美幸の苦手なもの①
美幸としての生活が始まって三か月が経過し、夏という季節が来た。開いた窓からは少し生ぬるい風が入ってきて、外は蝉という夏の風物詩の虫の声が賑やかだ。制服の袖は、手首まで覆うものから肘より上の長さになった。朝でも気温は高く、歩くだけで汗が肌の上を流れていくのがわかる。
「今日も暑いね」
「うん」
わたしと莉子は蝉の声の中、学校に向かう。今日は期末試験の日だ。
「あれ、出るかな教科書の応用のやつ」
「ああ苦手って言ってたやつ?」
「そう、あれ出たらお手上げ~」
莉子は数学が少し得意ではないらしい。わたしは美幸の記憶の支えもあってか授業には不便なくついていけている。ただ、試験となると少し緊張する。美幸の為にも下手な点はとらないようにしないと。
「あっねえ見て美幸ちゃん」
「ん?」
学校の近くには地域の掲示板がある。そこに掲示されたひとつのポスターを莉子は指さした。黒い背景に、火花が散ったような写真。大きく、花火大会という文字が書かれている。
「花火大会のポスター、もう貼られてる」
花火。写真と文字の印象からそれがどういうものかなんとなくわかるが、見たことはない。ちゃんと後で辞書でひいてみよう。最近はすぐにわからない単語を調べられるよう、常に机に紙の辞書を置いている。わたしがポスターを見ながらそう思っていると、莉子があっと声をあげた。
「あっごめん私ったら。美幸ちゃんは花火苦手だったね」
そうなのかと思わず口をついて出かけた言葉を飲み込んだ。美幸は花火というものが苦手なのか。初めて知った。
「大丈夫」
わたしは平静を装って返事をする。莉子は気を取り直したように笑う。
「花火大会はやめとくにしても、今年は美幸ちゃんとどこか遊びに行きたいな」
今年は、ということは去年は莉子と美幸はどこにも出かけていないということだろう。
「できるといいね」
「もう、なんでちょっと他人事なの」
莉子が少し頬を膨らませてそう言った。こういう些細なやり取りも違和感なくできるようになった。
「あ、そうだ。美幸ちゃんに代理で来てもらったやつ、今月発行だって」
「ああ」
莉子の雑誌のことだ。
「サンプル貰ったんだけど、家に置いてきちゃった。今度持って行くね」
「うん」
あの時撮った写真は出来が良いらしく、モデルの事務所の人が褒めていたと莉子が嬉しそうに語っていた。わたしはあの時美幸の無様な姿はさらせないと必死だったのだが、なんとかうまくいったようだ。
「また代理お願いしたら来てくれる?」
「その時行けそうなら」
どれだけ美幸としての生活に慣れたとしても、わたし自身では決して未来の約束は出来ない。
「じゃあ美幸ちゃんが行けそうな時に頼むね」
そんな美幸の姿勢にも慣れているのか、莉子は少し得意げに笑った。青空は朝だというのに色が濃く今日も暑い一日になりそうだと、わたしは莉子の横顔を見ながらそう思った。
”花火”
”火薬と金属の粉末を混ぜて包んだもので、火を付けて、燃焼・破裂時の音や火花の色、形状などを演出するもの。”
学校についてすぐ、わたしは花火を辞書で調べた。
「…」
火薬と金属というと爆弾が想起されるが、あの莉子の話しぶりと”大会”と称されていることから物騒なものではないらしい。しかし辞書の文字だけでは実態が掴めない。もう少し情報が欲しい。
図書室や図書館に行けばもう少し花火の資料があるかもしれない。そう思って水曜にでも図書室に行こうかと思ったが、今は試験期間中である。この時期の図書室は人も多いし、下手に花火を調べるのに時間を使って試験の結果が悪くなるのは避けて起きたい。ということで試験がひと段落する休日に図書館に行って花火について調べてみることを決めた。
そして土曜日になった。ちなみに期末試験はある程度出来たとは思うが、正直まだ理解できていないところが多かったなという印象だ。早速試験の復習をしようかとも思ったが、それよりも今は花火についての興味が勝った。
「やあ」
図書館に行くと、いつもの場所に青葉がいた。
「どうも」
わたしは探してきた花火の資料を手に、いつもの席につく。すると青葉がわたしの手にした本を見て小さく首を傾げた。
「そんなに花火の本抱えてどうしたの」
素直に答えようとして、ふと気付く。青葉は美幸が花火が苦手なのを知っているのだろうか。もし知っていたらややこしいことになるだろうか。わたしは少し考えて、こんな言葉を口にしてみた。
「…敵情視察」
「なんだそれ」
青葉が呆れた顔をした。しかしそれ以上特に介入はしないのか、自分の本に目を戻した。うまく冗談だと受け取られたようだ。まあ実際美幸が苦手という花火は美幸にとっての敵みたいなものだし、それを知るための行動なので大きく意味は外れていないはずだ。これでようやく腰を据えて本を読むことができると、わたしは”花火図鑑”という本の表紙を開いた。
「…」
幾ページ捲った後、わたしは小さくため息をついた。正直写真と文章だけじゃ花火という実態はわからないのだ。
「…どうしたの」
わたしのため息を聞いてか、青葉が顔をあげた。わたしは開いていた花火大会のページを指さして、呟く。
「いや、これってどういう感じなんだろうと思って」
「ああ」
その花火大会有名だよね、と青葉が呟く。
「動画とかあがってるんじゃない」
「動画」
なるほど、そういうものもあるのか。わたしはまばたきをする。青葉は自分の携帯を取り出して、何かを打ち込んでいる。数秒後、ほらとわたしにその携帯を向けた。
その携帯の真っ暗な画面に、パッと火花が散った。
”ドン”
その瞬間図書館内に、重い音が響き渡った。
「あ、やべ」
青葉が慌てて携帯の音量を下げる。
「音出すつもりはなかったんだけど………君?」
青葉に声をかけられて、わたしははっとする。青葉が目を細めた。
「なんか顔色悪いよ」
「…そう?」
わたしは震える手をおさえて、ちょっと鏡を見てくると言って席を立った。その声が強張ってしまっているのが、自分でもわかった。
「…」
わたしはお手洗いに駆けこんで、鏡を見た。そこに映る美幸の顔は、明らかに真っ青だった。腕には鳥肌も立っているし、冷や汗も滲んでいる。洗面台についた手はまだ小刻みに震えていた。
明らかにこの全ての現象は、花火の動画を見た瞬間に発生した。そう、あの花火の音を聞いた瞬間に。何故かはわからないが、美幸の身体が全身で花火の音に拒否反応を示したようだった。
「…なんで?」
わたしは小さく呟くが、その問いに答えてくれるものはない。わたしは仕方なくその場で美幸の身体が落ち着くのを待った。この様子から察するに、美幸が花火を苦手だとするのは間違いないようだ。数か月美幸として過ごしてある程度のことはわかってきたつもりだったが、まだまだ知らないことがあるらしい。ただ不思議なのは、わたし自身としてはあの花火の動画に特に抱いた感情はないことだ。
「…あれ、おかえり」
美幸の身体が落ち着いたので、わたしは元の席に戻る。すると青葉がやや心配そうに顔を見てきた。
「大丈夫?なんかやばそうだったけど」
「うん、大丈夫」
きっぱりとそう言うと、青葉は一瞬不思議そうな顔をした後頷いた。
「…そう。それならいいけど」
「うん」
わたしはもう一度花火の本を読もうかと表紙に手をかけたが、花火の写真を見た瞬間に先ほど聞いた音が脳裏に蘇りそうになって手を離した。今日は美幸の身体のためにも花火に関する本を読むのは止めといたほうがいいような気がする。
「…」
花火の本を持って席を立ったわたしを青葉が横目で見てくるのがわかったが、その日はそれ以上話しかけてくることはなかった。
図書館の帰り道、夕焼けの橙色に染められながらわたしは今日のことを考えていた。
美幸の記憶は、わたしが美幸であるうちは自由に見ることができる。例えば先生の名前を聞けば、美幸の頭に残っているその先生に関する記憶を見ることができる。ただし、その時その瞬間に美幸がどんな感情を抱いたのかまではわからない。だから、わたし自身では美幸の好き嫌いについては知ることができないというのが実情である。周囲の反応や会話から美幸は多分これが苦手だったんだろう、好んでいたのだろうという判断しかできない。
ただし身体が拒否反応を起こすくらいに苦手であればそれを知ることができるというのが、今回わかったことである。今日は突然のことで驚いたが、逆に花火大会当日に発覚しなくて良かったと思う。こうなるとわかったので、花火大会当日は家で大人しくしておいた方がいいだろう。
「ちょっと見たかったけどな」
商店に貼られた花火大会のポスターを見て、わたしはそう小さく呟いた。
試験の次の週は、授業はほとんどがテスト用紙の返却と内容の解説となる。返却されたテストを見て、わたしはなんとか全ての科目平均点はとれたようで一安心をする。
「美幸ちゃん、試験どうだった?」
「平均だったよ」
「また?美幸ちゃんもっと上位狙えそうなのに」
莉子はそう言って不思議そうな顔をしていた。それはわたしもそう思う。美幸のとっていたノートはどれも整然とされており、練習問題もきちんと解けている。しかし、過去の美幸のテストを見ると、変なミスがあったり回答が歯抜けだったりして平均点にとどまっていた。練習はできても、本番に弱い性質だったのかもと過去の試験を見て思った。
そして試験が終わってすぐは試験内容や試験結果についての話題が多かったが、最近クラスの中を占めるのは花火大会と、夏休みの話題だ。
「花火大会さ、何時集合にする?」
「浴衣着て来いよ」
「え、やだー」
「あそこの海の家リニューアルオープンしたらしいよ」
「水着一緒に見に行かない?」
あちこちから聞きなれない単語が飛んでくるようになり、わたしはその度に密かに辞書をめくった。そもそもわたしにとっては夏休みというものが不思議だった。暑いからという理由で一か月の休みがある。その間宿題は出されるも、勉学は各々の采配に委ねられる。委ねられると言っても、実際の生徒にとっては遊ぶことしか頭にないように見える。一か月もの間なにも授業をしないのは、わたしにとっては少し残念だった。
「美幸ちゃん、今年の夏休みは何するの?」
昼休み、莉子がわたしにたずねてきた。ちなみに去年美幸は夏休み何をしていたのかと言うと、読書歴が書かれているメモ帳を見るに毎日読書に励んでいたようだ。わたしもそれに習うしかないかなと思って、わたしは短く莉子に答える。
「読書」
「やっぱりそうなの…」
莉子はがっくりと肩を落とす。しかしすぐに顔をあげてわたしの肩を掴んだ。
「ねえ今年こそどこか行かない?」
その瞳には熱意が滾っている。
「どこに?」
「…ん~」
莉子はそう言って、唸り始めた。
「よう、なに悩んでるんだ?」
唸る莉子の横に現れたのは、入船である。入船の横に藤谷と青葉もいる。三人が揃ってわたしたちの方に来るのは珍しい。
「美幸ちゃんと遊びに行く場所」
莉子が入船を見ながら、わたしの腕に抱き着いてきた。なぜか得意気な顔をしている。今この瞬間に莉子が得意になる理由は一体なんだろうかとわたしはしばし考えた。
「へえどっか行くんだ」
入船は入船で莉子と話せて嬉しそうな顔をしている。
「そんなお二人にいい情報があるんだけど」
入船のその言葉に、わたしと莉子は首を傾げる。藤谷と青葉は無言で入船を見ている。入船はポケットから半分に折りたたまれた紙を出して、わたしたちに見せた。
「はい」
「?」
莉子は一瞬訝しげな顔をしたが、入船からその折りたたまれた紙を受け取る。そしてそれをわたしにも見えるように広げた。
”青ヶ浜水族館 招待券”
見慣れない単語の羅列に、わたしは瞬きをした。一方莉子は目をきらっと輝かせて入船の方を見る。
「招待券だ!どうしたのこれ」
「事務所の人に貰ったんだ」
莉子の手元にあるのは招待券というものらしい。わたしはまじまじとそれを眺める。青色の背景に、魚とペンギンのイラストが描かれている。青ヶ浜は確か海側の方の地名だった気がする。水族館、というのはなんだろう。
「それ、よかったら夏休みに一緒に行かないか?」
「入船くんと?」
興味深いと思って招待券を見ていたわたしの腕をつんと莉子がつついた。なんだと思って莉子を見る。莉子はとても真剣な顔で、わたしにこう尋ねた。
「美幸ちゃん、どうする?」
「え?」
これは決定権が美幸に委譲されたということだろうか。どう返事をするものかと思って入船の方を横目で見る。
「…」
入船は満面の笑みでこちらを見ていた。何故だろう。不思議なことに強いプレッシャーを感じる。多分入船は莉子と一緒にそこに行きたいのだろう。一瞬美幸の代わりに承諾するのはどうかという気持ちも沸いたが、自身が水族館というものに興味を惹かれてしまった。
「…い、行きたい、かも……?」
葛藤の中物凄くたどたどしく莉子に向かってそう言えば、莉子は大きく頷く。
「じゃ、私も行く!」
すると入船は明らかにホッとしたような顔をして、すぐに綺麗に微笑む。
「良かった。じゃあまた候補の日時は連絡するよ」
「うん」
そう言って、入船はご機嫌な様子で自分の席へと戻っていった。今のやり取りの始終藤谷と青葉は無言だったけれど、あのふたりもこの水族館というものに行くのだろうか。
「美幸ちゃん、青ヶ浜水族館って行ったことある?」
単語に聞き覚えがないということは、多分美幸も知らない場所なのでわたしは素直に首を横に振る。
「そっか、じゃあ楽しみだね」
楽しみ、という感情は未来に向けてのものだ。いつ自分の世界に戻るかもわからないのに未来の約束をしてしまったことに微妙に後ろ髪を引かれつつも、わたしは頷いた。
「うん」
その日、わたしは家に帰ったあとすぐに鞄からノートを取り出して白いページを一枚綺麗に破いて取った。そこに、一番太いペンでこう書いた。
”夏休み 青ヶ浜水族館 莉子、入船たちと”
その紙を常に目に入る場所に貼る。こうしておけば、美幸がこの身体に戻った時にも夏休みに彼らと予定があるのだと気付いてくれるだろう。美幸自ら行きたいと言ったのだから、美幸自身がこの予定をすっぽかさないようにしないと。
あの後辞書でこっそりと調べたが水族館というのは、水の中に住む生き物を収集・飼育しておりそれを見ることができる場所らしい。わたしの頭ではまったくもって想像ができない。一体どんな施設なんだろう、何が見れるのだろう。そう思いながら部屋に貼った紙を見ていると、胸がうずうずするのを感じた。
ーー楽しみだね。
莉子の言葉が脳裏に浮かぶ。その時はあまり実感してなかったけれど、もしかしてこれが楽しみという感覚だろうか。
「…」
美幸はわたしの世界ですることがあると言っていたが、これと似たようなことだろうか。まああちらには水族館なんて上等な施設は存在しないだろうけど。今美幸に夢で会ったら、前の美幸と同じことを言ってしまいそうだなとわたしは少し自分を憎らしく思った。