美幸を好きなひと③
年が明け、美幸の学校の三学期が始まった。一月と言えば、一番の大きな行事は三年生の大学受験だ。移動教室で三年生の近くを通ると、受験に向けて大勢が休み時間も勉強に励んでおり、緊張感が廊下にまで漂っていた。
「来年はあたしたちが受験かあ」
三年生たちを見て、莉子がささやくように呟いた。わたしは頷きながら、美幸は進路をどうするつもりなのだろうと思案した。一方莉子はそんなことは今はどうでもいいと言いたげにぽつりとこう口にする。
「まぁでも今はね」
そしてふふっと楽しげに微笑んだ。
「バレンタインの方が大事だけどね!」
バレンタイン。それは、二月十四日に行われる美幸の世界の行事のひとつ。もともとはとある偉人の命日だったようだが、現在は意中の人や懇意にしている人に贈り物をする日になっているらしい。そういう行事だと流布されているため、日ごろから想っている相手にこの機会に愛の告白するということが多いようだ。
「美幸ちゃんは今年は何食べたい?生チョコ?トリュフ?フォンダンショコラ?ブラウニー?ガトーショコラ?パウンドケーキ?」
莉子がつらつらとお菓子の名前を並べる。
「え」
どれが食べたいかと莉子の口から出てきたお菓子を片っ端から想像していると胸やけしそうになる。思わず眉間に皺を寄せると、莉子がはっと何かに気付いたような顔をした。
「手作りは嫌?」
「あぁ、いや…」
そんなことは無いと続けようとしたが、莉子はわたしの声が聞こえなかったのか鼻息荒くこう続けた。
「それなら、試食に試食を重ねて最高に美味しい一粒をお店で探してくるね!」
「いやいやいや…」
ついにわたしは白旗をあげるように片手をあげて莉子を制した。莉子としてはなんとしても美幸にバレンタインにお菓子を贈りたいようなので、わたしは莉子があげたいものならなんでも良いと伝えておいた。そういえば去年は莉子は美幸になにを贈ったのだろう。
そんなやりとりをした次の休みの日にお店に行けば街並みはもうすでにバレンタインの装いとなっており、美幸の世界の人たちはこの行事を大いに楽しんでいることがわかる。
『今年の例の日、守備はどんな感じ?』
バレンタインが近付くとある日、入船からそんなメールが届いてわたしは素直に意味がわからないと返事をした。すると返ってきた返事はこうだ。
『日高さん、チョコ用意するって言ってた?』
チョコという単語から察するに、バレンタインの話のようだ。
『わたしにはくれるって言ってた』
『いいなあ。俺にもくれないかな』
『わたしに言われても』
どうやら入船は莉子のお菓子が欲しいらしい。
『入船が莉子にあげたら?』
女性が男性に贈ることが多いらしいが、その逆が全くないわけでもない。
『それができたら苦労してないんだよな』
少し間を置いて帰ってきた独り言のような返事は、どこか哀愁が漂っていた。恋愛というのは他の人には普通にできることが、想い人に対してはできないのが中々難儀なものだ。
するとそのある日の晩、美幸の母親からも職場のバレンタインの話が出てきた。
「ーーそれでね、今年は義理チョコは禁止って話になったの」
「へえ、いいな。俺のとこもそうならないかな」
美幸の母親の職場では、毎年バレンタインには職場の女性が男性に義理チョコを配るという暗黙の了解的な行事があったようだ。しかし男女共にそれに辟易としていたようで、一人が止めようと言い出すとその流れが全体に波及したそうだ。
「そんなこと言って、あなたは結構楽しんでるでしょ」
「いろんなお店のお菓子が食べれるのは悪くないだろ」
「それはそうだけど…」
美幸の父親の職場も似たようなものらしい。
「美幸ちゃんの学校はバレンタインはどんな感じだっけ?」
そう話を振られ、わたしは数日前の莉子の会話を莉子の母親に話した。
「友チョコってやつよね。中高生はそれがメイン行事みたいなものなのかしら」
ふうんと頷いた後、美幸の母親は何故か期待に満ちた目で美幸を見た。
「美幸ちゃんは今年は誰かにチョコあげるの?」
「え」
それは考えていなかった。わたしは明後日の方向を見ながら、何と答えようか考える。
「えーっと…」
すると美幸の母親はそういえばと手を頬に当てた。
「去年は莉子ちゃんのブラウニーは美味しかったわよね」
「そ、うだね」
去年は莉子は美幸にブラウニーをくれたらしい。思わぬところでひとつ過去が明らかになったが、美幸の母親はこちらの様子を気にせずにずんずんと話を進めていく。
「今年はお母さんも何か作っちゃおうかな…」
「お、いいじゃないか」
美幸の父親が嬉しそうな顔をする。それに気をよくしたのか、美幸の母親は力強く拳を握った。
「じゃあ作っちゃおっかな!そうだ、今年は美幸ちゃんも一緒に作らない?」
矛先がまた急にこちらに向いて、わたしは言葉を詰まらせる。
「え、あー」
「うまくできたらともだちにあげていいから!」
そう満面の笑みで言われてしまったら、もう断れる気はしなかった。
「・・・うん、わかった」
そうして、わたしは美幸の母親とバレンタインのお菓子作りをすることになった。
その夜、美幸の携帯にソーゴさんからメールが送られてきた。
『近くのカフェの新作のチョコケーキらしい。僕は遠慮して食べなかったけど…』
そんな一言と共に送られてきたのは、妙にデコレーションされたハートのチョコレートケーキの写真だ。恐らくどこかのお店のものだろうが、これも誰かの手で作られているものだ。まるで置物のように綺麗なケーキが作れるなんてすごいなあとわたしは感心しながら返事を送る。
『可愛くて綺麗ですね。こんなものが人の手作れるなんてすごいと思います』
『スタジオの近くのカフェでバレンタイン限定で販売するらしいよ。興味あるなら行ってみて』
ソーゴさんが送ってくれる写真や話題は、わたしが普段過ごしていると耳に入らないものが多いので新鮮で面白かった。しかしバレンタイン限定か。残念だがその日のお腹の予定は決まっているようなものなのだ。
『残念ながらバレンタインは母親と作ったケーキを食べる予定なので、行けないですね』
そう送ると、返信はいつもより少し早く返ってきた。
『片桐さんお菓子作りするんだ?いいなあ、それ食べてみたい。おすそ分けとかない?ただでとは言わないからさ』
美幸の母親はせっかくだからホールケーキの型で作りたいと言っていたので、ソーゴさんくらいにならおすそ分けできると思われた。
『うまくできたら少しならおすそ分けできると思います』
失敗したときの保険もかけつつ、そう返事を送った。すると今まで五分もかからずに返ってきていた返事がパタリと止まった。
「?」
何か用事でもできたのかなと思い、わたしは携帯を机の上に置いて美幸の布団に入る。冬場は布団が温まるまでが少し寒いが、温まった布団は最高に気持ちが良い。
『それじゃあ、バレンタインに僕と会ってくれない?』
翌朝見た携帯には、そんなメールが届いていた。
そしてお菓子作りの決行日は、バレンタインの直前の休みの日だ。作るお菓子は、トーショコラに決まった。材料は、ミルクチョコレート、無縁バター、純ココア、薄力粉、砂糖、塩、卵、粉砂糖。さらにはガトーショコラの型と、ラッピング用の袋。
美幸の世界に来て、何かを作るのは初めてだった。チョコを刻んで溶かしたり、薄力粉をふるいにかけたり。菓子作りに慣れていないわたしは手を粉まみれにして、 いつの間にか顔にはチョコがついていた。美幸の母親は手際の悪い美幸を見て少し可笑しそうに笑いながら、始終楽しそうに菓子作りの指揮をした。
せっかく型があるからその分作ろうと、結果的にガトーショコラは12センチホールで三つ出来上がった。ガトーショコラが焼ける頃には台所は甘い香りでいっぱいになり、その香りに誘われて美幸の父親が味見にやってきた。
「本当は冷蔵庫で置いてから完成なんだけどね」
そう美幸の母親はぼやいたが、焼き立てのガトーショコラを三人で一口ずつ食べた。
「どう?美幸ちゃん」
温かくて甘くて柔らかいケーキ。わたしは思わず緩む頬をそのままに美幸の母に言う。
「おいしすぎる」
「よかった!」
その後ガトーショコラは冷蔵庫で数時間寝かされ、わたしはそれを食べやすい大きさに切ってラッピングに詰めた。
「美幸ちゃん、もう少し持っていかない?」
わたしの隣でラッピング作業を眺めていた美幸の母親は、やたらわたしにガトーショコラを持って行かせようとした。
「ただ単に焼きすぎたんだろ」
美幸の父親は苦笑しながらそう言った。
「だって余った分全部食べたりなんかしたら顔が大変なことになっちゃう」
「…まぁ、それなら」
そうして紙袋いっぱいのガトーショコラが出来上がったのだった。
バレンタイン当日は気温がとても低く、天気予報では午後雪が降るかもしれないとのことだった。
「いってきます」
わたしはガトーショコラが詰め込まれた紙袋を片手に家を出た。吐く息は白く、冷たい風が頬を刺す。
「美幸ちゃんおはよう!」
「おはよう、莉子」
冬の寒さなんて気にもしていないかのような眩しい笑顔莉子は、朝の挨拶もそこそこにわたしにリボンのついた小さな紙袋を差し出した。
「はいっ!バレンタインのチョコだよ!」
「ありがとう」
わたしは笑みを作ってそれを受け取る。袋の中には、綺麗にリボンに包まれた箱が見えた。
「今年はトリュフにしてみたよ!」
「楽しみだ。味わって食べるよ」
そしてわたしは紙袋の中から、ラッピングされたガトーショコラを莉子に差し出した。
「はい、わたしからも」
「え」
莉子はわたしが差し出したガトーショコラと、美幸の顔を交互に見る。
「え?」
「どうぞ」
重ねてそう言うと、莉子は何故か小さく震えながらガトーショコラに手を伸ばす。
「み、美幸ちゃんのチョコ…」
「うん。お母さんと作ったんだ。味見もしたから、美味しさは保証できるよ」
一応味について言っておくと、そんなこと耳に入っていない様子で莉子はガトーショコラを高く天に掲げた。
「夢みたい!」
「そ、そう」
喜んでくれるだろうとは思ったが、喜び方が想像以上だ。美幸の母の勢いに押されただけだったが、結果的に作って良かったなぁと内心思いつつもう一度紙袋を莉子に差し出す。
「そんなに喜んでくれるなら、もう何個か持って行っていいよ」
「えっ全部でも…?!」
莉子が真剣な顔でそう言った。
「えっ全部、はやめといたほうが…」
一人で食べるにはすごい量だし、放課後にソーゴさんに渡す必要があるので最低一つは残して置かなければならないと思ってそう言ったら、莉子は残念そうな顔になる。
「そ、そうだよね…じゃあもう一つ貰ってても良い…?」
「いいよ」
「あっでも余ったら全部もらう!」
どこまでも真剣な顔でそう言うので、わたしは思わず笑って頷いた。
「わかったわかった」
美幸の学校に着くと、同級生たちがバレンタインのお菓子を交換しあっている姿をたくさん見かけた。
「おはよう片桐さん!」
「おはよう朝倉さん」
廊下で朝倉さんとすれ違って挨拶をする。朝倉さんは修学旅行以降、会うと軽く話すくらいには親しくなっていた。わたしはそのまますれ違って去ろうとしていた朝倉さんの背に声をかける。
「あ、朝倉さん」
「ん?」
「これ、よかったら」
そう言ってラッピングをしたガトーショコラを差し出したら、朝倉さんは目を丸くしてそれを受け取った。
「え!もしかしてチョコ?」
「そう。作りすぎて」
「え、やった!嬉しい!ありがとう!またホワイトデーにお返しするね!」
「別にいいよ」
「そんなこと言うなって!」
朝倉さんは快活に笑って、再度お礼を言って離れていった。
教室に入ると、もうすでに入船が来ていてわたしたちに気付いて声をかけてきた。
「おはよう、日高さん。片桐美幸さん」
「おはよう、入船くん」
「おはよう」
入船は一瞬莉子の手元を見たが、特に何も持っていないことを確認して僅かに眉を下げた。可哀想にと思い、わたしはガトーショコラをひとつ入船に渡す。
「入船、これあげる」
「え?片桐美幸が?俺に?」
「たくさん作りすぎたから。おすそ分けだよ」
入船は複雑そうな表情を一瞬したが、すぐに笑みを浮かべてガトーショコラを受け取った。
「まあいいか!サンキュな」
すると莉子が入船の微妙な表情を読み取ったのか、じとりと入船を見る。
「嫌なら代わりにあたしが貰うよ?」
「いやいや、別に嫌なわけじゃない」
莉子に渡すのは違うのか、入船はガトーショコラの入った袋を隠すようにさっと抱えた。そうしていると、青葉が教室に入ってくるのが見えた。
「青葉。おはよう」
「おはよう」
「青葉にもこれ。はい」
そう言ってガトーショコラを渡すと、青葉は驚いたように美幸の顔を見る。
「どうしたの」
「え・・・いや親がお菓子作りするっていうから、それを手伝ったら沢山出来ちゃって」
「ああ、そういう」
青葉が納得したように呟いて、まじまじとガトーショコラを見る。そして顔を上げて口の端を少し持ち上げた。
「君からお菓子を貰うなんて、今日は雪でも降るかもね」
「確かに天気予報は雪だったな」
青葉の言葉に同調するように、入船が呟く。
「・・・そこまで言うなら、それ返してもらえるかな」
わたしがやや声のトーンを落としてそう言うと、青葉と入船はそれは断ると言って笑った。二人に渡したならあと一人にも渡したいところだと、わたしは藤谷の姿を探す。しかし、まだ藤谷は来ていないようだった。
「藤谷は?」
「さあ、休みではないと思うけど」
「ギリギリに来るんじゃない?」
入船と青葉はそう答えた。それなら後でいいかと思い、わたしは自分の席に着く。二人の言う通り、ホームルームが始まる直前、つまり遅刻直前の時間に藤谷は教室に入ってきた。
その後休み時間の度にガトーショコラを渡す機会を探したが、藤谷は休み時間になると机の上に突っ伏して寝てしまうのでなんとも声を掛けづらかった。代わりに、たまに話すクラスメイトにガトーショコラを渡した。誰しもが驚いた顔をしたのちに、嬉しいと笑顔で受け取ってくれた。わたしから誰かに何かをあげるというのも初めてのことだったが、なるほどこれはなかなか楽しいものだった。
結局藤谷を捕まえることができたのは、その日の放課後だった。
「藤谷」
ホームルームが終わってすぐに教室を出て行こうとする藤谷に声をかける。藤谷は振り返って、眠そうにあくびをひとつした。
「なんだ」
「寝不足なの?」
「ああ。昨日ゲームしてたから」
「へえ」
藤谷はわたしをじとりと見て、口を開く。
「それで、何か用?」
「あ。そうだ」
わたしはガトーショコラが入った袋を藤谷に差し出す。
「これあげる」
「は?」
藤谷は不思議そうにそれを見て、黒板の方を見てぽつりと呟く。
「ああ、今日バレンタインか」
「そう。お母さんと作りすぎたから、おすそ分け。莉子や入船にもあげたから、藤谷にも」
そう言うと、藤谷はガトーショコラを手に取ってふうんと呟く。
「義理を配り歩いていると」
「うん」
頷くと、藤谷は片方の眉を下げる。その反応に何か変なことを言っただろうかと僅かに首を傾げたが、藤谷は特に何を言うでもなくそのままガトーショコラを鞄に仕舞った。
「じゃあ遠慮なく貰っておく」
「どうぞ」
「じゃ」
「うん、また明日」
藤谷と別れて、わたしはひとり駅に向かう。ソーゴさんとの待ち合わせがあるからだ。ソーゴさんにもガトーショコラを渡すから今日は先に帰ってくれと莉子に伝えると、莉子は物凄く険しい顔をした後渋々頷いた。一応、入船にその旨も伝えておいたから入船が根性を見せていれば二人は一緒に帰っているだろう。
ソーゴさんとの待ち合わせは、美幸の学校の最寄り駅。そこのロータリーは少し広いので、待ち合わせ場所に使う人も多い。ロータリーに到着して、周囲を見渡す。ソーゴさんはまだ来ていないようだったので、わたしはロータリーを囲うように設置されている植木の近くに佇んだ。
空を見上げると天は重そうな雲に覆われていて、今にも雨だか雪だかが降りそうな気配を漂わせている。すると誰かが近付く気配を感じて前を向いた。
「ごめん!お待たせー」
すぐ隣にいた女性の元に、男性が走り寄ってきていた。
「全然待ってないよ!大丈夫」
女性は笑顔でそう言って、二人は手を取って歩き始めた。恋人同士なのだろう。女性は鞄と一緒に小さい紙袋を持っていた。恐らくあれを男性に渡すのだ。バレンタインの贈り物として。
「・・・」
ふと、自分が手にもつ紙袋を見る。ソーゴさんのために残した、丁度残りひとつのガトーショコラ。そして周囲を見た。辺りには待ち合わせをしている様々な人がいる。そして皆待っていた人物がやってくると嬉しそうに笑う。なんだか男女の組み合わせが多いな、と感じた。
バレンタインというのは意中の人や懇意にしている人に贈り物をする日であり、想っている相手に愛の告白をする日でもある。そういう日だから、自然とそうなるだろう。彼らにとってはバレンタインという日に会うことに意味があるのだ。
そこで、わざわざそんな日にソーゴさんと待ち合わせをしている自分がなんだか変に感じた。ソーゴさんとはただのメール仲間なのに。いや、この日に会おうと言い出したのはわたしじゃなくてソーゴさんだったか。そういえば、どうして今日なんだろう。そもそも一度しか会っていない美幸の手作りケーキをどうして食べたがったのだろう。
”いいなあ。俺にもくれないかな”
入船のそんな言葉が脳裏によぎる。
あれ。
わたしは何かに気付いていないだけじゃないのか。そう思ったら、脈が少し速くなった。そしてその瞬間、目の前に人が立つ。
「片桐さん」
ソーゴさんの声に、わたしは顔をあげる。会うのはクリスマスパーティ以来だ。少し走って来たのであろう、ソーゴさんはやや髪を乱している。そして美幸の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
その甘さを含んだような笑みに、警戒しろと叫ぶように心臓が一度だけ大きく鳴った。
「・・・ソーゴさん」
「ごめんね。こんなに寒いのに…結構待った?」
「いえ、大丈夫です」
わたしが首を振ると、ソーゴさんはロータリーの先を指さした。
「よかったら、少し歩かない?この辺に来たの久しぶりだから、ちょっと見ておきたくて」
そうなのか。わたしはソーゴさんの提案に頷く。
「はい。いいですよ」
「片桐さんの家の方向はどっち?」
「あ、こっちです」
「じゃあそっちから行こう。ついでに送っていくよ」
そうしてわたしとソーゴさんは並んでロータリーを出て歩き始めた。歩き始めて少ししてから、わたしはガトーショコラが入った紙袋をソーゴさんに差し出した。
「これが母と作ったガトーショコラです。味見もしたので、美味しいとは思います」
「ありがとう!嬉しいよ」
ソーゴさんはその言葉通り、実に嬉しそうに笑って紙袋を受け取った。そしてガトーショコラをまじまじと見つめた。
「綺麗に焼けてるね」
「はい、なんとか」
「作るのは大変だった?」
ソーゴさんが柔らかな笑みを向けながらこちらに尋ねてくる。
「それはもう」
「そんなに?」
ソーゴさんが可笑しそうに笑う。
「初めてだったので。お菓子作りが」
「そうなんだ」
メールのやり取りをしてる時も思ったことがあるが、ソーゴさんは会話を運ぶのが実に上手い。自然と会話がつながるように話題と言葉選びをしているのがわかる。
「そうです。チョコを刻むのも、バターを刻むのも。粉を振るのも、混ぜるのも」
わたしはその時の感触を思い出しながら、少し手振りを交えながら言葉を紡ぐ。
「簡単なようで、難しくて。ひとつひとつの手順が完成度に関わるかと思うと緊張もしました。作業台もひどいものでしたよ。チョコとバターと粉でめちゃくちゃで」
「へぇ」
「でもその分、焼き立てのガトーショコラを食べたときの感動は大きかったです」
ソーゴさんは時折相槌を打ちながらわたしに歩みを合わせていた。
「わたしでもこんなに美味しいものが作れるなんてって思いました。まぁ、一人で作ったんじゃないですけど」
「いやいや。それを聞いて、食べるのがさらに楽しみになったよ」
ソーゴさんの言葉に、わたしはピンときてこう尋ねる。
「ソーゴさんは甘いものが好きなんですか?」
するとソーゴさんはわたしの顔を見て、ふふっと笑った。
「実はあんまり」
「え?」
それなら、なぜ?
そう尋ねようとしたわたしを遮るように、ソーゴさんが口を開いた。
「そんなにうまくできたなら、僕の他にもおすそ分けした人いた?」
わたしは僅かに首を傾げつつ、ソーゴさんの質問に答える。
「そ、そうですね、莉子とか、クラスメイトの人とか・・・」
「いいなあ高校生!」
しみじみとそう呟いて、ソーゴさんは美幸を見る。
「片桐さんとクラスメイトだったら毎日楽しそうだなあ」
また、心臓が一度だけ大きく鳴った。
「そうですかね」
わたしは胸の内に沸いた疑念を隠すように努めて、薄く笑った。
「確か片桐さんは、南高だよね?」
「はい」
「僕は北高だったけど、友人が南高でね。北高も好きだったけど、南高の話聞くと羨ましいと思ったなぁ」
「どうしてですか?」
「北高って校則が厳しいんだ。南高は北高と比べるとめちゃくちゃ緩い」
「へぇ」
学校によっていろんな特色があるのか。
「まぁ今いる大学は南高よりももっと緩いけどね」
「大学…」
「片桐さんはどこ行こうか決めてるの?」
この質問をされると、僅かに焦燥感を抱いてしまう。わたしは小さく首を降る。
「いえ、まだ…」
「そっか。僕の大学おすすめだよ。どう?見学するなら案内するけど」
わたしの表情を伺ってか、ソーゴさんが明るくそう言う。
「考えておきます」
「ぜひそうしてほしいな」
その後も何気ない話をソーゴさんはしてくれた。高校の時の面白い話とか、大学での失敗談とか。モデルの仕事の興味深さとか。ソーゴさんは、いい人だ。優しいし、話をするのは面白いし、何気なく他人に気を遣ってもくれる。
「…あ、ここをまっすぐ行ったら家なので、もうここまででいいですよ」
いつもの帰り道までたどり着いたので、わたしはソーゴさんにそう言った。
すると今まで朗らかに笑っていたはずのソーゴさんは途端にやや硬い顔で美幸を見た。
「あのさ、片桐さん」
わたしはわたしの感情を表に出さないように、笑みを浮かべる。
「はい」
するとソーゴさんは、手のひらに乗るほどの箱をわたしに差し出した。
「なんですか?」
「開けてみて」
箱を受け取ってふたを取ると、そこには箱にぎっしりと赤と黄色と色とりどりの花が詰まっている。綺麗だ。そう思って花を見つめていると、すぅとソーゴさんが息を吸う音が聞こえて、顔をあげた。
「バレンタインのプレゼントだよ」
「あ、ありがとうございます」
わたしがお礼を言うと、ソーゴさんは少し困ったように微笑んだ。
「本命のね」
その意味は。
「僕、片桐さんのことが好きです」
わたしは言葉を失って、花の箱を持つ手が少し震えた。ソーゴさんはそんな美幸を見て苦笑いをする。
「その様子だとやっぱり気付いてなかったんだね。結構あからさまに口説いてたつもりだったんだけど」
やはりそうだったのか。先程から抱えていた疑念が、重みを持って行く。
「実は日高さんと一緒に写ってた雑誌を見て、片桐さんのことがずっと気になってたんだ」
あの雑誌。確かによく覚えてるなと思ったけれど。
「クリスマスパーティーでツリーを見て楽しそうに笑ってただろう?その時、今しかないと思って無理矢理きっかけを作ったんだ」
ソーゴさんは少し照れながら笑う。
「片桐さんとのメールは楽しくて、もっと仲良くなりたいと思ったんだ。片桐さんは僕の周りにいる人たちとは違う独特な世界観を持ってる」
心臓がどくりと鳴る。
「片桐さんは魅力的だから誰かに取られる前にと思って、今日告白することに決めたんだよ」
「あ…えっと……」
わたしは箱に目を落として、言葉を必死に探した。今ソーゴさんに伝えるべき一番適切な言葉とはなんだ。そんなものがあるのか。沈黙がわたしとソーゴさんの間に落ちる。先程までしていた軽やかな会話はどこに行ってしまったのか。
美幸の心臓が大きな音を立てて鳴っていた。それは、恋愛小説でよく読むようなときめきの音ではなかった。どちらかと言えば、ミステリーで悪事がばれた犯人の心臓の音に近いと思う。
ソーゴさんはしばらく美幸の言葉を辛抱強く待っていたが、やがて至極優しい声音でこう言った。
「返事は今じゃなくていい」
「え…」
「ゆっくり考えてほしいな、僕のこと」
ソーゴさんはどこまでも優しい人だと思う。
「今日は僕の気持ちを受け取ってくれるだけでいい」
一方、わたしはなんて態度を取っているのだ。わたしはソーゴさんの言葉に返事をするべく息を吸った。
「…はい」
声が少し震えてしまった。
「ありがとう」
お礼を言うべきは受け取ったこちら側であるはずのに、ソーゴさんは相貌を崩してそう言った。
また何を言っていいのかわからなくなって、わたしは口を開けたり閉じたりした後結局ソーゴさんと同じ言葉を口にした。
「ありがとう、ございます…」
ソーゴさんは眉を下げて微笑んだ。
「ごめんね、困らせちゃって」
「…いえ」
ソーゴさんが困らせているのではない。これはわたし自身の事情の問題でもあった。わたしは弱々しく首を振る。
「今日は会ってくれてありがとう。また連絡するね」
ソーゴさんはそう言って、爽やかに微笑んで踵を返した。
「あ、はい。また…」
何か取り返しのつかないことになりかけている。そんな途方に暮れるような気持ちで、わたしは鮮やかな花の箱を手にしたまましばらくその場に立ち尽くした。そのうち空から白い雪が降り始め、それは冷ややかに笑うかのように立ち尽くすわたしの肩に薄く降り積もった。




