美幸じゃないということ②
夢をよく見るようになった。美幸には会えない夢。
そこは教室であったり、公園であったり、水族館であったり、わたしが今まで美幸として言った場所であることがほとんどだった。そこには必ず先に美幸本人がいて、わたしがそこに行くと莉子や藤谷たちが現れてわたしをニセモノだと糾弾した。
目が覚めると、いつも動悸がしていて嫌な汗をかいていた。
そんな夏休みの残りは、なるべく家を出ないように過ごした。今の状態だと誰かに会った時何を話してしまうかわからなかったからだ。おかげで受験勉強はかなり捗った。
藤谷のことは日記にはまだ書いていない。どう書けばいいかわからなかったからだ。次に美幸に会うまでに書ききれなければ口頭で伝えるしかないなと思った。
割れたマグカップのことは日記に書いた。マグカップはやはりわたしではなく、美幸が選ぶべきだと思った。わたしがこの世界にいた痕跡はなるべく少ない方がいいような気がした。
はやく莉子たちと会いたいと思っていたが、今はずっと夏休みが続いてほしいと思っていた。だって、休み明けに藤谷にどんな顔をしていいかわからない。
そんなことを思っている間に、始業式の日となった。
「おはよー」
「どこか行った?」
「勉強ばっかしてらんないよなー」
「おはよう、片桐さん」
「おはよう」
莉子と登校して、美幸の教室に入る。教室に一歩入ってしまえば、今までの日常がそこにあり、わたしはなんだかほっとした。
「よう、古城おはよ」
「おはよう」
すぐ背後からその声が聞こえて、わたしの肩は思わずぎくりとはねた。古城はわたしのすぐ横を歩いていった。お互い言葉は交わさない。しかし夏休みが明けてもなお緊張感はお互いの間にずっと張られていた。
とはいえ今のわたしが一番恐れているのが昼休みだ。藤谷にどんな顔をすればいいのかわからないまま莉子に連れられて昼休みにいつもの中庭に行った。しかしそこに藤谷の姿はまだない。
「あれ?今日東雲くんは?」
中庭に集まった面子を見て莉子が首を傾げた。すると、青葉が本から顔をあげて答える。
「用事があるから今日は来ないって」
「そっかー久しぶりに全員揃うかと思ったのに残念だね」
それを聞いて、どこか安心しているわたしがいた。実に薄情な奴だ。
藤谷は返事はいらないと言っていたけれど、そうはいかないだろう。中途半端な状態は美幸のためにも一番良くない。わたしがやったことは全てわたしが蹴りをつけておくべきだ。
言わないといけない。藤谷に、わたしには他に大事な人がいるからその気持ちには応えられないと。
言ったら、藤谷はどんな顔をするのだろうか。そう考えると胸がぎゅうと締まった気がして、わたしは思わずそこを抑えた。
「ーーねえ、美幸ちゃん?」
莉子の声ではっと気付いた。いけない。莉子たちの話を何も聞いていなかった。
「ごめん、ちょっとぼんやりしてた。何の話してた?」
しっかりしないと。わたしは姿勢を正して莉子を見る。
「あのね、文化祭って三年生は自由参加でしょう?」
「うん」
「去年はいろいろあったから、今年こそ一緒にゆっくり見て回ろうよ。みんな一緒に」
莉子が笑って、入船たちが頷く。
「高校最後だし、ね?」
首を傾げて莉子はこちらを見た。
「…うん。そうだね」
わたしにとってはもういつが”最後”になるかわからないのだ。それまでは精一杯日常を過ごそう。
そうして昼休みの時間は、穏やかに過ぎていった。
その日の放課後、莉子が先生に用事があると言っていたので用事が終わるまで図書室で待つことにした。わたしは図書室の自習スペースへと赴いて、辺りを軽く見渡す。珍しく今日は青葉がいない。青葉がいたらあの本を返して感想を伝えようと思っていたのに。
「…あれ」
席について鞄を漁りながらぽつりとわたしは呟いた。受験勉強用のノートがない。朝の自習の時に使ったので、持ってきてないことはないはずだ。ということは教室に忘れてきたのだろう。わたしは一旦荷物をまとめて図書室の席を立った。
人の気配があまりない廊下を歩いて、美幸の教室まで戻る。そして教室の扉を開けようとして、ふとその手を止めた。前にもこんなことがあったような気が。
しかしまさかなと気を取り直して扉を開ける。
「…!」
そしてわたしは目を疑った。教室の中には、古城がひとり立っていた。わたしのノートを持って。
古城がゆっくりとこちらを向く。
「やあ、待ってたよ」
わたしは鞄の紐を握りしめて、教室の扉を閉めた。そして古城をにらみつける。
「…古城がノートを盗ったの?」
すると古城はへらりと笑った。
「人聞き悪いなあ。落ちてたのをたまたま拾ったのさ」
嘘だ。古城とはまともに取り合わない方がいい。わたしは古城に背を向ける。
「ちょっと、どこ行くの」
「先生に古城がまた変なことしてるって言いに行く」
わたしがなにか言うより、先生からお灸を据えてもらうほうがよっぽど効果的だろう。扉に近づくわたしの背中に、古城の声が投げかけられた。
「証拠を掴んだ」
思わぬ言葉に足が止まる。
「…」
証拠?
その単語が気になって、わたしは不本意ながらゆっくりと古城に視線を戻す。すると古城はいつかのような勝ち誇った笑みを浮かべながら、二枚の紙を掲げた。
「…?」
「右は一年のときの片桐美幸の筆跡」
ぞわり、と嫌な感触が背中を駆け抜けた。
「左は二年の片桐美幸、つまりお前の筆跡」
古城は笑みを崩さない。
「筆跡って、簡単にごまかせるものじゃないんだよねぇ」
冷や汗が浮き出てくるのを感じた。
「筆跡鑑定って知ってる?」
わたしは唇を引き締めた。知っている。推理小説でも読んだことがある。筆跡鑑定とは、人が書いた筆跡を見て誰がその文字を書いたのかを判断するものだ。文書の本人特定や事件の犯人を見つけ出すことに使われる。
まさか、美幸とわたしの筆跡を。
古城はもう一枚の紙を取り出した。何かの報告書に見える。
「夏休みの間、名のある筆跡鑑定家にこの二枚の鑑定の依頼をした」
わたしは息を飲む。
「筆跡鑑定は、別人という結果だった」
やられた。
「ずっと貯めてたこずかいをはたいたかいがあったよ」
古城が勝ち誇った笑みを浮かべていたのはこういうことだったのか。
「ほら答えて」
額から汗が流れるのを感じた。
「お前は、なに?」
わたしは小さく息を吸う。
「…そんなの、勝手に捏造することだってできるじゃない」
わたしの言葉を古城ははっと笑って吐き捨てる。
「これが偽物だって?事務所の連絡先教えてあげようか。確認してもらってもいいよ」
「……」
わたしは押し黙る。わかっている。その鑑定結果はきっと本物だ。だって確かに美幸とわたしの筆跡は微妙に異なっていると思ったことがある。本物だからこそ、古城もここまで勝ち誇っているのだろう。
「……」
でも、簡単に認めるわけには。
「なに?だんまり?」
古城が鑑定書をひらひらと揺らす。そしてああ、とわざとらしく今思いついたように声をあげた。
「そうだ、これ日高さんに見せてみようかな?」
莉子に?鑑定結果を?
「これを見せたらさすがに日高さんも目が覚めてくれるかも」
それは。
「待って…」
わたしのことをずっと美幸だと慕ってくれている莉子が、鑑定結果を見たら。明確な証拠を与えてしまったら。
ーー美幸ちゃんのニセモノのくせに!
わたしを、美幸のニセモノだと、思われてしまったら。
「………莉子には…見せないで……」
口から出た言葉はとても弱弱しかった。しかもこんなの、結果が本当であると認めているようなものだった。
でも、それでも。莉子だけには、見られたくなかった。知られたくなかった。だって莉子はわたしのことを美幸だと信じて疑わず、ずっと、ずっと笑顔を向けてくれていたのだ。
それに、どれだけ救われていたか。
「それって、自分が片桐美幸じゃないって認めるっていうこと?」
わたしは唇を噛みしめる。頷くしかないのか。もう。すると途端に古城は優しい笑みを浮かべた。
「今この場で、お前が片桐美幸じゃないことを認めて、知っていることを全部話してくれるなら、日高さんには鑑定結果を見せない」
わたしは言葉に詰まる。頭の中で別々の意思を持つわたしが叫んだ。
そんなの嘘だ。信用するな。決して認めるな。また何をされるかわからない。
いや、ここは信じて従った方がいい。現状を話すだけだ。それで収まるならいいじゃないか。そうすれば、残りの日々を莉子たちと変わらず過ごすことができる。
ーー今年こそ一緒にゆっくり見て回ろうよ。みんな一緒に。
あと少しなんだ。
「……」
ーー高校最後だし、ね?
あと少し、一緒にいられれば。
「……そうだよ」
慎重に出した声は震えていた。教室は西日が差し込んで赤く染まっていた。
「……わたしは、この身体の中身は、片桐美幸じゃない」
これが夢であればいいのにと、心のどこかが呟いた。




