美幸の青春②
次の日、朝目が覚めてわたしは身体に違和感を覚えた。
「ん?」
ベッドで身体を起こすとなんだか身体が重い。鏡を見ると、なんとなく頬が赤いような気がした。顔を洗えば頭がすっきりするかなと思い、洗面所に行った。
「あれ?」
顔を洗っても、赤みが消えない。というか顔が少し熱い気がする。これはもしかして、と思っていると背後から声をかけられる。
「美幸ちゃんおはよう」
美幸の母親だ。わたしは振り返って挨拶をしようと口を開けたが、美幸の母にそれを遮られた。
「美幸ちゃん、顔赤くない?もしかして熱ある?」
やっぱりそうか。内心でひとりごちて、わたしは美幸の母に手を引かれてリビングの椅子に座らされた。
「はい、これ。体温計」
「ありがとう」
体温計を脇に挟んでしばらくすると、小さな電子音が鳴った。小さなモニターを見ると、”37.5”と書かれている。
「やっぱり熱あるじゃない!今日は学校お休みね」
「えっ」
「えっじゃないの!ほらほら、ベッドに戻って」
美幸の母親に背を押され、わたしは美幸の部屋に戻ることとなった。言われるがままベッドに入り美幸の母親の顔を伺うと、頭に手を乗せられた。
「学校には連絡しておくから。ゆっくり寝てなさい」
美幸の母親がわたしの頭を撫でる。その柔らかさと暖かさに安心しながら、わたしは重くなる瞼にあらがうことなく目を閉じた。意識が重く沈んでいく中、遠くで通学する子どもたちや莉子の声が聞こえた。
どれくらい経っただろうか。部屋に近付く足音が聞こえて、わたしは目を開けた。窓から見える空は青く、太陽もまだ高い。時計を見ると、もう昼を過ぎているみたいだ。
「あら、起きてる?」
静かに美幸の部屋に入ってきたのは、美幸の母親だった。
「身体はどう?まだしんどい?」
朝感じた身体の重さはまだある。心配をかけないような言葉を探していると、美幸の母親の手が額に触れた。
「まだ熱いわね」
そこでわたしははたと気付く。今日は平日のはずだが。
「お母さん、仕事は?」
「美幸ちゃんが心配で午後休にしちゃった。金曜日だし」
それを聞いて、心配をかけて申し訳ないなと思った。すると美幸の母親はこちらを安心させるように柔らかく微笑んだ。
「いいのよ、仕事より美幸ちゃんの方が大事だから」
顔に出てしまっていたのだろうか。いつもは表情が顔に出ないように気を付けているのに。どうやら熱のせいで制御がうまくできていないようだ。
「ゼリーとか買ってきたけど、食べる?」
そう言われて朝から何も食べていないことに気付いた。
「うん」
「じゃあ準備してくるからちょっと待ってて」
「ありがとう」
わたしはベッドに寝そべったまま、天井を見上げる。
「…」
この部屋はとても静かだ。学校では今この時間に授業が行われているというのに、わたしはベッドで寝ているということがなんだか不思議に感じる。今日の数学は何をしているのだろう。あまり難しいことをしてなければいいのだけれど。古文は前回の授業の続きだったはずだ。解説を少し楽しみにしていたので少し残念だ。莉子にノートを見せてもらわないと。
「あ」
そうだ。今日は文化祭の写真の提出締切じゃないか。そう思って鞄から携帯を取り出そうとベッドから出て鞄に近付いたところで、部屋の扉が開いて美幸の母親にそれを見られた。
「あ、こら!寝てなきゃダメでしょ」
「あ…はい」
大人しく布団の中に戻る。半身だけ起こして美幸の母親からゼリーが乗ったお盆を受け取る。
「夕方にはうどん作ろうと思ってるけど、食べれる?」
「うん」
すでに蓋を外されているみかんゼリーにスプーンを差し込んで、口に運ぶ。少しひんやりとした甘いゼリーをつるりと飲み込んだ。美味しい。美幸の母親に見守られながら、わたしはもくもくとゼリーを食べる。
「そういえばさっきは何で立ってたの?」
「今日写真の締切で…文化祭の」
「あら、そうなの」
「莉子に代わりに提出してもおうと思って…」
基本的に学校では授業中の携帯の使用は禁じられているが、放課後になれば使っても良い。それまでに莉子にメールで写真を送っておけばきっと代わりに提出をしてくれるだろうと思ったのだ。
「なるほどね」
すると美幸の母親はわたしの鞄から携帯を取り出してそれをベッドのすぐ近くに置いた。
「ここに置いとくけど、あまりいじりすぎちゃ駄目よ」
「はい」
わたしが大人しくゼリーを食べている一方で、美幸の母親は美幸の机に置きっぱなしにしてあったアルバムに手を伸ばした。アルバムを眺めるその目が、細められる。郷愁と愛しさが入り混じったような、そんな顔だ。どの写真を見ているのだろうと美幸の母親をなんとなしに眺めていると、わたしの視線に気付いたのか美幸の母親がこちらを向いた。
「どうしたの?」
「何の写真を見てるのかなって思って」
そう言うと美幸の母親はふふと小さく笑って、わたしにアルバムを見せた。そのページには、まだ小さい頃の美幸の写真が貼られている。
「この辺りは三歳くらいかしらね」
小さい美幸がきょとんとした顔でこちらを見ている。
「この頃は結構人見知りしてたのよね…あ、そうそう」
美幸の母親は何かを思い出したように数ページめくってわたしにそれを見せた。ケーキの前に座って、どこか嬉しそうな顔をしている美幸が写っている。
「これ覚えてる?美幸ちゃんの四歳の誕生日パーティー」
「どうだったかな…」
わたしは曖昧に答える。美幸の記憶は昔に遡るほどぼんやりと曖昧になっている。これだけ幼いとその記憶を探し出すのは難しい。
「この誕生日パーティーの一週間後に美幸ちゃん熱出して救急車で運ばれたのよ」
「えっ」
「今思い出すと懐かしいけど、当時はそれはそれは怖かったのよ…救急車で運ばれたのはそれが最初で最後だったけど、それから風邪をひきやすくなったのよね」
「そう…なんだ」
それから美幸の母親は、家族旅行の話や、幼稚園の入園式の時の話しなどアルバムをめくりながら美幸の昔話をしてくれた。その話を聞いているうちにわたしはゼリーを食べ終える。
「ごちそうさまでした」
「はい。じゃあゆっくり寝ててね」
美幸の母親にお盆を渡し、再び布団の中へと入った。すると美幸の母親がわたしの頭を撫でる。わたしはどうにもこれに弱いのか、すぐにゆるゆるとした睡魔がやってきて瞼が落ちた。
「ゆっくりお休み」
おぼろげな意識の中、遠くで美幸の母親の声が聞こえた。
「高校に入ってから美幸ちゃん楽しそうで良かった」
それは少し切なさを帯びているような声音だ。なんでだろうと思うが、もう眠くて口を開くことはできない。
「莉子ちゃんのおかげかしらね」
そこで、わたしの意識は完全に眠りに落ちた。
ーーーーゃー
なんだろう。
ーーーちーー
何か聞こえる。
ーーきーー
呼ばれている気がする。
ーーーちゃん
これは知っている声だ。
「美幸ちゃん」
「お母さん…?」
揺蕩うような意識の中目を開けると、そこには青空を背景にこちらを見下ろす美幸の笑顔がそこにあった。
「ん?」
「おはよう、あなたのお母さんだよ~」
眉を潜めたわたしに向かって、美幸が手のひらを振って笑う。
「馬鹿を言うな」
「あはは」
わたしは呑気に笑う美幸を押しのけて、起き上がる。草が一本も生えていない荒れ果てた大地と、不気味なほどに遠く青く澄んだ空。いつもの夢だ。久しぶりの自分の身体と髪を軽く叩いて確認しながら、わたしは軽く美幸を睨む。
「さっきわたしのこと美幸って呼んだだろ」
「そろそろ美幸としての自覚が芽生えてきたかなって」
「やめろ。わたしは××だ」
「ごめんごめん、××ちゃん。怒らないで!」
美幸はけらけらと調子よく笑った後、首を傾げた。
「ところで××ちゃん、調子はどう?」
「え?ああ今熱出して寝込んでるんだ。昨日文化祭のための写真撮りに外うろついてたからもしかしたらそれで…ってあれ」
そこでようやく思い出した。そうだ。いつも美幸と夢で会うのは熱を出して寝込んでいる時だったじゃないか。
「美幸も今そっちで寝込んでるのか」
「そうそう。微熱だけどね」
「周囲は安全なのか?」
「今は落ち着いた場所にいるんだよ。だから私は大丈夫」
「それならいいが……」
安心したのも束の間、美幸の発言が引っかかってわたしは恐る恐る尋ねる。
「まさかと思うが…まだそっちにいる気なのか?」
「うん!」
美幸は迷わず笑顔で頷いた。思わず苦々しい顔になる。
「一体何が目的なんだ…」
すると美幸は人差し指を口元に持ってきて静かに笑った。アルバムに収められていた写真の笑みにそれは少し似ていた。
「今は言えないけど、いつかわかるよ」
「本当だな?」
「本当本当」
わたしが念を押して目を細めて近付けば美幸はまた軽い調子で笑った。
「それよりも××ちゃんの話を聞かせて!文化祭の写真って?」
「あ、ああ」
そうだ。美幸は文化祭の話を何も知らないのだ。わたしは文化祭で写真展とフォトスポットを作るという話をした。
「へー」
おおよその説明をして、美幸の口から出てきたのは気の抜けるような相槌だった。わたしは思わず美幸を睨む。
「他人事みたいな返事をするんじゃない」
「だって今は他人事だもん」
呆れたものだ。わたしの呆れ顔をよそに、美幸は楽しそうにわたしの話を聞きたがる。
「ね、他には?何か楽しいことあった?」
「他にはって…美幸と最後に会ったのは夏休み前だったからー」
わたしは思い返す。美幸になってからいろいろあった。モデルの手伝い、水族館、花火大会、夏休み、運動会、修学旅行。いや全て話していたらきりがない。そこでわたしはぽんと手を打った。
「そう、日記を始めたんだ」
その瞬間、美幸の表情が一瞬固まったような気がした。瞬きをしたらいつもの笑顔になっていたけど。
「日記?」
「そう。そこにだいたい書いてる。だから、美幸が元に戻った時にそれを読んでくれよ。話してるといつまでたっても起きれなくなる」
「ふうん…××ちゃんが日記ねえ」
「美幸の机の引き出しに入れてるから。ほら、あの美幸の日記が入ってる引き出し」
すると美幸はぱっと驚いた顔をした。いっそわざとらしいくらいに。
「私の日記見つけたんだ!」
「あ、ああ」
美幸が一歩近寄ってきた。なんとなく圧を感じて、わたしは一歩後ずさる。
「読めた?」
「いや」
美幸が首を横に傾ける。わたしは首を横に振った。
「ていうか、読んでもいいものなのか?」
「いいよ!」
あまりに軽い返事なので本当にいいのか心配になりかけると、美幸はにやりと笑った。
「××ちゃんが自力で錠を開けることができたらね!」
軽く難しいことを言う。
「あ、手あたり次第入力するのは無しだよ」
「いや手がかりがなさすぎる。何かもう少し情報をくれ」
「えー?」
美幸は腕を組んで目を閉じ、唸り始めた。
「うーん…そうだなあなんて言えばいいのか…」
少しの間のあと、美幸がぱちんと両の手を合わせた。
「ヒント!はじまりの日」
「はじまりの日?」
「そう、はじまりの日」
はじまりの日。わたしは少し考えて口に出してみる。
「美幸の誕生日…?」
すると美幸は唇に人差し指を当てた。
「これ以上のヒントはあげられないなぁ」
「そうか…」
ここで正解を教える気はないようだ。また時間があるときにゆっくり考えてみることにしよう。というか答えが出るより先に元の世界に戻ることになるかもしれない。
「それより美幸はいつ元の世界に戻るつもりなんだ」
「えー?今文化祭の時期なんでしょ?じゃあ早くとも文化祭が終わった頃かなぁ」
「え?なんで」
「だって、あんまり得意じゃなんだ。そういうの。××ちゃんの方がちゃんと楽しんでくれそうだし今回のは任せるよ」
美幸は笑った。わたしはそれと似たようなことをつい最近聞いた。別に疑っていたわけじゃないが、青葉の言っていたことは本当だったらしい。しかしこんなに身近に青葉や美幸のような人がいるなら、文化祭のような行事を良しとしない人は結構他にもいるのかもしれない。まあそれはそれとして、気になることがある。
「じゃあ美幸は何をしてる時が楽しいんだ?」
「え?」
美幸はわたしの質問に目を丸くした。あまり見ない表情だ。視線を宙にさ迷わせたあと、美幸はポツリと呟く。
「…××ちゃんと話すのは楽しいよ」
「それは有り難いことだか、違う。学校生活でのことだよ」
すると美幸は今度こそ真剣に悩み始めた。そこまで悩むほど思いつかないことなのか。前に美幸は美幸の世界が退屈だと言っていた。半ば冗談だと思っていたが、本心だったのか。
「うーん…えーと…あー…あ!」
「お、なんだ?」
「本を読むことは楽しいよ」
拍子抜けの回答に肩の力が抜ける。というかそこも青葉と同じことを言うんだな。青葉と美幸は考え方が似ているから、気が合うのだろう。
「え?だめ?」
わたしが腑抜けた顔をしていたのが気になったのか、美幸が少し焦ったように頭に手を当てる。
「別にだめとかはないが…」
図書館の写真とか撮っておけば良かったな。そこでわたしはまた提出期限のことを思い出す。
「そういえば放課後までに莉子に写真送らないといけないんだ」
「あ、そうなの?じゃあそろそろ覚めないとね」
あっけらかんと言う美幸。やはりこの夢を起こしているのは美幸の力のようだ。しかしそうあっさりとこの夢を終わらせられては困る。まだ聞くことがあるのだ。わたしは美幸の腕を慌てて掴む。
「ちょっと待て!それで元に戻るのはいつだよ!文化祭がおわって?どれくらいあと?」
「え?」
美幸は明後日の方向を見て、気が抜けるような笑みを作る。
「暖かくなってからかなぁ」
「春ってことか?信じていいんだな?」
「春だって朝と夜は寒いよ」
「そういう話をしてるんじゃなくて!」
その瞬間、自分の身体が宙に浮く感覚がした。それと同時に地面が割れて美幸の身体がそこにゆっくり落ちていく。慌てるわたしを余所に、美幸はわたしの手をそっと手のひらで包み込んで、綺麗な笑みをわたしに向けた。
「そうだ××ちゃん。もうひとつあったよ」
「あ?」
「莉子と一緒にいる時も、楽しかったよ」
その時の笑みだけは、作られたものじゃないと不思議とそう思った。美幸の本心からにじみ出たような、そんな笑みだったから。しかし次に瞬きをした時には、美幸の手は遠く離れていて、美幸の顔にはいつもの満面の笑みがあった。
「美幸!」
もっと聞きたいこと、話したいことがあるのに。そう思ってわたしは美幸に手を伸ばす。
「またね」
しかし美幸はあっさりと、わたしに手を振りながら地面の中へと消えていった。それと同時にわたしの身体も空へと落ちていった。
窓の外から、烏の鳴き声がした。
「…」
わたしは美幸のベッドの中で目を覚ます。熱はもう下がったのか、頭も身体もすっきりとしていた。ただし寝間着が汗ばんでいるのが少し気になる。窓の外では、空がゆっくりと橙色に染まっていた。
「あっ」
わたしは写真のことを思い出して、机の上に置いてある携帯を手に取った。するとつい一分前に莉子からメッセージが届いている。
『美幸ちゃん体調はどう?写真展の写真私に送ってくれたら、代わりに先生に提出しておくけど、しんどいなら無理しないでね!』
丁度有り難い申し出だ。わたしはそのメールに一枚の写真を添付して返信をした。
『莉子、連絡ありがとう。体調はもう大丈夫。この写真を提出しておいてくれると嬉しい。』
すると一分もかからずにまた莉子からメッセージが届いた。
『良かった!わかった!提出しておくね!』
そのメールにお礼の返信をして、わたしは携帯を閉じた。
そして美幸の机の引き出しを開ける。引き出しの奥にしまわれた美幸の日記を取り出した。
ーーはじまりの日。
はじまりと言われたらまず誕生日を連想する。美幸の誕生日は、3月27日のはずだ。わたしはそっと錠の数字を回した。ドキドキの胸が密かに緊張したが、錠はびくともしなかった。
「違うのか」
他になにかあるかと少し考えたが、これだと思うものは思いつかない。わたしは一度諦めることにして、美幸の日記を元ある場所に戻した。そしてのどが渇いたので、わたしは水を飲みに部屋を出た。
「あれっ美幸ちゃん!どうしたの」
台所に行くと、美幸の母親がリビングテーブルでなにか作業をしていた。
「のどが渇いて」
そう言うと美幸の母親は立ち上がってコップの準備をする。
「わかったわ、そこ座って。身体はどう?」
「もう大丈夫」
「それなら良かった。はい」
美幸の母親が微笑みながら差し出してくれたコップを受け取る。有り難く水を飲むとじんわりと身体に水分が染み渡るような気がした。
「ご飯は?食べれそう?」
「うん」
「じゃあまたできたら呼ぶわね。それまで寝てなさい」
「うん」
わたしはコップを美幸の母親に返して、大人しく自分の部屋に戻った。夕焼けで橙に染まる美幸の部屋。わたしはそのままベッドに入らずに、空気の入れ替えをしようと少しだけ窓を開けた。冷たい風が頬を撫で、部屋の空気がすっきりとしたものに入れ替わっていく。
この空気が暖かくなるのは一体いつなのか、その頃には本当にわたしはわたしの世界に戻れているのか。漠然とした憂鬱感を感じながら、それでも心のどこかではこの美幸の世界に入れることを少し喜ぶ自分がいた。
なんにせよこの世界にいる間は美幸の身体を大事にしなくてはならない。わたしは窓を閉めて、美幸のベッドに入った。




