美幸の休日②
図書館を出て、わたしは空を見上げた。日没が近いので青が薄まり、橙に空が染まりつつある。昼間の青空とは違う夕陽で橙と青のグラデーションを作るこの時間の空もつい見入ってしまう。
予定より少し早めに図書館を出たのでまだ時間がある。せっかくなので、普段とは違う道を通って家に帰ってみようかと思った。ポケットには地図も入っているし、道に迷うことはないだろう。わたしは家とは違う方向に、足を向けた。
「…」
足を向けたのはわたしにとっては初めての道だったが、美幸の記憶にもその道の記憶はほとんどない。あまりこの道を通ることはなかったのだろう。しばらく歩くと、橋が見えた。川がある。川には水が細く流れており、夕陽に照らされてチラチラと光っていた。この世界は、つい見入ってしまう光景が多い。数刻ぼんやりと川を眺めていると、どこかから人の声がした。
「…が!」
「……てめえな!」
この光景に似つかわしくない、穏やかじゃない声だ。風に乗って声が耳に届いたのだろうかと、ついその声の出元を探す。
「てめえ調子に乗んなよ!!」
川に近い、住宅街の一角からその声は聞こえた。声と同時に、何かが叩きつけられる鈍い音。わたしの世界であれば日常茶飯事だった、誰かが誰かを傷つける音。
「うるせえ!」
「…!」
こういうことに首を突っ込むのは美幸にとって迷惑だと内心で自分に警鐘を鳴らしつつ、わたしはその声の元を見に行くことを止められなかった。なぜなら、その声の中に聞き覚えのあるものが混ざっていたからだ。
「このクソガキがよお!」
川辺から少し歩いてすぐの住宅街の角を曲がったところで、その光景がわたしの目に入った。立っている男が三人。地面に膝をついている男が一人。
「……あ?なんだお前」
立っている男のひとりがわたしを見て睨みながらそう言った。その声につられるように、膝をついていた男が顔をあげて目を見開いた。
「…っ」
東雲藤谷だ。
恐らく殴られたのだろう、唇に血を滲ませた東雲ははっきりとわたしを見据えて唇を動かした。
”かえれ”
音はなくとも、そう言ったのが見えた。膝をついて顔に傷を負い、服も土で汚れている東雲を見て先日の青葉の言葉が脳裏によぎった。
ーーあいつも身体鍛えてるからね。普段の喧嘩じゃなくて女子の一本背負いで怪我したなんてプライドが許さないだろうし。
青葉をふまえて考えると、多分これが喧嘩というもので東雲はこれで身体を鍛えているということになる。確かに何事も実戦が手っ取り早い。わたしもわたしの世界では体術はだいたい実戦で身に着けてきた。しかし、それができたのは近くに仲間がいてこそのことだ。半端者はあくまで半端者であり、一人前になるまでは誰かが近くで見ていなければすぐに命を落としてしまう。
「…」
それは、わたしの世界だけの話だろうか。
「君、なに?」
立っていた男性が一歩わたしに近付いてくる。見たところ、美幸や東雲よりも年上の男のようだ。身体が少し大きい。その男の背後で、東雲が立ちあがる。
「おい、お前の相手は俺だろうがよ」
すると別の男が東雲の腕を掴む。
「まあまあお前はゆっくり相手してやるから」
「なに?君、もしかしてこいつの知り合い?」
男たちの視線がわたしに集まる。わたしは無言で東雲を見た。
「…」
東雲が強くわたしを睨みつけた。しかしそれには美幸を案じるものがあった。
「…」
次に男たちを見る。その視線には苛立ちと、随分久しぶりに感じるものがあった。
「俺たちの邪魔するようなら、ただでは帰せないけど?」
それは、明確な悪意だ。
「…その人、知り合いなんです」
そう言った瞬間、東雲が声を出さずにバカと悪態をついたのが見えた。一方男たちは面白そうにわたしを見下す。
「あ、やっぱりそうなの?」
「おともだちなんだ」
「もしかして彼女?」
男たちが好き勝手言い終わるのを待って、わたしは東雲を見据えてこう言った。
「だから助けます」
わたしの言葉を聞いて、男たちが顔を見合わせた。数秒の間の後、静かな住宅街の隅に下卑た笑い声が響き渡る。
「あっはっは!ウケる!こいつを君が?」
「おい、助けがきたってよ」
「何言ってんのかわかってんの?アンタ」
東雲が信じられないものを見るような目で美幸を見る。その目を見て、美幸に申し訳なく思った。きっと美幸はこんなことをする人間ではないのだろう。しかし、どうか許してほしい。ここではない世界で生きてきたわたしは、この場を見過ごせるような人間に育てられていないのだ。せめて、この身体に傷ひとつ付けないように全力を尽くそう。
「こんな細い腕で、何をしようっていうの?」
男の一人がわたしの腕を掴む。その瞬間、東雲が苦い顔をしたのが視界の端で見えた。わたしはわたしの腕を掴んできた男を、以前東雲に食らわせた同じ体術を使って地面に叩きつけた。
「いっでえ!!!!」
「は?」
「あ?」
意識的に少し強めに叩きつけたので、すぐには起き上がれないだろう。わたしは地面に伏した男を横目で見て、残りの男に視線を向ける。
「なんだ?こいつ…うっ!!!!」
すると、東雲の腕を掴んでいた男がわたしの横まで飛んできた。男の視線がわたしに向いているのをいいことに、東雲がその男を殴ったようだ。
「は?」
二人の男が痛みに悶絶しながら地面に伏している。その様子を見て、一人残された男は顔を青くした。
「…ってめえら!」
そこで逃げ帰るのではなく、こちらに向かってくるのは度胸があると思った。仲間を見捨てて逃げないというのはなかなか見込みがある。
「おい!」
こちらの仲間であれば、の話だが。
「…ぐっ!」
わたしにに向かってきた男の腹に一発、迷いなく拳を一発入れた。重い一発を受けた男は地面に膝をつけて腹をおさえて横たわる。わたしの身体ほどではないが、美幸の身体はしっかり筋肉もついていて体幹もしっかりしているのでこちらはびくともしなかった。しかし相手の腹も柔らかいわけではなかったので、手が少し痛んだ。
「おい、行くぞ」
痛む手を眺めていたわたしの肩を、東雲が叩く。
「うん」
わたしは大人しくそれに従い、東雲についてその場を離れた。
男たちが追ってこれないようにか、東雲はもくもくと数分歩いた。ある程度先ほどの場所から離れた路地で、東雲は振り向いてわたしを見た。
「お前って馬鹿なの?」
立ち止まって開口一番馬鹿にされた。わたしは男を殴った右手をさすりながら、東雲の顔を見る。そこに以前のような敵意はない。呆れた表情だ。
「どうだろう」
東雲の言葉を受け入れてしまうと美幸が馬鹿になってしまうので、明言は避けた。わたしの言葉を聞いて、東雲は眉を潜める。そして、わたしの右手に視線をずらした。
「…何してんだ」
「なんともない」
少し痛みがあり、熱を持ち始めているだけだ。この手は人を殴るために出来ていないだろうから、わたしが痛みを感じるのは相応の報いだ。しかしわたしのせいで美幸の身体が傷ついてしまったことは非常に申し訳なく思う。
「…」
「…」
東雲は難しい顔をしてわたしを見ていたが、数秒後に口を開いた。
「ここを少し進んだ先に、小さい公園がある」
そう言って路地の先を指さした。
「…?」
「そこでちょっと待ってろ」
東雲はそう言うなり、指さした方向とは逆に走り出した。
「…」
なんだと思いつつ、大人しく彼が指さした方向に歩みを進めてみる。すると、すぐに公園の外灯が見えた。そこは小さな鉄棒と砂場とベンチがあるくらいの小さな公園だった。
わたしは東雲に言われたとおりに、誰もいない公園のベンチに腰かける。わたしは空を見上げた。すでに日は落ちかけていて、辺りは薄暗い。そろそろ帰らないと、美幸の両親が心配するかもしれない。そんなことを考えながら流れる淡い色の雲を眺めていると、遠くから足音が近付いてきた。東雲がこちらに向かって走ってくる。
「手、これで冷やせ」
東雲がわたしに差し出したのは、濡れたタオルだった。先ほどはこんなもの持っていなかったので、どこかで調達してきたのだろう。
「ありがとう」
好意は素直に受け取るものである。わたしは東雲の濡れタオルを受け取って、右手に当てる。冷たくて気持ちいい。
「…」
「…」
東雲が間を空けてわたしと同じベンチに座る。なんとも言えない間がお互いに流れた気がした。わたしはそろそろ帰らなければいけないと東雲に言おうと思い、そちらを向く。するとほぼ同時に、東雲がわたしの顔を見た。何か言いたげだったので、わたしは口を閉じる。
「お前、なんであそこに来た」
もっともな疑問である。わたしは端的に答える。
「きみの声が聞こえた気がしたから」
東雲が目を見開いた。信じられないものを見るような目を。そして、重々しく口を開く。
「…それだけか?」
その瞬間、何故かはわからないがこの人と会話を続けているとわたしが美幸でないことがばれるような気がした。なんだかそれがとてもいけないことのような気がしたのだ。直感は大事だ。戦場でも直感が生死を分けることもある。わたしは徐に立ち上がり、なるべく短い言葉を発した。
「同じクラスの、仲間だし」
「…」
東雲がじっとわたしを見る。なぜか冷や汗が出てきそうになるが、平静を装う。
「これ、ありがとう。洗って返した方がいい?」
「…いや、別にいいよ」
東雲が首を振る。
「そう。わかった」
するとわたしが帰りたそうにしているのを察したのか、東雲が何かをはらうような手ぶりをした。
「もうこんなことに首突っ込むなよ」
「うん」
これはもう帰れという合図なのだと解釈し、わたしは歩みを進め始める。
「じゃあ、また学校で」
「…………ああ、気を付けろよ」
東雲はまだ公園にいるつもりなのか、ベンチに座ったままわたしを見送った。わたしはそんな東雲を背に、少し早足にその場を去った。
結局家に帰る時にはすっかり陽が落ちており、案の定美幸の両親に心配されてしまった。濡れタオルは道中にある程度渇いたので、両親に見られないようにポケットに無理矢理しまいこんだ。喧嘩に参加したことが知られれば、きっと美幸の両親にさらに心配をかけてしまうと思ったからだ。
「今日はどの辺まで行ったの?」
食事の時間、そう尋ねられて少し肝が冷えた。
「…川の方まで」
「あら、川向こうって最近危ない話聞くけど大丈夫だった?」
そうだったのか。さらに肝を冷やしながら、わたしは平然と嘘を口にする。
「大丈夫だったよ」
「そう?でも気を付けてね。最近喧嘩が多いって聞くから」
「うん」
それはとても大事な情報だ。聞いといてよかった。
「美幸ちゃんが怪我したら、私たち息ができなくなっちゃうから」
冗談めかして言った美幸の母親の言葉を、わたしは内心に深く刻み込んだ。そして、ここよりも危険な世界に行ってしまった美幸の身を案じた。本当に案じることしかできないのが心苦しい。
「気を付けるよ」
今回は思わず助けに入ってしまったが、あれは決して褒められた行為ではない。一歩間違えば一発くらっていたかもしれないし、東雲もさらに怪我を負う可能性だってあった。それでも、聞いてしまえば見てしまえばそれを見過ごすことは出来ない。美幸の姿であっても、わたしはわたしだ。わたしの信念をできることなら守りたい。けれど同時に、美幸の身体にいる限りは美幸自身も守らなければならない
食事も風呂も終えた夜、布団に入る前にわたしは小さく声を出す。
「わたしは、わたしの名前は…××」
美幸の世界で一か月過ごしてわかったことがある。こちらの世界では、わたしの名前を声に出すことができない。意識して声に出そうとしても、なぜか意味のない音の塊となって霧散する。頭の中や、夢の中ではちゃんと発することができていたので、なんとも不思議なことである。それでも、こちらの世界に来てわたしがわたしであると忘れないように定期的に自分の名前を口に出すことを心掛けていた。今いる世界はあくまで美幸の世界であり、わたしがいるべき世界は別にあるのだと言い聞かせた。そうでもしないと、この穏やかな世界にずっと浸っていそうになるからだ。
わたしは本来の自分の姿を思い浮かべる。
わたしの名前は××。髪の色は黒、眼の色はわたしの世界の空に似た茶色。防衛部隊所属、霊術担当。美幸の世界ほど詳細に年齢を記録しているわけではないが、戦歴から考えるに20年以上は生きている。両親は知らない。その代わり仲間がいる。仲間のためなら努力を惜しまないのが信念。
わたしはずっと戦争と共に生まれ、戦争と共に生きてきた。だからその生活とかけ離れた美幸としての生活はあまりにも優しく、暖かく、時々どうしていいかわからなくなる。
わたしは柔らかく暖かい布団の中で、固く冷たい世界を思い出しながら眠りについた。