美幸という名の女の子②
遠くで、無機質な音が聞こえた。何だこの音は聞いたことがない。危険な感じはしないが、嫌な感じがする。止めたい。その音を今すぐ。わたしはその音をなんとか止めようと、腕を大きく振りかざしてそのまま音の発生源だろう場所に力の限り叩きつけた。
ビッ
「っ」
腕に衝撃があり、不愉快な音が止まった。わたしはそれと同時に目を覚ました。
「…」
わたしは目を見開いて、身体を起こす。その目覚めた場所を見渡して、茫然と瞬きをした。
「…?」
目覚めた部屋は、わたしが寝た場所とは全く異なっていた。貧相なあばら骨の小屋の土埃で汚れた床で眠りについたはずなのに、なぜ柔らかい布に包まれているのだろう。こんな柔らかく綺麗な布、今まで数えるくらいしか見たことがない。触ったのは初めてだ。しかしなぜか前から知っていたようにも感じる感触。わたしは目を擦ると、自分の髪が短くなっていることに気付く。そして自分の手を見ると、爪は土も汚れもつまっておらず綺麗にそろえられており、傷一つない。わたしはこの細い手をついさっきすぐ近くで見たような気がする。わたしは周囲を見渡しながらゆっくりと布から出て、ヒビも汚れもなに一つない鏡の前に立った。
「…」
そこには、夢の中で会っていた女の子の美幸が立っていた。わたしは改めて自分がいる場所を見渡す。驚きはあるが、気が動転するほどではない。むしろなぜか心は平静だった。夢の中の美幸の言葉を思い出す。
ーーそれじゃあ、取り替えっこしてみない?
鏡をもう一度見る。簡素なTシャツと短パンから白く細い腕と足が伸びている。夜よりももっと深い黒色の髪に、蜜を閉じ込めたような大きな琥珀色の瞳。
ーー私は美幸。美しい幸せと書いて、美幸。
美幸と初めて夢で会った時、彼女は少しはにかみながらそう言った。わたしは少し緊張しながら息を吸って、喉を震わせた。
「…わたしは美幸」
それは紛れもなくわたしの知っている美幸の声だった。
ーーあなたの名前は?
「わたしの名前は、」
瞬間、自分の背後のドアがドンという衝撃と共に開いた。
「!」
「美幸ちゃん!!」
敵襲かと思い身構えたが、その次の瞬間には目の前に柔らかい金色が広がっていた。
「美幸ちゃんおはよう!熱はもう下がった?学校行ける?」
金髪に、翡翠の瞳の女の子。顔が小さく、大きな眼は丸い。その女の子がわたしの体に腕を回して抱きついている。
「…」
「美幸ちゃん?」
わたしはこの人を知らない。でも、美幸は知っている。この身体にある美幸の記憶がそう言っている。
「…莉子」
「うん?うん。どうしたの?まだ寝ぼけてる?」
美幸の記憶の中にあった名前を呼ぶと、女の子は頷きながらも不思議そうな顔をした。間違いない。これが彼女の名前だ。自分の過去を思い出すように、不思議と美幸の記憶を手繰り寄せることができた。莉子という女の子は自分の手を美幸の額に当てる。
「うん、もう熱はないみたいね」
美幸は熱を出して寝込んでいたのか。まるでわたしのようだなと思った瞬間に、わたしはわたしの身体に入ってしまっただろう美幸の身を案じた。こんな清潔な場所で寝た美幸が目覚める場所はきっと冷たくて汚い。最初に取り替えっこしようと言い出したのは美幸だったが、大丈夫だろうか。
「じゃあ学校行こ、美幸ちゃん。新学年の新学期から休むことにならなくて良かったね」
莉子に話しかけられ、わたしの思考は美幸から逸れる。学校。美幸の話で聞いたことがある。いろんなことを教えられ、いろんなことを学ぶ場所。
「ほら、制服着て」
「ああ、うん」
わたしは部屋の中にあった莉子と同じ服を手に取る。美幸が着ていた服だ。制服というのか。意味不明な構造をしていると思っていたが、美幸の記憶のおかげですんなりと服に袖を通すことができた。
「ほら、顔も洗ってきて」
「ああ」
わたしは莉子に背中を押されるまま、美幸の身支度を整える。金属のレバーを捻ると透き通った水が出てきた。こんな綺麗な水を見るのは何年ぶりだろう。しかし、美幸の目には当たり前の光景のようだ。
「えっうそ!もうこんな時間?朝ごはん食べる時間ないじゃない!」
金属の筒から出てくる水に感動していると、慌てたような莉子の声が聞こえてきた。わたしは顔や手についた水滴を柔らかい布で拭き取る。その柔らかさに驚く。いや、いちいちこうやって感動していたらきりがない。わたしは首を振って、莉子の元へ戻る。
「美幸ちゃん!ほら!これ!」
「んっ」
莉子はわたしを見るなり、口に何かを押し込んできた。一瞬身構えたが、莉子の笑顔に負けて負けてそれに歯を当てた。瞬間、弾けた。酸っぱい。甘い。冷たい。みずみずしい。
「トマト、美味しい?」
「…うん」
トマトというのか。不思議な味の食べ物だ。わたしには初めてだが、やはり美幸にとっては食べ慣れているものみたいだ。
「ねぇ、美幸ちゃんまだ寝ぼけてるでしょ。もう行かなきゃ遅刻しちゃうよ」
「ああ、ごめん」
「ほら、鞄取ってきて」
莉子に急かされて、わたしは自分の部屋に戻る。鞄というものを手に取る。小さいくせに重い。何が入っているんだろう。
「美幸ちゃん!行くよー」
「ああ」
わたしはもう一度鏡を見た。美幸がわたしを見ている。
ーー楽しんできてね。
夢の終わりに美幸が言った言葉が脳裏に蘇る。何がなんだかわからないが、とりあえずはその美幸の言葉に従うことにしよう。
「行こうか」
「うん!」
扉の前に立っていた莉子にそう言うと、彼女は嬉しそうに笑って、わたしの腕に自分の腕を絡める。その感覚もなんだかよく知っているもののようで、美幸はいつも莉子とこうしていたようだ。わたしはにこにこと微笑む莉子の横顔を見て少し肩の力を抜き、扉を開けた。
「…」
視界に、青い空が広がった。青い空なんて美幸と会う夢の中でしか見ることができなかった。澄んだ火薬の煙も、術の残滓も飛んでいない空を見たのは何時以来だろうか。むせかえるような血の匂いも、いろんなものが潰されて腐ったような匂いもなく、何にも汚されていない植物と水の香りがする。
今いるのは建物の二階のようで、わたしは莉子と共に階段で下に降りる。足元は舗装されており、石や爆弾は気にしなくても良いらしい。人の悲鳴も怒号もどこからか聞こえてくる爆発音も無く、静かな足音に混じって子どもの笑い声が聞こえた。わたしにとっては夢でも見たことがないような穏やかな風景。けれどこれが美幸にとっては当たり前の光景。
「…美幸ちゃん?どうしたの?」
「…いや」
「今日も天気いいもんね。太陽眩しかった?」
目をこすったわたしに莉子が気遣うように声をかけてくれる。目の前の光景が全てが真綿のように柔らかく、希望そのものみたいに眩しく、気を抜けばまだ夢の中にいるような錯覚を覚えそうだった。
「うん」
わたしは莉子と共に歩き始める。目にはいるもの全て、聞こえるものすべて、香るものすべてはわたしにとっては初めてのもので、ただひたすらに感動を覚えた。
しかし、途中からチリチリと頭が痛み始めた。美幸の記憶と、目から入ってくる情報が多すぎるのだ。わたしの頭の容量が一気に満杯になり、学校に到着する頃にはわたしはすでに目を回しかけていた。
「あっ美幸ちゃん、あれがクラス表だよ」
莉子は楽しそうにわたしの手を引いて、人が密集している場所に飛び込む。全員が同じ服を身に着けているので、遠くから見ると紺色の固まりに見えた。
「やった!美幸ちゃん、私たち同じクラスだって!」
「…へえ」
頭がずきずきと痛む中、なんとか平静を装って返事をする。名前がずらっと並んだ掲示板を見ていると、背後からわっと声が上がる。
「良光くんだ」
「藤谷くんと響一くんもいる」
「三人一緒のクラスなんだって?いいなあそのクラス」
何事かと思って振り返る。すると、周囲の人間たちの視線の先に三人の男がいた。ひとりは橙の髪に若葉色の目、ひとりは黒髪に夕焼けのような橙の目、ひとりは灰色で空色の目。全員背丈も髪型も違っていた。そして美幸の記憶を手繰り寄せてもこの三人の名前が出てこない。
「…」
学校の人間たちから一目置かれているのだろうか。誰かはわからないけど。すると、その三人はまっすぐにこちらに向かってきた。三人のうち真ん中にいた橙の髪をした男が莉子に笑いかける。
「日高さんおはよう」
「おはよ」
莉子はごく普通に挨拶を返す。橙の髪の男は次にわたしに目を向けてきた。
「やあ、片桐も」
「…」
カタギリ、という言葉の意味がわからず、わたしは橙の髪の男をただ見返す。数秒の沈黙の後、橙の男が首を傾げて、黒髪の男が眉を潜めた。灰色の髪の男は表情を変えない。
「…片桐美幸?」
どうやらカタギリというのは美幸の名前の一部のようだ。ということは、この橙の髪の男は美幸に挨拶したのか。
「どうも」
結果的にたっぷりと間を使って、わたしは橙髪の男に挨拶を返した。
「相変わらずつれないね」
橙髪の男が苦笑いをする。相変わらずなのか。ならば美幸はこの男と会ったことがあるのだろう。しかし頭が痛くてこの男の名前を記憶から探すことができない。そこでわたしは考えることを諦めて隣の莉子に尋ねた。
「この人たち、誰?」
瞬間、周囲の空気が変わったのを肌で感じた。莉子が困ったように眉を下げたので、何か失敗したのだと思った。
「へえ、俺たちのこと忘れちゃったの?」
橙髪の男の一歩後ろにいた黒髪赤目の男が一歩踏み寄ってくる。その視線から敵意を感じた。
「ぼけてんじゃない?片桐サン」
その視線は知っている。わたしを敵として見る目だ。橙の男を押しのけて、黒髪の男がわたしに一歩近付いてくる。
「美幸ちゃん…」
莉子が困ったように美幸の名前を呼ぶ。
「目覚ました方がいいんじゃないの?」
男がわたしに腕を伸ばしてくる。その瞬間、脳裏に浮かんだのはここじゃない世界の光景だ。相手に身を許してはならない。決して優位に立たれてはならない。そうでなければ、二度と仲間の元に帰れない。
わたしは反射で男の腕を掴んで、そのまま地面に叩きつけた。
「…っ!」
気が付けば、男が目を見開いて地面に倒れていた。
「…あ…」
その瞬間に、自分が今何をしたのか気付いた。周囲からざわめきと囁き声が聞こえる。今のは美幸じゃない、わたしの頭が勝手に動いてしまった。敵方と対面した時によく用いられる体術。
「東雲くん!」
「いまの、柔道?合気道?」
「こわ」
「み、美幸ちゃん、大丈夫?」
「おい、藤谷どうした」
「先生呼んで来いよ」
「今何したの?」
やってしまったと思いながら、周囲の音に合わせて、がんがんと殴られるような痛みが頭を襲った。もう限界だった。
「…う」
冷や汗が額や腕に伝うのを感じながらわたしはそのまま呆然とする男の横に膝をつき、心配して駆け寄る莉子の声を聞きながらそのまま意識を失った。