美幸の知らないこと①
この生活が始まってから、さらに一か月が経過した。その間に変わらないことと、変わったことがある。
「おはよう、美幸ちゃん」
「おはよう、莉子」
相変わらずわたしは美幸として生活をしていた。不自由なく、不都合なく。そして最近は美幸の記憶なしでも対応できることが増えてきたと思う。
いつも通り莉子と一緒に登校し、教室に入る。最近は同級生たちも目が合えば挨拶をしてくれるようになってきた。同じ時間を教室という同じ場所で過ごすことで、仲間意識が産まれていくのだろう。自分の席について、教科書の整理をしていると莉子がわたしの席にやってくる。そうして宿題の話や、授業の話をしていると例の三人組が教室にやってくる。
「おはよう、日高さん」
「おはよ」
「片桐美幸さんもおはよう」
「おはよう」
学校では、入船がいつもの挨拶をしてくる。入船に莉子を一人にしたことを咎められて以降、わたしは莉子と一緒に下校するようにしている。たまに下校時に校舎ですれ違うと重々しく頷くので、わたしも同じように頷き返している。
「…」
「…」
青葉は相変わらず教室では本を読むばかりで口を開かない。ごくごくまれに入船や東雲と言葉を交わしているようだが、大半の時間は本を読むのに費やしているようだ。しかし図書館や図書室で会うと打って変わって饒舌に話しかけてくる。最近は図書館で会うと、おすすめの本を教えてくれる。
「…よう」
「おはよう」
この一か月で一番変化があったのは、この男。東雲である。喧嘩に出くわした日以降、東雲がわたしを睨んでくることはなくなった。その一方で、何かを探るような視線を受けることが増えた。そしてお互いの目が合うと、短い挨拶をするようになった。
ちなみに東雲は数日おきに顔に生傷を作っているので、多分結構な頻度であの喧嘩をしているんだろうなと思う。しかし人にはいろんな事情があるので、そこには深く関与しないようにしておく。あくまでわたしは美幸の代わりをしているに過ぎない。いつまでわたしが美幸をするかはわからないが、美幸のいない間に非日常のことに首を突っ込まないようにしなければならない。あの喧嘩の一件以降、そう強く思っている。
「あの美幸ちゃん、お願いがあるんだけど」
そう思っているが。
「なに?」
非日常というものは思わぬところからやってくるものなのである。
「じゃ、ちょっとここで待っててね」
「うん」
水曜日の放課後。わたしは莉子に連れられて、撮影スタジオなる場所に来ていた。莉子はモデルというものをしている。モデルというのはカメラで写真を撮られ、その写真が雑誌や本に使われるという仕事であることは調べたので知っている。莉子のお願いというのは、ひとことで言えばモデルの代理であった。一緒に撮る予定の人の都合が悪くなり、急遽代役が必要だからとのことだったが、美幸としてそれを受けていいのかと一瞬悩んだ。しかし、莉子に全力で困った顔をされてしまったら断れなかった。実際モデルという仕事がどんなものなのか目にしておきたかったという理由もある。
「…」
更衣室に押し込まれたわたしは、壁際の椅子に座って辺りを見渡す。するとすぐに莉子が数冊の雑誌を抱えてこちらに来た。
「これが今日撮影する雑誌の”pop juice”ね。ふせんついたページが参考になると思う」
「う、うん…」
莉子はそう言ってわたしに雑誌を渡してどこかに行ってしまった。手渡された雑誌には、色鮮やかなページばかりだ。写真集と似ていると思ったが、映っているのは人や商品、そしてそれらを宣伝、脚色する文字である。パラパラとめくっていると、その雑誌の中に莉子の姿を見つけた。
”この夏はプリントワンピースで決まり!”
という文字の横に立つ莉子は、さくらんぼのワンピースを着て笑っている。さらに捲っていると、付箋がついたページに辿り着いた。
”おうちデート特集”
莉子が別の女の子と映っている。先ほど参考になると言ったが、もしかしてこの莉子と一緒に映るような役割をわたしにしろということだろうか。そこで今更血の気が少し引く。こんなこと、わたしにできるだろうか。
「美幸ちゃんお待たせ!さ、メイクしよっか」
血の気が引いていたわたしのところに、莉子が大きな箱を手に戻ってきた。
「め、メイク…」
「美幸ちゃんの顔いじるの実は密かな夢だったの」
莉子はにこにことそう言うが、メイクとはなんだ。知識が足りない。いじるとはどういうことか。わたしは思わず身を固くする。
「大丈夫、私に任せて!」
しかし莉子があまりに自信満々に楽しそうにそう言うので、わたしは覚悟を決めた。
「…任せた」
もし顔が変わっていたら美幸に何て言おうか、そんなことを考えながらわたしは目を閉じた。
「はい、いいよ」
「…」
目を開けて鏡の中の美幸の顔を確認する。よかった、大きく顔の作りはかわっていない。しかし、ここ数日で見慣れたはずの美幸の顔がなんだか見慣れない。
「美幸ちゃん肌綺麗だから、ナチュラルにしたよ」
「…目が大きくなったように見える」
あと血色が良くなったような。これがメイクか。不思議な文化だ。わたしはしみじみと箱の中に収められていく化粧道具をぼんやりと見た。
「じゃあ次はこれね、これに着替えて!」
「あ、うん」
そうして莉子に言われるがままわたしは身なりを整え、撮影場所に連れて行かれ、カメラの前でこの身を晒されることとなった。
そこからは、あまり覚えていない。
「…はい!オッケー!」
「ありがとうございましたー!」
「…ありがとうございました…」
どれだけ時間がかかったのだろう。わたしはスタジオの中の時計を見る。永遠のように感じられたが、時間は一時間も経っていないようだった。
「莉子ちゃんの友だちだっけ?モデルの素質あるんじゃない?」
「そうですよね!」
莉子とカメラマンの人が楽しそうに話し始める中、わたしは少し休むと断って差し入れに貰ったペットボトルを手に取る。
「…」
わたしは水を飲んで深く息をついた。引き受けてしまったからには無様な美幸の姿を晒すわけにはいかないと意気込んでいたが、なんとかうまく乗り越えられたようだ。ただカメラマンに言われるがまま莉子にされるがままだったが。
「次、良光くん入ります~」
予定が詰まっているのだろうが、次のモデルの人がやってきたようだ。この場所を移動しないといけないのかと莉子を見ると、先ほど写真を写真を撮ったカメラマンとまだ会話が続いているようだ。
「おはようございます!お願いしますー」
次の人が入ってきてしまった。わたしはどうしようかとペットボトルを持って立ち尽くしていると、横から聞いたことある声がした。
「あれ?片桐美幸?」
「え?」
わたしの知る中で美幸をそう呼ぶ人はひとりしかいないはずだ。そう思って、声の方を向くと、制服じゃない服を着た入船がそこに立っていた。
「あれ、やっぱりそうだ」
入船はわたしを見てとても不思議そうな顔をしている。そして多分わたしも同じような顔をしていたのだろう。入船は自分の胸を叩いて綺麗に微笑んだ。
「モデルやってるんだよ、俺も」
その笑みはモデルらしく、とても綺麗で整った笑みだった。入船が莉子によく声をかけているのは知っていたが、なるほど同じ仕事をしていたからだったのか。
「知らなかった」
「知ってても忘れてそうだしな」
わたしがそう言うと、入船は整った顔を崩して笑った。いつもすれ違う時はなぜか重い顔つきをしているが、普通はこんな顔をしているんだなあとわたしはその顔を見て思った。
「片桐美幸はモデルデビュー?」
「いや、莉子のお願いで」
入船に簡単にここに来た事情を説明する。
「へえ、すごいじゃん」
「いや、いつもこんなことしてる莉子や入船の方がよっぽど凄い」
素直な気持ちでそう言うと、入船はそうかと首を傾げた。そういえばと莉子の方を見ると、まだカメラマンと話している。
「俺もあの人に撮ってもらうはずなんだけど、あの人話し込むと長いんだよな」
同じ方向を見た入船がそう言うので、あの会話はもう少し長引くのだろう。周囲のスタッフの人たちはこういう状況に慣れているのか、各々の仕事をもくもくと進めている。
「座って待ってよう」
「あ、うん」
入船が近くのパイプ椅子に座ったので、わたしもそれに習う。入船と二人並んで話し込んでいる莉子を眺める。なんだこの状況はと思いつつ、別にその場を離れる理由も思いつかないので大人しくしておく。すると、入船が莉子の方を見ながらこう言った。
「…あのさ」
「うん」
「俺がもっと日高さんと仲良くなるにはどうしたらいいと思う?」
思ってもみない質問を投げられ、わたしは思わず思考を停止して入船の顔を見る。わたしが沈黙をしていることに気付いた入船はちょっとむっとした顔でわたしを見た。
「なんだよ」
「いや」
「片桐美幸はわかってるだろ、俺が日高さんを好きなこと」
いや初耳だが。
わたしは思わず固まるが、慌てて脳内情報を更新する。入船が莉子に声をかけたり、気にかけていたのは別に同じモデル仲間だからというわけじゃなかったのか。確かに同じモデル仲間ってだけなら、莉子が一人で帰ることに美幸に苦言なんか言わないか。
「まあ、藤谷や響一にもばればれって言われるけど」
誰だ、と思ったが。東雲と青葉の下の名前だ。
「でも日高さんには微妙に伝わってない気がして」
入船の言う”好き”について。それについては本を読むことで多少知識がある。というか、こういう話はわたしの世界にも少なからず存在した。お互いが深く想い合うことで、生存率が大幅に上がる話や、逆に大幅に下がる話。結局ハイリスクハイリターンであるということで、あまりこの手の話はわたしの世界では口に出す人は少なかった。しかし美幸の世界では娯楽のひとつでもあるのだろう、同級生たちやテレビの中の人たちがそのような話をしているのを頻繁に聞く。
「俺、どうしたらいいかな」
でも入船が莉子のことをそういう風に想っていたというのは考えに至らなかった。まだまだこの世界に置いてわたしの考えは未熟ということだろうか。まあそれに関してはまた後で調べるとして、今は入船の問いに答えなければいけない。
「どうしたら…」
今持てる知識で、せめて少しでも入船に有用な情報を渡したい。そう思って数秒考え込んだわたしはぴんと思いつく。
「もっと、莉子と話をしたらいいと思う」
人となりを知るには会話であり、会話こそが交流の要である。物語を読んでいても、想い合う人同士はかなり会話をする場面が多い。思い返せば、学校で入船と莉子が会話をしているのは見たことがない。これだ、と重いわたしは自信満々に入船に告げる。
「会話を増やせば、自然と仲も深まるのでは」
「まあそれはわかってるんだけど。中々学校では難しいからさ」
知ってるのか。わたしの今考えた時間はなんだったんだ。少しむっとしながら再度頭を捻る。そこでもうひとつ思いつく。人には、会話を対面でしなくてもいい手段があるではないか。
「手紙とか?」
「せめてメールだろ」
入船はわたしが必死に絞り出したものを軽く却下する。しかしすぐにあっと小さく声をあげる。
「そうか、片桐美幸って日高さんの連絡先は知ってるか?知ってるよな?」
「えっ」
少し考えてしまったが、入船の言う連絡先は恐らく携帯電話の電話番号のことだろう。美幸の世界の主要な情報伝達手段だ。
「頼む!日高さんのメアド、教えてくれないか!」
「えっ」
なるほど、そういう話に進むのか。了承しようとして、わたしははたと止まる。情報は戦場では最も重要と言われる要素のひとつだ。情報ひとつで戦況がひっくり返ることもあるのだ。ここは戦場ではないが、ここで軽く莉子の情報を教えたら莉子の生活がひっくり返ることもあるかもしれない。わたしが単独で決めることではない。そう思って入船にこう言う。
「莉子に了承もらったら、いいよ」
「いや、それがハードル高いんだよ!」
そうなのか。
「じゃあ、わたしから聞いてみようか」
「いいのか?」
入船はパッと明るい表情をする。自分で聞くのはそんなに嫌なものか。すると入船がポケットから四角い物体を取り出す。わたしとは形は違うが、恐らく携帯電話というやつだ。
「じゃあまずは片桐美幸の連絡先を教えておいてくれ」
確かにその方がいい。わたしも携帯電話を出そうとして気付く。携帯電話は通学鞄にいれっぱなしである。そして、通学鞄は莉子の鞄と一緒にロッカーに預けてしまっている。
「今手元にない」
「なんだよ…」
入船はがっかりした顔でわたしを見る。そうあからさまに失望されるとさすがに申し訳ない。
「…じゃあ次学校で会った時に教える」
「まじ?助かるわ」
そんなことを言ってると、莉子がようやくカメラマンと会話を追えたようでこちらに近付いてくるのが見えた。同じくそれに気付いた入船がわたしの耳元に口を寄せて小声でこういう。
「今の話、日高さんには言わないでくれよ」
「え」
”今の話”って、どこからどこまで。入船にそう尋ねようとする前に、莉子が目の前にやって来た。
「美幸ちゃんお待たせ!あ、入船くんおはよ。」
「おはよう、日高さん」
入船が莉子に笑いかける。すると、先ほど莉子と話していたカメラマンが入船に声をかけた。
「良光くーん!ごめん!撮影始めよっか!」
「はい!」
それを聞いて、入船の下の名前は良光だったなと思い出す。莉子がわたしの隣にやってきて、首を傾げた。
「入船くんとなに話してたの?」
その”今の話”は、莉子には秘密にしろとつい先ほど入船に言われてしまった。別に約束でも協定でもないので入船の言葉に従う必要はないのだが、下手に美幸の心象を下げることはしたくない。わたしは適当に思いついたことを口にする。
「…今日の授業の話」
「そうなの。入船くんと話すの珍しいね」
確かにそれはそうだ。すでに撮影を始めている入船を横目で見る。
「ちゃんと話したの、初めてだったかも」
そして話したことで、今まで入船の意図が読み取れなかったことがある程度理解できた。入船に会話という手段を提案しておきながら、わたしはそれを莉子以外の人間とほとんどしていないことにようやく気付く。美幸として振舞うのは大事だが、もう少し美幸の周囲の人間のことも知らなければ逆に美幸の立場が危うくなる可能性も否定できない。もう少し周囲の人間に目を向けることも大事だなとわたしは密かに思った。
「そっか。じゃあ、もう終わりだから着替えにいこ」
「うん」
そしてわたしは莉子と更衣室に帰り、自分の制服に着替えた。その時鞄にしまっておいた携帯電話を見ると、どこのボタンを押しても画面が真っ暗で動かない。あれっと思って携帯を見ていると横から莉子がわたしの携帯を見た。
「あっ美幸ちゃん、さては充電してないでしょ」
後から調べて知ったが、携帯電話というのは使っていなくても蓄えたエネルギーがどんどん減っていき、電源がつかなくなるらしい。
「前も言ったけど、ちゃんと充電したうえで携帯してよね」
わたしは初めて言われたが、美幸はすでに言われたことのようだ。美幸もわたしと同じであまりこの携帯電話を使っていなかったのかと思って少し可笑しく思う一方で、この携帯電話も美幸の持ち物であることにようやく気付いた。美幸であることに慣れてきていたため、自分が使っている持ち物は美幸であるという意識が薄れつつあったのだ。
「…うん」
情報は戦場では最も重要と言われる要素のひとつだ。美幸の情報を誰かに渡すことで、美幸の生活が一変する可能性に、わたしは今ようやく思い至った。許可を取らなければいけないのは莉子だけではないのだ。
家に帰宅し、美幸の携帯を充電しながらわたしはどうしようと腕を組む。帰路の間ずっと考えていたけれど、答えがでない。迂闊なことをしたなあとただ後悔するばかりだが、あっさり引き受けたことを入船に断りを入れるのは申し訳ないと思った。いっそ莉子に許可を貰って莉子の連絡先を直接入船に渡せばいいのではと思ったが、それは無責任なようにも感じる。こうしたときにどうすればいいかの知識があまりにないのだ。
「うう…」
あれやこれやと考えていると、頭がぼんやりしてきた。心なしか体も熱い。これが知恵熱というやつだろうか。頭が回らなくなっては仕方ないと、わたしは大人しく布団に入る。目覚めたら元の世界に戻っていないかと久しぶりに願いながら目を瞑った。