美幸の知らないこと②
まどろみの中で、声が聞こえた。
「××ちゃん」
耳元で声が聞こえて、わたしは飛び起きた。目の前に広がるのは、草が一本も生えていない荒れ果てた大地と、不気味なほどに遠く青く澄んだ空。それを背景に、こちらを見て微笑んでいる紺色の服を着た女の子。今ならそれが制服だとわかる。そうだここは、いつもの夢の世界だ。そう判断した瞬間、わたしはその女の子の名前を叫ぶ。
「美幸…!」
そしてわたしは自分の姿が元に戻っていることに気付く。限界まで傷んだごわごわした黒髪に触れて、そうそうこれこれとわたしは思う。手はごつごつとしていて、小さな傷がたくさんある。元の自分に戻ったことに安心感を覚えつつ、わたしは美幸を見た。美幸はにこりと微笑む。わたしは立ち上がって美幸に一歩近付く。
「美幸、大丈夫だったか?」
自分の喉から、自分の声が出ていることに少し感動した。
「うん」
「いや嘘だろ」
美幸があまりにあっさりと頷いたので、思わず言い返してしまった。あんな穏やかな世界に生きていた人が、わたしの過酷な世界に行って大丈夫なはずがない。
「怪我は?戦況は変わったか?」
思わず一歩一歩と美幸ににじり寄ると、美幸は可笑しそうに笑った。美幸はそういう風に笑うこともできたのかと、心のどこかで冷静に思う自分もいた。
「怪我はしてないし、戦況は××ちゃんがいた時と大きく変わってないよ」
「…そうか」
「大丈夫。こっちの人たちはみんな優しいし、刺激が私に合ってると思う」
その言葉に思わず耳を疑う。
「刺激?」
「うん、私こっちの方が性にあってるかも」
驚きの言葉だが、そうあっけらかんと言われると何も言い返せない。
「そ、そうか…」
「××ちゃんは?××ちゃんの生活に比べて、私の生活は退屈だったでしょ?」
美幸にそう尋ねられて、わたしは言葉に詰まる。退屈。あの美幸としての生活をそんな言葉で表していいのだろうか。暖かい布団で眠り、朝日で目覚める。決まった時間に食事をして、命の危険に晒されることもなくただ知識を蓄えることができる場所がある。あの穏やかで眩しく暖かい時間を、退屈という言葉で終わらせていいのか。
「…」
「……××ちゃんにとっては、退屈な時間じゃなかったんだね」
「…そういうことに、なるな…」
「そっかそっか。それなら良かった」
美幸は満足そうに頷く。
「あの、美幸に言わなきゃいけないことがあるんだけど」
「ん?」
「わたしが美幸になってた間のことで…」
「ああ!それはまだいいよ」
「まだ?」
まだってなんだ。嫌な予感がした。
「私、もうちょっとこっちですることがあるから。××ちゃんももう少し美幸になっててよ」
「嘘だろ?」
信じられない思いで美幸を見る。美幸はにっこりと微笑んだ。わたしは慌てて美幸の肩を掴む。
「ま、待て。まだ入れ替わりが続くなら聞きたいことがあるんだ」
「何?」
「この入れ替わりは美幸が仕組んだことなのか?一体どうやっている」
わたしの問いに、美幸は静かに人差し指をわたしの唇に当てる。
「それは秘密なの」
「…どうして?」
「どうしても」
そう言われてしまえばそれまでだ。例えその方法を知ったとしてもどうなるわけでもないが。わたしが口を閉ざすと、美幸は首を傾げて微笑んだ。
「××ちゃんは美幸の生活は嫌?もうもとの世界に戻りたい?」
「…嫌なんてことは」
美幸のあの穏やかな世界が嫌なわけがない。むしろ自分の世界は、状況は気になるが決して急ぎ戻りたい場所ではなかった。けれどわたしが美幸である間は、美幸がわたしになっていることが一番の問題なのだ。
「わたしのことはいいんだ。美幸のことが心配なんだ」
「××ちゃんは優しいね」
美幸は優しく微笑む。
「私は大丈夫。だから、××ちゃんはもう少し美幸の世界を楽しんで」
「……美幸がそう言うなら、いいんだが…」
「うんうん」
それじゃあとわたしから一歩離れようとした美幸の腕を掴む。
「ま、待て。わたしが美幸をやるうえで、何かしてはいけないことはあるか?」
「してはいけないこと?」
わたしの質問がまるで的外れだと言いたげに美幸は首を傾げる。そしてこう言った。
「ないよそんなの」
「な、ないのか?」
「じゃあ逆に××ちゃんはある?私がしてはいけないこと」
「えっ」
そう問われて、初めてその考え方もあったのだと気付いた。しかし、わたしはわたしの世界に行った美幸の行動を気にしたことがない。
「…いや、生きていてくれさえすれば別に…」
「そうでしょう?私も××ちゃんと同じ考えだよ」
そうなのか。いや、それでいいのか。お互いの世界はあまりに色が違いすぎるのに。
「だから、××ちゃんは好きなことをしていいんだよ」
いや、それでも今このタイミングで聞いておきたいことがある。
「…わかった。そう言うなら好きにさせてもらう。けどどうしても聞いておきたいことがある」
「なに?」
「美幸の連絡先、入船に教えていいか?」
ぱちくりと美幸が目を丸くした。
「連絡先?ケータイの?」
「そうだ」
「入船って…ああ、あの悪ガキ三人組の」
「ガキって…」
美幸は入船たちのことを覚えていたようだが、言い方がひどい。同じ歳のはずなのに。
「いいよ。教えて」
「あ、ああ…」
あっさり了承を貰ったので、拍子抜けしてしまった。美幸はどこか感慨深げにうんうんと頷く。
「そっか、入船と仲良くなったんだ」
「いや、まだ仲がいいとは言えないけど…」
「莉子のことでうるさいでしょ」
「あ、そうそう」
「青葉とも話した?」
「あ、うん。図書館で」
「やっぱりね。えっとあと一人が…」
「東雲?」
「そう、東雲。私あの人とは話したことないけど」
「そうなのか」
美幸の中のあの三人組の立ち位置がなんとなくわかったような気がした。美幸は笑って、わたしの肩を叩く。
「まあ、そういうわけでさ。もう少し楽しんでよ」
「…うん」
わたしが頷いたのと同時に、空が割れ、地面が裂け始めた。夢の終わりの合図だ。
「じゃあね、××ちゃん」
「うん、また。美幸」
美幸は地面へ、わたしは空へ。お互いの身体が落ちて行って、見えなくなった。
鳥の声とバイクの音で、目が覚めた。
「…」
わたしは鏡の前に立って自分の姿を確認する。夢で見たままの、美幸の姿だ。
「…わたしの名前は××…」
声に出したわたしの名前は、意味をなさない音となって美幸の部屋で消えた。わたしは身体を伸ばしながら、夢のことを思い出した。
――××ちゃんはもう少し美幸の世界を楽しんで。
美幸がそう言うなら、そうするしかないだろう。わたしは充電が満タンになった携帯電話を手に取り、通学鞄に入れた。
「おはよう、美幸ちゃん」
「おはよう、莉子」
朝、いつも通りに登校して教室で莉子の話を聞いていると、入船たちが登校してきた。
「おはよう、日高さん」
「おはよ」
「片桐美幸さんもおはよう」
「おはよう」
その時、いつもより数秒入船がわたしを見る時間が長かった。連絡先の件があるからだろう。わたしはわかってますよと伝えるために小さく入船に頷く。すると入船はどこか満足げな顔をして自分の席についた。入船から目を逸らすと、次に東雲と目が合った。逸らすのも失礼なので、わたしはそのまま声をかける。
「おはよう」
「…あぁ」
それは挨拶と言っていいのか微妙な塩梅の返事だったが、無視されるよりはましだ。わたしが東雲に挨拶をしている横を、青葉が無言で通り過ぎた。
「…」
改めて見ると、入船、東雲、青葉の三人組は一見してあまり仲が良さそうに思えない。どこかに移動するときは三人一緒にいるのをよく見るが、休み時間は各々が好きなように過ごしているし、入船は別のクラスメイトと話していることの方が多い気がする。
「美幸ちゃん?どうしたの」
「ああ、いや。なんでも」
莉子に話しかけられて意識を戻す。まあそんなことはいい。今日は入船に連絡先を教えることが任務だ。わたしはいつでも取り出せるように制服に携帯を入れ替えた。
そして昼休みになった。
「あ」
自分の席に座って昼食を食べていた入船がひとりで席を立った。今しかないと、わたしは立ち上がる。
「美幸ちゃん?」
「先生に用事があったの忘れてた、ちょっと行ってくる」
「うん、いってらっしゃい」
密かに考えていた席を立つ理由を口にすると、莉子は特に疑うことなくわたしを送り出した。教室を出て、入船が歩いて行った方向に向かう。すぐに追いつけるかと思っていたが、わたしはすぐに廊下の曲がり角で立ち止まった。
「あれ」
入船の姿を見失ったのだ。
「…」
廊下で呆然と立ち止まっているわけにもいかないので、わたしは適当に歩き始めた。そこでふと思い当たる。もしかしてお手洗いに行ったのかもしれない。しかしさすがにお手洗いから出てくるところを待ち伏せにはできない。美幸の品格に関わるからだ。
「…うーん」
莉子にばれないようにと思ったが、思ったよりそれをするには難しいのかもしれない。教室を出て秒で戻るのは違和感があるだろうかと、わたしは適当に校舎内を歩いてみることにした。
「次の授業のさー」
「ねえ、それってどうなの」
「やばー」
途中、いろんな生徒とすれ違う。彼ら彼女らは同級生たちと楽しそうに笑いながら会話をしている。そんな人たちを見て、ふと美幸の言葉が脳裏に蘇る。
ーー××ちゃんの生活に比べて、私の生活は退屈だったでしょ?
美幸の言う”退屈”。それにこういう景色もきっと含まれている。ずっとこの生活をしていたらそう思うようになるのだろうか。しかしこの生活よりあの常に命がけの生活の方がいいという考えには、まだ至りそうにない。廊下の開け放たれた窓から、外からの風が吹き込んできて髪を揺らす。窓から見えた青い空を、白い雲が流れているのが見える。そんなことさえも、貴重な一瞬のように感じるのだ。わたしにとっては。
ガラ。
すぐ近くのドアが開いた音がして、わたしはついそちらを向いた。
「…」
すると、すぐ近くにあった進路指導室から出てきた東雲と目が合った。
「…」
「…よう」
「…やあ」
お互い歯切れの悪い挨拶をする。なぜだかわからないが気まずい空気が廊下に流れたような気がした。どうして東雲が進路指導室から出て来たのかに関しては触れない方がいい気がした。そういえば今日は昼食の時入船と青葉の二人だけだった。
「あっ」
そこでわたしは自分が今歩いている目的を思い出した。わたしが小さく声をあげたので、東雲がやや眉を潜めた。
「入船どこか知らない?」
「あ?」
わたしの問いに東雲が目を細くした。
「良光に何の用があるんだ」
東雲は入船の守護者か何かか。最近騎士物語を読んだわたしはそう思った。
「入船にわたしの連絡先を教えるってことになってて」
「…良光が?なんで?」
東雲が今度は目を丸くした。常に固い顔をしているなと思っていたが、思ったより表情豊かなようだ。しかし、ここで理由を言っていいのだろうか。莉子には秘密だと言われたけど。でもそういば、東雲は青葉には周知の事実みたいなように言っていた気もする。
「…莉子の件で」
「ああ」
可能な限り言葉を削って伝えてみたら、東雲はわかってくれたようだ。すると東雲が制服のポケットから携帯電話を取り出した。
「?」
なんだと思ってその手を見ていると、東雲が小さく呟く。
「お前も出せ」
「え?」
「俺が良光に教えといてやるよ」
「ああ」
確かにそうして貰えると有難い。わたしも携帯電話を取り出す。
「お前の番号言って」
わたしは首を傾げる。
「……番号って」
「…まさか自分の番号覚えてねえのかよ」
東雲がやや呆れた声でいう。ちゃんと覚えておいた方がいいらしい。
「ちょっとそれ貸せ」
東雲がそう言って手を出したので、わたしは躊躇することなく美幸の携帯を東雲の手に置いた。東雲が驚いたように一瞬わたしの顔を見るが、すぐに美幸の携帯を触る。数秒後、数字が表示された画面をわたしに見せてきた。
「これ。お前の番号」
「なるほど。覚えた」
「いやはええな」
続いて東雲が美幸の携帯の画面を見ながら、自分の携帯で文字を打つ。数秒もしないうちに、東雲の手の携帯が震えた。
「?」
震えた携帯を止めて、東雲がわたしに美幸の携帯を戻す。携帯の画面には、”新着着信1件”と表示されている。
「それ、俺のだから」
「…これって、どうするの?」
再び東雲がわたしの顔を見て眉を潜めた。そして無言で手を差し出したので、わたしはそこに再び美幸の携帯を置く。東雲は再び美幸の携帯を操作しながら、ちらりとわたしに視線を向けてきた。
「…お前、そんな警戒心無くていいの」
「え」
今のは警戒しないといけないところだったのだろうか。携帯電話に関しては勉強不足なので、わからなかった。東雲はさらに言葉を続ける。
「俺を警戒しなくていいのかって話だよ」
「君を?どうして」
「…お前がいいならいいけど」
何故かはよくわからないが、東雲は小さくため息をついた。わたしに警戒してほしいのだろうか。理由はわからないけれど。
「あと、君って呼ぶのやめろ。気持ち悪いから」
それは思い至らなかったと、わたしははっとする。呼ばれて不快になる呼び方があるのか。
「ごめん。なんて呼べばいい?」
「…いや、他の奴らと同じように呼べばいいだろ」
他の奴ら。そう言われて思い浮かぶのは、入船と青葉くらいしかいない。彼ら以外に、東雲を呼んでいる人をほとんど見たことがないからだ。確か二人は東雲をこう呼んでいた。
「じゃあ、藤谷」
「は?」
一瞬東雲が見たこともないくらいに顔を歪めた気がした。
「駄目だった?」
「……いや」
駄目ではないらしい。東雲改め藤谷は再び無言で美幸の携帯を触る。少しして、”電話帳”という画面を開いた美幸の携帯を渡された。
「ここ、押せば連絡先見れるから」
「わかった」
美幸の電話帳には、美幸の両親と、莉子と、藤谷の連絡先しか入っていない。
「ありがとう、藤谷」
なんにせよ助かった。これで目的が達成できそうだ。そう思って藤谷にお礼を言う。藤谷は一瞬眉を潜めて、唇を歪めた。
「どういたしまして、美幸サン」
わたしは頷いた。
「じゃあ、入船にわたしの連絡先教えてといて貰えるかな」
「…ああ」
何故か一瞬藤谷が苦い顔をした気がする。
「じゃ」
「あ」
「え?」
用は済んだので教室に戻ろうと踵を返したら、藤谷が何か言いたげに口を開いたのでわたしは藤谷の顔を見る。
「…もう、あの辺に来るんじゃねえぞ」
あの辺とは、以前喧嘩があった場所のことだろう。
「お前に目つけた輩がいるから」
「そうか、そうする」
やはり喧嘩というものに首を突っ込むのは良くないことだった。美幸に対して罪悪感が沸く。藤谷はわたしの顔を見てか、少し柔らかい声音になった。
「なんかあいつらの関連でなんかあったら俺に言え。片すから」
藤谷はわたしのことを最初は敵視されていたようだが、今は違うらしい。それは素直に有難いと思う。助け合って生きていくのは大事だ。わたしは頷いて、藤谷を見る。
「わかった。藤谷も、もし助けが必要だったら言って」
「あ?」
藤谷は虚をつかれたような顔をする。美幸のためにこの件に首を突っ込まないようにするが、どこかであの日みたいに藤谷が傷つくようなら見過ごすことはできない。そう思ってそう言ったが、藤谷はなぜか気を抜けた顔をしてわたしを見た。
「……ああ」
「じゃ」
今度こそ用がなくなったので、わたしは教室にまっすぐに戻った。
「あっ美幸ちゃんおかえり」
「ただいま」
教室に戻ると、莉子が美幸を見て嬉しそうに笑った。入船の席の方を見ると、入船も席に戻っているようだった。すると莉子がわたしの視線の先を見てか、口を開いた。
「そういえば、さっき入船くんが美幸ちゃんの連絡先知りたがってたから、代わりに私の連絡先教えといたよ」
「え?」
莉子を見て、その後入船の方を見る。わたしの視線に気付いた入船が、嬉しいような苦笑いのような絶妙な顔をしたのが見えた。そんな入船の表情には気付かず、莉子がどこか誇らしげに胸に手を当てる。
「美幸ちゃんの連絡先は私だけのものだもんね!」
「………………」
わたしは莉子に見えないように、入船に思い切り渋い顔を向けることしかできなかった。
その夜、入船からメッセージが届いた。
『藤谷から連絡先聞いた!いろいろごめん!なんとかなったわ!けど今後も、日高さんには片桐美幸の連絡先は知らない体でいくからよろしく』
一体わたしがいない間にどんなやりとりがあったのかは気にならないわけではないが、これ以上首を突っ込むのは変な心労が増えそうなので控えておくことにした。
『わかった』
そう短く返信をして、わたしはベッドに寝転がり目を閉じた。
ーー××ちゃんは好きなことをしていいんだよ。
夢で会った美幸はそう言った。美幸がそう言うなら、そうさせてもらおうとは思う。しかし、美幸が知らなかったことを知るたびに、美幸の貴重な経験を奪っているのではないかと罪悪感が沸く。そしてその機会はわたしが美幸として生活をする時間が長くなるにつれ、多くなるに違いない。美幸にとってそれは本当にいいのだろうかと、考えると胸が重くなる。
しかし重くなると同時にわたしは美幸でないと実感することができるので、それに少し安心してしまう自分もいるのだ。




