美幸の世界②
その後、撮影は予定時間に終了した。
「それではこれで撮影を終了します!お疲れ様でした〜!」
「お疲れ様でしたー」
「これより自由解散となりますので、遊園地で遊びたい方はご自由にどうぞ〜」
そんな責任者の号令により、モデルとスタッフたちはわっとそれぞれ散り散りになった。
「美幸ちゃん!」
「莉子、お疲れ様」
「ありがとう!美幸ちゃんもおつかれさま!」
莉子と話をしていると、入船と藤谷がこちらにやってきた。
「日高さん、片桐美幸おつかれ」
「ふたりともお疲れ〜」
「うん、お疲れ様」
入船の笑顔は明るいが、藤谷はどこかぐったりと疲れた顔をしていた。男性陣は力仕事が多かったようだから仕方ない。
「日高さんたちはこれから遊園地まわるの?」
入船の問いに、莉子の目がこちらを向く。
「美幸ちゃんどうする?まわる?」
その目に一緒にまわりたいという思いがありありと現れていたので、思わずわたしは笑ってしまった。
「うん。せっかくだし、まわってみたいな」
「やった!行こ行こ!」
莉子が嬉しそうに飛び跳ねながら美幸の手を取る。
「俺たちも一緒に行っていい?男だけだと味気ないからさ」
入船が申し訳なさそうにそう申し出てきたので、わたしは莉子に尋ねる。
「いいかな?人数多いほうが楽しそうだし」
「あたしは美幸ちゃんがいるならどっちでもいいよ!」
「いいって」
「サンキュ!」
入船は嬉しそうに笑った。莉子と遊園地を巡るなんて、またとない機会だと思っていることだろう。
「じゃあどこ行く?」
「有名どころは行っておきたいかも」
「有名どころって?」
「そりゃああそこだろ!」
入船がどこかを指さして笑った。
そして数分後、”戦慄屋敷”と書かれている建物の前にわたしたちはやってきていた。そこはいわゆるお化け屋敷というやつらしい。遊園地のスタッフが幽霊や妖怪に化けて客を驚かす、そういうアトラクションだ。
「ここに来たならやっぱりこれは外せないよな!」
入船にとってはお気に入りのアトラクションらしい。
「え〜久しぶりに入るかも」
怖がるかと思ったら、莉子はなんだか懐かしそうに建物を眺めている。
「ここでいいか?片桐美幸と藤谷も」
わたしは横目で藤谷を見る。
「別にいいけど」
藤谷も中に入るのに異論はないらしい。わたしはそれを見て頷いた。
「うん、いいよ」
こういうものを体験するのは初めてだが、まあ大丈夫だろう。どうせ驚かしに来るのは遊園地のスタッフの人だ。
そう思って、わたしは”戦慄屋敷”に莉子たちと共に足を踏み入れた。
そして入って十秒も経たないうちにわたしは後悔をすることになる。
「おお〜こんな感じだったっけ」
「懐かし〜」
入船と莉子がのどかに会話をする後ろで、わたしは眼の前に広がる暗闇に足がすくんでいた。建物の中は想像以上に暗く、廃墟のような内装をしている。ここから人が驚かしに来るのか。それって、もしかして、すごく怖いことなのでは。
「すごい、よく見たら装飾めっちゃ凝ってるね!」
「子供の頃はめっちゃ怖かったなここ」
莉子と入船はわたしの進みが遅くなったことに気付かず、すたすたと歩みを進めていく。ふたりともどうして怖がっていないんだとわたしは焦りながら必死に声を振り絞った。
「り、莉子っ……」
しかし莉子と入船の背中は暗闇の中に消えて行ってしまった。多分、莉子と入船が早いのではない。わたしが圧倒的に遅いのだ。
「……」
わたしは絶望したような気持ちで足を完全に止める。
「おい」
「ひっ」
背後から声をかけられて、わたしは数センチ飛び上がった。そして慌てて後ろを振り向く。そうだ、藤谷がまだいるじゃないか。藤谷は美幸を見て、少し目を丸くしていた。
「…意外だな」
「…何が」
わたしは重心をやや低くして周囲を警戒しつつ、藤谷の言葉に返した。
「こういうの、怖がるタイプだとは」
「いや、別に怖くは…」
美幸の名誉のためにもと虚勢を貼ろうとしたその瞬間、目の前に黒い髪で白い着物の女性が飛び出してきた。
「わあ!!!呪ってやるー!!!!」
「……?!!!!!!!!!!」
「おー…あ?」
もう仕事は終わったとばかりに白い着物の女性がふらりとその場から去っていく中、藤谷の視線と声が降ってくる。
「…大丈夫か」
女性が飛び出してきたその時に、わたしは驚きのあまり腰を抜かしてその場に尻餅をついていた。
「………………」
わたしは無言で藤谷を見上げる。藤谷は唇を歪めてこちらを見ている。
「…別に怖くは?」
「………ないこともない」
わたしは小さな声でそう言って立ち上がる。わたしは女性がいなくなった方向をちらりと見てから、藤谷に尋ねてみる。
「……………これってどれくらい続くの?」
「15分くらいって書いてたけど」
「…………」
長いな。わたしは深呼吸をして、姿勢を正した。
「…行こうか」
「いやいや」
隣で藤谷がこらえきれずに吹き出した。
「お前出てくる幽霊全員殴り倒す気なの?」
「違うけど」
「いや絶対手ぇ出るだろ」
「いや」
わたしは否定しながら拳を強く握った。
「ばか」
その手の上に、藤谷の手が覆いかぶさった。
「ここで暴力沙汰起こされても困るんだよ」
「…しないって」
「信用ならん」
藤谷は可笑しそうに笑いながら、美幸の腕を藤谷の服に持っていく。
「俺の後ろでここ掴んでろ」
「……………………」
わたしは数十秒たっぷり考え込んで、そっと藤谷の服を掴んだ。
そして藤谷の歩幅に合わせて、恐る恐る建物の中を進んだ。
「あっ美幸ちゃんたち出てきた〜」
「遅かったな!」
何度も悲鳴を上げて、何度も立ち止まって、腰を抜かしそうになりながらわたしはなんとか誰も拳で倒すことなく”戦慄屋敷”を出ることができた。
「…もしかして、美幸ちゃんお化け屋敷苦手だった?」
莉子がぐったりした様子の美幸を見て、心配そうに声をかけてきた。
「……い、いや」
美幸ってどうなんだ。これって怖いものなのか。わたしが耐性がないだけなんだろうか。わたしは焦りながら頭を回転させ、やがてぽつりと呟く。
「室内は明るいほうが……いいよね」
「ふっ」
隣にいた藤谷が吹き出していたが、そちらを向く気になれなかった。
「ごめんね!まさか美幸ちゃんがお化け屋敷苦手だとは思わなくて!」
「だ、大丈夫、大丈夫だよ…」
「次行くときはあたしが手を繋いでおくから!」
「いや、次はもう、しばらくはいいかな………」
わたしは弱々しく莉子に笑いかけた。
「じゃあ気を取り直して他のアトラクションに行くか!」
入船はそう言って、美幸をちらりと見る。
「片桐美幸にとって大丈夫な、明るいアトラクションな!」
「はは…」
その後、いわゆる絶叫系のジェットコースターというアトラクションに乗ることになった。莉子はそういうものは怖いらしく、ジェットコースターではわたしの隣で悲鳴をあげて乗り終わったあとは少しぐったりしていた。
メリーゴーラウンドは入船と藤谷が断固拒否したため、わたしと莉子で乗った。
小腹が空いたと四人で食べたワッフルは甘くて柔らかくて暖かくて美味しかった。
コーヒーカップは莉子が回しすぎて入船と藤谷が酔っていた。
そんなふうにわたしたちは遊園地を満喫していた。
「あっ!そうだ!そろそろあれ乗ろうよ!ちょうどいい感じだよ」
時計を見た莉子が慌てたように声を上げて、観覧車の方を指差した。
「ちょうどいいって?」
「あの観覧車、海に半分出てるでしょ?そこから見える夕焼けが綺麗なんだよ」
「なるほど」
特に反対意見はなかったので、わたしたちは観覧車へと移動する。
観覧車の乗り場には、今日の日の入り時間が書かれている。
「観覧車が一周約15分だから…頂上まで7、8分ってとこか」
わたしたちは遊園地のスタッフの人に案内されて観覧車に乗り込む。ゆっくりと動くゴンドラに乗り込むのはなんだか面白かった。そうか観覧車はいつだって回ってるもんな、と当たり前の感想を抱いた。
海側の席にわたしと莉子は並んで座った。そしてわたしの向かい側に藤谷、莉子の向かい側に入船が座った。さっそくゆっくり登る様子を見ようと思って振り返ろうとしたら、莉子に目を抑えられた。
「莉子?」
「美幸ちゃん、せっかくだし頂上まで後ろは振り向かないでおこうよ」
なるほど。一番いいところのために今は我慢しておくということか。まあそれも一興ではある。わたしは前を向き直す。
「じゃあ頂上ついたら俺らが教えるよ」
入船はそう言って笑う。入船と藤谷からはずっと海が見えるもんな。前を向くと藤谷と目が合う。こうやって改めて向かい合うのはなんだか新鮮である。
「…」
「…」
こういう時、どういう話をしたらいいのだろう。なんとなく気まずさを感じて話題を考え始めた時、莉子が美幸の腕を掴んで顔を覗き込んできた。
「ね、美幸ちゃん。今日どうだった?楽しかった?」
「うん。楽しかったよ」
そう言うと莉子は安心したように笑った。
「あたしもすっごく楽しかった!」
しかしすぐにふぅと重いため息をついた。
「でもこうやって何も考えず遊べるのはこれが最後かな…」
すると入船が頷く。
「そろそろ受験勉強、本腰入れないといけないもんな」
そう、美幸たちは三年生。大学進学を考えるならばこれからは勉強に比重を置く必要がある。そういえば莉子は前に進路の話をした時、まだ決めていないと言っていた。
「莉子は志望校決めたの?」
そう尋ねると、莉子は難しい顔をして小さい声で唸ったあとぽつりと呟く。
「あたしはやっぱり私立かな県内の」
「そっか」
そしてふとわたしは入船に目を向ける。すると入船はこちらの意図を察してか教えてくれた。
「俺も県内の私立」
そして藤谷に目を向ける。藤谷はわたしの視線に気付いて、口を開いた。
「入船と同じ」
今のところ三人とも志望校が同じのようだ。そもそも美幸の学校は県内の私立か、県内の国立のどちらかに進学するのが大半らしい。
「美幸ちゃんは?」
「県内の国立」
となるとこの四人では美幸だけが進学先が違うのか。そう理解すると、それはなんだか寂しいなとぽつりと思った。そんなわたしの想いを汲み取ったのか、莉子がこちらに微笑みかける。
「ね、美幸ちゃん。大学に行っても、また遊ぼうね!」
「…うん」
わたしは頷いたが、美幸が高校を卒業する頃には”わたし”はもうここにはいない。その頃”美幸”はどんな生活を送っているんだろう。美幸はあまり人と関わろうとしていなかったため、一人で気ままに生活をするのだろうか。
にしても、美幸はどうして人と関わることを避けているのだろう。何か理由があるのだろうか。夢ではとても人懐っこい性格に見えたのに。結構長い間美幸とは交流を続けてきたし今だって一年以上美幸の身体にいるのに、わたしは美幸の知らないことがまだまだ多いのだなと思う。知ってみたいと思うし、知ってどうなるのだという気持ちもあった。
そんなことを宙を眺めてぼんやりと考えていると、入船の声ではっとした。
「ふたりとも、そろそろ頂上だぞ。あと10秒くらい」
確かに藤谷の背後の景色を見るにかなり高いところまで来ている。莉子は待ちきれない様子で、そわそわと口を開いた。
「じゃあ美幸ちゃん、せーので振り返ろうね」
「うん」
「いくよ!せーの」
莉子の声に合わせて振り返ると、強い光に一瞬目がくらんだ。そして目に飛び込んできたのは、視界いっぱいの夕焼け空だった。観覧車の頂上はまるで空の上にいるような。橙色に染まった空と海の地平線の他にはなにもない。
「すごい!綺麗!」
「うん」
わたしは莉子の言葉に同意をしながら、ついわたしの世界のことを思い出していた。橙の空は、わたしの世界の空と少し色が似ている。しかし、わたしの世界とは決定的に違う。
美幸の世界の空は、見ているだけで心を動かされて、ずっと見ていたくなる色をしていて。
そう、多分これを”美しい”と呼ぶのだ。
わたしの世界はもっと汚れていて、痛みと喪失が常に隣りにあって、美しいとは無縁の場所だ。こことは違う。
ここはこんなに美しい景色があって、近くに共にいたいと言ってくれる人がいる。共にいたいと思う人がいる。安心して空間を共有することができる。生の不安を抱くことなく、笑い合うことができる。ああ、と諦めのような気持ちが沸いてくる。抑えようとしていたけど、思わないようにしていたけれど、もうだめだ。
わたしはもう、美幸の世界をとても気に入ってしまっている。
そんなことを思いながら窓の外の景色から目が離せないでいると、なんだか目が熱くなってきた。
「美幸ちゃん…?」
莉子に声をかけられて、そちらを向くと瞳から雫がこぼれた。
「え…」
我ながら驚いた。慌てて雫を拭うと、莉子と藤谷や入船までもがこちらを心配そうに見ていた。
「えっと…ごめん」
わたしは慌てて言葉を紡ぐ。
「なんか、多分、感動して」
そう言うと莉子たちの表情が和らいだ。
「美幸ちゃんが泣いてるとこ、初めて見ちゃった」
莉子がそう言ってなんだか嬉しそうに笑った。
「片桐美幸って感受性豊かだよな」
入船が冗談めかして笑う。
「夕焼けなんて、いつだって見れるだろ」
呆れた様子の藤谷の口元にも笑みが浮かんでいる。そう、この世界ではいつだって見れる光景だ。この世界にいる限り。
「そうだね」
そう、この世界にいる間だけ。わたしは苦々しい思いを飲み込んで、笑みを浮かべて返事をした。そしてもう一度空に目を向ける。そしてこの美しい景色を忘れてしまわないように、心に、魂に、刻み込もうとした。
観覧車から降りると、辺りはやや薄暗くもあった。
「じゃあそろそろ帰るか」
「そうだね。満喫できたし」
遊園地を満喫しきったわたしたちは四人で出口に向かって歩く。すると、出口の門の近くで入船がぽつりと呟く。
「あれ、あそこにいるのソーゴさんじゃね?」
入船の視線を追うと、確かにソーゴさんが門の近くのベンチに座っていた。
「本当だ」
「あ、こっちに気づいた」
ソーゴさんは片手をあげてこちらに近付いてくる。
「どうしたんですか?」
入船がソーゴさんに尋ねると、ソーゴさんは笑みを浮かべながら入船からこちらに視線を移した。
「失礼、ちょっと片桐さんと話したくて」
「え?」
思いもよらぬ言葉にわたしは瞬きをしてソーゴさんを見た。ソーゴさんは柔らかく微笑んで、首を傾げる。
「いいかな?」
「いいですよ。なんですか?」
頷くと、ソーゴさんはにこっと微笑んで、美幸の背中に手をまわした。
「え?」
「ちょっとソーゴさん!」
莉子の憤慨した声が聞こえたが、わたしが困惑している間に、ソーゴさんがずんずんと歩く。わたしはそれに合わせて足を動かすしかなかった。
「ソーゴさん?」
「ちょっと日高さんたちには聞かれたくない話なんだ」
「そうなんですか…」
わたしは莉子たちに大丈夫だと伝えるために軽く手を振る。莉子たちに聞かれたくない話ならば、仕方ない。それからたっぷりと莉子たちから距離を取って、ソーゴさんは足を止めた。これならわたしたちの声はさすがに彼らには聞こえないだろう。なんだかホワイトデーの日を思い出す。
足を止めてこちらを見たソーゴさんは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね、強引で。ちょっと二人で話したくて」
「いえ」
「片桐さんは僕と話すの、嫌じゃない?」
なんでそんなことを聞くのだろう。不思議に思いながら、わたしは首を振った。
「嫌じゃないですよ」
「よかった」
ソーゴさんは安心したように笑って、表情を引き締めた。
「片桐さんに、聞きたいことがあって」
「はい」
何を聞かれるのだろうかと、わたしも少し表情を引き締める。
「あれから、片桐さんの”好きな人”との進展はどう?」
「えっ?」
ソーゴさんの言葉にわたしは目を丸くする。そして慌ててホワイトデーのソーゴさんとの会話を思い出す。
ーー・・・他に好きな人がいるのかな?
ーーはい。大事な人がいます
そう、確かわたしは美幸のことを大事な人と言って、いい感じに話を終わらせたのだ。この場合は何を言えばいいだろう。わたしは視線を下に落としつつ、小さい声で呟く。
「進展というか、なんというか」
口ごもるわたしに、ソーゴさんの笑みが降ってくる。
「ごめんね。正直全然諦められてなくてさ。片桐さんのこと」
切実な声音に、心臓が掴まれるような感覚があった。
「メールしてるだけで満足できるかと思ってたら駄目だった。今日会えると思ってなかったから、本当に嬉しかったよ」
「……」
わたしは言葉を探しながら、思わずソーゴさんの熱のある瞳から目を反らした。
「…片桐さんが”好きな人”と進展するまで、片桐さんのこと想わせてくれていいかな」
その言葉に安易に返事はできない。でも何も言わないのも不誠実だ。
「…あの…」
ソーゴさんが次に会うのは”わたし”ではない可能性だってあるのだ。その時に悲しんだり苦しんだりするのは”わたし”じゃない。美幸や、ソーゴさん自身だ。わたしは慎重に口を開く。
「…わたし結構気が変わりやすいので、今いいって言っても、いずれ駄目って言うかもしれません」
そう言ってソーゴさんを恐る恐る見ると、ソーゴさんは明るく微笑んでみせた。
「それは、今はいいってことだよね」
前向きに解釈するソーゴさんに、わたしは困ったように笑みを作った。
「ありがとう、そう言ってくれるだけでも嬉しいよ。でも僕はあまり気が変わりにくいから、逆に気持ちがこっちに傾いてきたら遠慮なく言ってもらっていいからね」
ソーゴさんは茶目っ気のある笑みを浮かべて片目を閉じた。ひとまずこの場を乗り切れたようだ。わたしは安心して小さく頷いた。
「はい」
わたしが頷いたのを見て、ソーゴさんは照れたように頭を触りながらぽつりと呟いた。
「これを言うのも本当はもっと様子を見ようと思ってたんだけど…」
「え?」
「ちょっと焦っちゃって…」
何にと尋ねようとした瞬間、こちらに近付いてくる足音に気付いてそちらを見た。
「藤谷」
いつの間にか、藤谷がすぐこちらまで来ていた。その表情は険しい。
「どうしたの」
わたしは藤谷にそう尋ねたが、藤谷はこちらを見ることもなくソーゴさんに声をかけた。
「そろそろ返してもらえますか」
「…東雲くんだったっけ」
ソーゴさんはやや目を細めて藤谷を見る。二人の間に何とも緊張感のある空気が流れた気がして、わたしは様子を伺うべく口を閉じた。
「片桐さんは別に君のものじゃないよね」
ソーゴさんは藤谷に挑発的な笑みを向けた。藤谷の目がさらに不機嫌そうに細くなる。わたしは一触即発の空気について行けず、棒立ちになる。何秒か沈黙が続いた後、藤谷がいきなり動いて美幸の腕を取った。
「いいえ、俺たちのものなんで」
藤谷はそう言って、後ろを振り向く。遠くから莉子と入船がこちらに歩いてきてるのが見えた。
「独り占めしないでもらえますか」
莉子たちとこちらを見たソーゴさんは笑みを作って、あっさりと藤谷とわたしから距離を取った。
「そっか。それは失礼したね」
そしてそのまま出口の方へ足を向ける。そして最後に美幸を見た。
「時間取らせてごめんね、片桐さん」
「いえ」
「またメールするよ」
「はい」
ソーゴさんはそれだけ言って、手をひらりと振ってからその場から離れていった。
「…」
「…」
わたしと藤谷はその場に立ったままソーゴさんを見送った。そしてしばらくしてぽつりと藤谷が呟いた。
「あいつなんかとメールしてんのか」
藤谷はソーゴさんをあまり良く思っていないことがその言葉と表情にありありと見て取れる。
「うん。たまに」
「俺に送ってくるみたいに?」
「え?」
そう言われて思い返すが、そんなことはない。藤谷はこちらから写真を送ることが多いが。
「わたしからソーゴさんにメール送るのはあんまりしないかな。来たら返事返すけど」
「……へえ」
眉間にずっと皺を寄せていた藤谷が、そこでようやく表情を緩めた。やがてそこに、莉子と入船がやってきた。
「美幸ちゃん!大丈夫だった?」
「大丈夫。ただ話をしてただけだよ」
莉子や藤谷といい、心配し過ぎなのだ。有り難いことではあるけれど。
「じゃあ帰ろっか」
莉子が藤谷とは反対の手を取った。それに気付いた藤谷がそっと美幸の腕から手を離した。そういえばずっと腕を握られていた。
ーー俺たちのものなんで。
ふと先程の藤谷の言葉が思い浮かんだ。あの時、瞬間的にわたしはそれを嬉しいと思ってしまった。
「うん、帰ろう」
この世界にいる限り、そう思ってもらえるのだ。そう、わたしの世界に帰るまでの間だけ。やや苦い気持ちはあるが、それ以上に温かい何かで胸の中が満たされていた。
そして休みが明けて、水曜日の放課後。わたしは図書館で青葉を見つけて、向かい側に腰を下ろした。青葉が顔を上げたので、わたしは手を挙げて軽く挨拶をした。そして青葉の手元で開かれたノートを見て、呟いた。
「青葉も受験勉強とかするんだ」
「…まぁほどほどに」
青葉はそう言ってシャーペンから手を離した。
「いいんだ。僕は無理しないで行けるとこにしてるから」
青葉はにやと笑う。
「僕は本が読めるとこならどこでもいいんだ」
「青葉らしい」
そこでわたしは参考書の間に、本があることに気付いた。
「これは?」
わたしがその本を指差すと、青葉はそれを手に取った。
「これは勉強の合間に読んでる」
そのタイトルには見覚えがあるような、ないような。多分わたしは読んだことがない。けれど、見覚えがあるということは美幸は読んだことがあるかもしれない。妙に興味を惹かれて、わたしは尋ねる。
「…それって、どんな話だっけ」
ハードカバーの本だが、何度も読まれているのかあちこちがよれているのが見える。
「主人公が異世界に飛ばされて、そこで異世界人と心通わせながら生きる話」
思わず一瞬息を止めてしまった。青葉がゆっくりと視線をこちらに向ける。
「読んでみる?」
「あ、まあ…青葉が読み終わったら…」
「僕これもう何回も読んでるんだ。だからいいよ」
差し出された本は、よく見ると図書館の本のようなラベルは何も貼られていなかった。青葉の私物のようだ。
「僕はその本好きなんだけど、結末に結構賛否があって、たまに考えるんだよね」
どんな結末なんだろう。わたしは本の表紙を眺めながら青葉の声を聞く。
「ネタバレは避けるけど…こういう話の結末って、大抵は元の世界に戻るかそのまま異世界で生きるかのどちらかになるもんだけど」
顔を上げると、青葉は美幸が手にした本を静かに見つめていた。
「僕ならどっちの結末がいいかって」
青葉の瞳はどこか遠くを見ているようだった。
「…」
「最近は思うんだ。主人公が幸せであれば、どちらの世界でもいいかって」
ということは、昔はそうは思っていなかったのだろうか。青葉の言葉はまるで物語の主人公に思いを馳せるように紡がれているような、優しい響きをしていた。
「よかったら、それ読んだら感想聞かせて」
「……うん」
わたしは本を手にして席を立った。青葉の前で本を読む勇気はなかったからだ。
ーー主人公が異世界に飛ばされて、そこで異世界人と心通わせながら生きる話
青葉の言葉を反芻しながら、わたしは考える。
この本じゃなくても、ここではないどこかを冒険する物語は読んだことがある。けれどわたしと美幸にそれを重ねて読んだことはなかった。読んだ時はまだそんな実感がなかったのかもしれない。
物語の中で、主人公は異世界へと飛ばされる。その状況はわたしと美幸どちらにも重なる。物語の結末は元の世界に戻るかそのまま異世界で生きるかだ。そこでふと疑念が沸く。美幸は元の世界に帰るのをやけにもったいぶっている。もしかして、まさかそのまま入れ替わりの世界で生きていくつもりがあるのだろうか。
そこまで考えて、わたしはいやいやと首を振る。この前の夢では、美幸はちゃんとわたしを元の世界に帰すと言っていた。そんなとこで嘘をついて美幸の何の得になるというのだ。それをしたらどちらかと言えば得をするのはきっとわたしの方なのに。
ーー主人公が幸せであれば、どちらの世界でもいいかって
そういえば”幸せ”というものが一体何なのか、未だにわたしはよくわかっていない。ただなんとなく思うのは、美幸の世界の幸せとわたしの世界の幸せは多分違うということだ。
そして怖いのは美幸の世界の幸せを知ってしまったら、元の世界でもそれを探してしまわないだろうかということだ。その時、わたしは元の世界で”幸せ”であれるのだろうか。そもそも”幸せ”なんて追い求められる環境でもないのに。
考え込みながら歩いていると、ふと頬を風が撫でた。顔を上げると開けっ放しになっている廊下の窓から風が吹き込んでいた。誰か締め忘れたのだろう。わたしは窓を閉じて、空を見上げた。最近は日が長くなってきたので、夕焼けまではまだ時間がある。そう、もうすぐ夏だ。
わたしにとって二回目の、美幸にとっては高校最後の夏だ。




