と瞳が前当主と同じ色ではなかったから」
「なぜ……お前がそれを……」
「ふふっ、調べる手段は幾らでもありますから」
薄く笑って答えれば、ジニアスは苦し気に顔を歪めた。おそらく記憶の隅に追いやった辛い出来事を鮮明に思い出しているのだろう。
王室の力を持ってすれば、この国の秘密を全部知ることができる。
一度目の生では、父親に疎まれるのは全て自分が悪いのだと諦めていたティーナだが、二度目の生で父が己に似た容姿以外の子供を受け入れないのは、自己愛だけではなく何か他に理由があるのではないかという疑問を持った。
そして、カルオットの力を借りて父の過去を探り、悲しい過去を知った。どうして容姿に固執するのかも理解した。
ティーナの父ジニアスには4つ年上の兄がいた。10歳で異国の言葉を完璧に習得し、剣術も乗馬の腕も素晴らしく将来を期待されていた。しかしジニアスの兄は、黒髪で金茶の瞳。母親の容姿を受け継いでいた。
ティーナの祖父であり、ジニアスの父は冷血な血統主義者であり、どれだけ長男が優れていても、決して自分の息子とは認めなかった。
そのためジニアスの兄は、遠縁から頼まれ屋敷に置いている子供という扱いだった。そして次期後継者は早々にジニアスだと宣言されていた。
家門にはそれぞれルールがある。誰が後継者になっても、その後の責任を全うできる者なら咎められることはない。
しかし容姿だけで後継者となったジニアスにとって、それは恐怖と苦痛でしかなかった。
どれだけ勉学に励み、剣術の腕を磨いても、終わりが見えない。一つの課題を終了しても、もっともっとと要求は続いていく。
我慢の限界を超えたジニアスが癇癪を起こして教本を投げ捨てれば「お前の兄はこんなことなど簡単にできたのに」と呆れられる。比べる相手が天才だということに論点を置くこともせずに。
そんな理不尽な状況でも、ジニアスと兄は仲が良かった。
おそらくジニアスの兄が穏やかな性格で欲が無かったからだろう。彼が望むのは平穏な生活だけで、後継者になりたいという野心は持ち合わせていなかった。
そのため弟が不必要な努力を強いられれば、さりげなく助け、時には自ら罪を被ることもあった。
そんな兄をジニアスは心から慕ってた。当主になった暁には、虐げられてきた兄が心穏やかに過ごせる場所を贈ると心に決めていた。
でもジニアスの兄は、ジニアスが成人した翌日に死んだ。死因は病死とあるが、疑わしい限りである。王室の力を以ってしても真相を掴むことはできなかった。
ただ一つ確かなことは、兄の死によってジニアスの性格が歪んでしまったということ。容姿だけに固執する血統主義となってしまった……ということだけ。
「……お父様、貴方は本当は自分の力で得た何かを認めてほしかったのではないですか?見た目の美醜だけじゃなく、中身を見てほしかったのではないですか?」
「黙れ!お前に何がわかる!!」
問いを重ね続けたティーナに、ジニアスは怒声を放つと共に血走った目で拳を振り上げる。
しかしその拳はティーナの頬には当たらなかった。ジニアスが僅かな理性でそれを押し留めたからだ。殴ってしまったら、その言葉を認めることになってしまうからという計算もあったのだろう。
「お母様が私をお産みになった時、生まれたばかりの私を見て貴方はかつての悪夢が蘇ったのではないですか?忘れたかった悪夢を呼び戻した母を憎み、否が応でも兄と死に別れた苦しみを思い起こさせる私を憎んだのではないのですか?」
空いている方の手で己の手を抑え込みブルブル震えるジニアスは、口を貝のように閉ざしている。
「そうですか……やはり何も仰ってはいただけないのですね」
こうなることは予期していたが、何か自分に言葉を掛けて欲しかったという思いはある。
でも、これもまた一つの答え。ティーナはため息を吐くことで心に折り合いをつけ、父親に処罰を告げる。
「お父様、もう悪夢に囚われるのはおやめください。人を傷付けてもあなたの心の傷は癒えません。貴方の心を癒す術は、隠居して当主の座をわたくしに譲ること。そして貴方は新しい家族とともにどこか遠い場所で暮らしてください。それが最善の方法です」
母親の娘という立場なら、この男を許せない。でも、父親の娘という立ち位置では、もうこの男に苦しんでほしくない。矛盾しているが、どちらも嘘偽り無い気持ちだ。
加えてこの忌まわしい呪詛を断ち切るために、自分が当主になる必要がある。
ティーナは悩んだ末に出した結論の続きを、淡々と父に告げる。
「シャシェのことは表向きは血の繋がらない娘だったと公表してください。御存知の通り、この国は一夫一妻制ですが伴侶が亡くなった場合、議会の一致を取れば再婚できます。当主の座を退くという条件なら、きっと認めてもらえるでしょう」
そうして自分の知らないところで、新しい家庭を築けば良い。
母親が無念の死を遂げた手前、きっと辛い気持ちは消えないだろう。でも、見なかったことにする。そうできる自信はある。
ジニアスに告げるつもりはないが、ティーナはここに来る前にシャシェと会っている。彼女の母親にも。
二人は、父親のことを愛している。シャシェもあんなひどい目にあったというのに「父親とも一緒に」と言った瞬間、目を輝かせた。
なのにジニアスは、こちらを睨みつけるだけだった。