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本当の美幸③



ふと水底から水面に浮上するような感覚があり、自分が目覚めたのを感じた。しかし次の瞬間感じたのは、身体の異様な重さだった。瞼も重くて、力を入れても開けられない。目ってどうやって開いていたんだっけとぼんやりと思う。


「…う…」


あまりの重さに思わず呻くと、すぐそばから声がした。


「美幸ちゃん?」


その声に導かれるように、先ほどまで重かった瞼がすっと持ちあがった。


「………」


まず視界に入ってきたのは白い天井、そして次は眩いほどの金髪だった。


「…り、ごほっ」


名前を呼ぼうとしたが、それは声にならずに咳き込むことになった。喉がカラカラに渇いている。


「美幸ちゃんが起きた…!!」


莉子の感激した声が聞こえて、そのあとばたばたと動いているのが視界の端で見えた。


「え、えっとえっと、あっナースコール!あと、美幸ちゃんのお母さんに…!」


目をこすろうと腕を動かそうとしたら、痛みが走ってまた呻く。


「いっ…」

「あっ!美幸ちゃん!身体動かしちゃだめだよ!点滴とかついてるから!」


そう言われてわたしは大人しく身体の力を抜いた。


「あと一週間寝てたから!安静にしておかないと!」


一週間。それを聞いてわたしは驚く。そしてゆっくり深呼吸をして、呟いた。


「……そう、なんだ」


全てはっきりと覚えていた。美幸の世界で生きたいと思ったこと、美幸としての記憶を思い出したこと、××と最後の言葉を交わしたこと。どれもさっきまであったことのように思えるのに、現実ではそんなに時間が経っているなんて。


視界の端で莉子がちょこちょこと動いているのが見えた。そうだ。莉子、莉子に言わなければいけないことが山ほどある。わたしはとっさにそう思って、咳き込まないように慎重に名前を呼んだ。


「…莉子」

「うん?どうしたの、美幸ちゃん」


莉子がそっと近くに寄ってくる。心配そうな莉子の顔が見えた。


「…莉子に、言わなきゃいけないことがある…」


そう言うと、莉子の目が一度丸くなって、その後顔がくしゃりと歪んだ。


「大丈夫だよ」


その声は少し震えていた。


「言ったでしょ。あたしはどんな美幸ちゃんも大好きだって」


莉子が何かを悟ったのか、それとも話を合わせただけなのかどちらかはわからなかったが、わたしはその言葉に安堵した。


「大丈夫だから、今はゆっくり身体を休めて」

「うん」


それから少しして病院の先生がやってきて、軽く問診を受けた。それが終わると、問診の間病室の外にいた莉子が笑顔で戻ってくる。


「美幸ちゃんのお母さんたちにも連絡したよ。多分すぐ来るんじゃないかな」

「そっか」


美幸の両親、すなわちわたしの生みの親たちだ。どんな顔をしておけばいいだろうかとなんとなく緊張を覚えた。


しばらくして病室のドアが叩かれた。美幸の母親、すなわちわたしの母親が病室にやってきた。


「美幸ちゃん!」


髪は乱れて、息も切れている。急いで駆けつけてくれたことが一目でわかった。その姿を見て、美幸だった頃の記憶の波が押し寄せてきた。


「……お母さん」


記憶のままにそう呟くと、その実感がすとんと胸の中に落ちてきた。それと同時に目から雫が零れ落ちた。


「ああ、美幸ちゃん、よかった!」


お母さんがわたしの手を取って、震えるように泣き始めた。わたしは自分の目からも涙を流しながら、お母さんの手を握り返す。しばらくそうしているとやがてお母さんが落ち着いてきたので、わたしは涙を拭って微笑んだ。


「……ただいま。お母さん」


そしたらまたお母さんが泣き始めてしまったので、莉子と一緒にまたしばらくなだめることになった。ちなみにその後お父さんも仕事を早退して駆けつけてくれたが、お父さんも泣き出してしまってわたしとお母さんも再び涙目になった。


その後両親と病院の先生の話を聞いた。これから精密検査のため、わたしは数日間入院することになるそうだ。しかし事故の怪我は見た目ほどはたいしたことはないらしく、検査が終われば退院できるのではと先生は言った。わたしはその言葉でほっと胸をなでおろす。


「じゃあね美幸ちゃん。ゆっくり休んでね」

「またお見舞いに来るからね!おやすみ!」


病院の面会時間のギリギリまで、両親と莉子はわたしに付き添ってくれた。


「うん。おやすみ」


わたしは手を振って、ひとり病室のベッドに寝転ぶ。


「……」


目を閉じたら、××の微笑みと夢の中の青空がまだ鮮やかに蘇ってきた。後ろ髪を引かれる思いは正直まだあるが、もうあの夢を見ることはない。わたしは自分自身にそう言い聞かせながら、今までの××との会話を思い出していた。


ーーそれじゃあ、取り替えっこしてみない?


その場で思いついたような、さりげない提案のようなその一言から全て始まった。しかし、××にとっては入念な計画の上でようやくというような思いだったのだろうか。


ーーごめんね、××ちゃん。

ーー楽しんできてね。


ーーうん、私こっちの方が性にあってるかも。

ーー××ちゃんは好きなことをしていいんだよ。


ーーそろそろ美幸としての自覚が芽生えてきたかなって。

ーーだって今は他人事だもん。


美幸の姿で××が軽やかに発していた言葉。どんな感情を抱えて、××はそれを口にしていたのだろう。


ーー××ちゃんが自力で錠を開けることができたらね!


「……あっ」


××との会話を思い返している途中で日記の存在を唐突に思い出し、わたしは小さく声をあげた。そうだ。日記の錠の答えを聞いていないじゃないか。


ーーヒント!はじまりの日。


一瞬焦ったが××のヒントも思い出したところで、わたしはもしかしたらと思う。今のわたしなら、錠を開けることができるかもしれない。家に帰ったら試してみよう。


そんな風に××との会話を思い出している間に、わたしはいつの間にか眠りに落ちていた。この日はいつも眠りの前に感じていた、焦燥感のようなものはなかった。わたしはこれからずっと、寝る前も起きる時も美幸なのだから。



数日後の放課後、莉子が言葉通りにお見舞いにやってきた。入船たちを連れて。


「大事ないんだって?良かったな」


入船は軽めに言いながらも、わたしの顔を見てすぐほっと息を吐いていた。


「……」


藤谷は何故かずっと不機嫌そうにこちらを見ていた。


「お大事に」


青葉は良ければ暇つぶしにと、おすすめだという文庫を数冊持ってきてくれた。


「調子はどう?美幸ちゃん」

「大丈夫。寝すぎて身体が痛いくらいだよ」


莉子や入船たちは最近学校であったことを話してくれた。体育祭の競技決めがあったこと。莉子たちがでる競技のこと。先生のこと、同級生のこと。話しているだけで、日常がふとそこまで戻ってきたように感じた。


「それじゃあ今日はこれくらいにしておこうか。美幸ちゃんもまだ本調子じゃないだろうし」


数分後、莉子がそう言って入船たちが頷く。


「またね、美幸ちゃん!また来るね。おやすみ」

「じゃあな、片桐美幸。ゆっくり休めよ」

「…」

「お大事に」


わたしは手を振って彼らを見送った。全員が部屋から出ていったあと、ふうと息をつく。


「…」


藤谷は、結局最後まで何も言わなかった。ずっと眉間に皺を寄せていたけど、どうしたのだろう。気分や体調が悪かったのだろうか。莉子や入船たちと話せて嬉しかったが、それが少し気がかりだった。


わたしは静かになった病室で窓からひとり空を見上げる。もう夕暮れだった。××の世界の空の色と、少し似ている時間。この時間は向こうの世界のことをつい考えてしまう。


「……××」


こちらでその名を口にするのは久しぶりだった。やはり以前と同じように意味のない音となって空中に消えていった。


するとふと、廊下から足音がした。わたしの病室に近付いているような。そう思ったとおり、少しして足音がわたしの病室の前で止まった。躊躇するような間の後、控えめに扉が叩かれる。


「どうぞ?」


返事をすると、少し間をおいて扉が開いた。そこに立っていたのは藤谷だった。


「藤谷」


藤谷の他には誰も居ないようだった。藤谷は静かに病室に入り、扉を閉めた。


「どうしたの?」


そう尋ねると、藤谷はぽつりと呟く。


「……忘れ物」

「え?」


わたしは何か忘れられてないかと病室を軽く見回す。しかし見たところ何もない。すると藤谷がはあと息を吐いて、一歩ずつベッドに近付いた。


「…」

「…」


藤谷はわたしをじっと見てきて何も言わない。何かを待っているんだろうか。わたしが何か言わないとだめだろうか。急に落ち着かないような気持ちになって、空に視線を彷徨わせると藤谷はふっと唇を緩めた。


「よかった」


その声音があまりに安心に満ちていて、わたしは思わず泣きそうになって唇を結んだ。藤谷は静かに口を開く。


「…お前が寝てる一週間、ろくに寝れなかった」


確かに少し顔がやつれているような気がする。


「それでも少し寝たら夢を見た。お前がどこか遠くに行って、帰ってこない夢」


内心ぎくりとする。だってそれは有り得た話だ。わたしがこの世界で生きたいと思わなければ、わたしはこの世界に戻ってくることはなかったかもしれない。ずっと死ぬまで××として向こうの世界で生きただろう。


「…だから、よかった」


藤谷は眉を下げて微笑んだ。


「…うん」


わたしも必死に笑みを作った。力を入れてないと崩れてしまいそうだった。


「…わたしは、もうどこにも行くことはないよ」


前まではこんなことが言えなかった。でも今は堂々と口に出来る。


「ここが、わたしのいるべき場所だから」


口に出すとその実感が湧いてきたような気がした。それが嬉しくて、やはり涙が滲みそうになった。


「それならいい」


藤谷が安心したようにそう言って、わたしの頭に軽く手を乗せた。


「待ってるから、ゆっくり治せ」

「…うん」


わたしの返事を聞いてた藤谷は微笑んで、来た時と同じように静かに病室を出て行った。


「……」


わたしは藤谷に触れられた頭に自分の手を乗せ、少し鼓動が早くなっているのを自覚した。藤谷と話せると嬉しい。それは、莉子や入船たち、それにソーゴさんと話すのとは少し違うのをわたしは気付いている。


藤谷にあの時言えなかったことを、今のわたしなら言うことができる。けれどわたしはこの先もずっとこの世界に生きるのだ。だから、それを言うことでこの先何があるのかを考えなければならない。これからどう生きていきたいのか、ちゃんと考えたうえで藤谷と話したいと思った。


そう。これから先はわたしがわたし自身の生きる道を選ぶのだ。そう思うと目の前が開けたような感覚と、同時に足元がおぼつかなくなるような心細さを感じた。わたしは急に不安になった心を落ち着かせようと深呼吸をして、ベッドに横になって目を閉じる。


目を閉じると、××の声が蘇る。


ーーこれからは美幸は、そっちで美幸としての生をまっとうしてくれ。


瞼の裏で××が微笑んだ。それが”生”だと言わんばかりに。そう思うと、先程湧いてきた不安感が不思議と軽くなるのを感じた。


ーーこれは続きだ。ただ、私たちは私たちの人生の続きを再び始めるだけ。


何も寂しいことはない。何も怖いことはない。××の表情はそう言っていた。


「…そうだね」


××に勇気づけられた気がして、わたしは微笑んだ。わたしはわたしがやりたいことを、やりたいようにするだけだ。


それが、この世界で生をまっとうするということだ。



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