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紺碧

作者: 榛名白兎

 小さな円卓に、乱雑にビニール袋が投げ出された。中には安い発泡酒、割引シールの貼られたツマミの詰め合わせ。

 倒れ込むようにして膝をつき袋の横で頭を卓上に投げ出した女性は、そのまま瞳を閉じた。

 ちょうど、この時間。

 彼女は待つ。

 そしてそれはゆっくりと聞こえ始めた。

 それに出会ったのは、必然だったのかもしれない。


 美大を卒業し社会人となってからもう一年が過ぎた頃、職場環境にも慣れ始めたある日、紺野美空は久しぶりに飲み屋に寄り道せずに帰宅した。

 手には駅にあるコンビニエンスストアのビニール袋。

 ふらふらとした頼りない足取りで黄昏時の仄暗い路を歩いていた。

 若い女性がひとり、人気のない住宅地を歩くというのは、なかなかに無防備である。

 それでも何事もなく自宅アパートに着いた彼女は、階段を上り自身の借りた部屋に入ると、少しぬるくなった缶ビールに手を出した。

 冷やしてから飲む、だとか氷を入れたグラスに移す、なんて考えは浮かばないようで、無言でそれを飲んでいた。

 物が少なく最小限、とても生活感の感じられない部屋で、机の周りにだけ集まった彼女の僅かな生活痕。

 それは、この場所が彼女にとって生活の中心ではないことを暗示する。

「うー」

 特にしたいこともないようで、酒も美味しくなさそうに飲む彼女は、ブラック企業に務めているわけでもなく、理不尽な叱咤を投げつけるような上司がいるわけではない。

 ただ彼女はなにか生きる糧を失ったような心持ちだった。

 スーツも着替えずだらりと垂れた四肢は、このまま円卓に身体を預けて眠ってしまうのではないかと思わせる。

 元々眠る以外には殆ど使われていなかったこの部屋ですることなど浮かぶはずもなく、脱力。早い時間に帰ったことが果たして彼女にとって良いことだったのか。

 そうしてしばらくちびちびと缶に口をつけて束の間の怠惰を過ごしていると、突然に、紺野は耳に心地好い音が迷い込んでくるのを感じた。

 空耳かと不思議に思って耳を澄ますと、その音たちは確かに聴こえていて、すぐにそれが男性の歌声であるとわかった。

 紺野の住まうアパートには下階に一人だけ入居者がいたことを記憶していて、その声は恐らくその『一人』のものだろうと察したとき、彼女の乾ききった心に雫が垂れ、小さな変化がもたらされた。

 この時間、普段なら飲み屋のカウンター席でナマひとつと珍味ひとつで粘り、店員に胡乱気な視線を向けられているような頃。

 床板をすり抜けてやってきて鼓膜を揺らす美しい歌声のために、この刻を目掛けて帰宅しよう。

 そんな、ささやかで小さな生き甲斐が、紺野の心にうまれた。


 それからは歌のために仕事に打ち込み、この日も例に漏れず歌声のために仕事を終わらせ浮き足立った心をそのままに、聴こえ始めた美声に耳を蕩けさせる。

 卓上に置かれたスマートフォンの狭い画面にはテレビニュースが居心地悪そうに映し出されていて、熱っぽい紺野の瞳はそれを追っていた。

 直ぐに空になった缶を置きっぱなしにして、卓に肘をついた彼女は、歌のリズムに合わせて画面を叩き、番組を変えていく。

 言葉の欠片がスピーカーから吐かれる中、紺野はひとつの番組に僅かに興味を惹かれた。

 いざそれを選択してみると、近年活躍しているまたは将来有望なアーティストをとりあげている番組だった。

 同じ大学を卒業した歳上の女性が驚愕の早業で描く似顔絵、映画の主題歌を唄ったことで一躍人気グループとなったバンド、若くしてアジア大会で優勝したサックス奏者。

 住む世界の違う、きらきらしい同年代の男女は、皆一様に笑顔でインタビューに応えている。

 そんな番組をつけたまま放心していると、番組の終盤になって大トリを担う一人が現れた。

 紹介中にはその人物の歌う曲がバックに流れ、画面に表示されていたシルエットに光が差す。

 そこにいたのは美しい歌声に相応しく、また最後を飾るのに相応しい、不思議と妖艶な空気を纏う美青年……暗い海に朝日が差し込むような柔らかな声が鼓膜を揺らした。

『シンガーソングライターの詩水碧依です』

 細く柔らかそうな頭髪は、彼の動きに併せて揺れる。色素が全体的に薄いおかげで一種の神秘性を感じさせる容姿に、長い前髪で隠れがちの美しい瞳がとても似合っていた。

 彼の紹介映像が流れる中、紺野は視界の端に小さく表記された碧依の楽曲名を見付けて、すぐさまスクリーンショットを撮る。

 その後すぐに映像が終わり、それでは聴いてみましょう、と司会が告げて、しんとスマートフォンが黙った。音量を上げてみても静寂あるのみ。

 訝しんで画面を睨めつけると、ちょうど前奏が始まるところであった。

 音量を上げていたせいで、一瞬にして部屋は歌声に充ちた。手に持ったスマートフォンから意思とかたちを持った『音』が溢れ出てくるように錯覚した。

 その『音』たちの影響力は音量を少し下げるくらいでは微塵も減らない。下の階の人に聴こえていないかと慌てて小さくするが、頭の中には先程までと同じだけの音圧で反響する。

 耳に届くのは天使か何かの声。彼女がそう思うくらい心に響く歌声と出逢うのは、これが初めてではない。

 閉じられた紺野の瞳にツンと何かが込み上げる感覚が生まれたとき、その薄らと燻っていた既視感に、ようやく気が付いた。

「あ」

 雷に打たれたような衝撃に思わずスマートフォンを取り落とした紺野の鼓膜は、次第に『音』の中心にいた『声』が下の階から聴こえる『声』と特徴が重なっているのを知覚していった。

 はじめは大音量の音楽に耳がおかしくなったのかと、彼女は頭をふるふると揺らす。

 違う。そうじゃない。と紺野の唇が小さく動き、震える指先でスマートフォンを消音に切り替えた。

 テレビ番組の後ろで聴こえていた下階からの歌声は既におさまっていて、妙に静かに感じられた。

「ああ、う」

 なんだかよく分からなくなって、生き甲斐を手にする以前の紺野のように、リビングデッドのように、彼女はスーツを脱いでいく。

 その夜は眠れなくて、夜が明けるまでずっと頭の中に天使がいた。静寂を踏み荒らす綺麗な歌声の残滓は子守唄に成り損ない、紺野の目の下にくっきりと隈を刻んだのだった。


 翌日ふらふらになりながらも出社し、歌声の人が気になって仕事に身が入らず、同僚に心配されながらも何とか定時に間に合わせ、しかしひとつ電車に乗り遅れた紺野。

 彼女は歌声をリラックスして聴くための余裕をもって帰宅することが出来なかった。

 それでも習慣通りにコンビニに寄り、チューハイとナッツの入った袋が手の内にあった。

 自宅アパートを視界に収めて少し気が緩んだのか彼女の足取りは次第に鈍重になり、アパートの影に足を踏み入れた頃にはもう、歌声の時間であった。

 そのことに気が付かない紺野は、階段目指してゆっくり進む。その行動は、この時に限って『正解』だった。

 ふと背後から聞こえてきたのは、すっかり聞き慣れた伸びやかな歌声。外だというのにカラオケかどこかで唄っているような、わりと熱唱に近い声。

 足を止めて振り返ると、夕陽と歌声の中に天使が立っていた。

 全身に巡る血の沸騰するような感動は二度の運命的な出逢いが心を酔わせているのか、未だこの状況に現実味を感じられていない様子の紺野は、まだ酒は袋からも取り出していないというのに平衡感覚が狂ったようだった。

 彼女がかの住民に挨拶に伺ったときは体調を崩していたのかマスクとレンズの大きな眼鏡をかけたボサボサ頭だったため、テレビ番組に映った美青年と印象は正反対だったが……と呆然としていると、男はそのまま言葉を吐いた。

「すみません。えっと、紺野さん」

 くつくつと堪えたような笑い声。

「飲み帰りで、気分が乗って、いつの間にか結構な声量になってたみたいです」

 いかにも楽しそうな声色で、相槌を打たないうちに鼻歌を歌い始めた。

 不意に彼の声の方向が変わったと思うと、意外にしっかりとした足取りで歩いてくる碧依の姿が彼女の視界を総取りした。

 紺野の目に見慣れない尖った服装の彼は、テレビ番組やミュージックビデオでは目を隠していた長い前髪を頭の上にピンで留めていて、少し幼く見えた。

「飲みません?」

 断られたらどうしよう、と顔に書いてある。そんなわかりやすい表情のままの彼から紺野に差し出されたのはプレミアムと黄金の文字が刻印された缶ビールだった。

 自分の購入したものを頭に思い浮かべた紺野は一瞬袋に顔を向けるが、お高いビールをもう一度視界に収めた彼女の気持ちは固まったようで、頭を下げてそれを受け取った。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

 碧依は開いている缶をあおり、はにかんだ。

 紺野がプルタブを捻ると、缶から心地好い音が立つ。

 サブカル系ファッションとスーツ姿というおかしな組み合わせの二人は、缶ビール片手に語り合った。

 夢のような体験に、ついつい口が軽くなったのかもしれない。紺野の少しひび割れた唇は、次々と彼女自身が忘れていた『夢』の話までもを軽やかに紡いだ。


 翌日には、紺野の頭の中をずっしりと質量をもって覆っていた黒々とした霧が突然に晴れたものだから、暗鬱としていた気分は消え、生きるためにこなしていた全ての事柄が新鮮に思えるようで、明るい雰囲気を取り戻した彼女を見た多くの同僚は恋だなんだとやたらに騒ぎ立てていた。

 肝心の紺野はというと、心に余裕が生まれたことでこれまで存在自体を記憶から消し去っていた『創作への情熱』が再燃しつつあった。

 彼女は碧依との二重の出逢いを経験してから、機械のように働くのを辞めて適度な休憩をとり、仕事を終えると一直線に帰宅するようになった。


 それから数日後、時を重ねて仲良くなってから、何度目かの飲み会。といっても、それまでと何ら変わらない夜空の下で行われるものだ。

 紺野の部屋の前、錆び付いた簡素な階段に腰を下ろし、ちょっと良い酒と、事前に用意しておいたスモークチーズをつまんで、歳下相手にぶつくさと愚痴や幻想を吐く様は、人間らしいといえばそうだろう。

 聞き上手な碧依は紺野の話にいちいち反応をして、普段のすまし顔ではなく多彩な表情を見せ、紺野の醸し出す黒い気を打ち消すようだ。

 しかし紺野が語り終えると今度は碧依が口を開く。当然愚痴ではあるのだが、彼の語り口は冷静で紺野のような支離滅裂さもなく、この日に限っては茶化すような口調も消えていた。

「俺さ、よく言われるんだよね。見た目で売れてる似非天才ボーカリスト、って」

 声のトーンが僅かに下がったのを感じた紺野は、こくりと喉を鳴らす。

「まあ、そういうことを言うのは極々一部の人だけど、そうわかっていても嫌なことって頭に残るんだよ」

 その言葉に、紺野はどう返すべきか決めあぐねて唸った。尊敬しているアーティストがアンチに悩まされる場面はSNS上でもよく見ていたが、その相手が目の前にいて、何も出来ないというのはあまりにも歯痒く、無力感がふつふつと沸き起こっていた。

 そんな彼女を返事を待つでもなくじっと見つめた碧依は、視線を難しげな顔をした彼女からぼんやりとした空の切れ目に移し、細く息を吸う。

 肺に呑まれた空気は、次に外界に出てきたときには清く純麗な歌声へと変貌を遂げていた。ミュージックビデオやアルバムにも収録されていないと思われる、耳慣れない曲に、紺野は思案するのを中断した。

「わかった?」

 悪戯が成功したような表情で紺野を目した彼は、彼女の「知らない曲」という独り言に近い応答に笑みを潜めた。

「そう。今度の新曲なんだ。これは今までと違って、歌詞も曲調も万人受けなんて狙ってない……俺の曲ってわけだ」

 紺野はその言葉を聞いて惚けた顔をして、そのままスモークチーズを咥えた。嫌味や僻みに心を痛めてしまう彼がどうして急に自身を主張したか、彼女が聞く前に言葉が続いた。

「そこからはもう、俺と俺の世界に呑まれた奴らだけでいい。俺という主人公がいる世界で、見たいやつだけを」

 手すりを掴んで上体を反らした碧依は、真上の月にその美麗な顔面を向けた。

「溺れさせるんだ」


 翌朝の紺野は、夢も見ないほど深く眠ったおかげか非常に気分が冴えていた。そして同時に、自然と前向きな気持ちになっていた。

 愚痴を吐いて、愚痴を聞いた。ただそれだけ、昨日の出来事は今や日常のひとつとなったものだったが、その中でも特別だったようだ。

 仕事を言い訳にして彼女が随分と長い間離れていた、創作の世界……彼女がもう一度その世界に触れたいと思うのは無理もない。

 きっちりとアイロンがけして吊るしてあったスーツに袖を通し、髪を留めて、ドアを開けると朝の清涼な空気が流れ込む。

「いってきます」

 誰にでもなく呟いた言葉は蒼空に吸い込まれて、そのまま紺野は仕事に向かった。


 何も買わずに帰ってパンプスを脱いだ紺野は、最近まで触れられてもいなかった電子機器用のカラーボックスに手を伸ばし、黒い板を掴む。それを引っ張り出して線を繋ぎ円卓に置いて、彼女はスマートフォンの画面を二、三度小突く。

 すると、いつぞや聴いた『階下の天使』の歌声が小さな携帯電話機から溢れ出した。

 その途端、紺野の指が滑らかな動作で黒い板、つまりタブレットからタッチペンを取り外す。電源を入れられたタブレットはA4ファイルよりもやや小さいくらいの画面を明滅させて、自動的にあるアプリを開いた。

「久しぶり、紺狐」

 無意識に紺野の唇が動き、アプリ名の横に浮かんだアカウント名を呟いた。勿論それは絵の世界から退く前の彼女が使っていた名前である。

 アプリのフォルダ一覧に並べられた懐かしいイラストの数々を流し見て、紺野は『新規作成』の文字に触れる。紺狐が目を醒ました瞬間だった。

 それから二時間程経過した後、古い型のチャイムが紺野の意識を現実に引き戻した。手の内の電子機器の画面には、月夜に爽やかな歌声を響かせる天使が立っていた。

 久しく絵のためにペンを持つことをしなかった彼女としてはその出来に納得がいかない様子だが、誰が見ても下手だなんて思いようのない、独特の雰囲気のあるイラストであった。

 言うまでもない、相飲みの際に歌っていた碧依を想像して描かれたその作品は、ギリギリ彼の到着に間に合ったのであった。

 インターホンを押した碧依は、普段よりも幾らかわかりやすい表情で、気分が良くないのを紺野に伝えるようだった。

 それは彼が本日手渡された、出演予定である番組の台本に起因する。何故かというのは、二人が酒を飲み始めて直ぐに、彼の口から語られることとなった。

「台本は見せられないけどさぁ!」

 心做しか語気が荒い碧依は、酒に吞まれるままに口を開く。

「今度出る番組で、『顔で売れた』って軽くイジられて、それを笑顔でサラリと流すって下りがあるんだけど……さぁ」

 紺野はその続きを聞かなくとも、彼の言いたいことを察したようで、眉尻を下げた。

「まぁ嫌だよな」

 そう、はっきりと告げた碧依は何か吹っ切れたのか、堰を切ったように悪感情を吐き出し始めた。天使の声が悪魔の言葉を紡ぐのは、ちぐはぐで、居た堪れない気持ちになった紺野は言を遮ってスマートフォンの画面を彼の目の前に差し出す。

 いかにも不機嫌そうに「なに」と言いながらもそのアーモンド型の目は画面に吸い込まれ、数拍置いて見開かれることになる。

「……自惚れじゃなければいいけど、俺?」

「そう。どう?嬉しい?」

 若干食い気味に返答する紺野は、恥ずかしさからか声が上擦っていた。

 画面に映し出されていたのは、先程まで碧依を待ちながら描いていたイラストである。人の為に人を描く……絵の世界に久し振りに触れた彼女には、新鮮で懐かしい感覚であったことだろう。

 そして気まずそうに視線を逸らした紺野をよそに、碧依は数秒前から一転して歓喜に彩られた顔になり、彼女からスマートフォンを奪い取る。

「すげぇ!俺だ!ファーストアルバムのイメージに近い!もしかして聴きながら描いたりしたのか!?」

 食い入るようにイラストを見つめて興奮した様子で、彼は続けた。

「……これって、こういうのって、また描いてくれたりしないか?」


 曰く、その絵を見たときの感動は、創作活動と芸能活動の精神疲労を一瞬で吹き飛ばす勢いだったという。

 それはまさに、紺野に碧依の歌声によってもたらされた効果であり、その言葉は一種の起爆剤となる。


 会社は繁忙期、シンガーソングライターとしての活動も軌道に乗り双方が忙しさに呑まれそうになって、星空の飲み会もしなくなり、それでも互いを支え合っていた。

 碧依が夜遅くに帰宅すると、ドアノブに掛けられているビニール袋。その中には魔法瓶と二枚の紙があり、まだ少し温かさを感じる。一枚には『がんばれ、これは豚汁』という走り書き程度のメッセージが残されており、もう一方の紙は言わずもがな、紺野の描いた作品である。

 紺野が朝早くに出発すると、ポストにノートから破りとったような紙が一枚。電車に乗ってからそれに書かれた番号を入力すると、碧依名義のチャットアプリのアカウントが表示され、友達に追加すると数分後に音楽ファイルが送られる。『仮録音!!』とだけのメッセージは、どことなく彼の新曲への自信を感じさせる。

 幾夜も過ぎ、それぞれが貰ってそのまま溜め込んでいた紙の束が大きくふとって、静かな冷たい季節がやってきた。

 交わした言葉の数を書き置きした切れ端が上回ったのはいつ頃だったか。

 心を締め付けるような台詞をキャラ付けだとかいう理由で多く吐かされる日々の中で、声援を糧に歌い続けた声はのびやかに。

 時間が空く度に描いた絵は紺野が創作の世界に一番のめり込んでいた時期の実力を通り越し、あっという間に上達していった。


 真夜中の住宅街は明かりに乏しく、冬の澄んだ空気の影響もあって空が近く感じられる夜のことだ。

「久しぶりだな」

 ふらふらになりながらも鞄を下敷き代わりにメッセージを書いていた紺野のもとに、久しく聞いていなかった生声が降ってきた。

 驚いてペンと紙を取り落とした彼女は、碧依の潜み笑いが聴こえると僅かにむくれた表情になり、そのまま見上げた視線が絡まった。

 どれだけ顔を合わせていなくても言葉を交わさない日はなかったが、顔を見るとどうしても懐かしさを感じてしまうようで、二人の間に流れる空気は湿っぽいものに変わる。

 呼吸を忘れるような静寂の後、遠くで車の鳴く音が響いて時が再び刻まれる。

「いつもいないのに、今日は早かったんだね」

 紺野が返すと、彼女の部屋の前から下に降りてきた碧依がキンキンに冷えた缶を差し出した。

「話が終わったら飲んで」

 つまりは、大切な話なのであろう。それを感じ取った紺野は小さく喉を鳴らし、言葉を待った。




 桜、新芽、柔らかな風。

 新学期とともに一新された面子で、そわそわしながら授業を受ける頃。

 或いは多くの学生が社会へと旅立ち、学び舎とはまた違った新たな苦悩に立ち向かわなければならない、そんな環境に置かれる時期。

 着慣れない制服に身を包んだ少女達が、街の大通りを並んで歩いていた。

 お揃いのキーホルダーにはそれぞれの名前が刻まれているが制服は別々のもので、進学先が分かれた親友といったところであろう。

「わざわざ来てくれてありがとね、あずさ!」

 少女はあずさと呼ばれた方を引っ張って早足に歩くと、目的の店を見つけたようで横に逸れる。されるがままのあずさは楽しそうに笑みを浮かべていた。

「あった!やっと手に入る……」

「残り少ないですね」

 二人が入ったのは様々なゲームや端末の売られている店舗で、店内には幅広い年齢層の客が溢れかえっており、目当ての商品を見つけるのに少し時間がかかっていた。

 それでも少女は何度も売り切れの文字を見てきたようで、それを手に取ったときには至上の幸福の中にいる、と一目でわかるような表情をしていた。

 大事そうに抱えたそれをそのままレジに持っていった二人組は、数分後に店から出ると、意気揚々と帰路につく。

 彼女らが買ったものはとあるアーティストのサードアルバム『紺碧』で、表には爽やかなイラストが添えられていた。

 ありふれた若者向けソングだの顔商売と揶揄されながらも歌い続けた彼の姿は、多くの人々を魅了し、また新曲のキャッチコピーである「自分のために唄う歌」という文言と、際限なく広がるような気持ちのいい曲調は新たなファンを呼び込んだ。

「今回はカバーイラストの雰囲気も変わって、すっごく綺麗な絵だね」

 少女が笑顔で言うと、あずさはそのイラストの隅っこに小さく書かれたサインに気が付いて、読み上げた。

「紺狐」

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[一言] 輝かしい世界にいるアーティストが、日々の生活を無気力に送る元アーティストと出逢い、そして心を許しあうという展開がすごく好みでした。 音楽と絵のベストミックス、紺碧という作品はどんなに素晴らし…
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