美幸という名の女の子③
ーー私は戦いになんて行かないよ。学校っていうところに行くの。
ーー学校?
ーーこの世界の法則や、世界の歴史を教えてくれる場所だよ。
ーーへえ、そんなところがあるのか。夢のような話だな。
わたしは目を開けた。美幸との昔の会話の夢を見た気がする。わたしはゆっくりと辺りを見渡す。視界に入る布が全て白い。
「救護…違う、保健室…?」
美幸も来たことがあるのだろう、美幸の記憶で見覚えがあった。
「…あら片桐さん、起きた?」
「…はい」
天井から吊るされた白い布の向こう側から女性の声がしたので、返事をする。もう間違えない。カタギリは、美幸の名前。布の隙間から人の良さそうな妙齢の女性が顔を出す。わたしの顔をまじまじと見て、にこりと微笑んだ。
「顔色良くなったわね。倒れたの覚えてる?多分貧血だったんでしょうね」
「ヒンケツ…」
少し寝たからか、今は頭痛は収まり頭がすっきりしていた。
「今二時間目の時間だけど、多分休憩になったらお友達が迎えに来るでしょうから、それまで休んでなさい」
「はい」
お友達というのは恐らく莉子のことだろう。わたしは大人しくもう一度布の上に寝転がる。
「そういえば、片桐さんってあの三人組と仲悪いって本当?教員たちの中でそんな話で持ち切りだったわよ」
「…三人組とは」
すぐに思い当らず正直に尋ねると、女性が噴き出した。
「あら、すっとぼけるつもりかしら。入船良光と、東雲藤谷と、青葉響一のことよ。あいつらもアイドル面してても嫌われるのね」
「…ああ」
名前を聞いたことでようやく深い湖から記憶が出てきた。先ほど地面に叩きつけた黒髪赤目の男が東雲藤谷、最初の橙の髪の男が入船良光。そして何も言わないし何もいなかった灰色の髪の男が青葉響一だ。美幸も顔と名前は知っていたようだ。
しかし失敗した。結構この学校で有名な男たちのようだ。その男を思わず反射で地面に叩きつけるなど、結構とんでもないことをしたのではないだろうか。
「片桐さんも綺麗な顔してるけど、やるときはやるのね」
すでにこの女性にもわたしが東雲を地面に叩きつけたことは知っているらしい。
「…まあ」
何を言っていいものかと口ごもっていると、四角箱から音が流れた。あれはスピーカーというものらしい。流れる音はこの身体では聞きなれているが、わたしは初めて聞く。
「…ほら、来たわよ」
パタパタと遠くから足音がして、扉が開く。
「美幸ちゃんは、起きましたか?」
莉子だ。金髪の髪を乱してこちらに近付いてくる。
「ええ、もう大丈夫じゃないかしら。どう、片桐さん」
「あ、はい。大丈夫です」
「よかったー、教室まで一緒に戻ろ」
「うん」
莉子に教室に連れられ、扉を開けるなり視線が一瞬でわたしに集中した。それもそのはず、東雲藤谷を投げ飛ばした人間だもんな。奇怪な目で見られて当然だ。わたしは教室内を見渡した。すると橙の髪の入船がわたしを見ていたが、視線があうとすぐにそらしてしまった。青葉はひとり何かに視線を落としていてこちらに気づいていない。わたしの視線を察してか、莉子がわたしに耳打ちする。
「美幸ちゃん、東雲くんならいないよ」
「そうなの」
「一年の時からよくあることだけどね。よくいなくなるの」
「…そう」
顔を合わせたら一言謝罪でもしようかと思ったが、いないなら仕方ない。わたしは莉子に教えられて自分の席につく。授業の時間割の二時間分寝ていたとのことだが、その間どこまで進んだかを莉子が説明してくれる。
「授業って言ってもまだ始まったばっかりだったから、美幸ちゃんなら大丈夫だと思う」
「うん、ありがとう」
「ううん、いいんだよ。美幸ちゃん」
わたしがお礼を言うと、莉子は目を細めて笑った。話していると、再びスピーカーから音が鳴る。あれはチャイムと言うらしい。
「はい、起立」
初めての学校の初めての授業というものを受けてみて、わたしはひどく感動した。知らない言葉、法則、この世界の常識。ありとあらゆる情報がどんどん与えられる。学校というものは、こんなことを毎日することができるのか。ちなみにわたしは美幸が記憶したことを思い出すことはできたが、それを理解するまでにはやや時間がかかることに気付いた。しっかりこの世界のことを学ぶためには時間が必要だ。
そんな感じで美幸の世界に感動する一方で、わたしは自分の元いた場所を思う。わたしが美幸の身体にいるということは、美幸はわたしの身体にいるのだろう。こんな世界にいた美幸が、あちらのわたしの世界に対応できるのだろうか。
ーーこっちはひどいもんだよ。常にどこかで抗争が起きていて、人が死んでる。
ーーそうなの、大変だね。
夢の中の会話でわたしの世界について話したことはある。結構平然と聞いていたが、いざあの場に放り出されたらきっと大変だ。というか、もし美幸がわたしの世界で命を落としたらどうなるのだろう。
「では次、片桐さん」
「はい」
名前を呼ばれて、わたしは返事をする。ひとりで物思いにふけるのはいけない。この授業というものは教室の全員で進行していくようである。わたしは立ち上がり、教科書の該当箇所を読み上げた。それはとある人間の物語のようであった。事実とは異なる創作されたもののようだが、それにわたしはとても興味をひかれた。この世界にはもっとこの物語というものが存在するのだろう。わたしはそれを読めるだろうか。この世界の文字はわたしの世界のものと違っていたが、美幸の記憶があるおかげで難なく聞くことも書くこともできるようなので、とても有難かった。
ひとりで感動している間に時間は過ぎ、あっという間に一日の授業が全て終了した。終礼というものがおわり、担任の先生という人が挨拶をして教室を出て行く。そして同級生たちも挨拶をしあって教室を出て行く。ぼんやりとその光景を見つめていると、莉子がわたしの元にやってきた。
「美幸ちゃん、帰ろ」
「うん」
席を立ち上がると、教室の入り口の方でざわめいた声が聞こえた。なんだろうとそちらの方を見ると、教室の入り口に東雲が立っていた。
「藤谷」
入船が藤谷の元に向かい、一歩遅れて青葉も彼の元に行く。三人が二言三言会話している様子を見ていると、その三人の視線が一斉にわたしに向いた。
「…」
東雲はこちらをただ見ていると言うよりは睨みつけるという方が近い。そして、入船と青葉は東雲の様子とわたしを交互に伺っているようだ。
「み、美幸ちゃん」
三人の視線に気付いた莉子が怯えたような声を出す。わたしは東雲をまっすぐに見つめ返した。相手を観察するのは戦場での基本だ。ここは戦場じゃないけど。苛ついているようだが、そこに殺意や攻撃性はない。
「ちょっと待ってて」
「えっ美幸ちゃん…!」
わたしは莉子から離れて東雲に近付く。東雲は一瞬わたしの動きを見て体を固くした。なるほど、反応はいいんじゃないか。戦場にも向いている感性だ。ここは戦場じゃないけど。
「…」
「…」
わたしは東雲の真正面に立ってみる。お互いその気になれば手が届く距離だ。
「…なに?片桐サン。ああ、下の名前で呼ばないとわかんない?」
東雲は警戒しながらも、嘲笑を浮かべてそう言った。
「朝は悪いことした」
「は?」
わたしは頭を下げた。道理に合わないことをしたら謝る。それが世界の基本である。戦場だと仲間内の亀裂は時に命に関わる。ここは戦場ではないが、美幸にとっては日常を生きる大切な場所だ。そこで理由なく相手を傷つけるようなことをしたのはわたし。そのせいで、美幸に何か矛先が向くのは良くない。
「わたしは気が動転していた。本意じゃなかった」
「…」
東雲の笑みが消えた。
「怪我はしていないか?」
「うるせぇ」
その瞬間、東雲が勢い良くわたしの肩を押した。強い力だと思う。しかし、腹に力を込めていたのでわたしは少し身じろぎをするだけで済んだ。なんとなく気付いていたが、今ので確信した。わたしほどではないが、美幸は見た目よりもかなり身体を作り込んでいる。
「…ちっ」
「…」
東雲が舌打ちをしてわたしの前から去っていった。青葉と入船もわたしを横目で見つつ、東雲についていく。
「み、美幸ちゃん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
莉子が心配そうに近寄ってくる。わたしは東雲たちがいなくなった方向を見て、失敗しただろうかと内心呟く。そうしていると、莉子が気遣うようにわたしの制服の袖をつかんだ。わたしが莉子の顔を見ると、莉子は優しく微笑んだ。慈しむような、自分自身を肯定してくれるような、そんな笑みだ。その笑みを見ると、消沈しかけていた心が少し持ち直す。
「…帰ろう、美幸ちゃん」
「ああ」
莉子が隣にいてくれてよかったなと、その時初めて思った。
美幸の部屋に帰ってしばらく部屋の中にある教科書やノートを読み漁っていると、家の扉が開く音がした。
「ただいま」
遠くから声が聞こえた。この声も美幸は知っている。わかっている。この声には、こう返すのが決まりだとも。
「おかえり、お母さん」
美幸の母親だ。美幸には、両親というものがいる。ちなみにわたしには親という存在の記憶はない。気が付いた時には戦場にいたし、周りには仲間たちがいた。親という存在がいないとわたしがこの世に産まれることはないというのは知識として知っているが、親という存在を見るのは初めてだった。
「ご飯すぐ準備するから待っててね。先にお風呂準備しちゃって」
「うん」
その後わたしは美幸の記憶を頼りに、お風呂といわれる場所を掃除した。その間に美幸の父親も帰ってきたのでふたりと食事を食べ、暖かいお湯に全身を浸した。なんて贅沢なんだろう。美幸のこの世界は、戦いもないし、衛生的な空間があり、食事も水も豊富にある。人々は穏やかな生活を送り、苦しみや悲しみもすぐそばには無い。とても居心地がいい。
布団に入り、その暖かさと柔らかさに感動しつつもわたしは美幸のことを案じずにはいられなかった。こんな世界にいた美幸は、あちらのわたしの世界でどうしているだろう。せめて、ゆっくり眠ることができればいいけれど。そして、次に目覚める時には戻っていればいいのだけれど。わたしはそう思いながら、目を閉じた。