美幸の休日①
この一か月でわかった情報をまとめておこう。情報整理は大事だ。戦場での要にもなる。
今の私がいる身体の持ち主は、片桐美幸。黒髪で、黄昏の空を閉じ込めたような瞳の色。県立青空南高等学校二年四組所属。部活は未所属。学業成績は平均的。共働きの両親とアパート暮らし。平日の放課後は莉子と一緒に帰り、帰宅後は家で勉強。莉子がモデルの仕事がある水曜日は、図書室に寄って本を一冊読んで帰る。莉子や両親の発言と美幸の記憶を元に考えるに、それが美幸の平日の過ごし方だ。
そしてこの一か月でわかったことがもうひとつ。美幸はわたしととても性格がよく似た人間だったようだ。言動や仕草、好きなものがかなり似通っているらしく、この一か月で莉子どころか両親にさえ不信感を抱かれてはいないようだった。夢の中で会っていた美幸はわたしと何一つ似ていなかったような気はするが、この一か月何の問題もなく美幸として過ごすことができているのだからこれが事実なのだと思う。
そして休日の過ごし方といえば。
土曜日、平日と変わらない時間に目を覚ます。壊してしまった目覚まし時計はまだ直していない。というか直せるものなのだろうか。美幸の身体にいるとはいえ、美幸のものを壊してしまったという罪悪感がその時計を見るたびに湧き上がってくるので、目覚まし時計は机の引き出しにしまってある。
布団を出て、軽く身体をほぐす。パーカーとジャージに着替えて、リビングに行く。両親は休日は起きるのが遅い。昨日の残りものや冷蔵庫にあるものを適当に朝食にして、家を出る。美幸がランニングというものを日課にしている。美幸の部屋を漁っていると、この辺の地図と思われるものが出てきて、そこに赤線と距離が書かれていた。美幸になって初めての休日を迎えた時、部屋で本を読んでいると両親に不思議そうに今日は走りに行かなかったのねと言われ、美幸はいつも休日にこの赤線の部分を走りに行っているのだろうと気付いた。いつまでかはわからないがわたしが美幸になっている間美幸の身体をなまけさせてはいけないと思い、美幸と同じことをすると決めた。
「いってきます」
両親を起こさないように小声でそう言って、わたしは地図をフードのポケットに入れて外に出た。休日の朝の空気は、平日のそれと違うと思う。平日は学校に向かう子どもたちの声が響いて活気が空気に溢れているが、休日は穏やかな静けさがあるように思う。そんな静けさの中に、わたしが地面を蹴る音が響くのは心地よかった。
「…はあ」
しばらく走ると、大きめの公園がある。ここは休日でも賑やかだ。ここまで来ると少し息が切れるので、しばし休憩をする。木や花が沢山あり、視界は常に色鮮やかで飽きない。公園を抜けてしばらくして引き返し、昼前には家に帰る。
「ただいま」
「おかえり」
家に帰ると、目を覚ました両親が昼食を作っている。
「いただきます」
休日は手抜きだと美幸の母親は言うが、手抜きでも美味しいものは美味しいし、有難いことこのうえない。
「ごちそうさま」
食事を取って、汗をかいたフードとジャージを洗濯機に入れて、別の服に着替える。わたしは美幸が使っていた小さいメモ帳とセットの小さいペンをポケットに入れて、再び家を出る。
「行ってきます」
向かうのは市立図書館だ。市立図書館はこの辺で一番広い図書館であり、蔵書の数も多い。平日の水曜もここに立ち寄るが、休日は午後ずっとこの図書館に籠っていることが多いと思われる。美幸は読書をすることをとても好んでいたようだった。
「こんにちは」
「こんにちは」
美幸と顔見知りと思われる職員さんに挨拶をする。わたしは適当に図書館を歩きまわり、適当に一冊を選ぶ。そして、窓際の隅の席に座る。席に座って、わたしはポケットからメモ帳を取り出す。メモ帳を開くと、そこにはこれまでに美幸が読んだ本がぎっしりと記されていた。日付までしっかりと。そのメモ帳を見つけてから、わたしは美幸に習うようにそのメモに読んだ本を書くことにした。最初は読み終わった後にそこに書いていたが、たまに本の世界観に浸ることで書き忘れてしまうことがあるため、最近は読み始める前に書いておくことにする。
5月9日 セイランの夢物語
美幸はジャンル問わずありとあらゆる本を読んでいたようだが、わたしは創作された物語をよく選んだ。
「…」
しばらく本を読んでいて、視線を感じてわたしはふと顔をあげた。
「やあ」
わたしの向かいの席に座っているのは、青葉響一だった。前もこんなことあったなと思いつつ、わたしは挨拶をとりあえず返す。
「どうも」
青葉響一は学年で一目置かれる三人組の一人だ。同じく三人組の一人である入船良光は毎朝莉子に挨拶するついでにわたしに声をかけるが、青葉は特に何も声をかけてこない。ちなみに同じく三人組の一人の東雲藤谷もわたしが投げ飛ばした一件以降睨みつけてくるだけで言葉は交わしてこない。
「…」
「…」
青葉は手元の本に視線を落とした。会話はこれで終わりのようだ。特に話すこともないため、わたしも同じく本に視線を落とす。静かな空間に、頁を捲る音だけが響いた。
「…ふう」
しばらくして、わたしは本を読み終わった。とある王国の騎士物語というものらしいが非常に臨場感があり楽しめた。創作物語というものは非常に興味深いなと思いつつ、わたしは近くにある壁掛けの時計を見る。まだ短いものならあと一冊くらいは読めそうだ。続いて向かいの席に視線を向けると、青葉はまだ本を読んでいた。
「…」
わたしは静かに自分の席から立ち、別の本を探しに出かけることにした。本の背表紙を眺めながらいくつかの棚を通り抜けて、わたしは”写真集”と書かれた書棚に気付いた。学校の図書室で見た色鮮やかな光景を思い出し、わたしはそちらの棚に向かう。
「…」
物語の本と違って、写真集はひとつひとつの本の形がバラバラなのか棚の並びがいびつになっている。わたしはその中から目に入った一冊を取り出した。
「…おー」
表紙に、『星空』と書かれているそれはまさしく星空の写真集だった。わたしの元の世界は青空というものを見ることがまずないと同時に、星というものは見たことがなかった。正直あるかどうかもわからない。だからこそ、こういうものに惹かれるのだと思う。
「…」
わたしは席に戻ることも忘れてその場で写真集をめくり始めた。漆黒の空間に浮かぶ瞬く星。いくつか数えることもできないくらいの、視界いっぱいの小さな瞬き。この世界はこの今いる場所は、こういったものに取り囲まれてあるのかと思うと気が遠くなるような感じがした。
「またそれ見てるんだ」
「…!」
突然声をかけられて、思わず一歩後ずさった。声の方を見て、肩から力を抜いた。青葉だった。青葉も読み終わったのか、片手に本を持っている。
「飽きないね」
その言葉から、美幸もこの本をよく見ていたことがわかった。
「まあね」
美幸と言動が同じだと言われるのは、ホッとすると同時になんだか嬉しさも感じる。青葉はわたしの顔を見て、唇に弧を描いた。
「なんだか二年になった途端人が変わったような気がしてたけど」
その言葉に内心どきりとする。
「君は君だね」
青葉はそう言って満足したのか、じゃあと言ってその場を去った。青葉という人は無口な人間だと思っていたが、実はそうでもないかもしれない。わたしは少し早く脈打つ心臓をおさえつつ、なんだか見る気を無くしてしまった写真集を元の場所に戻した。わたしはひっそりと息を吐く。
「……」
いつになれば、わたしは美幸と元に戻るのだろうと考えない日はない。毎日この穏やかな世界で目覚めるたび、わたしのあの凄惨な世界に行ってしまった美幸の身を心配せずにはいられない。しかし、困ったのは心配してもどうにもならないことである。そもそも美幸とわたしが入れ替わった方法がわからない。こちらの世界では、わたしの世界で使えた霊術ーーこちらの世界でわかりやすく例えるなら物語においての”魔法”のようなものーーも使えない。だから美幸として粛々と生活を送るしかなかった。
図書館や図書室に行ったとき、わたしは手に取った本は必ず読み切るようにしている。その理由は、この身体にいつ美幸が戻ってくるのかがわからないからだ。中途半端なところで元の世界に戻されてしまったら、気になって戦闘どころじゃなくなってしまうだろうから。それは、少し願掛けのような意味合いのものでもあった。